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マレンジス大陸の西部において、親しい相手を愛称で呼ぶ、という事は様々な意味を持つ。
最も一般的な愛称は、家族や親しい友人が呼ぶのに使う家族愛称・幼名。パヴォド伯爵令嬢エステファニアの『エスト』や、令息グラシアノの『グラ』などである。
家族はともかく、この親しい友人という括りがまたややこしく、身分の高い彼らを『エスト』や『グラ』と気軽に愛称で呼ぶには、彼ら兄妹と同じかそれ以上の身分の者でなくては、大変失礼な行いである。
が、身分の低い者がある程度親しんだ高貴な相手に対し、呼び掛ける者が女性であれば、家族愛称・幼名を口にしても無礼にはならない。全体的に男性優位な気風があるマレンジス大陸の各国において、守られるべき庇われるべきという対象の女性だからこそ、許されている習慣のうちの一つらしい。
そんな訳で男性側は。貴族ではなくても平民の女性を、平民の男性が許しもなく家族愛称・幼名で呼ばわるのは、無作法であまり誉められた行為ではない。
更に他にも例外というものがあって、貴族相手に平民の男が家族愛称・幼名で呼び掛ける事を許されている場合、その男性は相手と家族同然の付き合いであり、大抵は家族愛称・幼名を授けた存在である。
……というのが、主から聞き出したバーデュロイでの一般的な愛称事情らしいです。
言われてみれば、エストお嬢様に対して主は『エスト』で、シャルさんは『エステファニアお嬢様』でしたね。
自己紹介した時に、私に気軽に「エストと呼んで下さいましね」と仰ったのは、私が女だったからなんですねー。
しかし、エストお嬢様はいつ、私の性別を判断されたのでしょう。ドレスが汚れる事を気にした辺りでしょうか。
って、思い返してみればエストお嬢様は私に、対面してから数秒で、私がエストお嬢様のお名前を声に出して呼ぶの前提で自己紹介なさってますね……シャルさんみたいに、獣な姿で喋る可能性も考慮なされたのかもですが、むしろ人間の姿にも変化するのでしょう? と、仰っていると解釈した方が自然なような。本当に、今までの苦労とか……!
エストの私室への道のり半ば、『へー』と感心したり無関係な方向へと思考が逸れていくユーリに、テレパシーで会話を交わしているご主人様は、とても疲れたように相槌を打たれた。
“……だからだな。仮にお前が『グラ様』と呼び掛けていても、別に大した問題にはならなかったんだな。ゴンサレス様は睨んできたかもしれんが”
じゃあ、私が『ぐらぐら様』って呼んでも、差し支えとか無かったんですね。良かった。
“……”
大いに安堵するユーリだったのだが、カルロスから返ってくるのはまたビミョーな沈黙である。
“お前がうっかり口にした愛称だが。グラシアノ様には既に『グラ』という家族愛称・幼名をお持ちなので、『グラグラ』は家族愛称・幼名とは見做されない”
何故だろうか。しばしの沈黙の後におもむろに語り始めたカルロスの解説に、嫌な予感がしてくるのは。
“バーデュロイにおいて、他の愛称は友人間における『通称・略称』か、恋人や夫婦間の特別な名前、『婚姻愛称』のどちらかだ”
……こんいんあいしょー?
“大抵の奴は、家族愛称と通称・略称は同じ場合が多い。俺の略称はルティが呼んでんのを聞いた事があるだろうが『カル』で、シャルもフルネームは長ったらしい。
アティリオは『アティ』、ルティの略称はあいつのセカンドネームの『ルティト』からだろうな。グラシアノ様も家族愛称と同じで『グラ』。
聞いての通り、大抵は名前を省略して縮める形になる。それ以外は『通称・略称』とはまず見做されない”
だから主。そのいちいち付く『見做されない』が、何か怖いんです。
“次に、恋人や夫婦間の『婚姻愛称』についてだが。これはユーリの故郷での結婚指輪だと思ってくれれば間違い無い。
閣下が『フィー』、レディ・フィデリアが『ディオン』と、お互いを呼び合うのをお前も聞いた事があるかもしれんが、絶対にそう呼び掛けるな。あれはあの方々の場合、夫婦の間だけで使う愛称で、他人が勝手にそう呼び掛けるのは、結婚指輪を盗んで指にはめて見せびらかして回ってるのと、同じぐらいのマナー違反だと思えば良い”
……主。どうしてそんな大事な事を、今の今まで指導して下さらなかったのでしょう?
淡々と説明を重ねていくカルロスに、ユーリがどうしても理解出来ない点を問うと、ご主人様は戸惑った感情と共に、一言。
“俺にとっては常識過ぎて、失念してた。
お前だって、自分の中の当たり前の常識が前提にあって、今の今まで、
『何でシャルさんはエストお嬢様って呼ばないのかな?』
『何でエストお嬢様は、シャルさんには「エストと呼んで下さいまし」とは言わないんだろ?』
って、一度も疑問には思わなかったんだろ?”
確かに。丁寧な口調の同僚の事だ。主従関係があるのだから、きっと節度を守っているのだろう、ぐらいにしか認識していなかったように思う。
それを言うなら、カルロスが『エスト』と呼び掛けるのは失礼なんじゃないか、と疑問に思ってもおかしくはないのに。彼らがあまりにも自然にそう呼んでいたので、何となくそれが当たり前になっていた。他に考えなくてはならない事が多かったとはいえ、疑問さえ抱かないなど、思考停止にも等しい事態だ。恐るべし、思い込み。
“さて、ここまで説明したら、後はもう何となく察してるだろうが……”
怖いから聞きたくないです、主。
ユーリの懇願を遮って、カルロスは敢然と続けた。
“家族間の愛称でもなく、友人や知人が気軽に口にする略称でもない。そんな愛称をお互いに名付けて呼び合うのを、『愛称授受』という。
大抵は恋人同士が付けあうもので、これでお互いに呼び掛け合って、周囲を牽制する意味だとか「アタシ達ラブラブ婚約者で~す」とか、周りにアピールする訳だな……大概は結婚後に、それがそのまま婚姻愛称として定着する”
主……うっかりぐらぐら様と呼び掛けてしまった私はつまり、グラシアノ様やゴンサレス様、イリスさんからどう思われたんでしょう……?
“そりゃあお前。『私っ、グラシアノ様との結婚を前向きに検討しまっす』テヘペロッ、ピンクハートとキラキラ星が乱舞! ……ってところか……”
なんという事だろう。異世界の常識を把握していなかった故の、あってはならないしもべの失態に、ご主人様は見事に壊れてしまわれた!
“良かったなユーリ、グラシアノ様から授けてもらった愛称は、俺には思いつかないよーな、何だか可愛い響きじゃねえか……”
良くないです! 全然良くないです!
そんなバーデュロイの愛称事情なんて、ネコな私には無関係なんですーっ!
「ティカ、何を力んでいる?
着いたぞ」
先導していたゴンサレスは不機嫌そうに、やや遅れて着いてきていたユーリを呼びつけた。
内心で、人間としての尊厳をかなぐり捨て、絶叫するも時すでに遅し。グラがあんなに上機嫌だったのも、ゴネて拒否っていたユーリが、あっという間に婚約に同意するような言動をしたから、問題解決とばかりに清々しくお仕事に出向かれたのであろう。
「ティカさん顔色が悪いけど、もしかして緊張してる?
安心して大丈夫だよ。エストお嬢様は、すっごく気さくでお優しくて素敵なレディだから!」
俯きがちなユーリの顔を覗き込み、見当違いではあるが励ましてくれるイリスに、力無く微笑みかけた。
「いえ、エストお嬢様とはかねてより面識もありますので、お人柄は存じております」
ただ、ぐらぐら様問題がより複雑化してしまったのが問題だ……とは言え、それを今ここでイリスやゴンサレス相手に愚痴る訳にはいきません。
ていうかむしろ、今後一切『ぐらぐら様』というあだ名で考えないようにした方が良いんでしょうか。いつまたうっかり、口から出ないとも限りません。
「貴人にお仕えするには、右も左も分からぬ我が身でご迷惑をお掛けしないか、エストお嬢様のお顔に泥を塗ったりはしないかと、今から震えが」
「大丈夫、先輩方がしっかりみっちり教え込んでくれるから!」
心配な点を挙げると、イリスは笑顔でスパルタ教育を保証して下さった。彼女の笑顔を見ていたら、余計にやっていけるか不安になるのは何故だ。
ゴンサレスがエストの私室の応接間に繋がるドアをノックし、「はい」と返事をしながら取り次ぎに顔を見せたのはラウラだった。セリアの今朝の勤務時間は、早朝までだったのだろうか。
「おはようラウラ。今日は先日から話していた、イリスの後任を引き継ぐ見習いがやってきたので面通しに足を運んだ」
そう言って彼は、ラウラにゴンサレスの後方に控えていたイリスとユーリの姿がよく見えるように、ドアの正面から一歩横へと足を動かした。
なるべく穏やかに、ユーリはスカートをつまみながら腰を落として屈み、会釈をする。このポーズは、見ている側からは長いスカートに隠れて足の動きが見えないから優雅に見えるが、やっている本人としてはけったいな姿勢だと思う。
ラウラに対しては、先日から見習いがやってくると連絡があった云々とゴンサレスは口にしたが、ユーリが行儀見習いとして働くよう命じられたのは、今朝の話である。
イリスの縁談が纏まり近い内にメイドを退職すれば、当然今まで円滑に回っていた勤務スケジュールに支障を来すだろうから、辞める前に仕事を引き継ぐ新しい人員を雇い入れるのはおかしな話ではない。丁度良いとばかりに、その枠にユーリを押し込んだのか。
恐らくこの突発的な任務が終われば、本来の行儀見習いさんが館に上がってくるはずだ。恐らくきっと。そうであって欲しい。穴なんか空けたくない。
伯爵令嬢であるエスト、彼女の日々の細々とした周囲の身の回りの世話を焼いているメイドさんは、主人であるエストが最も信頼を寄せている腹心のレディーズメイドであるセリアを筆頭に、3人。
その内の1人であるイリスはまだ年若く、いかにも腰掛け……もとい、花嫁修行を兼ねた行儀見習いといった風情。だがラウラは、イリスはもちろん、セリアとも一線を画す雰囲気のメイドさんである。
彼女の年齢は……外見だけで判断するならば、30代辺りだろうか。しかし、20代や40代だと言われても納得出来そうな、何とも年齢を断言しにくい女性である。
エストの前では全く無駄話をせず、どちらかというと無口な性格のようだというのが、ユーリの抱いているラウラに対する印象である。女主人が何かを指示する前に、キビキビと動いて彼女の望む用向きを先回りして済ませてしまうので、本当に殆ど口を開かない。
そんな彼女が、ゴンサレスからユーリに顔を向けた。
「ああ、あんたがイリスの後釜かい。おんやまあ、ちまっこいお嬢ちゃんだこと。
ちょいとゴンサレス、この子はホンマに使いもんになんの?
いんや、伯爵家の行儀見習いだーエストお嬢様お綺麗ーて変に憧れられて、力仕事なんてムリー! なんて泣き出されっと、こっちが迷惑被っからさ」
……あれ? 何だか、エストお嬢様の飼いネコ生活中に抱いていた、ラウラ女史へのイメージと食い違う口調な気がします。
ていうか、エストお嬢様に話し掛けてきた時は、もっとこう……『女史!』って雰囲気と口調じゃなかったでしたっけ?
しかも、無口どころかさっきからベラベラ喋っていらっしゃいますよ?
「それに関しては心配は要らん。まだ体力はさほど無いだろうが、根性はそこそこ座っているからな。
この子供の名はティカ。世事や常識には呆れ返るほどにとんと疎いが、愚鈍ではないので潰れない程度に仕込んでやれ。後は任せる」
「はいよ」
やっぱり、あんまり誉めてない紹介をこなして、この館の中でも最も多忙らしいハウス・スチュワードは、次なるお仕事へと向かわれた。お嬢様にはご挨拶していかれないらしい。いや、ユーリやイリスが無闇にゴンサレスの時間を取らせたせいで、予定が押しているのだろうか。
「ラウラ、おはよう」
「ああ、おはようイリス。もう体調は良いのかい?」
ゴンサレスの背中を見送り、イリスが同僚のメイドさんへ朗らかに声を掛けた。昨日から今朝に掛けて様々な衝撃を受けただろうに、健気な事である。
そしてラウラは、そんな彼女を気遣うように目を細めて眺め、イリス当人はいまいち意図が掴めず首を傾げた。
だがラウラはそれ以上は告げずにユーリに向き直り、同僚への詳しい説明よりも所在なさげな新人への対応の方を優先させるようだ。
「さて。ティカ、だったね。
あたしはエストお嬢様のメイドのラウラだ。ラウラ・マコーミック。
さん付けだの夫人だのは性に合わないんでね、名前を呼び捨ててくれて構わないよ。
エストお嬢様には、そこのイリスとあたいと、後もう1人お嬢様バカの娘っ子がメイドとして仕えてる。仕事のやり方は教えていくから、まずはお嬢様に紹介しようかね」
ユーリが口を挟む隙の無い、見事な場の仕切りっぷりだった。『女史!』というよりはむしろ『女将!』である。
「ティカです。今日からよろしくお願いします、ラウラ」
「ああ。ついといで」
エストは私室に在室であるらしい。ラウラは足音も立てず、優雅かつしずしずとした足取りで応接間を横切り、寝室を兼ねた私室のドアをノックした。何故だろう。理想的なメイドの身振りが恐らくは目の前にあると言うのに、何かが釈然としない。
「失礼致します、お嬢様。
本日付けで見習いに上がりました娘が、ご挨拶を申し上げたいと参っております」
ラウラの声音や言葉遣いが、つい先ほどまでとまるで違う。何故だ。いや、こちらが正しいメイドとしての姿勢なのだろうが、やはり釈然としない。
「……ぁ、ええ、……すわ」
こちらの応接間に立つユーリとイリスは静けさを保っているというのに、お隣の私室からは距離があるせいか、これでもかと耳をそばだてていてもエストの声が上手く聞き取れない。
やがてラウラがガチャリと開いたドアの向こうから、輝かんばかりの笑みを浮かべたエストが姿を見せる。
「ティカちゃん、来て下さって嬉しいですわ!」
「エストお嬢様……」
「既に面識をお持ちでしたのね」
イリスに促されてエストの前に進み出たユーリは、会釈をして令嬢を見上げる。軽やかな足取りで数歩の距離を詰め、喜色を浮かべて歓迎の意を表しながら、エストはユーリの手を握った。カルロスの意志を尊重して下さるお嬢様も、『ティカ』と呼び掛けて下さる。有り難い話である。
そんな2人の様子に、知己である事を初めて知ったラウラは、特にそれ以上は何も口を挟まなかった。
「これからは気兼ねなくあなたとお喋り出来て、わたくしとても嬉しいわ。
……でもティカちゃん、少し顔色が悪いようだけれど、どうかしましたの?」
子ネコ姿の時と全く変わらぬ態度でいた彼女はふと、エストは心配そうにユーリの頬を撫でてくる。
これまではたとえ言葉を交わす事が無くとも、ユーリに親しみを抱き、可愛がって下さっていた令嬢の姿に、ついついユーリは縋るように手を握り返していた。これからは、女主人とメイドとしてやっていかねばならない、というのに。
「エストお嬢様……どうしましょう。私、初日から早速失敗してしまったみたいなんです」
「まあ。早朝から身支度を整えてわたくしの部屋を訪れるまでに、どんな冒険があったのかしら」
ああ、どれだけ頼りないと失望されてしまう事だろう。だが、エストにそれを隠し通してなどおけないだろう。
何しろ呼び名なのだから。仕事を終えて帰宅したグラから連呼され、『ぐらぐら』と呼び返す事をまた強要されたら、それで終わりだ。すぐに噂は伝播していくに違いない。
「裏庭で若君様を見掛けて、うっかり『ぐらぐら様』という呼び名が口をついて出てしまったんです!」
「まあ、あの逞しいお兄様には不釣り合いな可愛らしい愛称ね」
ユーリの渾身の叫びに、エストはあっけらかんと所感を述べる。
脇に控えているイリスとラウラは、やはり何も口を挟まない。
「それで、若君様からは『それならばお前はティティだな』と、愛称を授けられてしまいまして……」
「今朝の今で、随分急な展開ね」
「や、やっぱり愛称を名付け合うって、特別な意味があるんですかー!?」
主から既に聞いてはいたが、ひとまず知らない体を装って戦々恐々と尋ねてみると、エストは丁寧に『愛称授受』について解説して下さった。
「でも変ね。カルロスは、ティカちゃんにそれを教えてあげていなかったの?」
「はい……私の名前自体が短いので、主も敢えて私に愛称を付ける、という必要性を感じていなかったようで。そのせいか、愛称の話題なんて一度も出た事がありませんでした」
「そう……わたくしはね、ティカちゃん。お兄様とティカちゃんが双方望んでいる事なら、応援していくつもりでいるの。
でも、あなたはそれを望んではいないのね」
エストは残念そうにそう溜め息を吐く。
今のユーリは、ただ嫌だ嫌だと駄々をこねるだけの子供のような態度でしかなく、我知らず拳を握っていた。
「はい。私は、若君様の求婚をお受けする訳にはいきません。
何故って、私はシャルさんが好きなんですもの。彼に想いを寄せていながら、別の男性に嫁ぐ訳には参りません」
「まあっ!?」
「ええっ!?」
ユーリの宣言に、それを聞いたエストだけではなく、控えていたイリスまでもが仰天した声を発した。
あれ。一世一代の大告白だと言うのに、何でこんなに驚かれるんでしょう。
シャルさん。あなたいったい、彼女らにナニ、やらかしたんです……?