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「今回の失態、何か弁解する事はあるか」
執務室の大きな窓から差し込む朝日をその身に受けながら、ゴンサレスは室内奥、主人の執務机の脇に佇んだままカルロスを見据え、淡々と問うた。
「ありません。私の見通しと判断能力が甘かった事で、招いた結果です」
それにカルロスは狼狽えるでも、言い訳を連ねるでもなく答える。
今日は人間の姿のまま、シャルと並んでカルロスの背後に控えているユーリとしては、先ほどからハラハラし通しだ。
パヴォド伯爵の執務室内では、早朝にも関わらず、執務机に掛けた伯爵閣下と、その傍らに佇むグラ。机脇に控えるゴンサレス。そして客人用のソファーに腰掛けたレディ・フィデリアとエスト、彼女の背後にはセリアと、関係者が勢揃いしていた。
それにしても、レディ・フィデリアとエストの前には香り高いお茶が注がれたカップと、サラダに目玉焼き。それにパンとビスケットの中間ぐらいの柔らかそうな焼きたての菓子が、クリームやジャムを添えて置かれている。実に美味しそうである。
エストお嬢様、大抵毎日の朝食はベッドの上で、あの手のパンとお茶を召し上がっていましたね。もしや、早朝からの呼び出しなので、レディ・フィデリアとエストお嬢様は今からモーニングタイムなのでしょうか。
執務机付近はピリピリとした空気が漂っているというのに、レディ・フィデリアが優雅にカップを傾けるあの一角だけ別空間のようだ。同じ室内であるというのに。
そして、目が覚めてから何も食べていないユーリの食欲が無闇に刺激されてしまう。これがいわゆる目の毒というやつであろうか。
主人達の夜の秘密のダンスパーティを終え、エストを部屋に送り届けたカルロスと、そしてシャルと共にあのホールに戻ったユーリ。
朝方になり、一同はパヴォド伯爵の名で呼び出しを受けたのであった。それがさも当たり前のように、『ユーリは人の姿で参じるように』とのお達し付きで。
そして執務室で顔を合わせた面子は……誰も黒髪の少女について、誰何してこない。
不気味なまでに、ごく自然にカルロスへの事件に関する責任問題への話は始まっていた。
「やれやれ、少しぐらいは言い訳でもしてくれないと。
そんな悲壮感に満ちた顔をするものではないよ、カルロス」
ソファーの方を除いて、どこか緊迫した室内の空気に、伯爵閣下は穏やかな口調で口を挟んだ。
そしてユーリは、やはり目がティーセットが置かれているテーブルの上に思わず引き込まれてしまう。エストは小さく千切った焼きたてのパンに、たっぷりとクリームを乗せてその朱唇を開く。
「閣下」
「爺やは自分のみならず家人にも厳しすぎる。
今回のケースは、十分想定範囲内だ。そうだろう?」
「示しというものがございます」
僅かに眉をしかめて言い募るゴンサレスに、パヴォド伯爵は軽く口角を持ち上げた。
そしてソファーの方では、レディ・フィデリアの空になったカップにセリアがティーポットからお茶を注いでいた。馥郁とした香りがユーリの鼻先をくすぐる。
「それは上から強引に押し被せ、強要するものではない。自らの心の内から抑えきれず湧き上がってくるものだよ。
それが出来ない者には、上に立つ資格などありはしない」
「はっ……」
あくまでも穏やかに、諭すでもなく叱責するのでもなく。パヴォド伯爵は笑みを象った表情で、のんびりと言葉を紡いだ。
ゴンサレスは主人の言わんとするところに勘気でも感じ取ったのか、軽く腰を折って口を噤む。
ユーリもまた、レディ・フィデリアがパンにジャムを山ほど乗せる姿に唾を飲み込む。
「さて。それでは、まずカルロスから報告を聞こうか」
「はい」
改めて執務机の上に両肘を置いたパヴォド伯爵は真正面に立つカルロスを促し、ゴンサレスもまた、厳しい表情のまま目線を送った。ユーリの目線はエストがお上品かつ美味しそうに食されている、新鮮な野菜たっぷりのサラダに送られてしまう。
「ホセが馬車内に仕掛けた毒は誘眠香と呼ばれる、レデュハベスの中腹付近に生息する、トカゲのような魔物の尾から採れる物です。
匂いを嗅いだ生物の意識を徐々に朦朧とさせますが、閉め切られた場所でなくては効果が薄く、また入手方法も少なく困難な為、知名度の低い毒物です」
「馬車内に、まだ毒が充満していると?」
「いえ、しばらく換気しておけば効果は無くなります。シャルにも隅々まで確認させましたが、もうあの馬車に誘眠香は残っておりません」
「ふむ。手に入りにくい毒物ならば、入手経路から関係者を洗い出せませんかな」
カルロスがまず解説した誘眠香について、ゴンサレスが顎を撫でながら口を挟んだ。それに、カルロスが気まずげに答える。
「それが……どうやら誘眠香は、我が家の地下室に保存してあった物を、先日ホセが訪れた際に、持ち出したようです」
「なんともまあ。管理能力が足りておらんな」
「返す言葉もございません」
半熟玉子の目玉焼きを、ナイフとフォークを使って器用に口に運ぶエストの手元を熱心に見やるユーリのすぐそばで、グラに冷ややかな言葉を投げかけられたカルロスは静かに頭を下げる。
「それからホセのダガーに塗られていた毒物は、アセビのようです。現在、ご令嬢からは完全に毒素は抜いてありますが、念の為に今しばらくご静養頂ければと」
「アセビ……確か、腹痛や嘔吐、呼吸困難を引き起こす植物毒だったか」
「主には。決して、『軽く身体を麻痺させる』目的で使用する毒物ではありません」
「暗殺目的で使われる毒と、ホセの気が付かぬ間にすり替えられたと見るべきかな」
カルロスの報告に、パヴォド伯爵は何か合点がいったようにひとりごちた。
「厩番のホセ、彼が今回のような凶行に及ぶとはね。彼は黒砂の中でも穏健派だと思っていたのだが」
「父上。あれが敵国のスパイであると存じていたのならば、何故もっと早くから対処しなかったのですか?」
軽く顎を撫で、う~んと唸る父伯爵に、グラが不可解だと言いたげに口を挟む。
ユーリもまた、レディ・フィデリアがおかわりのお茶が入ったカップに口をつける姿に、内心う~んと唸る。
「良いかい、グラ。
仮にスパイだと気が付いた段階でホセを放逐しても、根本的な点では問題の解決にならないよ」
出来の悪い生徒に辛抱強く説明する教師のように、伯爵閣下はサラリと告げた。後は自分で考えろと言わんばかりで、グラは懸命に考え始めたようだ。
現実の朝食時間がいつになるのかはさておき、このまま気分だけでもあちらの美味しい朝食を頂いている妄想で空腹感を誤魔化せないか、ユーリも真剣に考えてみる。
「お父様」
「何だい、エスト」
不意に、優雅なモーニングタイムが展開されていたソファーの方から声が上がった。
伯爵閣下の娘を見つめる眼差しは、彼女が危機を乗り越えた後でもいつもと変わらず穏やかだ。
「ホセがあれで穏健派だと言うのなら、過激派も存在するのですか」
「そうだろうね。幸い、爺やが抜け目なく対応してくれているけれど」
パヴォド伯爵と令嬢の眼差しを受けて、ゴンサレスが唇を開く。
「そもそも世界浄化派とは、内部では様々な思惑を抱えた派閥が幾つも存在する集団です。
バーデュロイを併呑しようと企む一派や、大陸中からエルフ族の血を引く者を根絶やしにする過激な思想を頑なに掲げる一派、思想融和による自然淘汰を掲げる一派など」
そこでゴンサレスは言葉を一旦切り、室内を見渡した。
「そんな彼らにとって、自国と接するバーデュロイの領土、即ちパヴォド伯爵領への対策は様々に意見が割れている訳です。
徹底的に裏から攻撃し、領主の力を削ぎ通商を有利に進めるべき。いやいや根強い交渉によって、親ザナダシアに靡かせるべきだ。
まあ、敵対する派閥同士で勝手に自滅しあってくれる分には歓迎ですな」
辺境伯。その言葉を聞いて、人は何を思うだろうか。
力の無い田舎領主、都会の洗練された空気を解さぬ時代遅れの芋。
流石にそんな偏見は抱かないであろうが、何となく窓際のようなイメージを抱いたりはしないだろうか。
だが、実際には真逆だ。
辺境、即ち国境線沿いに存在する領地を預かる領主は、中央から現場の裁量権でも言うべき権力を後押しされている。平時は外交戦の最前線として謀略が仕掛けられやすく、戦時下ともなれば攻撃を受けるのは自らの領地だ。
中央と辺境の信頼関係が確立していなければ、容易く敵を自国に招き入れる結果となるし、防備は瓦解する。そこを攻め落とされれば、被害を被るのは国力を生み出す民だ。
王家と、そして国の為に尽くす盾としての誇りと覚悟が無ければ、辺境伯として頼むに足り得ない。
「世界浄化派の勢力は、彼ら曰わくの『教化』によって理想を推し進めようとする者が大半だ」
「国単位で言えば、現在のところ、正面きって戦争を仕掛けるにはかの国には不利な点が多すぎます故に、互いに出方を窺っている、といったところですが。
足元を掬うべく、様々な勢力によるパヴォド伯爵家への計略は絶える事が無い状態です」
「ホセを我が家に置いたままにしておけば、それもある程度こちらが操作出来たのだが……どうやら、不運が重なったようだ」
ふう、と溜め息を吐く伯爵閣下。どうやら彼としては、出来うる限り敵のスパイを利用出来るだけ利用し、飼い殺しにしてすり減らして使い潰してやるおつもりでいらしたらしい。今回の事件でも、ホセを生かしたまま連れ帰っていたらどうするつもりだったのか……考えたくもない。そしてエストは、カップを傾ける。ユーリの朝食はこのまま抜かれるのではないか、などという恐ろしい予測は考えたくもない。
「さて、グラ」
「はい」
そしてパヴォド伯爵は、まだ一生懸命考えこんでいたらしき傍らの息子に目をやった。
「ホセの最期に立ち合ったのはお前だ。彼から何か聞き出せたかな?」
「はっ……」
穏やか~に問う伯爵閣下であるが、『情報すら満足に引き出せていなかったならどうなるか、ちゃんと分かっているのだろうね、グラ』という脅しが透けて聞こえるのは気のせいだろうか。
「あれがそもそも我が家に潜り込んだのは、情報を収集する為との事でした。
情報伝達手段は、中継専門の仲間が飼育している鳥を介していた為、仲間の顔はおろか素性すら知らぬ。集めた情報はどこへ渡されたのかも自分が知る必要は無いと、知らされていない、と」
なんとも徹底した話である。
そう言えば、ホセが鳥に餌をやっている姿をユーリも目撃した事がある。彼は森や林が好きだったとシャルはそう言っていたが、それすらもしかすると伝書鳥とのやり取りを誤魔化す為なのかもしれない。
それにしても、動物ラブな我らの主が、彼の可愛い子ネコに餌を与えてくれるのはいつになるのだろうか。
「彼が主に収集していたのは、我々パヴォド伯爵家の個人的な情報に関して。
黒砂として動く機会は殆ど無かったが、時には上から鳥を介して命が下る事もあった。しかし、それがどこから出た命令なのかは、やはり分からないと」
「伝書鳥に括り付けられる紙切れに記載出来る情報など、たかが知れているだろうしね。
しかし、驚いたよグラ。そんなに聞き出せていただなんて、お前には誘導尋問の特技でもあったのかい?」
滔々と語る息子に向ける眼差しは僅かに目をみはり、パヴォド伯爵は感心したようにそう尋ねた。だが、グラはすぐさま首を左右に振って、
「いえ、私ではなくセリアがホセと話を。私は馬車を操っていたもので……」
彼の手柄ではなく、あっさりとメイドさんの働きであると父に弁解した。
正直は美徳なのかもしれない。
だが、この伯爵令息の危機管理能力は大丈夫だろうか? グラの証言から想像すると、捕まっているとはいえ意識がはっきりしているスパイの男と、意識を失っている伯爵令嬢と全裸の娘ことユーリと、メイドのセリアがさほど広くはない馬車内に同乗していた、という事になるのだが。
同じような点を懸念したのか、パヴォド伯爵やゴンサレスの表情は微妙に苦い。そしてカルロスは背中を向けているのでどんな顔をしているのか不明だが、傍らのシャルは相変わらず、何を考えているんだかよく分からないアルカイックスマイルである。
「……では、セリア。君の口からも聞こう。
ホセは何か気になる事を言っていたかい?」
すいっと息子から視線を動かして、パヴォド伯爵はソファーの背後に控えていたセリアに照準を合わせた。室内の目が、自然と彼女に集中する。
ビクリ、と小さく彼女の肩が震え、緊張を顔に貼り付かせたまま唇を開いた。
ユーリもまた流れでセリアの顔に向けたのだが、すぐさま下の方のパンに目線はずり下がってゆく。
「あ、の……ホセさんが、言うには」
「うん」
ややたどたどしく、言葉を紡ぎ出すセリアに、パヴォド伯爵は微笑んで先を促す。『ゆっくりでも良いよ。だけど必ず吐きなさい』そう聞こえてくるのは本当に幻聴なのだろうか。
そしてセリアは、何故か伯爵に向けていた顔をゆっくり動かしてユーリを見据えた。
「『最近ぼくに下ったのは、黒髪黒眼、肌は黒くない子どもの捜索と捕獲』だと、そう言っていました」
セリアに向けられていた視線が、今度は流れるようにユーリに突き刺さる。
「……え?」
予想外の事態に目をぱちくりさせるしか出来ないユーリであったが、そう言えば何故か誘拐された時の理由が、そんな条件だったから、という説も出ていた。こうも幾度も耳にするとなると、世界浄化派は本当に『容姿は黒髪黒眼の肌は黒くない子ども』を探しているらしい。それが具体的に誰を指しているのかは不明だが。
「なるほど。つまり、ホセはユーリを探していたと?」
「多分、違うんだと思います。わたしもそう尋ねたら、意味ありげに笑われましたから」
セリアの言葉に、うんうん、と頷きながらパヴォド伯爵はどこか嬉しそうだ。意味ありげに笑って否定も肯定もしなければ、普通は疑惑が残ると思うのだが……何故か逆に、探し人はユーリとは別人なのだろうと確信に足る反応となったらしい。
“多分、もし仮に世界浄化派がユーリを探していたなら、そんな情報は秘匿したままでいるだろうって事じゃねえか?
重要人物だったら知らせないまま手薄にしとくに越した事はねえし、誤認させて目眩ましになればっつーか……”
なるほど……腹の読み合いは面倒です、主。腹の減り具合を読むのは簡単なのに。
探される理由は自分には無いと思われるのだが、どうしてこうも人の容姿を利用されるのか、何故セリアはそんな結論に至ったのかと空腹と平行して悩んでいたら、ユーリの脳裏にご主人様からのテレパシーが届いた。彼女の腹減った返しに対する返答は無かったが。
と、そこでゴンサレスがおもむろに口を挟む。
「閣下。それについては私に心当たりがございます」
「おや、そうなのかい?」
「はい。恐らく、自己本位なあれの事かと」
「……言われてみれば、彼は元々はそうだったね。なるほど、もしや世界浄化派の目を誤魔化す為に、わざわざ変えたのかな」
「そもそもは、単なる自己満足の表明であると思われますが」
パヴォド伯爵とゴンサレスは、ユーリには全く内容を理解も推察も出来ない会話を繰り広げる。室内を見回してみても、誰しもが頭上にハテナマークを浮かべているような、そんなどことなくホケッとした空気が漂っている。……いや、ただ1人だけ、いつもと全く変わりがない人物がいた。
「ディオン、難しいお話はまだ続きますの?
わたくしはユーリちゃんに、早く可愛いお洋服を着せてあげたいわ」
執務室内にどんなきな臭い情報が飛び交おうとも、レディ・フィデリアはおっとしとした所作でティーカップを傾け、無闇に口を挟まず表情一つ変えずにいた。そんな彼女もついに痺れを切らしたらしい。
話し合っていた情報について、同席していたレディ・フィデリアは何も理解していないのか、それとも実は全て理解した上でこれ以上の議論は推測にしかならず不要と判断したのか、彼女の胸の内は全く分からない。
どうでも良いが、何故ユーリを着替えさせる事はレディ・フィデリアの中で確定事項になっているのだろう。今着用している主のお下がり服だって、仕立ては良く使用人の着衣として失礼ではないはずなのに。
「そうだね、フィー。では……」
「お待ち下さい、父上、母上」
何はともあれ、妻の閉会を求める言葉に同意を示したパヴォド伯爵に、慌てた様子でグラが割り込んだ。
またしても朝食が遠のく。
「父上と母上、そして今ここに集まっている皆に聞いて頂きたい事が」
「どうしたんだいグラ、そんなに改まって」
発言を遮られた事に不快そうな表情一つ浮かべず、むしろこの息子は何を言い出すつもりだろうかと、伯爵は興味を示した。
「かねてより、父上からも心を定めよとお言葉を賜っておりましたが……私は決意致しました」
室内を順繰りに見渡すグラを眺めていたら、何故だろう。何か、嫌な予感がユーリの脳裏を掠めるのは。
「私は、そこの先ほどからテーブルの上の朝食から目が離せない様子のユーリを、妻に迎え入れます。父上、母上、ご承認下さい」
ユーリが朝食を求めているのはまったき真実ではあるが、他に言いようはないのだろうかと思えるグラの宣言に、室内は一瞬静まり返り……次の瞬間、一気に騒がしくなった。