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誰が何と言おうと、これは恋だ。
依存と執着と恋着は、切り離して考える事が難しい。どこからどこまでが、感情に授ける名前が変化するのか。
けれどもシャルが恋しいと、自分の事も『一番の女の子』だと思って欲しいと考えるユーリにとっては、これはただ、単純明快な言葉で表される。
だが、ここで大きな問題が立ちはだかる。
……はたして、この天狼さんの中に『恋愛感情』なるものは存在するのだろうか?
子孫繁栄の為の発情周期のみが存在し、情愛の類は全く抱けない生き物だとしたら、種族の違いにより子など望めなさそうなシャルとの恋愛とは、いったい何をどうすれば良いのだろう。
当の本人は彼女の悩みになど全く気がつかず、子ネコ姿のユーリを腕に抱いたままホールの窓枠を軽々と飛び越え、芝生の上に音もなく降り立つ。窓枠と地面の間にはそれなりの高さがあったのだが、流石は機敏なこの同僚は人の姿をしていても動きに無駄が無い。
「この時間でも花の匂いがしてきますねえ、ユーリさん」
そ、そうですねシャルさん。
とにかく地面は花で埋め尽くしてやるぜという、主人の意気込みが聞こえてきそうな森の家の、多種多様と言えば聞こえは良いが有り体に言って雑多な花壇や、この館の客人の訪れない裏庭のひっそりとした雰囲気とは違って、パヴォド伯爵邸の前庭に設計された花壇は贅を凝らされ、また見る者の目を楽しませる事を目的に整えられた場所だった。
昼間に足を踏み入れれば、さぞかし色鮮やかな色彩と香しい芳香に出迎えられる事だろう。
バラの蔦が這うアーチや、シンメトリーに形作られた花壇、それらをのんびりと散歩すると、シャルは生け垣の迷路へと向かった。曲がり角や別れ道を躊躇なく突き進み、奥地にある噴水へと歩み寄ると、縁に腰を下ろして腕に抱いていたユーリを膝の上に乗せた。
シャルさん、よくこんな場所知ってましたね。
「わたしはこの館で何年も過ごしましたからね。
伯爵閣下のご領地のお城よりも、あの森の家よりも、ここで過ごした時間の方が長いです」
地平線へと向かい白々と薄れゆく月を眺めながら、シャルはポツリと零した。
「話、続きでしたよね」
そして、膝の上のユーリを見下ろして彼女の頭をぞんざいに撫で、突然そんな接ぎ穂を振ってきた。
続きとは何だっただろうかと、ぐりっぐりと乱暴に揺すられまくる頭で頑張って思い出してみる。グラのぶっ飛んだ提案のせいで、シャルと何をどこまで話していたのだったか咄嗟に思い出せない。
「ホセさんの事ですよ」
ああ。あの人が何をやりたかったのか、どんな情報を漏らしたのか、でしたよね。
……あ。
ユーリは不意に、ホセが意味深にグラやセリアに何かを見せ付けていたのを思い出した。それを目撃したグラの反応から、何らかの魔法の品だったと思われるのだが、かの若君様のプロポーズ事件のせいで、肝心な事を聞きそびれてしまった。
ホセが口封じされる直前まで、グラは彼から何か情報を引き出そうとしていたであろうに、あの方に尋ねるタイミングを完全に逸してしまっていた事に、ユーリはようやく思い至ったのである。
……腐っても、パヴォド伯爵閣下のご子息ですね、ぐらぐら様……!
相手の意表を突く戦術で煙に巻き、情報を巧みに隠蔽なさるとは!
「グラシアノ様に、そんなおつもりは全く無かったと思いますがね。ただ単に、あなたがマヌケなだけでしょうに。
夜が明けたら伯爵閣下からのお召しもあるでしょうから、その時に知りたい事をお尋ねになればよろしい」
うー、それは益々、現場に居た人間として報告出来る程度に状況を纏めなくては。
頭を抱えて唸るユーリを後目に、シャルは片手を噴水に差し入れて水面を揺らし、さざ波を生み出しては水音を楽しんでいる。
ユーリはそんな、思いっきり息抜き中な同僚を見上げた。
ねえシャルさん、ずいぶん前に、ホセさんって森の家に来ましたよね。いったい何を話してらしたんです?
ユーリの疑問に、シャルは噴水から手を引っ込めて子ネコに向き直った。
「先ほども説明しましたが、彼とわたしは旧知の間柄でしたから。
近況を語らったのと……アルバレス様の理不尽なご叱責にたいする、事情説明ですね。
クォンは主人に魂を捧げるべきだ云々だなんて、一般の方の耳目には奇異に映りますから」
やっぱり、シャルさんがご自分で明かしていらっしゃったのですか。
「しかもその後ですね、わたしはマスターに用を言い付けられまして、席を外しました」
はあ、確かそうでしたね。
あの応接間に、ホセさんは姿を見せていませんでしたし。アティリオさんを見送った時も……御者台には戻っていませんでしたよね。
「どうやらその隙に、ホセさんは地下室からわたしの秘蔵のコレクションを持ち出していたようで。
誘眠香で獲物を惑わせるあの魔物を狩るのは、難儀したのですがねえ」
……元凶はシャルさんですかっ!
危険物の取り扱いには、いくら気を遣っても足りないくらいですよ。それをみすみす……
「そう仰られても、あの家には本来、家人以外の出入りは不可能なのですよ?
そもそも何年も前から顔見知りの相手が敵国のスパイだなんて、思ってもいませんでしたし。
そんな素振りを見せても……ああ」
多少はバツが悪そうに眉をしかめて弁解しつつ、シャルは何かを思い出したように、ふと言葉を途切れさせた。
「そう言えばホセさんは、森や林といった自然がお好きでしたね。こちらに勤め始める前は、ザナダシアにいたのだとすれば……あちらの土地は、山岳に挟まれた岩や瓦礫、砂ばかりの砂漠地帯ですから」
ふ~ん、ザナダシアは山脈の窪地みたいな場所なんですか。
「ええ。ねえユーリさん。わたしは昔から、不思議に思っていたんです。隣り合った国なのに、どうしてあちらは砂漠で、こちらは緑豊かなのでしょう?」
シャルの素朴な疑問に、こちらの世界の気象や地理に疎いユーリは狼狽えた。
え、突然そんな事を言われましても。
えーと、多分、レデュハベス山脈から吹き下ろしてくる圧縮された乾燥した熱気で気温が上昇してるんですね。で、レデュハベスはめちゃくちゃ標高が高いので、恐らく海からの湿った空気を遮ってもいて……
「……すみません、ユーリさん。懸命に説明して頂いているのに、わたしにはよく分かりません」
多分、フェーン現象かなあ? ザナダシアと違って、バーデュロイは西南北は高い山が無さげで、そちらの海から流れ込んできた湿った空気は、レデュハベスにぶつかってそのままバーデュロイに雨となって降り注ぎそう……と予想したユーリによる推測に、シャルは途中で申し訳なさそうに説明を遮った。そう言えば、「みゃーみゃー」と語るユーリは頭の中では日本語で考えていたので、こちらの世界では適切な意味に要約出来ない単語でも含まれていたかもしれない。
えー、つまり、あのレデュハベスが雨雲をバーデュロイに押し留めたり他の国へと大回り移動させて、ザナダシアには水気がちっとも流れていかないんじゃないですかね?
「じゃあ、砂漠化を憂う人がそれを知ったら、邪魔なレデュハベス山を切り崩そうとしそうですね。ホセさんは、森が欲しかったようですし」
シャルは冗談めかした口調でそんな事をのたまい、ユーリを膝の上から両手で抱き上げた。
いやいや、あんなデカい山をいったいどうやって切り崩すんですか。
そもそもバーデュロイだけでなく、ザナダシア含むレデュハベス山脈周辺国への被害も多……
――どーも、転送指定ポイントが狂ったみたいで、こ~んな森のど真ん中に放り出されてな。
岩や地中に転送されなかっただけ、マシだけど。
――ジェッセニアのキーラは『べらぼうに強い』のよ。意識さえはっきりしていれば、千人の軍隊が来ようが欠伸一つで捻り潰せるわ。
ミチェルとベアトリス、かつて彼らが何気なく呟いた言葉が、不意にユーリの脳裏を過ぎった。
何かを調べる為に、仕事の合間を縫った転移魔術を使っていたミチェル。ジェッセニアのキーラである彼は、ある意味、この世界で最も潜在能力の高い魔法使いである。
いくらなんでも、彼とて雲の高ささえ突き抜ける巨大な山脈を、丸ごと転移させられるとは思えない。思えないが……僅かづつ、一部分のみを削っていく事ならば可能だったりするのだろうか。
あははは、いくらなんでも、そんな途方も無い大事業を、ザナダシアが企んでいるだなんてそんな。あり得ませんよね。
「ですよね。
そう言えば、あの馬車にはセリアさんも同乗していたじゃありませんか。彼女が何か聞いていませんかね」
セリアさんが……子ネコ姿に変身していた事が見事にバレましたけど、次に彼女と会った時、私どう接すれば良いんでしょう?
「堂々としていれば良いんじゃありませんか?
わたしの場合は面倒だったからですが、ユーリさんやマスターが黙っていたのには、それなりに理由があるのでしょう?」
それなりの理由は、もちろんあった。隠していたのは、無論カルロスの想い人たるエストに、カルロスのそば近くで暮らす少女がいて、何らかの関係があるのではないかといった余計な心配をさせない為である。そう、そのつもりであったのだが。
まさか、子ネコとして紹介されたユーリには、同時に人間の女性の姿をもっていると既にエストが承知していただなんて。今まで必死に隠していた苦労は、全て無意味なものだったのだろうか。
シャルが何気ない仕草でユーリを両腕で抱き締める。今は子ネコの姿だから、そっと抱えられているだけに過ぎないのに。シャルのそばに居るだけで、ユーリは何だか泣きたくなってきた。
“シャル、ユーリ、お前らどこに居るんだ?”
だが、いつもながら前触れもなく主人からのテレパシーが割り込んできて、シャルはスルリと腕を解いてユーリを地面へ下ろしてしまう。
“何だ、そんなところに居たのか。丁度良い、今からそっちに行く”
ユーリが答えるより先に、シャルが主人に返事をしたのだろうか。カルロスからはそんなテレパシーが送られてきて、ふっつりと途切れた。
目覚めてから今まで、主人はエストのそばに付きっきりだったはずなのだが、何かあったのだろうか。切羽詰まった焦燥感のようなものは何も感じられず、むしろ安堵感に包まれていたようだったが。
主はどうなされたんでしょうね?
噴水の縁から立ち上がったシャルを見上げ、ユーリがにゃうにゃうと何気なく問い掛けると、同僚は月光の中でもはっきり分かるほど、ホッとした表情でユーリを見下ろしてきた。
「恐らく、エステファニアお嬢様がお目覚めになられたのですよ。ユーリさんよりも、深くお眠りでしたから」
そうだったんですか!?
確かに、あの子ネコに甘いご主人様が、怪我を負ったユーリをシャルに任せて自分は席を外しているなどと、珍しい事もあると思っていたが、エストの身にも未だ油断ならない危機が迫っていたのか。
お待ちしているよりも、出迎えに向かった方がよくはないですか? あなた、生け垣の迷路で迷わない自信はおありなのですか? 絶対に迷います! 入れ違いになりますねぇ……などという、しもべ達が間の抜けた押し問答を繰り広げている最中に、生け垣の迷路の方からザッザッと下生えを軽快に駆ける足音が聞こえてきた。
シャルと揃ってそちらを振り向いたユーリは、闇夜にも色鮮やかな薄い緑色の夜着を纏ったエストが小走りに生け垣を駆け抜けてくる姿を捉えた。
「ユーリちゃん! ああ、良かった無事でしたのね」
「エスト、病み上がりに無茶するな」
駆けてきたそのままの勢いで、エストに飛び付くように抱き上げられたユーリは、いつものごとく「みぃみぃ」と甘えた鳴き声を上げてお嬢様の胸元に擦り寄る。殆ど条件反射になっていた。
エストは嬉しげにユーリの頭を撫でて目を細め、彼女の後ろから追い付いてきたカルロスは、心配そうにこちらを見ている。
主、エストお嬢様の体調って、どこかにまだ悪影響がおありなのですか?
“いや、毒素は全て抜いた。ただ、昏睡状態だったからな……本人は、たくさん眠って今は元気が有り余ってると言って聞かないが”
ほう。因みに、この夜着姿のエストお嬢様のお側に、主は侍っていた訳ですね?
エストに頭を撫でられながら問うと、カルロスはやや狼狽えたようにぎこちなく視線を逸らした。
“が、外出着のままベッドに寝かせてる訳にはいかないだろ?
や、やましい事なんざ、何もねえぞ”
必死に弁解しており、彼の本心だというのは伝わってくるのだが。何故、こうも必死だと逆に後ろめたそうに怪しくなってしまうのだろう。
「マスター、エステファニアお嬢様は至ってお元気なように見えますが」
「そうですの、わたくしはただぐっすり眠っていただけですのに、カルロスったらわたくしに部屋を出てはいけないだなんて言い張って」
「俺だけじゃなくて、セリアも心配してただろう?
毒を盛られたんだから、用心するに越した事はねえ」
ユーリと戯れるエストの顔色をじっくりと観察するように覗き込み、シャルはクルリと主人の方へ振り向いて首を傾げた。それに同調し、エストは頬を可愛らしく膨らませて不満を述べる。
カルロスは溜め息混じりにお嬢様を諫めて、額に手を当てた。
あのう、主。そのセリアさんは今どちらに?
首を伸ばしてカルロスの背後にいくら目を凝らしても、セリアの姿が見えないので、ユーリは恐る恐る問いかけた。彼女とどんな顔で会えば良いのか。
不意打ちで早くも再びお目にかかれたエストは、あまりにも今までと何も態度が変わらないので、余計にセリアとの顔合わせが心配になってくる。
“セリアなら、エストが寝室を抜け出した事がバレないよう、隠蔽工作中だ”
「ユーリちゃん、怪我はもう大丈夫?」
心配そうにユーリのお腹の辺りを撫でてくるエストに、ユーリはしっかりと頷き返した。エストはホッとしたように表情を綻ばせる。
「そう、やっぱりカルロスは素晴らしい魔法使いだわ。怪我の治療もお手のものなんですもの」
嬉しげに頬擦りしてくるエストにユーリも答えて「みぃみぃ」と甘えていると、突如としてカルロスが、
「よし、それ採用だシャル!」
と、パチンと指を鳴らしてそのままビシッとしもべわんこへ人差し指を突き付けた。シャルはそんな主人に応えるように、優雅に一礼している。
またぞろ、テレパシーで何らかのやり取りを交わしたのだろうが、経過が分からなくては本当にカルロスの言動は脈絡が無く唐突である。
キョトンと目を見張っているユーリとエストをヨソに、カルロスはいそいそと噴水に歩み寄ると、縁に腰を下ろして片手を水辺へと差し入れた。そして目を閉じて何事かを口の中でブツブツと呟き始める。
幾度か噴水から手を引き抜くたびに、パシャンと小さく音を立てながら地面に向けて彼は水を振り撒く。月夜に照らし出され、水の粒はまるで細かな宝石のように仄かな輝きを放ちながら、軽やかに宙を舞う。
「よし。ユーリ、こっちに来い」
そして、カルロスは伏せていた顔を上げて、微笑みと共に濡れた手を差し伸べてきた。
ユーリは素直にエストの腕の中から降り立つと、主人の足下へと駆け寄った。だが、カルロスはユーリが噴水の縁に飛び移ろうとする前に片手を上げて制止し、
“ユーリ、そこで止まれ。
今からお前に重要任務を与える”
……はあ。
いつもながらの大袈裟なご主人様からの命に、ユーリは首を傾げつつもおとなしくその場で立ち止まり、これから与えられるであろう、重要らしい任務内容に耳をそばだてた。
そしてカルロスは噴水の縁に腰掛けたままふんぞり返り、濡れた指先をユーリへと向け、おもむろに命じる。
“歌え”
「界に満ちたる大いなる力の源よ、たゆたいさすらうものよ。我が下へ集いてかの者の水鏡を具現せよ。
我が風は、汝の隠秘せし内なる深淵に吹き渡る」
カルロスはユーリに端的に命令を下すと、どこかで聞いた覚えのある呪文をすらすらと紡ぎ出す。ユーリの足下から吹き上げられた強風に、今回は踏ん張って転ぶ事なくしっかりと耐え抜いた。
水を使って描く魔法陣、そしてこの呪文と歌えと言う言葉。ユーリは故郷でかつてよく耳にしていた記憶に、意識的に集中する。
次々と溢れては蘇ってくる、旋律たち。
「カルロス、今の魔法は……?」
不思議そうにカルロスの傍らへと一歩足を踏み出したエストは、どこからともなく響いてくる調べに双眸を瞬かせた。
こちらの世界には有り得ない、電気機器の楽器によって生み出される音色。エレキギター、キーボード、エレキベース。そしてドラムに様々な管弦楽器。
リズミカルに刻まれるポップスは、疾走感と爽快感をもって聴く者の耳に飛び込んでくる。
カルロスは噴水の縁から立ち上がると、エストの手を取った。
「これはユーリの世界の音楽だそうだ」
「こんな音色、わたくし初めて聴きますわ。不思議ね、はしたない事だけれど、何だか身体が自然とリズムをとってしまって」
ロックやポップスといった音楽は、耳慣れない者には喧しいとかうるさいといった不快感を与える事もあるのだが、幸いにしてエストには楽しんで頂けているようである。
「エスト、本当に自分は元気だって言い張るなら……踊るか?」
「でも、わたくしはこの音楽に相応しいステップを存じませんわよ?」
「そんなもん、自分達の好きなように音に合わせて適当で良いんだよ。ここはお上品な舞踏会なんかじゃねえんだから」
カルロスはエストの手を握って、楽しげに少女と踊る。定まったステップも何も無い、好きなように身体を揺すって笑いあうダンスに、戸惑った表情を浮かべていたエストも次第に楽しげに笑いながら、カルロスを振り回し始めた。
ユーリは前奏の辺りをリピートして思い浮かべていたのだが、何だか楽しげな2人の姿に歌い出しの部分まで進めてみる。
母が好きだったこの歌を。
《あれはまだ、私がほんの小さな子どもの頃よ。
駆け上った梯子から夜空を見上げて、屋根によじ登ったの。
無数に星は輝いていて、手を伸ばせば届くような気がしたわ。
空に浮かんでいるつもりでクルクル回ってた》
歌詞を日本語からだいたいの意訳で大陸共通語に直しているので、意味が通じやすい歌詞になっているかは定かではない。
だが、エストもカルロスも楽しげな表情は変わらない。
じっと音楽に集中しているユーリを、いつの間にか傍らに寄ってきたシャルがヒョイと抱き上げてきた。ユーリの集中が途切れたら、主人の楽しみに水を差すというのに、この同僚も無茶をする。
《屋根から滑り落ちそうになった私の手を掴んで助けてくれたあなたは、とても怒った顔をして「危ない!」って叱りつけてきたわね。
それから私を抱きしめて、二人で屋根の上に座り込んじゃって。
今だから正直に白状するわ。私はその時、あなたにドキドキしていたの。
あなたが私を抱きしめてくれる温もりも、私だけを真剣に見つめる眼差しも、全てにときめいていたのよ》
まあユーリが選択した音楽は恋歌な訳だが、恋人未満両想いカップルに向けて歌う分には特に問題あるまい。
このバーデュロイでは、過激で下品だとされそうな歌詞は含まれていない楽曲であるし。
《その時からもう知ってたわ。あなたが私を女の子として見てくれていない事なんか。
でもね、今の私はもう子どもじゃないの。だってあなたはもう、私から目が離せないでしょう?
私はあなただけの甘い蜂蜜になるの。
ねえ、あなたが先に私を捕まえたのよ。もう逃げられないんだから》
夜は静かにゆっくりと明けてきており、白々と昇ってくる朝日は生け垣の迷路の中心で踊るカルロスとエストの姿を徐々に照らし出してゆく。
多くの人々は寝静まっている、夜の闇の中で人目を忍び触れ合っていた彼らの指先は、どちらからともなくスルリと解けた。
《あなたに見つめられるだけで、ねえ、私はあの星空に浮かんでるみたい。
私はあなたの為の甘い蜂蜜になるの。
虜にしてあげるわ。だから抱きしめて、逃がさないでね》
身体を動かしていたせいか、他の理由の為か、彼らの頬はやや上気して、無言のままお互いを見つめる眼差しはどこか切なげで。
夜の夢の時間は、いつだって短い。