にゃんこ、メイド(?)になる
ハレルヤ! 遂に、遂に子ネコ姿から解放され、人間として人間らしい暮らしを送れるようになりました!
と、ユーリが喜びの雄叫びを内心で高らかに上げたところ、ご主人様からの怨嗟の嘆きにも似た、『にゃんこらぶ!』感情がチラリと背筋を這い上っていったので、これ以上は自重する。カルロス自身が説明したように、唐突に遠隔操作で子ネコ姿へと変えられる心配が無い人間ライフこそ、ユーリの望む生活だ。
半ば浮かれる心を抑え、支給された使用人の制服に着替えつつ、ユーリはつらつらと考えを纏めていた。身に着ける衣服は、セリアやイリスと同じ、パヴォド伯爵家令嬢付きの行儀見習い扱いの少女が着用するエプロンドレス。
ゴンサレスとミチェル、ついでにルティは、世界浄化派に組する者ではない。(まだ怪しく思えるのだが、この点をユーリが1人で疑っていても話が進まないので横へ置いておく)
ホセは世界浄化派のスパイであった。(現在死亡確定済み。遺留品に関しては未確認)
ユーリとアティリオが王都の世界浄化派アジトへ誘拐されるよう、気絶させてどこぞへ連れ去ったのはゴンサレスとミチェルである。
子爵の書斎の天井裏から降り立って、窓から飛び込んできたシャルに瘴気の砂を振り撒いたのは、謎の人物αと推定ホセである。
ホセは本部から、『黒髪黒眼の子供』の捜索及び確保を命じられていた。
ユーリが子ネコ姿でパヴォド伯爵邸内を徘徊していた最中、知らぬ間にホセを挑発していたらしい。
何らかの理由により、ホセはパヴォド伯爵令嬢エステファニアを誘拐しようと企むも阻まれ、世界浄化派の手の者に口封じをされた。これが謎の人物αと同一人物かどうかは不明。
「う~ん。以上の点から鑑みるに、まずホセさんが謎の人物αとどうやって連絡を取っていたのか、突き止めれば手掛かりに繋がりそうですね」
「何をブツブツ言っているのですか、ユーリさん。
それよりも髪を纏めにくいので、そこの寝台に座って下さい」
当たり前のように身仕度中のユーリに指示するシャルに、彼女は溜め息を吐き出しただけで不満を飲み込み、ドサッと寝台の上に腰を下ろす。乙女の着替えでも退室しようとしない無神経な同僚は、しかしユーリ以上にユーリの髪の毛を纏めるのが上手いのである。
元々、地球で使用していた用具はゴムの髪留めを始め、不器用なユーリにも使い易い品ばかりであった。しかし、リボンだけで髪を纏めるには時間が掛かる。オマケにメイドとしての服を身に着ける以上、引っ詰め髪にしなくてはならない。
シャルはユーリの傍らに腰掛けると、愛用のブラシを鮮やかに操り手慣れた様子でユーリの髪を梳き、どこから取り出したのか不明なピンを次々に差し込んで簡単には解れないように固定し、あっという間に髪を後頭部でピッタリ束ねてしまった。使用しているリボンは、手触りの良いユーリ専用ピンク色リボン。
所要時間に五分も掛かっていない。明日からユーリ1人で上手く真似出来るだろうか。
「はい、出来ました」
「有り難うございます、シャルさん」
ポン、と軽く頭を撫でられながら終了を告げられるので素直に礼を告げると、シャルはユーリの傍らから立ち上がり、真正面に移動した。そのままユーリの眼前で、片膝をついて腰を落とす。同僚の片手が、膝の上に乗っていたユーリの手の甲に重ねられる。
「え、しゃ、シャルさん……?」
「ユーリさん、わたしはあなたに、言っておかねばならない事があります」
一体全体、彼がわざわざ取ったこの体勢はなんなのかと目を白黒させ、先ほどから痛いほどに心臓が早鐘を打っている。ユーリは言いようのない気恥ずかしさを絶えきれず、すぐに顔を背けてシャルの眼差しから目線を泳がせたのだが、彼女の顔を下から覗き込んでくるシャルは空いている方の指先がスカートの長い裾の下に隠されたユーリの足首の辺りを掠めた。そうして、彼は静かに言葉を紡ぐ。
「この寝台の下に、あなたの武器を隠しておいたのです。
異世界の武器なら、あまり人目につかない方が良いのでしょう?」
ユーリの足を素通りして更に腕を伸ばして寝台の下に潜り込ませ、シャルは隠していた水鉄砲を目視もせず的確に引きずり出して、ユーリの眼前へと掲げてみせた。気のせいか、鼻息も表情もどうだと言わんばかりに得意げな気がする。
「……シャルさん」
「何ですかユーリさん」
「取り敢えず蹴って良いですか?」
未だユーリの手の上に重ねられている同僚の片手を抓り上げつつ、ユーリは半眼になって低く尋ねた。
「嫌です」
それに、相変わらず乙女心を解さぬボケわんこさんは、何を考えているんだか分からない笑みを浮かべ、即答する。当然のように拒否されたが、遠慮なく寝台に腰掛けたまま足首と膝頭の力だけで右足をブンッと振り上げるも、反射神経の優れた同僚は表情を崩さぬまま、彼女の膝の上に軽く預けていた手を引っ込め両手で水鉄砲を支えつつ、立てていた片膝を軸足にしてその場で半回転してユーリの蹴撃を避けた。
「何をするんですかユーリさん。そんな事をして、わたしがうっかりあなたのミズデッポーを落として、壊してしまうかもしれないと言うのに」
こだわりでもあるのかバランス感覚を密やかに自慢しているのか、何故だか知らないが片膝を床についたままの姿勢をキープしつつ、綺麗に逆回転してユーリの眼前に跪いた体勢へと戻し、ふう、やれやれ。と、呆れたように肩を竦める同僚。
子供用のオモチャなのだし、取り落とした程度で壊れてしまうようなヤワさでは無いように思える。だが別に壊れたところで、そもそもユーリとしてはこれからお屋敷でメイドさんとして働くに当たって、水鉄砲を武器として装備する必要性を感じない。
シャルの手から水鉄砲を取り上げ、森の家から出立した時のまま水を入れておくタンクの中身が空っぽである事を確認しつつ、ユーリはシャルに改めて問い掛けた。
「もしかしてシャルさんは、メイド仕事に従事するよう言いつけられた私に、この水鉄砲を背負って働けと?」
「ええ、もちろん。あなたときたら、わたしが少し目を離しただけで幾度襲われれば気が済むんです?」
「……シャルさんが仰る前例の一部に、私にも防ぎようがなく、どうにも仕方がない襲撃が含まれていそうなのが納得いきませんが」
そしてユーリは両手で持ち上げた水鉄砲を頭上で回転させて、まだ跪いた体勢を取っている眼前のシャルに迷わず振り下ろした。標的は首を傾けるだけで、やはり簡単に避けてしまう。
「ほらシャルさん。私程度の腕前では、こんなモノを所持していようがたいして役に立ちませんよ」
「それは打撃武器では無い事ぐらい、わたしも理解しています。
駄々をこねずに素直に持ち歩きなさい、ユーリさん」
素知らぬ顔をして反論するユーリに、同僚は真顔で再度言い含めてくる。
「……あのですね。真面目な話、この異世界の異物を背負ってお屋敷勤めをするのは、あらゆる意味で無理があります」
「まったく。あなたときたらどこまでも我が儘ですね。困ったものだ」
せっかく髪の色まで変えたというのに、このマレンジスには存在していない怪しい物体を背負っていたら台無しだ、というごく当たり前の正論を、シャルは『我が儘』の一言で片付けてのけるという、ザ・イヌ理論の理不尽さを披露しつつ、傍らの荷物袋の中身をゴソゴソと漁って今度は何かの小袋を取り出した。
傾けた袋の中からシャルの手のひらに転がり落ちたのは、ユーリの親指の爪ぐらいの大きさしかない硝子細工の小瓶と、それに取り付けられた細い銀色のチェーン。
「……何です? それ」
「お守り代わりにでも、身に付けていて下さい。これから家に帰るまで、毎日毎日あなたの余計な匂い消しに立ち寄れるとは限りませんからね」
シャルはそう言いながら膝立ちになると、ユーリと向かい合ったまま彼女の首の後ろで器用にチェーンの留め具を嵌めた。洒落たペンダントのように彼女の胸元で硝子瓶が窓から差し込む朝日を反射して、それはキラリと輝く。
手に取ってみると、小瓶の中の薄い桃色の液体が小さく揺れ動いた。
「……シャルさん、もしかしてこれ、香水ですか?」
蓋を開けて手に垂らし、香りを確かめてみたい衝動に駆られるが、この小瓶の口の形状では適量以上に零れ落ちてしまいそうだ。
「ええ。ですが、きっと人間のあなたには、アルコールの匂いぐらいしか嗅ぎ取れないと思いますが」
「え」
使用者が自分で楽しめない香水というのは、果たして香水の意義があるのだろうか? 疑問を抱くユーリに、シャルは更に笑顔で荷物の中から見覚えのある小袋を取り出す。
「こちらも必ず首から提げていて下さいね。
水仕事をなさる際、細心の注意を払って頂く必要が生じる分、身体の動かし方も洗練されて一石二鳥ですね」
問答無用で毒水の素入り袋の紐まで、頭からズボッと通されたユーリは、深々と溜め息を吐いて両方とも服の下にしまい込んだ。首元まできっちりボタンで留めるタイプの服である事と、毒水の素も香水瓶も、人間の鼻では異臭を嗅ぎ取れないのは、隠し持つには幸いである。
仕上げにレースが縫い付けられたヘッドドレスを頭に被り、ユーリは迎えに来たゴンサレス氏について行き、同僚と一旦別れたのである。
因みに、ユーリが行儀見習いとして暮らしていくに当たり、彼女の私室として貸し与えられるのは先ほどの、カルロスも昔住んでいた使用人部屋である。水鉄砲はまたしても、イタズラ好きわんこ同僚の手によって、再びその部屋の寝台の下に隠された……
カルロスやシャルと慌ただしく言葉を交わし、ユーリは現在、無言で先導するゴンサレスの後をついて歩いている。使用人居住用棟から母屋に向かう彼の背中に向かって、ユーリは気になっている事を思い切って尋ねて見る事にした。
「あのう、ゴンサレス様。
行儀見習いをしながらとのお話でしたが、私はそもそもどういった勤務体系に組み込まれるのでしょう?」
基本的に、新人メイドの仕事と言えば皿洗いに野菜の皮むき、掃除が主だと思われるのだが、そういったお仕事に追われて集められる情報となると、このパヴォド伯爵邸に勤める下働きの面々からの噂話になりそうである。だが、そういった情報を求めてはいないだろう。
ゴンサレスは振り向かずに前を向いたまま答える。
「グラシアノ様はティカをご自分付きのメイドに、と希望なされたが、閣下は『それではティカに不利だろう』と却下なされ、エステファニア様付きになった。よって、これから向かうのはお嬢様のお部屋だ」
「……レディ・フィデリア付きでは無いのですね」
まさか、ポッと出の小娘がいきなり貴人の身の回りの世話係に任命されるとは予想外である。何も知らない他の使用人の皆様方から、いったいどんな背景が噂されるのやら。
そしてグラは、ちゃっかりユーリを説得する機会を多く得ようとして、お父様からあえなく却下されたらしい。
「奥方様付きとなれば、君を構い倒して遊びたがるだろう」
ボソッと小さく告げられた回答を聞き流しつつ、ユーリは何気なく廊下の窓から覗く裏庭に目線をやり……見覚えのある人影が横切り、「あ」と思わず声を漏らした。
「ティカ、どうかしたのか」
背後を付き従っていたはずのユーリが無断で立ち止まってしまった事に気が付き、首だけ捻って彼女を振り返ったゴンサレスは、不機嫌そうに声を掛けてきた。
「すみません。今、裏庭の片隅に若君様とイリスさんの姿が見えて」
「……グラシアノ様の行状が気にかかるのか?」
この館で働いている間、ユーリにどれだけの自由が許されているのかは不明だが、上司に先導されて仕える主人の元へと移動している最中に、自己の好奇心から勝手な行動をとって良いとは流石に思えない。
だがゴンサレスとしても、今、目と鼻の先で人目を忍ぶように裏庭にてひっそりと行われようとしている、グラとイリスの密会とも見える行動には何か思うところでもあったのか、フンと鼻を鳴らして顎で示した。
「求婚を受けた身とはいえ、未だ正式には認められていない身の上で若様の女性関係を束縛しようとは、なかなか強かだな」
「いや、そういう心積もりは何もありませんが」
「経験上、こういった事は早めに誤解を解いておくのが最も面倒が少ない。こちらに来い」
「いやだから、別に若君様の交遊関係とか興味ありません……」
いったい、ゴンサレスの中でユーリはどんな立ち位置に居るのだろうか。だが、別にユーリの為を思っての行動ではないのだろう。恐らく、将来的にユーリがグラとイリスの関係性を誤解していて、結果的にグラに精神的ダメージを与えかねない未来の可能性があるのならば、芽の内に摘んでしまおうという事なのか。
本当に、ユーリとしてはグラとイリスが何を話していようがどうでも良いのだが。
ゴンサレスは裏庭に下り立つ勝手口のドアを開け放った。
茂みに向かってしゃがみ込むイリスと、周囲に人気が無いかを確認するように見渡しながら、グラがそっと近寄っていったとおぼしき、窓から偶然見えた裏庭の茂みへゴンサレスは足音を忍ばせて近付いていく。履いているのはごく普通の革靴にしか見えないのだが、ゴンサレスは普通の歩き方をしているように見えるのに、何故に剥き出しの地面の上を歩いていてもジャリジャリとした足音がしないのか。
子ネコ姿ではなく人間の姿なので、今のユーリには普通の歩き方をして足音を消すなどという芸当は無理だ。抜き足差し足忍び足で、ヨタヨタとゴンサレスの後を付いて行く。脳裏に、ご主人様のドヤ顔が早くも浮かんだ。
というか、そもそも何故気が付かれないようにコソコソしなくてはならないのだろう?そんな疑問を抱く頃、ゴンサレスが木陰のそばで立ち止まるので、ユーリも彼の傍らでそおっと茂みの方を覗き込んでみた。
「こんなところを探していても、お前の探し物は見付からないと思うがな、イリス」
「えっ、グラシアノ様!? お、おはようございます!」
両腕を組んで、背後からイリスに声を掛けたグラ。彼の接近に全く気が付いていなかったらしきイリスは、頭から突っ込ませていた茂みから、驚いてピョンと飛び跳ねるような動きを見せつつ振り返り、慌てて若様に会釈した。彼女の頭に葉っぱが引っ付いているのはご愛嬌。
「どうしてあたしが探し物をしているって……?」
「そんな茂みを熱心に覗き込んでいれば、誰でも見当が付く。
イリスの探し物は、これか?」
恐る恐る尋ねるイリスに、グラは組んでいた腕を解いて、片手を彼女に向けて突き出した。
グラが指先でぶら下げるそれは、木漏れ日を反射して輝く金属片。それを見たイリスは息を飲み、ユーリの傍らのゴンサレスは思いっきり眉をしかめた。