深夜二時の足音
音が聞こえるのは、第二グラウンド横の外周路。
消灯後、決まって午前二時頃。
「タッ、タッ、タッ……」
誰かが一定のペースで走っている。
窓から見ても、人影はない。
だが音だけは、毎晩同じ速度で校舎脇を通り過ぎる。
しかも、雨の日は聞こえない。
◆
私立阿波山高校の七不思議に、この深夜の足音があった。
五月半ばにあるマラソン大会の一ヶ月前、つまり四月の半ばから、マラソン大会の前日まで謎の足音が聞こえてくる。
不思議なことにスマホで録画や録音してもその足音は録ることができず、阿波山高校の寮生の中でしか共有されない現象だった。
「陸上部の幽霊」
「昔のマラソン大会で倒れた先輩」
「受験失敗して走り続けてる卒業生」
高木蒼がその話を初めて笑い飛ばしたのは、四月の終わりだった。
「幽霊が時間割どおりに走るわけないだろ」
同室の中村悠人は、それでも布団の中で耳を澄ませていた。消灯から二時間、寮の廊下はとうに静まり返り、窓の外では虫の声だけが規則正しく続いている。
「……来た」
中村が呟いた瞬間、蒼にも聞こえた。
「タッ、タッ、タッ……」
軽く、乾いた足音。競技用シューズが土を蹴る音に近い。速度は一定で、まるでメトロノームのようだった。窓に駆け寄って外を見る。第二グラウンドの外周路には、街灯の薄明かりが等間隔に落ちているだけで、人の姿はどこにもない。
「見えないのに、音だけ通り過ぎてく」
中村の声が震えていた。蒼は黙って耳だけを澄ませ続けた。足音は校舎の北端まで進み、そこでふっと消える。いつも同じ場所で、同じように。
翌朝、寮の食堂ではもうその話で持ちきりだった。一年生の誰かが「陸上部で走行中に倒れた先輩の霊だ」と言い出し、別の生徒は「大学受験に失敗して発狂した卒業生が、今も走り続けている」と付け加えた。話は膨らむたびに具体性を失い、ただの怪談として消費されていく。
蒼がその中で唯一気になったのは、噂とは関係のない一点だった。
――雨の日は、足音がしない。
これまでの二週間、雨が降った夜が三回あった。そのどの夜も、誰ひとり足音を聞いていない。晴れでも曇りでも、風が強くても弱くても関係なく、雨さえ降らなければ必ず二時に足音は始まる。
「気のせいじゃなくて、条件がある。何かの理由があるはずだ」
蒼がそう言うと、中村は少し困った顔をした。
「幽霊に理由なんて求めても仕方なくないか」
「求めないと、朝まで眠れない」
これは半分本音だった。蒼は元々、陸上部の短距離選手だった。中学のときに膝を痛めてから走るのをやめていたが、あの足音のリズムを聞くたびに、自分の中の何かが反応してしまう。あれは素人の足音じゃない。呼吸の間隔まで想像できるような、走り慣れた者の足取りだ。
◆
寮監の沢井は、五十代半ばの理科教師だった。眼鏡の奥の目はいつも穏やかだが、生徒がふざけて怪談を持ち出すと、その日だけは表情が固くなる。
蒼は放課後、職員室の隣にある寮監室を訪ねた。
「先生、昔も聞いたことがあるって、本当ですか」
沢井は湯呑みを置く手を止め、しばらく黙っていた。それから、静かに頷いた。
「私がここに赴任した年にも、同じ噂があった。もう三十年近く前の話だ」
「三十年前にも、同じ足音が?」
「らしい。だが当時の私は、噂話として片付けていた。今と同じようにね」
沢井はそれ以上語ろうとしなかった。話を切り上げるように、資料の整理を始める。蒼は退室しながら、教師の指先がわずかに震えていたのを見逃さなかった。
その夜から、蒼は独自に調べ始めた。図書室の郷土資料コーナーには、学校創立以来の記念誌や卒業アルバムが年代順に並んでいる。三十年前というと、平成の初め頃だ。埃をかぶった卒業アルバムを何冊か引っ張り出し、マラソン大会の記事を探した。
見つけたのは、思いのほかあっさりとしたものだった。
『第○回校内マラソン大会 悪天候の中、無事開催』
短い記事の下に、雨天のグラウンドを走る生徒たちの白黒写真が載っている。記事の文面は簡潔で、大会自体は成功裏に終わったと書かれているだけだった。だが、蒼はその年の卒業アルバムの巻末、追悼のページに目が留まった。
『在校中に永眠された生徒に、心より哀悼の意を表します』
名前は望月亮。
写真の中の少年は、細身で、いかにも長距離向きの体型をしていた。学年は当時の三年生。命日の日付は、マラソン大会の記事の翌日だった。
蒼は休みの日に市内の図書館に行き、当時の新聞縮刷版を閲覧した。地方紙の片隅に、小さな記事があった。
『県内男子校でマラソン大会中に生徒死亡』
記事によれば、その年のマラソン大会は当初、悪天候のため中止が検討されていたという。だが前日になって天候が回復すると誤って判断され、大会は強行された。実際にはグラウンド上は蒸し暑く、生徒たちの多くが体調不良を訴えた。その中で一人の生徒、望月亮が、ゴール直前で倒れ、そのまま意識を戻さなかった。急性心不全だった。
――「雨天中止のはずだった大会」
蒼の背筋を冷たいものが走った。
もし、あの足音が望月亮のものだとしたら。彼が命を落としたのは「雨のはずの日に、無理に走らされた」からだ。だとすれば、実際に雨が降る夜には、彼は走らない。皮肉なことに、雨だけが彼にとって「休んでいい理由」になっている。
蒼はもう一度、寮監室に向かった。
◆
「望月亮という生徒を、先生はご存じですか」
沢井の顔から、一瞬で血の気が引いた。湯呑みを持つ手が止まり、次第に震え始める。
「……どこでその名前を」
「新聞と卒業アルバムです。三十年前のマラソン大会で亡くなった生徒ですよね」
長い沈黙があった。沢井は窓の外を見つめ、やがて絞り出すように話し始めた。
「望月は、私が初めて受け持ったクラスの生徒だった」
蒼は言葉を挟まず、続きを待った。
「望月は陸上部の長距離選手だった。前日から体調が優れないからとマラソン大会の欠席を申し出ていたんだが、私は『これくらいで弱音を吐くな』と取り合わなかった」
沢井の声が掠れる。
「私は当時、陸上部の顧問だった」
「……」
「彼はスタートラインに立った。途中のタイムもむしろいつもより良かったんだ。ゴール直前、彼が崩れ落ちるのを見るまで、彼の異常に気づかなかった」
沢井は両手で顔を覆った。
「気づいたときには、もう遅かった。救急車が来るまでの間、私はただ、そばに立ち尽くしていた。彼を止められたのに、止めなかった。それどころか、背中を押した」
蒼は何も言えなかった。ただ、目の前の教師が三十年間、この告白をどこにも吐き出せずにいたことだけが分かった。
「あの足音を、私も何度も聞いた」沢井は続けた。「初めて聞いたのは、翌年の春だった。あのときから分かっていたんだ。あれは望月だと。彼はまだ、あの日のレースを走り続けている」
「先生、それなら……」
「雨の日だけ聞こえないのも分かる。あの日、彼は本当なら走らなくてよかった。雨さえ降っていれば、大会は中止になり、彼は死なずに済んだ。だから雨の夜だけ、彼はようやく休むことができるんだろう」
沢井の声には、諦観と、長年抱え続けた罪の重さが滲んでいた。
「先生はどうして、今まで誰にも……」
「言ってどうなる。私が話したところで、望月は還ってこない。私にできるのは、ただ、聞き続けることだけだった」
◆
その夜は、朝から降り続いていた雨が、夕方過ぎにぴたりと止んだ。
蒼は寝付けないまま、窓の外を見つめていた。雲間から月明かりが漏れ、外周路をぼんやりと照らしている。時計の針が午前二時に近づくにつれ、部屋の空気が張り詰めていくのを感じた。
「タッ、タッ、タッ……」
いつもと同じ、規則正しいリズム。だが今夜は、それだけではなかった。
「タッ、タッ、タッ……タッ、タッ、タッ……」
一拍遅れて、もうひとつの足音が重なっている。最初は木霊かと思ったが、違う。二人分の足音が、わずかにずれたリズムで、並んで走っているのだ。
蒼は息を呑んだ。中村はすでに眠っており、この音に気づいているのは自分だけのようだった。窓に額をつけ、暗い外周路を見つめる。相変わらず人影はない。だが、足音だけは確かに二人分、同じ速度で校舎の北端へと進んでいった。
翌朝、寮内がにわかに騒がしくなった。
寮監の沢井が、朝の点呼に姿を見せなかったのだ。寮監室を訪ねた教頭が、施錠されていない部屋の中に彼を見つけた。机に突っ伏すように座ったまま、静かに息を引き取っていたという。死因は心不全。争った形跡も、苦しんだ様子もなく、まるで長い競走を終えて、ようやく座り込んだかのような姿だった。
葬儀の日、蒼は久しぶりに寮監室の前を通った。灯りのついていない窓が、日中でも妙に暗く見えた。
その夜から、寮監室の明かりは二度と点いていない。
そして、その夜も――
窓の外、足音はまだ続いている。
今夜も二人分だった。




