2
「あ、あの、でもグラシアノ様が、それを見付けて下さったんですか?」
「これは、決して肌身離さず身に着けていろ。どんな甘言を弄されようと、決して他者の手には渡すな触れさせるなと、きつく言い含めておいた筈だが?」
顔面蒼白にしながら問うイリスに、グラは不機嫌そうな声色で答える。ユーリが覗き見している位置関係からだとグラの顔は直接見えないが、表情もきっと眉根が寄った怖い顔になっているんだろうな、とその背中が物語っていた。
イリスは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません!
こ、この問題で仮に私を計画から外すのだとしても、誓って口外は致しませんから。
出来たらゴンサレス様には、この事は内密に……して頂けたらなあ、とか」
「馬鹿者、声が大きい!」
「え?」
「それに、もう遅い」
何やら潔い弁明? をするイリスに、初めてグラが焦ったように窘めた。
イリスの声量は、先ほどから人目を憚っているのか全体的にやや小さめであり、むしろ叱ったグラの声の方がよほど大きい。何にせよ、使用人棟で仕事中の誰かに偶然聞こえてしまうような大きさではなく、会話内容も色恋方面とは何か異なる様子である。
……計画っていったい何でしょう? 気になりますねぇ……
ひとりごちるユーリの傍らで、ゴンサレスがタイミングを見計らったように、わざと足音を響かせつつ、グラとイリスにも見えるように樹の影から姿を現した。ユーリも顔だけをひょっこりと覗かせてみる。
噂の恐ろしい上司の登場に、イリス嬢は青い顔色を通り越してふ~っと気を失いかけたのだが、本人なんとか持ち直して倒れ掛けた体勢から踏みとどまった。
「やはり気が付いておられましたか。成長致しましたな、若様」
「じいが本気で隠れるつもりならば、私には見つけられん」
溜め息を吐きながら振り向いたグラは、ユーリと目が合うなり息を飲んで目を見開き、「あ、いや、これは!?」などと、よく分からないが非常に焦った様子を見せ始めた。ゴンサレスの気配には感づいていても、ユーリの存在には気が付いていなかったのだろうか。
「これは違う! 決して!」
「若様、落ち着かれませ」
若君様の突然の御乱心に、イリス嬢は恐怖もどこかへ忘れ去ったのかキョトンと目を見張り、ゴンサレス氏は呆れたようにグラの視界に割り込みつつ、自らの眉間に寄った皺を伸ばすように人差し指を当てた。
「あ、ああ……」
グラは忙しなくイリスやゴンサレス、ユーリの表情を確認するように見回し……幾度か深く呼吸している。
そんな若君様を押しのけ、ゴンサレスはイリス嬢に向き直った。
「イリス、お前はこたびの失敗を償えるよう、全力で励んでもらおう。二度目は無いぞ」
「一命に変えましても」
イリス嬢はグラから渡された金属片をギュッと握り締め、強い眼差しではっきりと答える。
あの金属片が本当にテレポートアイテムだとしたら、確かに使いようによってはエラいことになるし、重犯罪を引き起こしかねない。そんな危険なブツを、何故に一介のメイドであるイリス嬢が預かっているのかが不明だが、『命にかけても』とはまた、彼女は事の重要性を深く理解しているらしい。
「ティカ」
だから何故、イリス嬢にそんなものが必要なのだと、ごく当たり前の疑問を誰に尋ねれば良いのかと首を傾げて思案していたユーリの傍らに、グラが大股で近付いてきた。
グラも一切迷わず、かつ自然にユーリの人間の姿での変名で呼び掛けてきて、お願いした当事者の方が戸惑ってしまう。
「はい、若君様」
おはようございます、は、さっきも会っていたし何か違うよなあ。などと、次の句が思い浮かばずに迷ってしまう。グラは朝っぱらから相変わらずの渋面を晒し、ユーリの顔を真っ向から見つめ返した。
そして、小声でポツリと尋ねる。
「髪の色が違うが、どうしたんだ?」
「ああ。私の本来の毛色は目立つので、主が変化姿の設定を変えて下さいました」
「……」
イリス嬢に気取られぬように、ユーリもやや声量を落として説明しておく。『変化』だの『設定』だのという単語に、渋面がますますビミョーな表情になってゆく。
敢えて人間の姿は偽りであるとの印象を深める言い回しをしたのだが、全て嘘ではなく紛う方なき真実である。
「眉や睫毛の色まで髪と同じとは、徹底しているな」
「主は職人気質ですので」
「ティカ」
「はい、何でしょう? 若君様」
「以前から気になっていたのだが」
と、不意にグラは潜めていた声を通常の大きさに戻した。
「何故お前は私を『若君様』と呼ぶのだ?」
「それは、私は単なる使用人ですので。ゴンサレス様も、そう形容なさっていますが、何かお気に障りましたでしょうか?」
「障る。『若君様』『若様』など、呼び名から隔意を感じる。
私がティカと名を呼ぶように、お前にも名を口にしてもらいたい」
……そう言えば、セリアさんやイリスさんは、『若君様』とは呼んでいないな。
相互理解には名前を呼び合ってお友達の第一歩を踏み出したいとか、そういう意味なのだろうか?
よくは分からないが、主家の後継ぎ様に要請をだされたなら、断る訳にもいかない。
「では、有り難くご尊名を口にさせて頂きます、ぐらぐら様」
……あ。ついうっかり、心の中でずっと呼んでたあだ名が口から出ちゃった。
ユーリが脊髄反射的に発した呼び名に、こちらの様子を興味深そうに見守っていたらしきゴンサレスや、イリス嬢が息を飲む音が聞こえた。よっぽどマズい事を仕出かしてしまったのだろうか。
問題のグラはというと、意表を突かれたように目を丸くし、「グラグラ……?」と、口の中で幾度か転がすように呟き。
足下からジワジワと、ヤバい予感に支配され始めていたユーリを見下ろして、ふっと穏やかな微笑を浮かべた。
「私が『グラグラ』ならば、お前は『ティティ』だな」
「お、お揃いです、ね……?」
見間違いだろうか? と、ユーリは思わず幾度も目を瞬く。だが、どんなに目の前の現実を疑っても、確かにグラはユーリに向かって笑みを浮かべていた。
まず、何に驚いたって。
このお方、エストお嬢様以外にも笑いかけれたのか!?
そんな失礼な感想を抱いてしまうほど、ユーリの中でのグラの表情は仏頂面か渋面がデフォルトになっていた。
「では、私はそろそろ時間なので行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、若君様」
「お気をつけて」
唐突に珍妙なあだ名で呼び掛けられたというのに、何だか上機嫌に見える貴公子様はユーリに更に本名からは遠く離れた愛称を授けて下さった挙げ句、微混乱中のユーリを放置してお出掛けになられるらしい。
見送りに移動しようとするゴンサレスとイリスを、手を振って制したグラは、無言のままユーリを見下ろしてきた。
「行ってらっしゃいませ、若君様」
そうか、私も使用人なのだから呼吸するように恭しく送り出さねばならないのだな、と、一呼吸置いてからようやく察したもの慣れぬユーリも、スッと腰を落としてグラに恭順と敬意を端的に示す。
だが、グラは低い声音で「違う」と注意してきた。
「私は『グラグラ』なのだろう? きちんとそう呼べ、ティティ」
「え……?」
日本語での『ぐらぐら』は、今にも転がり落ちそう、不安定そうな様子、転じて頼りなさそうなイメージを表現する擬音、擬態語である。そんなあだ名を付けられたら、あまり良い印象は抱かないだろう。
だがここ、マレンジス大陸はバーデュロイ国において、『ぐらぐら』という擬音は存在しない。似た状態や意味を表す単語は存在するが、この国の人間にとって『グラシアノ』と名付けられた人間に、名前の一部分の同じ韻を繰り返す『ぐらぐら』と呼び掛けるのは、ちょっと柔らかかったり幼かったり可愛らしい印象を与える、単なる愛称でしかない。
……というか、使用人の飼いネコごときが勝手に付けていたあだ名を、何故簡単に許すのだぐらぐら様!?
「ティティ」
そして、グラの中で既にユーリの呼び名は『ティティ』として確定されたらしい。
促すように重ねて呼び掛けられ、焦りからますます頭の中がこんがらがってきた。
身から出た錆とはいえ、紛れもない貴人であるグラに今後も真っ向からそう呼び掛けるのは、何かとってもやらかしちゃマズい類いの失策である気がして、ユーリは助けを求めてゴンサレスやイリスに目線を送った。
ゴンサレスは不機嫌そうに眉をしかめ、イリス嬢は慎ましく目を逸らす。
「は、はい、ぐらぐら様……?」
「それで良い。では、行ってくる。私はしばらく仕事があるが、ティティも無理のない範囲で務めなさい」
「はい。お気をつけて」
何かの攻防に耐えきれず、譲り渡してはならない物を差し出してこの場を収めてしまったかのような、謎の焦りをユーリに残したまま、グラは今まで見たことも無いほどの上機嫌で姿勢も正しく堂々と、踵を返して母屋の方に競歩なされて行かれた。
いったいどんなバトルだったのかは不明だが、朝っぱらからユーリのHPはガリガリ削り取られたのは疑いの余地が無い。
「イリス、そこの樹の幹にだらしなくもたれ掛かっている子供は、本日よりエステファニアお嬢様にお仕えする事となった、ティカだ。
お前も見ての通り、若君様から一応は求婚されている身ではあるが、如何せん基礎的な知識、マナーや振る舞いに疎い。よく導いてやってくれ」
「つ、ついにグラシアノ様が伯爵家の試練を!?
はいっ、お任せ下さいゴンサレス様!」
「ちょっ、ゴンサレス様!?
私と若君様の事情なんて、別に言いふらして回るような事じゃあ……?」
グッタリと力尽きていたユーリは、聞き捨てならない人物紹介の内容を聞いて、慌てて口を挟んだ。これから会う人会う人全員に、このお屋敷の若君様の決意を知られたら、絶対に一緒に屈託のない仕事がしにくくなってしまう。
「若君様と愛称授受をしあっておいて、よくもまあヌケヌケと抜かすものだ。
改めて言っておくが小娘、私はお前がこのパヴォド伯爵家の一員に相応しいとは、毛の先ほどにも思ってはいないからな」
フンッと、不機嫌そうに鼻を鳴らし、ゴンサレスは早口に吐き捨てた。いったいどこの小舅だろう。
というか、『愛称授受』とは何だろう? バーデュロイ特有の習慣か何かだろうか。
その辺りの事を忘れないうちに問うてみたく、ご主人様へむむむ……と、念を送ってみるユーリ。だが、カルロスとのホットラインが繋がるよりも先に、イリス嬢が表情を僅かに明るくさせ、ユーリの両手をギュッと握った。
「初めまして、ティカさん!
あたしの名前はイリス、イリス・フラッティードよ。あたしもエストお嬢様にお仕えしているの。今日からよろしくね」
「有り難うございます。ご紹介に与りました、ティカと申します。
不束者ではありますが、精一杯務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します」
良かった。取り敢えずイリスからは嫌悪感のようなものは欠片も見当たらない。お仕事に励むにあたり、居心地の悪い思いはしなくても良さそうだ。
安堵感から笑みを返すユーリに、イリスもまた笑顔で「それで」と、言葉を繋げた。
「ティカさんは何が得意かしら?
ダンス? それとも楽器演奏?
あたしはね、こう見えてヴァイオリンを嗜んでいるの!
ティカさんの担当はどこに……」
「イリス」
畳み掛けるように言葉の嵐を発していたイリスの発言を切り裂いて、ゴンサレスが低く名を呼んだ。
「言っただろう。その娘は無教養な子供だ。あちら側のな」
「え……」
「ゴンサレス様、私は確かに一般常識には疎い自覚がございますが、師について、それなりには学問も修めて参りました」
勝手に無学な粗忽者レッテルを貼られるのは我慢ならず、いささかムッとしながら口を挟むと、ゴンサレスはフンッと鼻を鳴らすのみ。
おのれ……いつか私の華麗なる演奏でギャフンと言わせてやりたいですが、私が嗜んだ楽器……ハーモニカがこの国にもあるのでしょうか。
もしくは、ソプラノリコーダーかカスタネットが。
ピアノの腕前は『ネコ踏んじゃった』か、『子ネコ踏んじゃった』レベルなのが悔しいです!
「ご、ごめんなさいね、ティカさん。グラシアノ様の許嫁候補者だなんて言うから、あたしてっきり……」
どこぞの貴族か、富豪の令嬢だと思ったのだろう。
「私と若君様は、単なる主家の跡取り息子様と使用人の関係です」
「え? でもだって、さっきティカさん自分から……?」
何だか困惑しているように見受けられるイリスに、ゴンサレスは「それより」と口を挟んだ。
「こんなところでモタモタしていては、定刻に遅れるぞ。
移動しながら話しなさい」
そうして再び、ゴンサレスはサッサと歩き出す。
目的地はエストの部屋らしいが、イリスもこれからお仕事なのだろう。背後に素直に付き従うユーリとイリスの姿をチラリと振り返り、ゴンサレスはふと呟いた。
「イリス。若君様から、先ほどのそれをどこで発見したかは聞いたか」
「……あ、いえ。聞きそびれました」
「そうか。それは昨夜遅く、暇の挨拶と共にホセが届けに来た。厩舎に落ちていたそうだ」
挨拶とか届けに……という言い方をしておいたのは、ゴンサレスの思い遣りだろうか。ホセに懐いていたらしきイリス嬢に、『ホセは隣国のスパイで、危害を加えてきたから返り討ちにしてやったぜ。フハハハハ』とは、流石に言えないのだろう。
いずれは屋敷内にもホセの不在が知れ渡るだろうが、昨日の今日だ。まだ、ホセが行方不明になっているなどという話はイリスの耳に入っていなかったのだろう。息を飲んだ。
「ホセさんが……い、暇乞いだなんて、どうして」
「このままここで働くには、心の整理がつかなかったのだろう。
某所へ紹介状を渡しておいたから、ここで働くよりもよりやり甲斐のある仕事に就いただろうよ」
「『某所』?」
「それはお前が知る必要の無い事だ」
「……はい。申し訳ありません」
彼は死んだのだと、そう告げずにいるには、失恋の傷心から姿を消したのだとそう思わせておくのが一番マシなのだろうか。
この館で働く人々に真実を伝えたところで、不和と疑心暗鬼を引き起こすだけだろう。
だが、ホセと親しかった人々は、伯爵の裁量を不満に思ったりはしないのか。仄かに想い合っていた男女を、引き裂いたように見えるこれを。
イリスは、例の金属片がブレスレットチャームになっているそれを手首に巻き付け、「ホセさん……」と、小さく呟いた。
彼女はもう、二度と彼と会う事は無い。ならば、敢えて死んだと口にするよりも、どこか遠い場所で元気にやっていると思わせておいた方が、まだ良いのかもしれない。
それが例え、嘘で塗り固められた偽りの行く末であったとしても。
ユーリには分からない。いったい、どの選択肢が正しいのかなんて。




