江國香織「デューク」ふたたび
〇「19歳くらい」の「少年」
以前、「19」という微妙な年齢の根拠を疑ったが、これはデュークの享年なのだろう。彼の「死因は老衰」だった。プーリー種は牧羊犬であり、一般的に寿命が長い傾向があるそうだ。犬の「19歳」は超高齢であり、人間の90歳くらいに相当する。デュークは、「まだ生まれたばかりの赤ん坊」の時に、「我が家にやって来た」から、「私」とは、ずいぶん長い付き合いということになる。現在の「私」は「21」だから、この時彼女は2歳だったか。幼い頃から、まるで姉弟のように育ったふたり。
これだけ長生きすれば、魔法も使えそうな気がする。人の姿で甦り、プールで何も触れずに「私」を引っ張り、言葉をかけずとも「私」を安心させ、あっという間に消え去る。
〇人間を慰めるデューク
廊下ペタン・スー事件だが、「何度も」それに付き合ってあげていたのは、むしろデュークの方だった。「みんな」に「笑」われることで、家庭を明るくし、家族の安寧を図る飼い犬。
彼は、「私」の「ピアノ」練習にもつきあってあげる。ピアノの練習は、うまく弾けないフレーズをタドタドシク何度も弾くことになる。だから、その足元に「いつもうずくまって聴いていた」彼は、忍耐の檻の中にいたことになる。ここでも彼は、「私」に付き合ってあげていたのだった。
〇プール
「朝っぱらからプールに入」ったふたりは、「ひと言も言わずに泳ぎ回り、少年が、『上がろうか』と言った時には、壁の時計はお昼をさしていた」。
デュークが亡くなった翌日も、「私」はアルバイトに出かける。「いつものとおり混ん」だ「満員電車」には、「かばんを抱えた女学生」や「お勤め人たち」が乗っており、朝のラッシュをイメージさせる。電車を乗り換え、渋谷で降り、ふたりは喫茶店に入る。少年はオムレツを食べ、喫茶店を出、プールに入る。
以上から、「私」が何時に家を出たのかがはっきりしないが、通学通勤時間帯の電車に乗り、喫茶店でひと休みしたところから、「朝っぱらから」とあるが、9時か10時ごろにはプールに浸かっているだろう。そうすると、「お昼」まで2・3時間の遊泳ということになる。「泳ぐって、気持ちのいいことだったんだな」と「思った」としても、「いったい何年ぶりだろう」と振り返る「私」にとって、この久しぶりで長時間の遊泳は、いくら若いからといって、疲労を感じさせるものだったろう。だからこれが可能だったのは、楽しさもあるが、やはり、時間と体力の消耗を忘れさせるデュークの魔法ということになる。
〇デュークの転生
デュークは、これまでも何度か生まれ変わっている。
「古いインドの細密画を見た」デュークは、「これ、好きだなぁ」、「古代インドはいつも初夏だったような気がする」と言う。彼は前世でそこに存在したのだ。デュークは「五月生まれ」であり、「初夏がよく似合った」。
「落語が好きだった」のも、もしかしたら前世で落語家だったのかもしれない。彼の会話は、端的でウィットに富んでいるからだ。
〇デュークは成仏できたのか
「びょおびょお」「歩きながら」「涙が止まらな」かった「私」。「デュークが死んだ」「悲しみでいっぱいだった」。「デュークが死んだ」という言葉が繰り返され、「デュークがいなくなってしまった」という愛するものの不在・喪失を受けとめ受け入れることができない「私」の様子がうかがわれる。愛の執着をすっかり放棄することができない「私」。
これに対しデュークの「死因は老衰」であり、しかも「私がアルバイトから帰る」まで彼は、飼い主のためにぬくもりを保持してあげていた。主人の「膝に頭をのせてなで」られながら、「冷たく」なる。これ以上の死に方は無いだろう。自分の死に際の場面に主人を遭遇させ、それによって、言葉は話せなくとも、愛と感謝を彼は伝えたのだ。静かで見事な別れの場面を、デュークはちゃんと演出した。天寿を全うし、思い残すことなく旅立てる(はずだった)。
この、主人と飼い犬の対比が、この物語の特徴であり、また、核となる。悲しみに沈み、自分との思い出に囚われるだけで次の一歩が踏み出せない主人に、それではダメだよと教えるための甦り。ダメ主人と、できた飼い犬。
最後の場面でのデュークの言葉をたどる。「今年」の「終わ」りと、「新しい年」が来ること。「今までずっと」「楽しかった」こと。自分も「とても、愛していた」こと。悲しみに沈む主人への言葉として必要な事柄がすべて表現されている。いつまでも悲しみに沈むのではなく、未来への一歩を踏み出すべきこと。主人への感謝。愛の伝達。
彼はキスと「元気で」という言葉を残し、「じゃあね」と去る。「横断歩道にすばやく飛び出し」「駆けていってしまった」。しかもその信号は点滅しており、「私」が追うべくもないという周到さ。まことにイケメンというほかない。こんなイカした弟との19年間は、「私」の最大の幸福の時間だったろう。
歩道に「立ちつく」す「私」は、彼がデュークであった驚きとともに、「クリスマスソングを聴」きながら、彼の再生の意図をかみしめる。
「銀座」には、「ゆっくりと夜が始まっていた」。これは彼女がさらなる悲しみに沈むことを意味するのではない。夜の暗闇のなかで彼女は、デュークを慰霊し、感謝とともにその成仏を祈るのだ。
この夜を超えれば彼女は、「新しい年」に一歩を踏み出すことができるだろう。
#江國香織
#デューク




