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二の句が継げない、とはこういった状況であるのか。既に半ば片付いたと思っていた爆弾を伯爵令息から投下されて、ユーリは口をパクパクと動かすも声にならない。
逆に、周囲では口々に何かを言っているのだが、耳にも入ってこない。彼女のご主人様もまた、しきりに何かを言っているのだが、気が動転しているのかテレパシーで伝えてこないので何を言っているのか聞き取れない。
ユーリは傍らのシャルの服の袖をぎゅっと掴んだ。
そんな混乱の渦の最中、おもむろにパヴォド伯爵が両手を顔の僅か斜め前にて軽く合わせ、パンパンッと二回程叩いた。たったそれだけで、各人がピタリと口を閉ざし、先ほどまで騒がしかった室内を静寂が支配する。
これ、と簡単には説明する事が難しい。けれど、人々の意識と眼差しを簡単に集め従わせる何かが、伯爵閣下には備わっていた。
執務机に再び肘を突き、パヴォド伯爵はその手のひらに顎を預けてソファーに目をやった。
「生憎、私は皆から一斉に喋られても聞き分けられないよ。
まず、フィデリアの話から聞こうか?」
「わたくし? もちろんわたくしは大賛成ですわ。
わたくしずっと、ユーリちゃんのような可愛らしい女の子があなたにはお似合いだと思っておりましたの。よく決意してくれたわね、グラちゃん」
「有り難うございます、母上」
「ふむ。カルロス、ユーリは君のネコだ。君の意見は?」
ユーリの内心でのツッコミの嵐をものともせず、自らの胸の前でそのたおやかな手を重ね合わせ、レディ・フィデリアはうっとりと夢見るような表情でそう言い切った。声にならぬ声を伝える、目力がユーリには足りないのかもしれない。
そう言えばレディ・フィデリアは以前、グラの膝に飛び移る黒ネコを目撃し、「ユーリちゃんのような可愛い女の子に好かれて良かったわね」といった主旨の言葉を、息子に向かって言っていたような気がする。
妻の意向に関してはそれ以上何事か意見を差し挟むでもなく。次いで、パヴォド伯爵は流し見るようにしてカルロスを促した。
「はっ……」
しかし発言を求められたカルロスは、すぐさま答えを返せず言葉に詰まる。やはり、深夜の伯爵令息求婚事件について、エストの体調を心配するあまりまだ把握していなかったらしい。
ユーリはうっかりと報告を忘れていて、主人達のデートにウットリしていたのもあって意識の端にも上らなかったが、その場に居合わせた同僚もご主人様へご注進していなかったようだ。
「……このような場で貴婦人方のティータイムを不躾に眺め回し、私のネコがいじましくも醜態を晒してしまい、大変申し訳ございません。
今後は、弁えぬ態度は慎むよう厳しく躾させて頂きます」
って。
主的に、ぐらぐら様プロポーズ事件よりも、私がご飯ジーッと見つめてお腹空いたとか顔に出てる方が大問題!?
冷静に……本当に落ち着いて冷静に考えると、確かに高貴な身分の方々がご飯食べてる姿を羨ましげにずっと眺めている使用人というのは、品性が疑われるだろう。本能的なモノなのだから仕方がないところもあるが、そんなものは理性で易々とねじ伏せてこそ、上流貴族の邸に勤める使用人の鑑というもの。
例えるならばレストランにて、注文したご飯を運んできたウェイトレスさんが、お客様が食べる姿をジーッと眺めてお腹を鳴らしていたら、どうだろうか。客の立場として非常に居心地が悪い。
「いや、ユーリは昨夜からの騒ぎでずっと何も食べていないのだろう? 可哀想に。
爺、後で栄養たっぷりの魚料理を用意してやってくれ」
「かしこまりました」
カルロスの謝罪を、パヴォド伯爵はさも当たり前のように流す。
かの閣下の発言からは、ユーリの事を『人間の娘』として捉えているのか、それとも『部下の飼いネコ』として捉えているのか、どちらなのかサッパリ分からない。
「カルロスとしてはどうなんだい。ユーリをグラにくれてやっても良いのかい?」
「それは……私のネコには、有り難くももったいないお申し出だとは、思いますが……」
やはり、カルロスとしてもパヴォド伯爵家の跡取り息子様にしもべを嫁がせるのは、諸手を挙げて歓迎出来る事態ではないらしい。多分に、『分不相応』だとか『適応性障害』だとか、そんな心配が言葉の端々から漏れ出ている。
“……グラシアノ様は、何を考えていらっしゃるんだ”
未婚で年頃の娘の名誉の死守だそうです。
何で結婚なんて話が出たのか、取り急ぎ主人へと脳内で説明した事で、ますます複雑なのかもしれない。なんせ、グラが責任を感じて嫁にすると言い出した原因は、イレモノにユーリ中身はカルロスな状態だった訳で。
ある意味、グラが本当に求婚しなくてはならないのは、カルロスに対してではなかろうか。
歯切れ悪く口ごもる部下に早々に見切りをつけ、何か言いたそうなゴンサレスの姿に、パヴォド伯爵は唇の端を持ち上げる。
「では、爺の意見も聞いてみようか」
「私は反対ですな。グラシアノ様があの娘を伯爵家に迎え入れて、それでいったいなんの利点があるのです」
「あら、ユーリちゃんを我が家に迎え入れたなら、家の雰囲気が明るくなりましてよ。
活気ややりがいが湧くのは、良い事ではなくて?」
「……奥方様。奥方様は子ネコが飼いたいだけなのでは」
「あら、おほほほほ。
わたくしはただ、息子がようやく選んだ女の子が、わたくしが夢中になれるほど可愛らしい事が嬉しくてたまらないだけですわ」
ごくごく真っ当にして、誰しもが引っ掛かりそうな……それこそ当主夫妻が真っ先に懸念しそうな点を挙げて反対する爺やさんに、当主夫人は何だかとっても息子の嫁に対する評価ではなく、家に迎え入れるペットに対する評価っぽい意見を振りかざした。
そしてパヴォド伯爵は妻の意見をそのままに、今度は愛娘に笑みを向けた。
「お兄様とユーリちゃんの結婚には、わたくしももちろん賛成致しますわ」
当然、至極真っ当な理由を述べて反対してくれるに違いないと期待していたお嬢様は、何故か満面の笑顔であっさりと賛同の意を表明する。
想定外の方向へ流れ始めた会話に、ユーリの前に立つカルロスの背中は、目に見えてガチッと固まってしまう。
「ほう、そうなのかい、エスト?」
「ええ。だってお兄様が女性と親密になりたいと意思表示をなさったのは、ユーリちゃんが初めてなのですもの!
それに、ユーリちゃんもお兄様に懐いていますし。反対する理由なんてどこにもありませんでしょう?」
「いえ、ですからパヴォド伯爵家へ何のメリットも……」
「デメリットもありませんわ。
他家との繋がりなど、お兄様との婚姻でしか結べないものでもありませんし、まだ幼い弟達がどの家のご令嬢と親しくなろうと、次期当主の妻の実家に憚る必要も無くなります」
「まあその場合、ある意味『次期当主の妻の実家』は、パヴォド伯爵家そのものという事になるね」
利益は生み出さないかもしれないが、厄介な親類が引っ付いてこないという点では、不利益も発生しないという事なのか。貴族社会では、よほど『困ったご親戚問題』が持ち上がりやすいらしい。
“……ユーリ。何だか知らんが、パヴォド伯爵家では予想外に歓迎ムードらしいぞ。いっそお前、グラシアノ様のとこに嫁にいくか……?”
半ば呆然とした感覚と虚脱感、そして思考を停止しかけている投げやりさで、カルロスからテレパシーが飛んでくる。
いけません、主! ここで屈しては!
何か話の傾向がよく分かりませんが、貴族と平民の婚姻なんて現実問題として異質です!
私とぐらぐら様が簡単に結婚可能なら、何で主はそんなに苦労してるんですか!
そもそも、と、ユーリは勇気を振り絞ってパヴォド伯爵を真正面から見据えた。
閣下もまた、底知れぬ笑みと余裕を抱いて、執務机の上に肘を突いたままユーリを見返してくる。
「それじゃあ、ユーリ本人はどう思っているんだい?」
そもそも、パヴォド伯爵が何を考えて皆の口からそれぞれの意見を聞き出しているのか、息子の表明に閣下ご自身はどうお考えなのか、一言たりとて語っていないのだ。
「私は、若君様と結婚しません。そのお申し出は、既にお断りさせて頂いたはずです」
「だが、私もこれで諦めたりはしないと、はっきり言ったはずだ」
パヴォド伯爵にはっきりと自身の意志を伝え、ユーリは次いでその傍らに控えるグラに文句をつけると、受けて立とうと言わんばかりに若君様も渋面のまま即座に切り返してきた。
ユーリは拳を握り締めて、グラを見つめ返す。
「何度仰られても、頷いたりしません。伯爵閣下のご許可を取り付けて、お断り出来ない方向に持っていこうとするなんて、若君様は卑怯です」
「逃げ道を塞ごうとした訳ではない。
ただ、私の結婚には当主である父上のご認可が必要であるから、関係者が揃っている場でお許し頂けた方が、報告の手間が……」
「私は若君様と結婚なんてしたくありません! ご自分のご都合だけで、勝手な行動に出るのは独りよがりと言うんです!」
グラは主家の貴人であり、所詮は単なる家人のそのまた飼いネコの都合や事情になど、わざわざ気を配る必要も持たない高貴なご身分である。
あるのだが……根っこのところでは、身分差というものが骨身に染みていないユーリは、お貴族様のご勝手な行動に、思わずグラのお言葉を遮った上でキツい口調で拒否してしまっていた。
主が反射的に振り向き、(なんて事を!?)と言いたげに両手を当てた無駄に残念美形な顔が、ムンクの叫びにも似た表情を作り上げている。
すみません、主。決して幻聴ではなく、あなた様のしもべは堪えきれずに口走ってしまいました……
これがプライドが何よりも優先されるお貴族様ならば、ユーリは主人共々手打ちにされていたのかもしれないが、幸いにしてグラは眉をしかめた程度でいきり立つ素振りも見せない。
大物過ぎではないだろうか。もしかすると、グラが所属なさっているという軍隊では、ユーリ以上に生意気なクソガ……もとい、甘やかされた坊ちゃまが多いのか。
「ふむ。どうやらグラは、私よりも先に許しを求める相手がいるようだね」
「はっ……」
礼儀に適っていないユーリの言動を咎めるでもなく、叱責するでもなく。何だかやたらと楽しげに、パヴォド伯爵閣下は執務机から持ち上げた羽ペンをクルリと回し、息子に羽先を突き付けた。
「さて、分かっているね、グラ。
我がパヴォド伯爵家家訓は?」
「パヴォド伯爵家男子たる者、家の力に頼らず、自らの魅力と実力で妻として迎え入れる女性を口説き落とすべし」
促されたご子息様は、何の躊躇いもなく詰まりも照れもせず、生真面目な顔付きで高らかと家訓とやらを述べ上げた。
何だかとんでもなくアホらしい家訓であるような気がするのだが、ユーリの気のせいであろうか。
つまりその家訓に従った結果が、パヴォド伯爵夫妻の現在の日常なのだろうか。
「それではグラ、君は今すぐこの場で何をすべきか、分かるね?」
指先で弄ぶ羽ペンの先を小さくふりふり、閣下は笑みを崩さずのたまう。
パヴォド伯爵の狙いがいったいどこにあるのかまでは、ユーリには全く予想がつかない。
けれど、グラの突飛な発案を利用して、閣下は何事かを企んでいる。絶対に、何かを、笑顔の下で、密やかに企てている。
「はっ……」
父上様からのお言葉にグラは一つ頷き。
カルロスは息を呑み、レディ・フィデリアとエストは期待に瞳を輝かせ。セリアは努めて表情を動かさず、ゴンサレスは溜め息を吐いた。
来なくて良いものを、どこか緊張感を孕んだ静けさの中、伯爵令息様はわざわざ執務机を回り込み、ユーリの眼前へと歩み寄っ……
ぐぐうぅ~~。
緊張やよそ事に意識が向かっていようとも、ユーリの胃袋は正直だった。
これ以上は耐え切れぬと空腹を訴える大きな音が、静まり返った執務室の隅々にまで響き渡る。
両手でお腹を押さえてグラを睨み付けるユーリを見つめ、微妙な沈黙の後にグラはおもむろに咳払い。
「……話を進める前に、ユーリ、まずは食事をとってきなさい」
生真面目貴公子様が、今日初めて喜ばしい台詞を言い放った。
伯爵の執務室を辞し、ユーリが主人や同僚と、そしてエストの背後に控えているべきと思われたセリアまでも、難しい顔付きのまま付いてきて、共にゴンサレスに連れて来られたのは、こじんまりとしているが明らかに上等な家具が配置された応接間のような部屋であった。
本来ならば、使用人用の食堂にて用意されるべきと思われる朝食が、手早く用意されそちらに運ばれてきたが、いったいいつ厨房に連絡がいったのだろう。ゴンサレスは初めから、この部屋でカルロスと朝食会議でもするつもりだったのだろうか。
伯爵家の皆様方は席を外してはいるが、どういった理由でなのかゴンサレスと朝食を共にするというのは、先ほどの伯爵閣下への報告会よりもよほど尋問の空気が強い気がする。
「カルロスさん、いったいどういう事なの? その子がユーリちゃんって……」
そして、全員が同じテーブルに着席するなり、最も強い発言権を持つと思しきゴンサレスが何かを口にするより早く、セリアはどうしてもはっきりさせたいと言いたげに、キッと睨むようにカルロスを見据えた。
「セリア、気が急くのは分かるが、まずはその娘にご飯を食べさせてやりなさい。見るに耐えない顔になっている」
カルロスが口を開くよりも素早く、ゴンサレスがとてつもなく失礼な言葉を挟み、見てはいけないモノを見た、とばかりにそっとユーリから視線を外した。
思い返してみるとこれまでの人生の中で、ユーリはここまでお腹をペコペコにさせた経験が今まで無かったような気がする。お腹を鳴らしたのだって、いったい何年ぶりだろうか。
そう考えると、きちんと食べさせてくれていた母やご主人様はなんと偉大な存在であろうか。
「良かったですね、ユーリさん。あなたは本当に、食い意地が張っていますから」
隣に着席しているシャルから、何とも度し難い認識を突き付けられて、ユーリはお腹が鳴るよりもよほど居心地が悪くなった。
シャルは相変わらず、イヌとは思えぬ器用な手つきでナイフとフォークを操る。自らの皿に盛り付けられていたビスケットパンを綺麗に切り分け、たっぷりとクリームを乗せると、
「はい、ユーリさん。あーん」
何故か、ビスケットパンを突き刺したフォークを差し出してきた。
いったいこの同僚は何を考えているのかと、気が遠くなりかけているところに、
“あー、恐らく、対セリア・ユーリの本性は人間ではなくネコだっつーアピールの一環? なんだろう。多分”
「あなたは、まだ上手くナイフが使えないでしょう?」
カルロスからの口添えと、それを肯定するかのようなシャルの言葉に、ユーリはヤケッぱちに同僚が差し出すフォークに食らいついた。
エストとセリアに対しては、人間の娘ではないのだから警戒する必要はないと思わせ、またグラに対してはネコなのだから結婚する訳があるまいと主張する。
自分でやり始めたからには、その設定を忘れるな、と言いたいのだろうか。この同僚は。
「ユーリさんは、本当に甘いものお好きですね」
もごもごと咀嚼するユーリに笑顔で言い放ち、シャルは再び切り分けたパンに今度はジャムをたっぷり乗せてフォークを突き刺す。
「はい、あーん」
口の中のものを飲み込んだタイミングを見計らって、またしても差し出されるフォーク。
大人しくシャルからのあーんを受け入れるユーリの姿に、セリアは動揺も露わにカルロスに向き直った。
「こ、この2人はいつもこうなのっ……!?」
「あ? あー、まあ、だいたいは。
ほら、ユーリはまだちまっこいし」
主、セリアさんに嘘をつくのはどうにも心が痛むのですが。
そしてシャルさん。私にご飯を食べさせるの、もしかして楽しんでいらっしゃいませんか。