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知らなかった、では済まされない問題というものも、世の中にはあるの。と、エストは言った。
これはユーリが自ら、責任を持ってグラに対し、バーデュロイにおける普遍的な常識及び習慣に疎かった故の自分の心得違いであった事を誠心誠意詫び、その上で改めて婚約に同意出来ない旨を伝えねばならない。
とはいえ、グラは主家の後継ぎ様で、ユーリは単なる使用人だ。ただ紙切れ一枚に『ゴメンナサイ』を書いて謝れば良いのではなく、キチンとこのお詫びのお手紙に直接お会いしたい旨を綴り、アポイントメントを取って改めて直接相対して謝罪するのである。
という訳で、今日のユーリのお仕事はエストに宛てて送られてきた様々なお手紙の仕分け、エストのメイドという立場で代筆が可能なお手紙へのお返事を認める、というものであった。その合間に、レターセットを使用してグラへのお詫び状を書いても良い、という寛大なご処置である。
本来、見習いであるユーリの第一の仕事は掃除にお洗濯、エストの所有するドレスの虫干しやらアイロン掛けやら屋敷内の掃除に掃除に掃除である。下働きより、何ランクか上の令嬢付きのメイドとは言え、まずは見習いとして基本中の基本的なお仕事から教えて下さるおつもりであったラウラであるが、昨日のイリスの急病欠勤の埋め合わせで休み時間がズレ込み、午後には出勤予定だったセリアが急遽、本日丸一日お休みとなった為、セリアに割り振られるお仕事の一部が、残りのメンバーで分担となったのだ。
イリスは読み書きがさほど得意ではない(本人談)し、ラウラは彼女が書く筆跡はどうにも角張って女性的ではない印象を与え、エストお嬢様への評判に関わるので代筆には向かない(本人談)、らしい。エストへの手紙のお返事代筆は、セリアが一手に引き受けていたとの事。ユーリが試しに、書き損じの紙の裏側に『こんな字ですが』と、羽ペンでの読み書きの腕前を披露してみたら、満場一致で代筆を任されてしまった。
「いーい、ティカちゃん。
エストお嬢様へのお手紙は、とにかく色~~んな方から様々な目的や内容の物が届くの」
エストの私室、応接間の隣室はメイドの控え室になっている。現在、エストお嬢様のお側に侍っているのはラウラで、ユーリはイリスについて、控え室のテーブルの上に山と積まれたお手紙を前に、神妙な表情で両手両足を揃えてメイドの先輩の説明を熱心に聞いていた。
「そもそも目的や差出人が不明な手紙は、ここへ届けられる前に、手紙受け取り方で除けられるから、嫌がらせに毒だの刃物が入ってたりはしないと思うわ」
「ど、毒に刃物!?」
およそ、エストは誰かから怨恨を受けるような人種だとは思っていなかったユーリにとって予想外の話に、ギョッとして仰け反った。しかしそんな態度を、むしろイリスは肩を竦めて流す。
「パヴォド伯爵家は、近年のバーデュロイの貴族の中で隆盛している家柄だもの。擦り寄ってくる人だけじゃなくて、妬むところも多いわ」
「な、なるほど……」
「エストお嬢様と友誼のある方から頂いた私信は、基本的には開封しないでね。
で、一山幾らの信奉者からの手紙は、やんわり当たり障りなくお返事を代筆して差し上げて。悪戯や品の無いお手紙はよけておいて」
テキパキと指示を出してくるイリスだが、ユーリにはどうしても分からない事があって、説明の間にハイ、と手を挙げた。
「イリスさん、エストお嬢様のお友達と、一山信奉者の違いが、封筒を見ただけじゃよく分からないのですが」
「ああ、大抵はね、どこそこの家の使いだって、身元がはっきりしてる人が直接届けに来るの。お友達からのお手紙は、そのままお嬢様にお渡しする事が多いわ。
今朝ご友人方から届いたお手紙の大半は、もうエストお嬢様にお渡し済みだから」
今頃お嬢様も、たくさん届くお手紙のお返事を認めていらっしゃるのだろう……社交シーズンは、エストお嬢様はあちこちの催しに引っ張りだこなのだろうなあ。
「だからここにある物はほぼ、たいして親しくない方からのお手紙ばかりよ。
どの家からきた手紙かは、筆跡と封蝋と花押で判断するんだけど……ティカさんは、各貴族の家紋は知ってる?」
お手紙の山から一番上の封筒をひっくり返し、封蝋の部分を見せながら問い掛けてくるイリスに、ユーリは首を左右に振った。
「こちらのお手紙はスタッドレイ子爵。女性好きで有名な方ね。未婚のエストお嬢様が親交するには好ましくない方だわ。
こちらのお手紙はラディダスパレ男爵夫人。パヴォド伯爵家とは一応、十代以上遡れば家系図が重なる遠戚に当たる方だけれど、最近お金使いが派手でね、うちの旦那様に無心してるって噂なの。エストお嬢様は旦那様のお気に入りだから、きっと歓心を買いたいのね」
湯水の如く解説して下さるイリスに、ユーリは息を飲んだ。
彼女は、チラリと封蝋とサインを確認しただけで、差出人の名前や大まかな素性に人間性、伯爵家との関係性までつかえる事なくスルスルと談じる。
イリスは紋章官か何かか。
「く、詳しいんですね?」
「これぐらい基本よ。
いーい、ティカさん? あたし達のお仕事は、一言で言えば『エストお嬢様の身の回りのお世話』だけど、そこには色んなお仕事やお役目があるの。
他家のメイドから情報を集めたり、世情や情勢を見極めたり、流行を追ったり。魑魅魍魎が跋扈する社交界で万が一にも、エストお嬢様が他の令嬢方に侮られたりする訳にはいかないのよ。
パヴォド伯爵家により有利な人脈を作れるよう、先陣を切られるお嬢様を陰からお支えするのが、あたし達令嬢付きメイドの使命なのよ!」
イリスはどこぞのあらぬ彼方をビシッと指差しながら立ち上がり、バーン! と、効果音が付きそうな啖呵を切る。
取り敢えず、拍手を送っておく。メイドの仕事と言えば、掃除やお茶汲みという安易なイメージを抱いていたユーリが想像していたよりも、貴族令嬢のメイドというお仕事は難易度の高い職場であるらしい。
「でも、う~ん、そうか、色んな意味で有名な貴族の名前や関係を把握していないとは思わなかったわ。
ティカさんには、後で書庫に置いてある貴族年鑑に目を通してもらった方が良いかもしれないわね」
「すみません……」
貴族年鑑……確か、近世イギリスの年間ベストセラー書籍だったような気がする。今現在でもそうなのだろうか。あの国は親子で名乗る爵位が違ったりするから。
確か内容は、現在爵位を戴いている貴族の名前だとか、血縁関係とか、来歴だとか、とにかく貴族の名前がズラーッと書いてある本だ。バーデュロイの貴族は、全国民の中でどれくらいの割合を占めるのだろう。
手始めにこれの返信をお願い、と、イリスから手渡された封蝋や捺された紋章は立派に見えるお手紙を恐る恐る開くと……気候の挨拶から始まり、エストへの美辞麗句がつらつらつらつらと、言い回しを変えただけで同じ事を褒め上げているだけね、あんまり上手とは言えないような気がするラブレター? のようなデートのお誘いのような、そんな内容だった。字が上手いのか下手なのかは、ユーリにはまだよく分からない。
「ええと、これは私が代筆でお返事を出して良いのですよね」
「ああ、ガートルード男爵子息のお誘いね。日時は……今日の午後ぉ!? 今朝届けておきながら非っ常識な! そんなもの、問答無用でお断りよお断り!」
エストお嬢様スケジュール帳、デカい真円の真ん中に『セ』と書かれた帳面を手に取ったイリスは、ユーリが指し示した日付の下りを目にするなり、開くまでもなく荒々しく帳面をテーブルに叩き付けた。
「丁寧にお断りのお返事を書いて差し上げて。これ、セリアが書いてた見本文ね」
イリスは紙の束をユーリの前に置き、自身の仕分け作業に移る。セリアが書きためておいた『お断り文句見本文』とやらは、直裁的な言葉でキッパリ拒否するものから、やんわりとした言い回しで婉曲的に足を運べない旨を謝罪するものまで、様々な文章が書き連ねてあった。この中から、失礼にならない文章に組み合わせてお返事を書けば良いらしい。
こういった代筆は慣れなのだろうが、初めて挑む難題に四苦八苦してぐったりしているユーリの耳に、廊下に面したドアがノックされる音が聞こえてきた。素早く立ち上がったイリスがドア越しに誰何する。
「失礼します。ただ今、ワイティオール侯爵家より使いが参りました。お嬢様へお手紙にございます」
女性の声が、ドアの向こうから用件を告げる。イリスはドアを開け、ユーリやイリスとは少し仕様が異なるメイド服を着た女性2人組の片方から手紙を受け取った。その際、チラリと封蝋の家紋へ素早く目を走らせる。間違いなく、ワイティオール侯爵家とやらの紋章であるらしい。
しかし、お嬢様へ手紙一つという軽いお届け物を持ってくるのに、何故にわざわざ彼女らは2人でやってきたのだろう。
「確かに、お預かりします」
「使いの方は、お嬢様が今からお返事を認めて下さるのなら、それまでお待ちになられるとの事です」
「分かりました。エストお嬢様にお尋ねしてきます。少々お待ちを」
イリスは素早く移動してエストの寝室のドアをノックし、顔を出したラウラと一言二言言葉を交わし、控え室のドアの前へと再び戻ってくる。その間、手紙を運んできた女性達は控え室の中にさえ一歩も足を踏み入れない。
「お嬢様はお手紙に目を通して、すぐにお返事を認めるそうです。使いの方へはいましばらくお待ち頂けるよう、伝言をお願いします」
「かしこまりました」
お嬢様からラウラ、続いてイリスから手紙を運んできたメイドさんへと、伝言ゲーム並みに間に人を介し、2人組のメイドさんは揃って一礼し、片方が踵を返して廊下の向こうへと消える。つまり、片方はお返事お待ち中の使いの方へ伝言係、残ったもう片方はお嬢様からのお返事をお預かりして、そのまま使いの方へ託す係という事だろうか。
……なんか、人件費の大いなる無駄遣いな気がするのは、私の気のせいでしょうか?
「イリスさん。ワイティオール侯爵家の方って、エストお嬢様と親しいんですか?」
エストがお返事を書き終えてくれるまで、手紙配達のメイドさんは廊下の片隅で待機するらしい。ご苦労な事だ。
再び控え室のテーブルの上の手紙の山と向き直ったイリスに何気なくユーリが問うと、先輩メイドさんはそうね、と頷いた。
「親しいには親しいのだけれど……うーん、ある意味エストお嬢様のライバルとでも言うか……」
「切磋琢磨しあうお友達? って事ですか?」
「ワイティオール侯爵令嬢、レディ・コンスタンサ。あの方本人のご希望と、パヴォド伯爵家を含むあちこちの家の思惑が対立しかけている関係、というところかしら。実際にはどうなるか分からないけれど」
「ええと? レディ・コンスタンサの意志とパヴォド伯爵家の意図は、政治的な思惑が両立しない? という事ですか?」
「そうとも言い切れない。ちょっと今の情勢は複雑なのよ。
ティカさんは、エストお嬢様と親しいご令嬢だと記憶しておけば良いわ」
「はい」
何だか、難しい話を理解しきれない子供だからと、詳しい事情説明は思いっきり省略されてしまった。
それにしても、レディ・コンスタンサ……どこかで聞いた名だと思えば、昨日の観劇のお供にに赴いた先でエストとお喋りしていた令嬢だ。あちらも昨日は夜遅くまで社交に励んでいたはずなのに、随分と早起きな事である。
「レディ・コンスタンサがエストお嬢様へ出した今日のお手紙の内容って、何でしょうね?」
「きっと、何かのイベントかお茶会へのお誘いね。エストお嬢様が王都へ滞在なさる際は、レディ・コンスタンサと頻繁にご一緒されているから」
そう言えば、昨夜も「是非またお茶会へいらして」って、誘われてましたっけ。
手紙の仕分けを終え、伯爵家の家族が使う食堂でレディ・フィデリアと昼食をとるエストについて、ラウラから食事の給仕の仕方を習い、午後。少しだけ休憩時間を貰ったユーリは、グラに宛てて認めた詫び状を手に、ゴンサレスがよく詰めているという、パヴォド伯爵閣下の執務室を訪れた。
グラが今どこでどんな仕事をしているのかユーリは知らないが、イリスの言によると彼の職場は王宮らしい。そんなところで働いている人に手紙を届けてもらう方法が分からないので、ゴンサレスに事情を話してグラに届けてもらうようお願いしてみたらどうか、とエストから助言を受けたのだ。
「ゴンサレス様、ユーリです。少々お時間を頂けますでしょうか?」
「入りたまえ」
ドアをノックして声を掛けると、どうやらゴンサレスは在室だったらしく、室内から明瞭に促された。失礼します、と執務室に滑り込んで真正面の執務机を見やるが、伯爵閣下のお姿は無い。
そして、ゴンサレスの机の方には書類やら手紙やらが乗せられていた。彼には補佐官のような立場の人材はいないのだろうか。
「どうした、もう何か掴んだのか?」
「いえ。申し訳ありませんが、そちらの件に進展はございません」
机に着いたまま、手元の書類から顔を上げてこちらを見据え、依頼されていた鼠の相棒探しの進捗状況報告かと言外に匂わすゴンサレスに、ユーリは別件で訪れた事を告げた。
「見ての通り、私は仕事が山積みになっている。手短に願おうか」
「はい。こちらのお手紙を、若君様のお手元に届くよう手配して頂くには、ゴンサレス様にお願いするのが適切であると、エストお嬢様から示唆されました」
「その言い回しから察するに、差出人はお嬢様ではなくお前か」
ゴンサレスは片眉を軽く持ち上げ、やや不機嫌そうに呟いた。
「誤解しないで頂きたいのですが、私はこちらの常識には疎いネコです。
今朝の若君様とのやり取りが、バーデュロイにおける一種の約束事だと、私は先ほど初めて教わりました。
こちらは若君様に直接謝罪と訂正の機会を求めたく、お目通りの儀を願うお手紙にございます」
手紙を差し出しながら、何でしたら検閲して下さってもちっとも構いません、と告げるユーリに、ゴンサレスは渋々といった風情でそれを受け取った。
ユーリをグラの結婚相手として認めない姿勢を貫いている以上、便利な使いっ走りのように扱われようが、婚約者になりたい発言をしたんじゃないんです説明の手紙を、下手に握り潰す訳にもいかないらしい。
「承知した。若様のお手元に届けよう」
「有り難うございます」
やれやれ、これで一仕事終えて一安心、と内心肩を撫で下ろしつつ退室しようとしたユーリに、ゴンサレスが引き留めてきた。
「そう言えば、お前はカルロスと簡単に連絡が取れるのだったか?」
「はい、お互いの意識がはっきりしていれば、ほぼ常時。カルロスに何か、ご用命でございましょうか?」
ドアに向かいかけていた体勢を戻し、ゴンサレスに正直に答えると、ハウス・スチュワード様は思案げに下顎を撫でる。
「一つ、確認しておきたい点がある故、繋ぎを取ってくれ」
「かしこまりました」
主、主ーっ!
ゴンサレス様が、主に何か聞きたい事があるらしいですよー! お返事して下さ~い!
むむむ……と、心の中で強く念じる……ユーリの様子を客観的に見たら、ただその場で固まり拳を握って力んでいるだけなその姿を、半信半疑の表情で見守ってくるゴンサレス。
“……また何かやらかしたのか、ユーリ”
やがてテレパシーとしてユーリの脳裏に飛んできた主の心の声は、非常に疲れ果てやつれているように聞こえてきた。
第一声がそれだなんて、失礼な!
「ゴンサレス様、カルロスと繋がりました」
「……そうなのか?」
テレパシー可能です、と保証されようとも、やっぱり傍目には何の変化も無いユーリにゴンサレスは半ば胡乱げな眼差しのまま、口を開く。
「霊峰レデュハベス山脈付近に住まう凶悪な魔物達が、他の地域に流出しないのは、瘴気の密度の問題だという研究結果が連盟にはあったと思うが、信憑性は?」
“はい。様々な角度から検証した結果、大陸各地に散らばった魔物の多くは、マレンジス大陸の瘴気の薄さに適応する代わりに、その能力を格段に落としています。
かの山に住まう魔物は、瘴気に満ち溢れた霊峰からは出たがらないでしょうね。瘴気不足に適応していない彼らにとって、瘴気とは生きて呼吸する為に欠かせない空気。我々が長時間、水中で活動不可能なのと同じ事です”
主人がユーリの聴覚にも同調してくれているらしく、ゴンサレスの発言は繰り返す必要が無いのは良いのだが、カルロスの返答はユーリが直接言葉にして発しなくてはならないので、長い台詞を口にされると言いにくい。
「ふむ……霊峰の膝元たるザナダシアが、長年の暮らしでそれを察しておらんとは考えにくい。となれば、いったい何の利点があると言うのか……」
“かの国が、何か?”
「東からの知らせが入った。
ザナダシアの軍が、近々霊峰レデュハベスへ大規模な魔物討伐に向かうらしい。
そう見せ掛けて、我が国の国境線を脅かす腹積もりかと備えていたが、どうにも魔物討伐戦を目的とした準備でしかあり得んそうだ」
“放っておいても山から出ては来ないのに、わざわざ自分達で攻め込みに向かうのですか?”
「そうだ。たかだか小国の軍事力程度で、広大な霊峰に住まう魔の者共を早々に駆逐出来るとは到底思えん。
だが、全くの無為な軍事行動をかの国が取るとも思えぬ。此度はいったい、何を企んでいると言うのか……」
明確な推定も不可能なまま、パヴォド伯爵閣下の執務室を辞したユーリがエストの私室に戻ると、待ってましたとばかりにエストとイリスから、シャルのどこが良いのか質問責めが待ち受けていた。
……えっ、もしかしてこれが噂の時間差攻撃ですか?