【序章1】長く短い旅の一歩
【蘇枋の守護者】、【類稀なる強さを持った男】、【雷炎の中将】
これらの肩書を恣にし、雷華軍の陸・後天与部隊から陸・先天与部隊への異例の移動をし、更には中将にまで成り上がった男の名前こそが残方。その名前は国で知らないものはいない。現に政治や軍事に興味のない僕ですら、彼の名前と功績は知っている。
残方中将は落火地方の椿苑基地に駐在していて、時折侵略しに来る北鰐を相手に攻防戦を広げている。攻防と言ってもこちらから攻撃することはなく、国境を超えた北鰐を追い払うだけなのだそうだ。そして椿苑基地の責任者が彼になって以来、一度も北鰐の侵攻を許したことはなく、その功績から民間では多くの肩書がつけられ英雄だと崇められている。
「ハイお待ちどうさま、坊っちゃんの注文のお茶と桂花ケーキだよ」
「あ、どうも」
「坊っちゃんいい服着てるけど…その格好で一体どちらへ?」
「落火地方へ行きます。えっと、厚着しすぎですかね」
「逆だよ逆、その格好で落火まで行こうってのかい?風邪引いて寝込んじまうよ」
「そんなに寒いんですか、落火って」
「寒いも何も、『火が落ちる』と書くくらいだからねぇ。常に雪が降りそうな天気と、布を貫通して突き刺す寒さがあそこの名物さね」
「へー」だか「ほーん」だかわからない相槌を打ちながら桂花ケーキを口に運ぶと、金木犀の香りが口の中に広がり、飲み込んだあともその香りが鼻腔を漂う。吐いた息まで金木犀の香りがするんじゃないかと思うほど風味が強く、花特有のかすかな苦味は一切感じられない。
「これは女将が作ったんですか?良い品質の金木犀を使っていますね」
「おや、わかるかい?この金木犀は家の庭で育てているもんなんだ。坊っちゃん、見た目に反して味に詳しいじゃないか。お礼にいい外套を売ってる店を紹介してあげるよ」
「本当ですか、助かります」
「なあに、どうってこと無いさ。ここら一帯で売ってる外套ってのは、粗末な品質の割には目ん玉が飛び出るほど高いからねぇ、誰かしらの紹介がないと安くいいものは手に入んないよ」
「それはますます嬉しいですね、やっぱりこの店に入って良かった」
軽くおだてると女将は胸を張り大きく数回頷いてドンと胸を叩く。
「そうだろう?あたしほど人情に溢れた女将はそうそう居やしないからね。ところで坊っちゃん、落火にはなんの用で行くんだい?」
「ああ、僕は落火の椿苑基地に配属される事になったんです」
「椿苑基地って、あの残方中将様がいらっしゃるところじゃないか!大出世だね坊っちゃん!なにか、天与礼物が優れてるとかかい?」
「いえ、僕は天与礼者ではなく…まあちょっとした軍事秘密ってことにしてください」
全く、残方中将の人気というものは凄まじいものだ。名前を仄めかしただけで、女将の目は興味深そうに煌めいて、質問が矢継ぎ早に飛んでくるんだから。
女将の気を損ねないように曖昧に笑って濁すと、なぜか訳知り顔で大きく頷いて僕と同じように唇に指を添えて「しー」と手振りした。
「そうさね、軍人さんってのは秘密が多いもんだ。あたしが介入しちゃいかんね」
「ありがとうございます。こちら、勘定お願いします」
「あいよ、うん…うん、ちょうどだよ。外套屋はこの先曲がって、すぐの小道を進むとちまっこい店があるから、そこで買いな。見てくれは古くて流行離れしてるけど、ちゃんとあったかくしてくれるから」
「ありがとうございます、ではまた」
「あいよ、ありがとうござんした」
女将は気前よく笑って手を振って見送ってくれた。この地域の人の気前はいいな、首都より温かみがあって。親父との契約期間が終わったらこっちに住むのもいいかもしれない。
…あの堅物が、許すはずも無いだろうけど。あぁちくしょう!思い出したらまた腹が立ってしょうがない。だいたい自分のコネ使って息子を入軍させるのってどうなんだ?じ・つ・にありがたいことに!僕自身で纏めていた薬屋への就職の話はなかったことになった!
舌打ちをこらえながら女将に言われた服屋に着くと中から腰の曲がった老婆と彼女を支える若い男が出てきた。




