【第一章4】静かな部屋に響く喧騒
嫌な記憶だったのだろう。中将は思い出した過去に重苦しいため息を付いた。いや、あのため息は疲れからきたのかもしれない。
「落火に左遷されてきた良然は、天与礼者ではなかったのにも関わらず虐められたほどじゃから、単に天与礼者が嫌いだっただけではないのかもしれん。だが嫌いとはいえども越えてはならん一線がある。前任はその一線を越え、刃物を良然に向けた」
話しながら中将は持っていたペン先をインク壺につけ、余剰なインクを軽く叩いて落とす。
「どうしてそうなったのか、経緯はわからんが、良然を庇って受けたその傷は治るのに時間を要した。前任は自分がつけた傷を治すのを非常に嫌がった為、その傷は今も見ることができるぞ。ほれ」
中将は袖を捲って肉色の薄皮の引き攣れが目立つ傷を指さした。その他にも小さな古傷がいくつもあったが、どれもほぼ治っていて白い筋となっていた。だからその生々しい傷が余計に存在を主張していた。
「んーだがまぁ…新しい監査員殿が来た今はこの傷も消しても良さそうじゃなぁ」
「あの…いえ、なんでもございません」
「そうか?言いたいことがあるなら言っても構わんぞ」
思わず、中将は、僕を前任と同じような人間だとは思わないのですか?と聞いてしまいそうになった。良然ですらあんなに敵意を剥き出しにするのに、中将は朗らかに接してくれる。なぜだろう。
僕だったら確実に良然のように突っぱねていただろう。むしろ完全に無視して口を聞こうともしなかったかもしれない。
中将がこのような話をしたということは遠回しに良然と仲直りしろということだろう。まあ仲直りもなにも、直すほどの仲は無いけども。ここは中将の意図に気づかないふりをして従っておこう。なんせ僕は一介の新入隊員に過ぎないのだから。
「それにしても新しい監査員殿は実に丁寧だ。儂らにそんな口調で接する人間は少なくとも軍にはおらん。今回の監査官はあたりだな」
「身に余るお言葉です。あの…中将様、もう一度良然さんと話してもよろしいでしょうか。自分で今度は、いえ、今度こそ信頼を勝ち取ってきます」
「おぉ、そうか。最近の若者は気骨があって大変よろしい。良然は反省室に入れられてるそうだからこの鍵を持っていけば開けられる」
中将はそう言って引き出しから小さな鍵を取り出して僕へと放り投げた。僕が受け取ったのを見ると中将は満足気に頷いて再び筆を取る。中将も気が付かない振りが上手いな。とぼけた顔をほんの少し綻ばせてちらりと僕を見る。
「儂は報告書を仕上げねばならんのでの、幸運を祈る」
「ありがとうございます、失礼しました」
「よいよい」
軽く礼をして部屋を出る。さーて反省室はどこだ?
通りかかった人に聞いてようやくたどり着いた反省室は中央の建物から離れた石造りのこじんまりとした小屋だった。寒くないように床暖房が設置されているのだろう、小屋の外からパチパチと火がはねている音が聞こえてくる。
中将から頂いた小さな鍵を差し込み回すと、がちゃんと錠が外れて扉が開いた。中は思ったより暖かく、眼鏡が曇って視界が制限されるほどだった。
「チッ、なんでお前がここにいんだよ。こっそり俺を殴ってやろうってか」
「いえ。ここに来たからには自分の役割を果たすべきですから、年の近いあなたに落火での常識や中将様のこと、軍のことなどさまざまなことを教えていただこうと思いまして。先程は僕も言い過ぎてしまいました、すみません」
「…いいぜ、許してやる。でも俺はこれっぽっちも悪いと思っちゃいねぇからな」
良然は顔だけこちらに向けて馬鹿にしたような小笑いを漏らしながら肩を竦める。
こいつほんっとに性格悪いな…!
「いいですよ別に、あなたの素行の悪さが僕の仕事に影響を及ぼすとも思えませんから。隣で猿が騒いでいるようなものでしょう?べっつに全然気にしませんからそんなの」
「あぁ゙?喧嘩売ってんのかお前」
「いやいやそんな滅相もない!喧嘩は同じ土俵でしか発生しないと言うじゃないですか!あなたに僕と同じ土俵に立てるほどの頭脳があるとは思えませんけどねぇ」
「いいぜそのひっくい土俵に俺から乗ってやるよ!」
「乗れるもんななら乗って見ればよろしいのではぁ!?」
その日以来、本棟から離れた石造りの防音性の高い反省室は、僕と良然の喧嘩する場所になったことは言うまでもなかった。




