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きみと夢幻と詩沫

掲載日:2025/10/21

見た夢の内容があまりにも興味深くてそのまま小説に書き出してみて、何処かの文学賞に応募して駄目だったやつです。

 きみの歌声を聴いたのは、その時が初めてだった。事情すらもよく知らずにきみを連れ出して、姿形さえわからない朧な何かから逃げ出して、息を切らした先の廃屋で暖を取っていたその時だ。

 全く、夜はひどく冷え込むというのに、そんなのお構いなしに嗄れを知らないただ凛とした歌声。正直に言うと、歌詞やメロディといった助燃的な情報はほとんどぼくの頭には入ってこなかった。だが、きみの叫びたいことはなんとなく理解できた(ような気がする)。

 しかし何より、ぼくはきみのその姿に釘付けになった。

 華奢だが健康的な肉付き、小さい顔、それを内包するブロンド掛かった髪は後ろで小さく柔く結わえられ、花冠が形成されている。少しジトッとした目とそれを強調する長い睫毛。純白のブラウスの上には紺青のローブを羽織り、さらに可愛く淑やかに着飾っている。胸と括れを控えめに強調している。チェック柄のミニスカートと黒のストッキングはといえば、その脚を強調している。そしてその可憐な色のアネモネの髪飾りはきっと、きみにとってとても大事な物なんだろう。なんとなくそう思える。

 廃屋といえど捨てられたばかりなのか、どうやらそこはひどくは煤けていなかったようで、ぼく達は薪ストーブの前でコーヒーを飲むことにした。水道は通っている。豆は貯蓄されていたものを使った。マグやポットに付いている埃は洗い流せばいい。クッキー缶も見付けた(丁度小腹も空いていた)。

 きみが「わたしがコーヒーを淹れるわ」なんて言うから、ぼくは率先してその役割を担おうとした――、奪おうとした。でもきみが「じゃあ代わりに、あなたはクッキー缶をお願い。わたしの力じゃ多分空かないから」なんて言うから、結局ぼくはきみの意見を可決しないといけなくなった。あるいはきみも、ぼくと同じ感情だったのだろうか。

 乾いたクッキーは口の中の水分を奪っていって(当然だが)、美味しさはあまり感じられなかった。それでも一度コーヒーに浸してみれば、次からは自然とそこに手が伸びた。

 マグを元の角度に戻して両手に収めて、一息吐いた。良い香りだった。大変疚しいが、きみのそんな行動一つ一つにぼくは何故か魅入ってしまう。

 灯りを消して、ぼく達は就寝することにした。充ては無いし、何より疲れているのだ。

 公正な話し合いの結果、きみはソファ、ぼくはチェアで寝ることになった(勿論寝心地の悪い方を勝ち取った)。目を瞑ってから数十秒後、ぼくははたと思い返してきみに名前を訊いた。漢字二文字と平仮名三文字の、どこにでもあるような在り来たりな名前だった。でも、ぼくにはそれが特別愛おしく感じられた。

 ――こんな感情は初めてだった。きみを連れ出そうかと愚考したのも、恐らくその感情が原因だ。一体これはなんなのだろう? 別に性愛の目で見ているわけでもない。でも仮に(本当に仮に)きみが誘ってきたとしたら、ぼくは喜んできみを汚すだろう。

 そんなことを考えているうちに膨らんできたそれをきみに悟られないように必死に抑え付けていると、いつの間にかソファから起き上がっていたきみがちょこんと近付いてきた。そして目を真っ直ぐに据えて、ぼくの耳に吐息が当たるようにして――、

「ねぇ、あなたの名前を教えて?」

 確かに言っていなかった。ぼくが一方的に知的欲求を解消しているだけだった。明日の朝にはきみは何故ギターを爪弾き、何故歌い、そして何故逃げているのか、色々なことを訊こうとしていた自分を責めた。

 で、それで――、あぁそうだ。ぼくの名前だ。でも、あぁ――、どういうことだろう? ぼくはぼくの名前を思い出せないでいた。生まれてから一度も名前に想いを馳せたことがないにせよ、また一度も名前を忘れたことはない。そのはずなのに。

「ぼくの名前は――、」

 焦りで身体が熱く、それとも冷たくなっていく。汗を感じる暇も無い。ただただ酸素を喰らっては育つそれらの運搬を、赤血球に任せるのみだった。

「……。あぁ、そっか。魔法使いは名乗りはしないのよね。そういえば、そうだった」

 助け船だ。でもぼくは、その船員達の話す異国語を知らない。

「マホウツカイ」

「ん、だってあなたって魔法使いさんなんでしょ? 色んな魔法でわたしのことを助けてくれたもの」

 そんなものがこの世界にあってなるものか。でもその存在を、ぼく自身が一番よく知っている。魔法できみを連れ出した感触は、確かにこの手に残っていた。

「確かにぼくは――、ぼく自身は魔法使いなんだと思う。多分、そういう認識で構わない。でも、グリモワールにあるような魔術的な知識があるわけではないし、魔導書なんて代物も持ってはいない。ただ、代わりにと言ってはなんだけれど、上等な小説の一冊や二冊は持っているけれどね」

「ふぅん、それは少し残念。わたしそういうのに興味があったから。でも、小説が好きなのはわたしと同じね。因みに、わたしが好きなのはドストエフスキーとかアガサ・クリスティなんだけれど」

「そうなんだ。ぼくは――、宮沢賢治とかかな」

 そういったぼくの回答をお気に召してくれたのかどうかはわからないが(本当はぼくは色んな作家を広く浅く読み漁っていくタイプの読書家で、特段宮沢賢治が好きなわけではないのだが)、ただ、お互いに共通の趣味を持っているらしかったことに、きみは少し嬉しそうにはにかんだ。

「――『夢』みたいに変容していくこの世界では何が起こるのかわからないから、もしかしたらきみの好きな作家にどこかで会えるかもしれない」

「そうだと少し嬉しい。あぁでも、悪いけれど、今はこの世界の話はあまりしたくないわ。思い出したくないこともあるから。それよりも、あなたは小説の他に何か趣味はないの?」

「特に無い、と言えば嘘になるかな。まぁ、大したものじゃないけれど、以前までは料理をすることが好きで得意だったよ」

 それこそ嘘だった。一人暮らしの大学生としての料理スキルは最低限持ってはいるが、だからといって、それを十分嗜めるほどでもない。むしろ、生きるために仕方なくやっていくうちに身に付いたと言った方が正しいのかもしれない。まぁ好きだという部分は真実だから、楽しいと思えるほどにそれが進化していたのだから本当にそれはそうなのだろう。

「例えば何を作るの?」

 その雰囲気は、小説について語り合っていた時ほどでもない、ということはなかった。

「さっきも言った通り、本当に大したものじゃない。どちらかというと和食が得意なんだ。出汁巻き卵とか、味噌汁とか」

「明日、それを作ってほしいんだけれど、いい?」

 その返答は、ぼくにとってかなり意外だった。いや、それが必然だとするような気がしないわけでもないのだが。どういう表情をすればいいのかだとか、そうした一瞬の逡巡が短い沈黙を作り、それを破ったのはきみだった。

「そういえば、明日はどうするの?」

「あぁ、確かに。どうしようか。何も決めていない」

「――それなら、どこか綺麗な場所に行ってみたいわ」

 確かに、きみをここまで連れ出してきたのはぼくだった。なら、きみの願望の一つや二つは叶えてあげるべきなのだろう。綺麗な場所というのが、『草の上に置きたりける露』だとかと名状できるようなものなら尚更(そういう喩えを用いてみたが、そういえばきみは西洋文学の方が好きらしかったのだった)。

 窓からは薄らと月明かりが漏れ出ていて、ここで初めて微かなレインフォールを確かに感じ取った。ぼくらがコーヒーを味わって、きみが余興程度に(そう言いたくはないが、しかしその表現が相応しいとも取れるような雰囲気をきみは醸し出していた)弾いたギターと歌声が廃屋中に木霊して、雨音に気付く暇が無かったのだろう。次第にまた喉も渇いてきたが、しかし何故だか起き上がる気にはなれなかった(気力はあったはずだが)。

 そういった感情の遍歴を以てして、ぼくはこの先の結論を導き出した。

「そろそろ寝よう。疲れているはずだ――、ぼくも、きみも」

「確かにそうね。……。…………。――じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ……」

 それからの記憶は無い。微睡んで微睡んで、やがてぼくは暁光が柔く差し込むベッドの上で目を覚ました。


          ***


 この頃、ひどく美しい夢を繰り返し何度も見る。それらは決まって全く知らない少女と関わる夢で、いつも最後には微睡みの中のベッドに横たわることで現実世界の目を覚ます。感覚的には夜の淵を彷徨っているようなものだが、そのほかに目立ってわからない部分はといえば、夢と現実を鞍替えする度に一瞬聞こえる、この叙情的な世界にはあまりにも似合わない別文明的なサステインの機械音が存在している(あくまで目立っているというだけで、大して気にはならない)。

 ひどく美しい夢、とは言うが、だからといってこの世界が美しくないわけではなく、あくまで相対的な問題だ。夢の中で少女が言及していた『魔法』についても、あの夢の中だけの存在ではない。その証拠に、ぼくは毎日の人間的な営みにおいて魔法を応用していて、今日だって魔法を使った痛みで無理矢理ベッドからぼくの身体を起こした。

 そうしてぼくはいつも通りに洗滌霧で顔と歯を洗い、パンの種に水を落とし、機械皿のスープを平らげ、朝のルーティンを済ませる。そして、それらが終わる頃に壁を擦り抜けてやって来る配達員から日刊のニュース新聞を貰った。

「この新聞曰く、今日の天気は午後からは硫酸雨でこれが丸二日は続くって話らしいですね。しばらくは外出は控えておくのが良い」

 だとか配達員と世間話でもしている間、ぼくは頭の中でイメージした通りに棚にあるコーヒー豆、マグ、ポットを取り出し、水道のコックを拈り、インスタントコーヒーを淹れた。配達員が去った後、もう一度椅子に座るとそこには、確かにぼくの手で淹れた覚えの無いコーヒーマグが湯気を発していた。

 新聞とコーヒーにその大半を割いているフリをしながら、認知リソースのほとんどを使い、ぼくは今朝見た夢について考えた。その中でぼくは、何度も会ったが一度も会ったことのない『きみ』という少女を連れて何かから逃げていた。――これが予知夢なら近くに、あるいは今日中にでも、ぼくはきみと会えるかもしれない。必然的にぼくは、それを嬉しく思わずにはいられなかった。

 そうしてぼくは身支度を済ませ、ボディバッグを背中に掛けて外に出た。午後からは硫酸雨とはいえ、そうした方が今日の夢にエンカウントしやすいと思った。

 そして、この世界の軸は叙情的であることだ。故に、例えばインターネット通信なんかは既に排斥され、金融の概念は崩れ去った。新たな秩序が構築され、外出時の鞄の中身はハンカチーフや保湿乳液、デジタルカメラや携帯オーディオレコーダ、あとは読みかけの小説なんか程度が普遍となった。人の多い集落の周辺には沢山の機械のアンティークが広がり、平和も平和な『夢』だと名状できた。

 街道へと入った。すると、それに呼応するかのように、ぼくの家の雰囲気が変化していった。まるで夢が頭の中に飽和していくのが原因で、あらゆる情報が次々と移り変わっていくみたいに。

 自由に枝を伸ばす街路樹群(確かこの前までは、そこには生い茂っていなかったはずだ)に目をやりながら歩いていくうちに、ぼくは目的地である『塔』に辿り着いた。扉を二度叩いて中へと入ると、そこでは数十人が食料品を鞄へ詰め込んだり、衣服の品を定めたり、小説のあらすじを熱心に読み込んだりしていた(恐らく硫酸雨のために、その暇を潰したり食料を大量に保存しておいたりするためだろう)。

 ぼくはいつも通りにパンの種とコーヒー豆を手に取り、空を掴むような動作でそれらを圧縮した。他には牛の卵、深海クラゲのハム、ウィルス菌のチーズ、トマトやレタスの翅なんかも圧縮した。魚肉ジュースも一瞬目に付いたが、結局それは圧縮しなかった。

 食料品の商業区域から出て、次にぼくは小さな図書ブースへと入った。椅子を引いて鞄から読みかけの小説を手に取り、付箋を頼りにページを開く。同時に携帯オーディオレコーダも耳に掛ける。相変わらずジャズ音楽は、ぼくの気持ちを平坦に落ち着かせてくれた。

 数十分読み進めて、ある一節に目が留まった。意味はわからなかったが(あるいは本当に意味なんて無いのかもしれない)、存在そのものが流麗な文章に、ぼくはどことなく魅了された。そんな時間がぼくにとっては堪らなく――、名状し難い感情を育てる。夢を現実だと捉えたり、その中できみを助けたり、コーヒーを淹れたり、両手の枷を圧縮したり等よりは余程良い。

「隣、失礼してもいいかな?」

 そうして、紙で指腹に皺が出来かけてきた頃のことだ。

「どうぞ……」

 正しい齢の取り方をしてきたように見える老紳士だ。きっとそれなりの山と谷を歩いてきたのだろう。しかし結局、どんな人生を歩もうと、最終的には空想へと回帰してくるらしかった。

「ぼくはもう行きます」

 努めてもどこか居心地が悪かった。

「――少し、お話してもいいかな」

 魔法なんかよりは幾分興味が湧く。

「私は昔から大の付く本好きでね、世界からどこかズレたような感覚が気持ち良いんだ。

私の睨んだ通りであれば、いいね。君は私と同じ道を辿ることになるよ。似ているんだ」

「道?」

「文字の響き通りだ。君、誰かに随分のお待たせをさせたことはあるかい? 私はあるのだが――、君、急いでいたね。少し長くなるけど、いいかな」

「構いません」

 腕時計の短針はXIを指していた。

「私はね、家族を待たせているんだ。妻とその子供が三人。妻子は東京ではなくロンドンに住んでいる。妻がそこの出身だからね。で、こんな貧相なナリで済まないが――、見てくれ通り私は日本人だ。お互い、会社を婚約前から運営していて互いの地へ行けず、結果、私は家族をロンドンで待たせているというわけなんだ。月に二、三回は会いに行くがね。

 あの日も会いに行こうとしていたよ。その日、世界の変容が私のフライトを邪魔しなければね。変容によって様々なモノが消えたが――、秩序やビジネスもその例外ではなかったね。それが与える影響はどうだろう? 飛行機は消えた――、なら船は? 全て駄目だった。それらはこの世界にとって叙情的ではないのだろうね」

「それで結局、ご家族には会えたんです?」

 わかりきった質問だったかもしれない。そう思い直すと同時に老紳士の目には何も映らなくなり、机の上の中折れ帽を親指の腹で頻りに擦り始めた。

「私は不安だよ、未来を読む力を持っているというのに。件の変容以前から未来の解読ができていたならば、私は仕事なんてすぐに捨て去ってあの子らを抱き締めに行くだろう」

 声になっていない叫びだった。その静けさが、悲愴さをより飽和させていく。肺が、骨が二酸化炭素で満たされていく。

「あの、貴方はこれからどうするんですか?」

「妻子を探すことは死ぬまで止めないだろうね。これはもう、本能に絡んだ宿命のようなものなんだ。ただ、週に一度、私は近く、あるいは遠くのバーにウィスキーを飲みに行く。そこでよく飲んでいるのがラガヴーリンの十六年ものなんだが、オンザロックで、その氷は荒削り。何をするでもなく、ただそれを飲む。そしてタンブラーグラスの縁を撫でる。その間だけは何をしなくても済むし、何を感じなくても済む」

 そろそろ二酸化炭素を排出し終え、新たに酸素を吸い込む頃のようだった。老紳士の目にはわずかに輝きがに戻り、恐らく肺も安定した。

 やはり、結局は飽和に行き着くのだろう。ウィスキーや、小説もそういう概念に括ってしまって構わないはずだ。だからこそ、この世界からサンクチュアリ的要素が排除されなくてよかったと思う。そうしてやはりそろそろ、ぼくは離席をすることにした。

 塔から出ると、風が靡いてぼくの頭を横殴りにした(勿論柔かった)。だからといって、別にそこから季節を類推できるようなものでもない。この暖かさを理由に春や夏としても、それが秋や冬だったりすることもあるのだ。だが、そんなことはどうでもいい。何がどうあろうが、この世界はこの世界を叙情たらしめる。

 ふと思い、携帯オーディオレコーダを耳に掛けた。どうしようもなく聴きたくなったからだ。そうしてただ目の前の道を歩いていく。道といっても色々あって、今のぼくの視界を満たしているのは適度に雑草が生い茂る、嫌な気のしない湿原に架かる木板の足場だった。雑音を息吹かせる羽虫も飛んでいないし、この場所こそが変容の産物と言ってもいいだろう。雑草の咲かせる花の彩りは淡く、そこに連なるひどく小綺麗な音と光。そして、それ以上は思わない。ぼくの通俗的な語彙では、必ずそこにズレが生じてしまうからだ。

 しばらく歩いて、少し拓けた場所に辿り着いた。辺りには少し甘ったるい空気の匂い、それとそこには一つの白いベンチが置かれていた。

 丁度良いと思ってそのベンチに座り込み、ぼくは圧縮したものを解凍する要領で手の平を広げた。するとそこにはパンの種と水の瓶、牛の卵、深海クラゲのハム、ウィルス菌のチーズ、トマトやレタスの翅が現れ、魔法によってそれらは一つに纏まり、やがて普遍的な二切れのサンドウィッチへとなった。一切れ手に取り、もう一切れは鞄から取り出したハンカチーフの上にそっと置いた(パンプレート、あるいはランチョンマットの代わりとして)。

 そうして早速一口囓り、それが美味しいことを確認してからもう一口、二口囓り、そしてそれを水の瓶で流し込む。古代ローマの宮殿にあるような豪奢な料理品よりも(当たり前だが)、こういったどこまでも普遍的で、それでいて叙情的な食べ物の方がぼくの口には合った。雰囲気的な問題ではあるのだが。

 ハムやチーズや野菜がぼくに足りない何らかの栄養素を補ってくれていることを自覚しながら、ぼくはあの老紳士の発言について考えた。『君は私と同じ道を辿ることになる』とはどういうことなのか。順当に読み解けば、ぼくも大事な誰かを失ってしまう、ということになるのだろうが、生憎とぼくにそういった心当たりのある人物はいなかった。大事な人物、とはまたベクトルが違うが、強いて挙げるとするならば、夢の中でいつも出会う例の少女がそれに該当するのかもしれないが、やはりそれも違うとしか思えない。

 そして『誰かに随分のお待たせをさせたこと』というのも気になるし、これも考えようによっては夢の中の少女に該当するのかもしれない。でもやはり、それと夢とに繋がりがあるようにはどうしても思えなかった。まぁそう考えるのなら、この外出の目的を少女と出会うこととしているぼくがおかしいのだけれど。あるいはもしかしたら、この世界こそが夢なのかもしれない。

「寂しい」

 一切れ目を食べ終えてそう吐き出して、そのまま上を向いて空を眺めた。勿論何の変哲も無いただの青だが、それももうすぐ硫酸雨で濁った色に変わってしまう。どこまでも叙情的であることを望む世界が何故そんな概念の存在を許してしまったのかぼくにはわからないが、少なくとも、空の色が切り替わるまでは一瞬だということくらいは認知している。それこそ夢の飽和による変容みたいだが、しかしあくまでもこれにはロジカルな説明がついた。

 一度深呼吸して、少女についてのメランコリーとともに二切れ目のサンドウィッチを頬張って、瓶の中の水を全て一気に飲み込んだ(魚肉ジュースも圧縮して持ってくるんだったと後悔しながら)。そうしてぼくはこの白いベンチから立ち上がって、百本は咲いているであろうアネモネのうち何本かを踏み荒らして再び歩くことにした。

 まだ手に持っている食べかけのサンドウィッチをふと見て、少しぼくの胃が痛くなっていることに気が付いた。きっと食べ物を一気に食べた直後に動いたからだ。そのほかに、恐らくあの濃厚チーズも暴れてぼくの胃痛を助長している。こういう倦怠感を味わうのも悪くないのかもしれなかった。

 このままこの瀟洒な湿地の道を歩き続けて、ぼくは胃痛のことも忘れてそのサンドウィッチを食べていった。木板の架かっていない地面では、歩く度にその細胞と細胞の間から不要な老廃物を排出せんと、慢性的に水分を表面に追い出していた。

 そうしてしばらく歩くといよいよ濁った色のした硫酸雨が目に見える程度にぽつぽつと降り出してきて、やっとというような感じでぼくもそのサンドウィッチを食べ終えて、ふと空を眺めた。やはりさっきまでの青色は失われていたが、別にそれ自体は寂しくはなかった。なんせ、硫酸雨はこの世界が設計したものなのだ。本降りになる頃にはそれは全てを消化せんとするが、それもまた叙情的であるのだろう。如何せんそれだけはぼくには理解できないのだが。

 ふとまた、ぼくの胃が痛くなってきた。今度は締め付けられるかのような感じだ。このままぼくは少女に会うこともできないのだろうかだとか、そんな今更わかりきったようなことを考えながら、ぼくは下を向いた。だが、耳に掛かった携帯オーディオレコーダから流れるジャズ音楽(夢の中の少女の声にそっくりなアーティストが歌っているものだ)を注意深く耳に流して、なんとかぼくはもう一度前を向いた。その後、予め圧縮して持ってきていたビニール傘を花束みたいにして開いて、ひどく開放的な気分で再び歩き出した。

 ――もしもこれを一枚の絵画だとするのならば、それは確かにフロッタージュされた、しかしとても精巧に描き上げられた、この上なく叙情的な世界なのだろう。

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