◆前編――“手紙の針”が空を縫いとめる夜
――舞台は霧封湖を望む城下町ガルドロニア、西陽が蜂蜜の色で石畳を焼くころ。
山吹色の残照が細い天窓から斜めに射し込み、恋塚愛咲は軽くまぶたを伏せた。針先に結んだ銀糸が光をはね返し、空気中に漂う絹埃がきらきらと舞う。〈縫い〉とは、布と布だけでなく「此岸と彼岸」を繋ぐ作業だと、祖母から叩き込まれて育った。
――ひと刺しごとに未来が増殖する。でも、ほどける速さも同じ。
今日扱っているのは星繊紙布――夜半の月光を溶かした糊で繊維を固めた異界の素材だ。針で綴じ終えた瞬間に、どこか遠く—いや、別の次元にさえ—手紙として転移する“魔性の布”。彼女は丹念に縫い目を整え、最後の結び玉を小指の爪で押しつぶした。
「二十三通目、っと」
机の上には既に紫水晶の封蝋を押した手紙が山を築き、熟した果実のように甘いインクの匂いを放っている。差出人はいずれも一人、吟遊詩楽士――アマレー・コーダント。恋塚愛咲が“世界でただ一人、糸の長さを気にせず想いを縫える相手”だ。
封を切らずとも中身は想像できる。彼の語彙はいつも恋慕と旅情の大洪水。
《愛しき君へ。距離は紙一枚どころか、紙幅さえ奪えぬほどゼロでありたい――》
読み返すだけで胸が膨張し、大気が足らなくなる。けれど愛咲はまだ返事を書かない。「手紙は熟成させてこそ味が深くなる」という、恋縫い師の流儀があるからだ。
窓外では霧封湖を渡る風が葱坊主の若い香りと、焼き栗の甘い煙を運ぶ。六月の夕刻特有の匂いが肺に満ち、愛咲は二度だけ胸の奥で転がしてから静かに吐き出した。
――手紙って、開ける前が一番熱い。恋も、火を入れる前の緊張が尊い。
そのとき、奥の郵便格子がカラリと鳴った。誰も立ち入れない保管庫――そこに赤銅色の長髪と、胸元で小さく鈴を鳴らす影がある。
「……え? 現物支給?」
月光めいた笑みとともに、アマレー・コーダントが姿を現した。銀の羽根飾りが大げさに揺れ、彼は手袋を外して深々と礼をとる。
「紙じゃ想いを量りきれなくてね。君の声帯で測ってほしいんだ」
鼓動が跳ね、針箱が倒れ、星細針が雨粒のように散った。
三年前、アマレーは吟遊詩楽士ギルドの依頼で「縫える手紙」を探してこの町を訪れ、その道すがら恋に転倒した。以後、彼は世界中を巡るたび必ず戻り、愛咲の針に歌を委ねる。
今日の突然の帰還は、境界門で発せられた謎の禁令が原因らしい。
「門番がこう貼り紙を出した。――《面会謝絶》、理由の詳細なし。君との道は札一枚で塞がれた」
“面会謝絶”。病院を連想させる冷たい単語が耳朶を刺し、愛咲の内側の紙兎が跳ねる。それでもアマレーの瞳は藍色の渦潮のように恋で輝き、危機感すらロマンに変換してしまう。
「つまりこうさ。僕らが相見えるには、門そのものを縫い替えるしかない」
「門の生地を診ないと。解き、引き絞り、そして縫う――それが私の務め」
夜は湖畔へ傾く。石橋の上、蜆月が薄い貝殻色で水面を裂き、二人の影を長布のように伸ばす。
「境界が壊れたら?」
「世界を全部、恋文に仕立て直そう。君の針で綴り、僕の歌で封をする」
蜂蜜の匂いが濃く、風がどくだみ香を混ぜる。五感が飽和し、頭が少しクラクラする。
「桂の花が咲く頃には、もう“距離ゼロ”だね」
「距離どころか、空気ごと抱きしめてやるわ」
翌朝――黄金麦の匂いが窓辺まで漂う頃、愛咲は石畳へ影を落とす郵便馬車を見送った。アマレーは再び旅装を整え、門番の謎を暴きに向かったのだ。
玄関ポーチで抱き合う別れ際、彼女はリュートのペグに紅糸の飾り紐を結んだ。別名〈帰還の糸〉。切れれば“不帰”、ほどければ“離別”を暗示する――けれど敢えて結ぶのが恋塚愛咲の勝負だ。
「切れないよう縫ってあるわ」
「僕の声で強化しておくよ。十三日の巡礼が済んだら、必ず戻る」
鈴がチリンと鳴く。いつもの音程なのに、愛咲には半音ほど低く聞こえた。
――不安は、恋を増幅させる隠し味。
彼が去り、残された工房には手紙が爆発的に増え始める。遠征一日目で二通、二日目には五通、三日目には八通。封蝋を砕くたび、彼の声が脳奥で弾ける。
《王都の月は君の瞳ほど光らない》
行間に跳ねる音符が実体を持ち、空間に色を付ける。
陽芽――工房仲間で親友の職人が肩ごしに囁く。
「増え方が尋常じゃないね。まるで恋じゃなく感染症」
「恋はウイルス。繁殖力が高いほうが優秀なのよ」
強気に笑いながら、指先は震えていた。
――九日目の午後。空が鉛色に沈むと、インクの香りが妙に薄い手紙が届いた。読み解くと、行間に小さなインクの滲みが散っている。
〈喉が少し痛むけれど、大丈夫。君の名を発声するたび薬になる〉
嫌な胸騒ぎがし、愛咲は針を落とした。糸が絡まり、解こうとするほど締まっていく。
十一日目・十二日目――郵便鳩は現れない。
“君の不在を想う私”を綴った返事だけが机に積もり、宛先を失った紫水晶封蝋が黄ばんでゆく。
夜毎、鱗雲の切れ間から欠けた月が見下ろし、不穏な銀光を投げかける。
そして十三日目。早朝、王宮の使令が蒸気機車の警笛を割って町を駆け抜けた。
《縫製師 恋塚愛咲 を王都へ召喚――境界門修復責任者として即刻出頭すべし》
白布の勅令が突風にめくれ、文字が太陽に反射する。
愛咲の胸で、帰還の糸がギシ、と乾いた音を立てた。
「私が、門を、縫う……?」
陽芽が真顔で問う。
「要するにお国が彼を黙らせたいってことじゃ?」
「黙らせる針は持ってない。でも壊れかけの門を縫う針ならある」
返事の声はかすれ、脈拍だけが耳の奥で雷鳴のように轟く。
荷造りは早かった。糸巻き、封蝋、まだ返事を出していない手紙束――そして一番細い血針。
霧封湖を渡る風が鉄錆と蜂蜜の匂いを混ぜて吹き込み、背中を押す。
「距離は一枚なんかじゃない。きっと数えきれないほど重ねられた札。でも、全部縫い合わせてゼロにしてやる」
石畳を蹴る音は軽かった。
けれど足首だけが沈み込むように重い。
――恐れと期待の質量は、同じ糸巻きの両端に巻かれている。
夕刻、町外れの峠道で最後に振り返ると、工房の煙突から白い蒸気が上がった。まるで送り火の狼煙。
愛咲は火照った掌で胸を押さえ、呟く。
「帰る場所じゃない、“飛び込む場所”を守るために――私は行く」
光は次第に薄れ、夜鳥が啼く。縫い目のない空を、ひときわ大きな鈴の音が横切った気がした。
あの鈴は呼び声か、警鐘か。まだわからない。
けれど恋塚愛咲の針は、決して刃ではない。
――縫い留めるための、そして、愛をほどかないための武器だ。