◆中編――“境界門”は恋文を食む獣
夜明けの汽笛を裂いて進む郵便機関車〈くちづけ号〉は、霧封湖を抜けると急激に勾配を上がり、白亜の門都を望む高原へ躍り出た。
車窓を叩く朝霧は牛乳のように濃く、恋塚愛咲の睫毛を湿らせる。靴裏には、まだ工房の木屑さえ挟まっている。――昨夜まで、彼女は「旅の手続き」と呼ぶにはあまりに唐突な脱出劇を演じたのだ。
列車が吐く蒸気の匂いは鉄錆と蜂蜜に似ている。胸いっぱい吸い、二度転がして吐く。
「緊張を糸屑にして捨てるのよ」祖母の習いだ。だが澱は喉奥に貼りつき、心臓はまだ針の上を走る。
ポケットに忍ばせた血針が体温でぬるく、時折、金属味が舌の裏へ昇ってきた。
門都駅――石畳に降り立つと、碧空が剃刀のようにまぶしい。時計塔の鐘は九つ、蒼銀色の余韻を街路へ撒く。
人波を分けて現れたのは、黒羽織の随行官。
「縫製師殿、宰相代理がお待ちです」
控えめな礼の奥に硬質の圧が潜む。愛咲は鞄を抱え、裂けやすい沈黙を針で綴るように一歩踏み込んだ。
石造りの政庁は乾いた真昼の匂いと、磨き過ぎた大理石の反射で人を拒む。迎えたAmantia宰相代理は、虹彩までも氷塊の色をした青年だった。
「境界門の裂傷は加速中。原因は――あなたの恋人、アマレー・コーダントの“声”だと判明しました」
宣告は手術刀の切れ味。愛咲の喉で呼気がつまずく。
「彼の歌はただの手紙です。癒やしこそあれ、傷を広げるなんて」
「優しさが過剰になれば毒になる。あなたの“縫い”が必要だ」
机上に置かれた標本管には、空気のない真空で揺れる “音の欠片” が閉じ込められている。耳を澄ますと、かすかな鈴音――銀鈴。アマレーの胸元の音色だ。
耳朶が熱くなる。今すぐ走り出したい衝動を、愛咲は掌で握り潰す。
「封じる針は持ちません。私は壊れた布をつなぐ者です」
アマンティアは筆頭秘書に目配せし、紅印の命令書を差し出した。
《裂傷中心で詩楽士を拘束、声帯を鎖す》
「拒めば国家反逆。同時にあなたも“面会謝絶”となる」
胸骨が凍りつく音がした。
その夜。政庁裏の倉庫に仮眠用の藁束が敷かれた。
灯火が消えると、城壁の方角からか細い笛の呼気が流れ込む。
――アマレー? 思考より先に身体が動いた。
靴紐も結ばぬまま外へ飛び出すと、背骨に夜気が突き刺さる。
石畳を蹴る足音が共鳴し、やがて高台の外縁〈断布岬〉に出た。そこには月光で青白く光る“裂け目”――一本の細縫い針が布を引き裂いたような黒い溝が走っていた。
裂け目の縁で、紫の踊り子靴が泥を跳ね上げる。ルシーレ・クェアが現れ、濡れた髪を払った。
「遅れて、ごめんね。彼、門の裏側で鎖に繋がれたの。声が止められる前に、あなたを呼んでほしいって」
「どうしてあなたが一緒に?」
「説明は後で。時間がないの。――来て」
夜風が鉄と椿油の様な匂いを混ぜ、裂け目は低く唸る獣の喉になった。愛咲は一瞬迷い、鞄から星細針を抜いた。
「縫い目が必要なら、私が通る入口を作る」
指先を針で突き、血を糸に替える。痛覚が導火線のように脳を焼き、視界が赤へ滲む。
ルシーレの瞳が緑に光り、踊り子靴が大地を蹴った。流れる所作は一筆の旋律。彼女の踊りが裂け目を押し広げると、愛咲の血糸が風になびきながら縁をかがった。
――裂け目は裂け口になり、紫銀の光が漏れる。
落下とも浮上とも知れない無重力の中で、最後に聴こえたのはアマレーの鈴音だった。
次に足裏が触れたのは、鏡面より滑らかな白床。天井はなく、代わりに黒曜の空を無数の譜線が走り、光る音符が雪のように降っている。
中心に吊られた十字鎖。そこに半身を縛られたアマレー・コーダントがいた。肌には境界熱症の黒斑、声を漏らすたび鎖が鳴り、黒斑が光る。
「愛咲……来ちゃ、だめ、だよ」
「黙って空へ消えるほうが残酷よ」
涙腺ではなく鼓動が先に破裂した。ルシーレが脇で背を丸め、彼の手を擦りながら、声にならない子守歌を口ずさんでいる。
眼下では、譜線が絡まり黒い裂傷を孕む。放っておけば音符が世界を引き裂くと悟る。
アマレーの声が薬であり毒――ならば縫い合わせる針はただ一つ。愛咲は血糸を舌で湿らせ、震える針に通した。
「私は“封じる”のじゃない。あなたの旋律を私の心臓に“縫い留める”。」
刹那、響く銃声にも似た破裂音――!!
背面で宰相代理の呪術弾が炸裂し、足場が崩れる。白床が砕け、愛咲とルシーレは虚空へ投げ出された。
回転する視界の端、アマレーは鎖を張ったまま愛咲を呼ぶ。
「距離は……ゼロ……!」
闇と光が反転し、重力が再接続される。その瞬間、愛咲は己の血糸でルシーレの手首を掴み、反対端で鎖へ縫いつけた。
――三人の輪ができる。音符が渦巻き、裂け目が収縮する。
「愛を叫ぶよ――これが僕らの病で、君たちの薬だ!」
アマレーの声が響き渡り、中空で音符が弾ける花火のように輝いた。
境界門は、まだ壊れも閉じもせず――物語は最終楽章へ雪崩れ込む。