【第二章1】書類に署名捺印を
一睡もできなかった…
昨日の夜、橙恩の質問が頭を占めて横になっても睡魔が訪れることはついぞ無かった。今日から本格的に仕事を始めるっていうのにこの寝不足の頭でうまくいくかどうか…ただでさえ緊張でどうにかなってしまいそうなのに疑問や不安が押し寄せて頭がガンガンと痛む。
「おはようございます、すみません遅れてしまいました」
頭痛をこらえながら中将の執務室の扉を開けると、中将の机に寄りかかって腕を組む良然がいた。良然は顔を見るなり、きゅ、と顔を顰めて文句を言いたげな顔になった。
「んだよ遅刻だぞお前。ったくこれだから坊っちゃんは…」
「お前が言えたことではないだろう。おはよう監査員殿よ、よく眠れなかったのか?酷い顔色だな」
「どうかお構いなく、僕はまったく問題ありませんので。今日は何をしましょうか?」
良然の減らず口は今に始まったことじゃない。昨日だけでも1ヶ月分近くの直球な嫌味をぶつけられた。子供のような悪口ばかりだから気に食わないだけで気に病むことはこれっぽっちも無かったけど。
普通に無視して中将の方を向くと良然はつまらなさそうに鼻を鳴らした。そんな良然を諌めつつ中将はいくつかの資料の束を僕に渡した。
「これは先月と先々月の戦状報告書だ、それに一通り目を通して署名印を押してほしい。ハンコは持っているな?」
「はい」
執務室の隅の方にある机に移動し、書類を読み始める。どれも中将が書いたもののようで、一様に左に寄って書かれていた。一枚目は先々月のはじめ頃のものらしい。
『8月 15日
早朝3時ごろに南門から北鰐の偵察部隊を報告、第二班から第四班までを配置のち迎え撃つ。
結果
撃退。国内への侵入者なし。
こちらの死傷者数
死者:零
負傷者:7人。うち3人は全治2ヶ月半の怪我。
備考
随分と慎重な行動だった。今までに見たことのない陣形を組んでいたこともあり、容易く撃破することができた。新しい陣形を組んだということは向こうの指揮官の交代、もしくは他部族の入れ知恵があったのかもしれない。引き続き第一班には厳重な警戒態勢を命じた。』
署名捺印。
『8月 31日
午後16時侵入しようとしていた北鰐の男性3名を捕獲。諜報員容疑が掛けられ取り調べを行う。
結果
食料を盗みに来たと主張。長い時間が経過しても尚、口を割らないため厳重注意の元、基地に関する情報は情報管理部の秦蘭慶に上書きさせ解放。
備考
特になし』
署名捺印。
『9月 5日
午後17時頃に北鰐の大群の侵攻を報告。直ちに第一班から第六班で迎え撃つ。
結果
撃退。国内への侵入者なし。
こちらの死傷者数
死者:4人
負傷者:17人。うち2人は四肢が欠損、救護班の白女医でも治せず、退職。
備考
人数が前回を大幅に上回り、放火もあり苦戦。
戦死者四名はうち一人を慰労金とともに遺族の元へ帰還させ、残りの身寄りのない3名を椿霊労墓地に埋葬。大きな葬式は許可が降りず、内々で行う。
退職した隊員には十分な慰労金を渡した。』
隅には誰かの荒れた筆跡で何かが書き残されていたがはっきりとは読めない。確証できないものの、インクの滲みと紙の繊維が解れているところから、涙ながらにやるせなさをこぼしているのだろう。死亡者の知り合い、いや、友人だったのかもしれない。
…署名捺印。
『9月 17日
午前11時侵入者を確保、前回の侵入者のうちの1人。その場で拘束。
結果
食料を盗むためではなく諜報目的であったことが判明。死亡。
備考
侵入者をその場で拷問行為をしないことを椿苑基地の規定に加えること。侵入者を捕らえて殺してしまったものには一週間の謹慎を課した。』
…署名捺印。
『9月 18日
午前6時侵入者を確保、前回の侵入者のうちの2人。その場で確保のち、取調室に連行。
結果
前日の侵入者を連れ戻す目的だと判明。話し合いの結果、1人は移動が可能な程度に抑えて暴行を加え、もう一人には侵入者の頭部を入れた袋を持たせて返した。
備考
次の侵攻は激しくなる可能性がある。必要と想定される以上の準備を整えるべし。』
署名捺印の手が止まる。正直に言おう、僕は攻防戦を甘く見ていた。あくまで比喩的なものだとばかりに思っていた。しかし書類上でも1ヶ月半の間で既に敵味方含めて5人の死者、20人の負傷者が出ている。
もはやこれは攻防戦などではない、正真正銘の戦争なのだ。




