◆後編――“恋縫い”が終わるとき、針は歌になる
白床が砕け散った瞬間、恋塚愛咲は逆さに落ちながらも針を離さなかった。血糸はルシーレ・クェアの手首を縛り、もう一端で鎖の輪を貫き、宙吊りのアマレー・コーダントへ縫いつけられている。三人を結ぶ真紅の三角は、闇に沈む奈落で唯一の図形を描いた。
「距離は……ゼロ!」
アマレーの喉から迸る声は、悲鳴でも歓喜でもなく、まるで天地を縫い合わせる太い針音。黒曜の空一面に走る譜線が震え、音符が粉雪のように散るたび、裂け目はかすかに収縮した。
だが、頭上――まだ崩れ残った白床の縁にアマンティア宰相代理が立ち、冷徹な光を放つ術銃を再装填するのが見えた。
「歌を止めよ。世界秩序より恋を選ぶなら、斬り捨てる」
氷の宣告。愛咲の背筋が粟立つ。撃たれれば糸は千切れ、三角形はほどけ、裂け目は開き直る。
「待って!」愛咲は裂帛の気で叫んだ。「彼の声は毒じゃない、縫い目よ! 世界を綴じる最後の糸!」
宰相代理の指がゆっくり引き金に掛かる。きしむ余韻が空間を裂き、銃口が火を噴く寸前――
ルシーレが踊った。
紫の踊り子靴が漆黒の虚空を蹴り、血糸をたわませ、愛咲を支点に一回転。靴底からほとばしる火花が術銃の標準線を眩ませる。「恋こそ秩序を編むリズムよ!」
銃弾――いや、言霊弾――は逸れ、巨大な譜線柱へ当たり派手に爆ぜた。砕けた音符が金属片のように降り注ぎ、愛咲の頬をかすめる。薄い傷口から滲んだ血を、彼女は舌先で啜った。鉄味が熱を呼び戻す。
「私の心臓に、あなたの旋律を縫い留める!」
愛咲は針を引き寄せ、自らの胸元深く突き刺した。血糸は鮮烈な緋に染まり、脈動をうねらせながらアマレーの喉へ吸い込まれていく。
「愛咲――!?」
驚愕で声が裏返る。だが血糸は途切れない。二人の鼓動は拍子を合わせ、やがて完全に同調した。
その瞬間、アマレーの歌は旋律を失い、鼓動そのものを音に変えた。
ドゥン――ドゥン――ドゥン――
鼓動が譜線へ流れ込み、音符を新しい楽譜へ縫い直す。黒い裂け目は心臓の拍動に呼応して萎み、糸で締め付けられるように細くなる。空の暗色が裂け目の縁に吸われ、代わりに黎明を思わせる桃色が滲み始めた。
銃を構え直すアマンティアに、ルシーレがわざと大仰にお辞儀した。
「宰相、世界秩序は完成中。あなたが撃てば“未完成”の烙印がつくわ」
皮肉な舞台挨拶に、青年の眉がわずかに揺れた。
「……ならば証明せよ。恋で門を閉じられることを」
氷解しかけた声。それを合図に、愛咲は最後の一針を振り下ろした。
針穴を通過する糸は、アマレーの全語彙を纏った長い歌句。《面会謝絶》という否定句は、赤い糸で塗り潰され、《合奏許可》の四文字に書き換わる。
――チリ、と乾いた結び目。次の刹那、裂け目がぴたりと閉じた。
真空だった空間に風が戻り、音符の雪が花弁のように舞い降りる。愛咲の胸から針が抜け落ちた。血糸はもはや赤くなく、桜色の絹糸に変わって揺れている。
「成功……?」細く笑う愛咲を、アマレーが抱き止めた。
「君が僕を縫い、僕が君を歌い、彼女が踊って針目を隠した。三拍子でなければ完成しなかったね」
抱きしめられた胸内がキリキリと痛む。この痛みこそ、恋を世界へ刻み込んだ証なのだろう。
高台の縁では、アマンティアが呆然と瑠璃色の空を仰ぎ、やがて意地の悪い笑みを零した。
「恋は薬にも毒にもなる。――だが今日は運よく薬だったようだ」
身を翻し、随行官へ簡潔に命じる。「面会謝絶、解除。かわりに――合奏許可と布告せよ」
夕刻。門都の広場は祭りのようなざわめきに包まれ、蜂蜜とドクダミの匂いが甘く渦巻く。
臨時に設えられた木製ステージで、アマレーが弦を鳴らす。ルシーレは群衆を抜けて円環を描き、愛咲は針をマレット代わりに譜面台へ“音の封蝋”を叩きつける。
――恋は家を燃やさず、世界を縫い直す。
合奏がクライマックスへ達すると、空から光の糸が降り、誰もが自分の胸へ細い縫い目を感じた。未来へ綴じられる小さなステッチ。
曲が終わる。拍手と歓声。
ルシーレが両手を拡げ、微笑む。「意外性、足りたかしら?」
愛咲は針を掲げ、アマレーの鈴をそっと弾いた。半音低かった鈴音は、今や完璧に調律されている。
「距離はゼロで、無限」
「でも今日は、一曲ぶんの間隔を置こう」アマレーが笑い、額にキスを落とす。
頬の熱を夕陽が包み込み、薄紅色の空が三人を柔らかく染めた。
恋文は踊り、歌い、そして縫い残された――永遠の余白を抱いたまま。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
お付き合いくださった皆さまへ、ちょっとしたお知らせです。
Tales にて
『“面会謝絶”だなんて聞いてない! -恋愛感情がインフレ率より高騰して一晩で暴落する件について-』
――を公開しております!
こちらでは 「すれ違い」 にスポットを当て、
- 「言葉が届く直前に逸れてしまう」
- 「ほんの半拍ずれた鼓動がチャンスを逃す」
- 「互いの“善意”が、かえって相手の扉を閉じてしまう」
……そんな “もどかしさ” を描いています。
本編で〈針と歌〉が世界を縫い直した後、もしも “あの日の約束” が違う回路を辿っていたら?
そんな if を覗きたい方は、ぜひ遊びに来てください。
https://tales.note.com/noveng_musiq/wuo0hskn5dt1s
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これからも「恋に燃えて、世界を縫う」物語をお届けしていきますので、引き続きよろしくお願いいたします!