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南魏紀伝  作者: 池野清吉
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明日への希望

第二十一章

その後、魯雲は麗玉たちのいる北西部を離れ、少し南部に位置する韋攸の赴任地に向かう事を申し出た。郭俊は魯雲を惜しんだが先日の賈良との対立で魯雲を擁護するのは麗玉や銀月など一部の者しかおらず、賈良の軍功を考えるとさすがに賈良を軽んじるわけにもいかなかったので、最終的に郭俊は魯雲を韋攸のもとに赴任させることに決めたのだ。

そしてその際に、魯雲の新たな赴任地に着いて行くと言い張っていた雪蘭には一時の別れを告げた。

「雪蘭さんには一足先に成申に戻っていてほしい。僕もそう遠からず帰るから」

それが魯雲の言った言葉だった。それに対して雪蘭は一時的にとはいえ魯雲と離れるのは寂しいと言ったが、

「別にずっと離れるわけじゃないじゃないか。それに契丹との戦いは収束に向かっているよ。あとは僕は韋攸さまとか政治専門の文官の先輩たちから仕事を通していろいろ学んでから帰郷するだけだからさ。その頃にはこの戦も終わって、あとは成申で仕事をしながら雪蘭さんと一緒に暮らすよ。それに雪蘭さんのご家族だって、雪蘭さんがあまり長く帰らないと心配するだろう」

魯雲が優しく語りかけながら雪蘭の頭を撫でてやると、

「分かりました、仲明さん。なるべく早く再会できることを楽しみにしています」

雪蘭は頭を深々と下げて言った。

南西の任地に着いた魯雲は、内政に功績のある陶玄とうげんのもとで内政の補佐をする日々が続いた。そして魯雲の任地よりもさらに南西に位置する南蛮との外交は特に問題なく、現時点の南蛮は蜀の諸葛亮に心服した孟獲もうかくの治世の様に平和な関係を南魏と結んでいる。

陶玄の部下の鄭基ていきは本来南蛮との交渉のために派遣される予定だったのだが、韋攸のたっての頼みで今は韋攸の配下として働いていた。韋攸には契丹に抗するために鄭基のような外交に通じた人物が必要だと感じていたが、韋攸が鄭基に具体的にどんな任務を託したのかについて、この時点では陶玄に明かしたのみであったので、魯雲も郭俊も知る由はなかった。

周代の法律まで出題される文官の試験ならばともかく、文武官の試験に上位で合格したと言っても普段読む本は孫呉や尉繚子などの兵法書であり、法律といえば南魏の現行の法律以外には漢代の法律を多少勉強しただけでの魯雲にとって、かの蕭何しょうかの再来と言われる陶玄のもとで内政の補佐をするのは至難の業だった。

だが陶玄は決して無理な要求をせずに魯雲の軍功を評価しつつ、内政については少しずつ学んでいば良いものと判断して魯雲の成長を気長に待った。陶玄にとっても弓術や軍事に精通した魯雲は万が一の不穏な事態のために確保しておきたい人物である。とはいえ、長年内政や外交にたずさわってきた陶玄は、内政面で魯雲よりも優秀な文官や文武官に会ったことはある。しかし、最近は馬術や槍術も時どき修練を重ねつつ政務にも打ち込んでいる魯雲に対して陶玄は好感を抱き、今まで会った文官や文武官以上の熱意を持って内政の要諦を教えた。

魯雲も頭の出来が良いことに加えて、『史記』における蕭何の活躍はもとより自身の先祖だと噂されたこともある魯粛の内政についても時々学んでいたので、たとえ自分が蕭何や魯粛には及ばないとしても内政面でも何らかの業績を残したいという気持ちが湧いていた。そうして奮起した魯雲は、徐々に陶玄に認められる見識を身につける様になっていった。

そんなある日、政務を終えて魯雲と夕食をともにしていた陶玄は、ふと思い出した様に言った。

「そう言えば、魯君の故郷は、伝説の慶山王と同じだね」

「はい。まあ、確かにそうですね……」

「そうするとやはり、時々は魯胤の末裔だとか噂されたりしたのかね?……あるいは、伝説でなくて歴史上の人物だけど、かの魯粛になぞらえられたりしなかったかね?」

「そうですね。時々はそうしたこともありました。でも僕には関係のないことです」

「ん?というと?」

魯雲がその話題をあまり好んでいない様子だったので陶玄は少しいぶかしく思いながら、魯雲の次の言葉を待った。

「僕は、先祖がどんな人物であろうと、僕自身がやるべきことをやる姿勢が大事だと思います。他の人にもそう思ってほしいんですが、なかなか同意してくれる人がいなくて残念です」

「おお、素晴らしい!まったく君の言うとおりだ!」

先祖が優秀でも子孫も優秀とは限らない。また、その一方で先祖に劣らぬ優秀な子孫もいる。その両面が真実なのだろうが、先祖に劣らぬ優秀な子孫は、決して先祖の威光を笠に着ない人士であるに違いない。

自分のやるべきことをやる、という魯雲の正論に感じ入った陶玄は、魯雲の食卓の椀に茶を注いでやった。

「あ、これはこれは恐縮です!」

「いやいや、良い話を聞かせてくれた礼じゃよ!たしかに、先祖の名を笠に着ている様な奴は成長をせん!」

「そうですね……あ、でも!」

「ん?」

「笠に着るというのとは違いますけど、目標にするのは良いことですね。かつて朱さんが言ったんですが……」

「おお、いくつもの軍功をあげている才媛の朱君か?彼女がどうしたのだ?」

「はい、かつて朱さんは僕に対して『魯雲の先祖が伝説の王でも内政に優れた人物でも、私は自分の先祖を誇りに思っているし、あんたなんかに負けない』という内容の事を僕に言いました」

「ほほう、して朱君の先祖とは?」

「彼女が言うには、あの光武帝でさえも倒せなかった朱鮪だ、とのことです」

「はははっ!それは面白い。何となく納得がいくよ!」

「そうですね。僕もそう思います。ともあれ、先祖の威光を笠に着るのは無意味ですが、朱さんの様に先祖を誇りに思い、その先祖に負けない活躍をしようとするのは良いことだと思います」

「そうだね。それはまったくその通りだ!」

上戸の陶玄は酒を、下戸の魯雲は茶をそれぞれ飲みながら、その日の夕食は歓談とともに楽しく進んだ。


第二十二章

その後郭俊たちの部隊は、韓叡かんえいという智将が率いる部隊との戦いを迎えた。敵将の韓叡は慎重な知恵者であるので挑発に乗ってこない。それならそれで陣中や城内に籠るとしても気象条件によっては使える火計や水計をもって撃破しようと郭俊は判断した。韓信が廃丘城の裏を流れている白水が大雨で増水したことを利用して章邯しょうかんの軍勢を溺殺しようとしたことや連日猛暑の続いていた夷陵いりょう陸遜りくそんが劉備率いる四十万の蜀軍を火計で壊滅させたことを知っている郭俊は、何らかの天候を利用して勝利を得られないかと考えたのである。しかしながらそうした故事は今回の戦では活用できなかった。天運が味方しないのかはたまた韓叡自身が気象に精通しているのか、南魏軍は気象を利用した戦勝という好機を得ることが出来ずにいたのである。

(困った…今回の敵はこれまでにない慎重な用兵を継続している。これでは何か特殊な条件が我が軍に味方するという僥倖を得ない限り決して勝てまい……)

この膠着状態に郭俊は焦っていた。陸正や麗玉や銀月と軍議を重ねていたが、韓叡をおびき寄せる妙案は誰も思いつかなかった。そんなある日、甘成と黄援が軍議の場に訪ねて来たので郭俊はいささか驚いた。甘成は功績もある文武官で軍議に参加することもあったが最近は病床に臥せっていた。それが回復したと本人が言うので任務には復帰させたがまだ体調が本調子ではないのではないかと気になっていて、軍議に参加することは控える様に伝えておいたところだ。その甘成が黄援と何か相談したことを伝えたいらしい。

「甘成どの、黄援どの、いかがなされた?」

そう問いかける郭俊に甘成は答えた。

「郭俊さま、恐れながら黄援将軍が武官の方たちのご意見をお述べなさりたいとのことです」

「ほほう、黄援どのが?果たしてどのようなお話かな?」

郭俊は興味深そうに身を乗り出した。側にいた陸正たちも甘成と黄援に向き合った。

「こたびの戦において郭俊さまや陸正さまは敵将の韓叡を気にしておられますな。それは確かに韓叡が慎重に戦う智将であるがゆえに無理もないご判断なのでしょうが、我ら武官としては敵の副将たる張蓋ちょうがいこそが気になっております」

「何?張蓋とはどのような者だ?」

「我ら武に生きる者たちにとっては、契丹随一の豪傑としてその名をたびたび聞く猛者でございます」

この言葉に郭俊は

「知者は知者を知る。ならば勇者は勇者を知るのも道理という事だな」

との言葉で応じた。郭俊は何かを思いついた様で、さらに次のように尋ねた。

「して、その張蓋なる者の性格は如何なるものか?」

「性格…でございますか?それはもう血気盛んで、戦場で命を落とすことを恐れず、それでいて今まですべての一騎打ちに勝利しているので決して身の危険になることが無いほどの剛勇を誇っており、もしも安易に挑発すれば地の果てまで追いかけて来る様な血の気の多い者でございます」

「そうか…それで、部下に対する態度はどうだ?人望はあるのか?」

「はい。張蓋は部下の死を悼み、部下の仇討のために私的な復讐戦をすることもあります。上官である韓叡がしばしば止めましたが『韓叡どのは部下に冷淡すぎる』として憮然ぶぜんとした態度をとったとのことです」

黄援の発言を聞いたとき、郭俊の口元にわずかな笑みが浮かんだことを陸正は見逃さなかった。

「郭俊さま、何か策がおありなのですね?」

陸正の言葉を聞いて郭俊はうなずき、その様子を見て麗玉や銀月もホッと安堵あんどの表情を見せた。もしも張蓋が噂通りの人物であるなら郭俊にはその張蓋を打ち破る策略はある。郭俊はそう思った。

ただ、張蓋の様に重要な人物に対する評価は一人だけの発言で真偽を判定するのは危険だと判断した郭俊は、そばにいた甘成が張蓋についてどう思っているのかが気になり

「して、甘成どのご自身は、張蓋なる人物をどう見る?張蓋の人物像について、貴公のご意見は如何か?」

問いかけた。

「私も黄援将軍と同じ意見でございます」

この言葉でついに郭俊は決意をした。黄援に次いで長期にわたり軍務を果たし、しかも文武官として軍議にも参加していた甘成の言葉に我が意を得たと感じた郭俊は、さっそく黄援を中心とした部隊を編成。それを先鋒として他の隊にも各々任務を与えた。

郭俊は部下に命じて矢文をもって張蓋を挑発した。あくまでも目標は韓叡ではなく張蓋およびその直属部隊をおびき寄せることだったので文面の趣旨は以下の様なものであった。すなわち――


張蓋どのは契丹随一の豪傑との誉れ高い。その貴公が何故に韓叡どののめいに従う必要があるのか。我、貴公の勇名を惜しむ。こいねがうは、貴公自らの判断にて部下を率いて我が配下の猛将たちと勝負をせんことを。野外に於いて敵を討ち、また自らの命を顧みず武勇を示す事こそ、武将の本懐ほんかいと思わば、よろしくこの趣旨を吟味されたし。貴公が真に気骨のある武将ならば、たとえ韓叡どののめいに背くとえども武将としての生きざまに背くことなかれ。


郭俊が書いたこの手紙を読み、張蓋は自らの直属部隊を率いて打って出ることを決意した。

その張蓋を迎え撃つべく各隊に対して事前に任務を伝えておいた郭俊だったが、どの隊に関してもその伝達の冒頭に

「今回の任務は、貴公ら武人としては誉れ高くなりえないものとなる。申し訳ないが、この条件を受け入れてくれ」

と言って深々と頭を下げた。

今まで第一軍師として南魏最大の部隊を率いてきた郭俊が今回は諸将に深々と頭を下げることになった。その作戦はそんなに普段の作戦と違うのだろうか?それよりも「武人としては誉れ高くなりえないものとなる」という言葉が気になった諸将は郭俊の作戦の具体的内容を聞くと皆そろって渋い顔をした。それでも南魏を守るための苦渋の選択とあればやむを得ない、と判断して最終的には納得したのだが。

今回の郭俊の作戦の序盤は以下の様なものであった。すなわち先鋒の黄援には張蓋を挑発させ、何合かは斬り合った後にえて撤退させる。そうして他の部隊が横から切り込み、また何合か張蓋もしくはその側近と斬り合ったら再び撤退。そして今度はまた別の部隊が側面から切り込む。まずはこれを五回繰り返す事。そしてここまでは「あえて一時撤退」という方法だけであるから必ずしも武人としての誇りを傷つけられるものではなかった。

はたして郭俊の作戦通りに事は進んだ。契丹随一と誉めそやされていた自負心ゆえに、敵に挑発されれば聞き捨てならない。そして実際に黄援や賈良や馬典は、あえて撤退するとしても何合か討ち合う中で相当な使い手であることに張蓋は気づいた。なので是非ともこの名のある武将を討ち取りたいという野心にかられた。

しかし南魏の武将はしばらく討ち合うと逃げ、また別の将が出てきて今度は張蓋自身とは討ち合いにもならずその側近と討ち合っては逃げ、さらに今度は別の方角から別の将が現れ……という繰り返しに苛立ってきた。

(南魏の将兵は一体何を考えているのだ?一時的に切り結んでもすぐに逃げるのでは、いつまでたっても勝負がつかないではないか……)

張蓋がそんなことを考えたところで郭俊は次の指示を出した。数回にわたり方向転換をした張蓋の配下は徐々にバラバラになってきた。最初に張蓋を挑発した黄援はその部下たちを狙って再度駆け付け、幾度かの方向転換で足が疲れた歩卒から順に討ち取っていったのである。

駿馬を駆っている張蓋およびその側近は南魏軍の幾たびかの側面からの攻撃にも即座に方向転換して対応していたが、そうしたことが出来ない下位の兵のうちでも特に疲労した者から順に討ち取られていくことに張蓋はいかった。ましてや張蓋は部下を大切にして弱卒であっても努力する者は見捨てない主義であった。自分の大切な部下のうち弱った者から順に討たれていく状況に憤りを覚えて再度の方向転換をして部下を助けに行けば、またその方向転換で置き去りにされた者たちが南魏の別の将に討たれる状態に陥った。

郭俊は張蓋の部隊が韓叡の本隊から孤立することを狙っていたのだ。部下を大切にする張蓋が部下を助けるためにきびすを返す行為を利用した。それによって韓叡が後から戦場に駆けつけても張蓋との合流は難しくなるだろう。たしかにそんな弱卒ばかりを狙う作戦は武人としては誇れるものではない。それゆえ黄援たち歴戦の武官は郭俊から作戦の内容を知らされると渋い表情をしつつ、やむを得ず協力したのだ。

張蓋が出陣したことを知って後を追った韓叡は無論そうした作戦内容まで把握していたわけではないが、武勇はあっても知恵は無くさらに部下を気遣う張蓋が何か罠にはまるのではないかと気になって本隊を率いて追いかけざるを得ない心境で、やむにやまれず出陣した。しかし、そこで待っていたのは麗玉の部隊であった。

さすがは魯雲に勝るとも劣らぬ弓術の妙手みょうしゅたる麗玉の部隊である。また、麗玉は騎馬にも優れていたためその機動力を最大限に活用して、韓叡率いる本体と張蓋率いる第二部隊との合流を見事に防ぎ、矢を的確に射ては敵の将兵をどんどん討ち取っていった。もちろん、韓叡や張蓋の配下に弓術を得意とする者がいないわけではない。しかしやはり麗玉およびその直属部隊の射る矢は的確で、南魏の兵士一人が射殺される間に敵を五人以上も射殺している。これではかなわぬと見た韓叡は、ついに張蓋率いる第二部隊と合流することを諦めた。

こうして敵の二大巨頭を分断するところまでは成功した。しかし張蓋はおそらく契丹最強の豪傑。これを生け捕ることはもとより討ち取ることでさえも困難を極めるだろう。

(現時点で対峙している敵将の中では……いや、契丹全体を見渡しても、張蓋こそが最強の武力を誇るかも知れんな)

張蓋の武勇に対して今すぐ対抗できる策を思いつかなかった郭俊は、本隊を統率する韓叡の方を如何にぎょそうかという点に思いをめぐらせた。たとえ韓叡を殺さなくても生け捕りにすれば、この地域の契丹は今後国境を脅かさなくなるであろう。

とはいえ、韓叡は知性に裏打ちされた慎重さと統率力に優れ、張蓋に比べれば格段に落ちるとはいえ武力もそれなりに兼ね備えている。賈良の様な逸材はともかく他の文武官ではあるいは韓叡を討ち取れないかもしれぬ。ゆえに武官にこそ韓叡討伐の指令を出したい。とはいえ我が方の諸将のうち、数々の武勲をあげた黄援どのは張蓋を討ち取るために別動隊に参加してほしいところだ。

(ここはひとつ慎重に、軍功のある者を起用したい)

「馬典どの、王信どの、貴公らのいずれかに今回の任務を引き受けていただきたいのだが……」

「郭俊どの、お待ちくだされ!それがしに任せていただきたい!」

名乗りをあげたのは文武官の甘成かんせいだった。

「甘成どの……しかし貴公は武官ではないし、しかも貴公は最近まで病床に伏していたではないか」

「たしかに私は文武官ですが、敵将の韓叡とてそれほど優れた武があるわけでもありますまい。それに病床から出られぬ間に賈良どのの様な若い文武官が活躍なさるのを黙って見ていることしか出来なかったのが悔しいのです。何としても私に活躍する場をたまわりたいと存じます!」

(賈良君は十年に一度の逸材だから対抗意識を燃やす目標としては高すぎるような気がする。甘成どのは無理をしている様にしか思えない……)

内心ではそう思った郭俊だったが、傍らにいた二人の武将が甘成に賛成したので結局は甘成に任せざるを得なくなった。

「それでは甘成どのにお任せいたす。だが、敵があらぬ方角に撤退した場合は、撤退した先に伏兵がいると考えて慎重に戦ってくだされ」

「承知した!」

甘成は深々とうなずき、駿馬を駆って韓叡を追った――

全軍を統括する軍師たる郭俊の立場としては敵のもう一方の隊にも攻撃をくわえないとならないが、韓叡とは対照的に、張蓋は慎重さこそ欠いているが尋常ではない剛力を誇る豪傑だ。城内や陣中にこもれば智謀に勝る韓叡の方が手ごわいが、今の戦況の様に平原を疾駆する馬上での戦いに関して言えば張蓋の方がはるかに恐ろしい。

(ここは練達の黄援将軍を再度先鋒として、次鋒として馬典将軍あるいは賈良君を用いよう)

郭俊のこの判断により、韓叡に対しては甘成とその部下が、張蓋に対しては再び黄援を主軸として複数の武官が追撃をかける形となった。


「韓叡!韓叡はいずこにありや!この甘成が相手だ!いざ尋常に勝負せよ!!」

遠方から駆け寄ってくる甘成の声は韓叡に届いたが、敵の強さが未知数ならば、諸将を率いる立場として軽率に一騎討になど応じるべきではないと判断した韓叡は、最寄もよりの城である昇鶴城しょうかくじょうに逃げ込むことを目指した。だが、韓叡を護衛すべく伴走していた兵士が統率者であることを示す「帥」の旗を掲げながら馬を疾駆させていたため、そして韓叡自身も統率者であることを示す羽扇を持っていたため、甘成は誰が韓叡その人であるかを容易に判別できた。

韓叡は恐怖に震えながら馬を疾駆させたが、馬術はもとより乗っている馬自体も甘成の方が優れていた。韓叡に追いついた甘成は一撃二撃と、馬上から槍を浴びせた。だが韓叡も単なる文弱の徒ではない。甘成に押され気味とはいえ、かろうじてその槍を弾きながら守勢に回りつつも持ちこたえた。

その直後、韓叡を討ち取る絶好の好機が一気に遠のいた。韓叡にかろうじて追いついた契丹側の将が、矛をもって甘成の槍を受け、韓叡をかばったのである。

(まずい!このままでは韓叡と引き離されてしまう!)

そんな甘成の心配を超える恐怖が直後に襲った。さらにもう一人の敵将が甘成に狙いを付けて斬りかかったのだ。意表を突かれた甘成はとっさに攻撃をかわしたものの、一気に守勢に転じた。駿馬に乗る甘成を追いかけた兵馬たちの援護はとても間に合わない。かろうじて一騎だけ追いついた武将がいたが、力及ばず討ち取られてしまった。

やむを得ず引き返す甘成。韓叡との距離は離れ、しかも文武官として功績のあった甘成が討ち取られそうな危機に陥ったそのとき、次鋒として控えていた王信が駆け付け、見事に一騎を討ち取った。仲間を殺されて浮足立ったもう一方の武将は、王信の見事な槍さばきにより矛を弾き落とされやむを得ず撤退。双方の陣営が歩卒数名のほかに馬上の将を一人ずつ討ち取られる結果になったが、その間に肝心の韓叡は昇鶴城に逃げ込んだため、郭俊の陣営にとっては手痛い結果になった。


そのころ、黄援を先鋒とする別動隊は張蓋に追いついていた。

「おおっ!そこにいるは敵の副将、張蓋とお見受けいたす!いさぎよくこの黄援と勝負せよ!」

馬上から大音声だいおんじょうにて名乗りをあげ、勇ましく馬を駆って追いかけた黄援に対して、自らの武勲に自信のある張蓋は取って返して一騎討の形になった。序盤は老練な技量を誇る黄援の猛攻に多少は驚いた張蓋であったが、黄援が傑出した武将であると気づくと、油断を捨てて渾身の力を持って応戦し、勝負はすぐに互角になり、そして徐々に張蓋が黄援を圧する様になっていった。

だが黄援も負けてはいない。やすやすと首を取られてたまるものかと長年打ち込んだ武芸で培った技巧をもって張蓋の槍をかろうじてかわし続けた。双方の将兵が魅入るほどに見事な槍術の応酬は半刻以上も続いた。あまりに激しい討ち合いに張蓋も相当に疲弊したが、最終的には黄援の方が落馬。徒歩かちになってもかろうじて張蓋の槍を剣術で受け流していたが、討ち取られるのは時間の問題と思われた。

そこに一騎の若武者が切り込んだ。賈良である。賈良の凄烈せいれつなる槍の乱舞に、さすがの張蓋も守勢に回らざるをえなかった。しかし、若干は優勢であった賈良も張蓋を討ち取るには至らず、かろうじて退散させるだけにとどまった。半刻以上に渡って老練な黄援との一騎打ちを繰り広げた末の疲弊があるにもかかわらずなお討ち取れなかった張蓋という武将の並々ならぬ武勇に、賈良は底知れぬ畏怖を感じた。


第二十三章

その日の夕方の軍議では、甘成の処遇が問題となった。黄援と賈良は張蓋に対抗するために別動隊に配置せざるを得なかったが、武勇に優れた王信あるいは馬典が韓叡に追いついていれば韓叡を討ち取れたかもしれない。少なくとも敵は二人の将ではなく四~五人の将あるいは十人以上の歩卒が駆け付けなければならぬ事態になり、その間に弓術を得意とする誰かが複数の敵将を討ち取れた様に思われる。

(最悪の場合、私の処分は斬首かもしれぬ。だが、それもやむを得ないのであろう)

甘成は最悪の事態を覚悟して、せめて故郷にいる家族に元気でいてくれとことづけておいてほしいと側近に伝えた。

だが郭俊は、甘成以外にも甘成の起用を推す声があったこと、および最終的な判断は郭俊によるものであったことを理由に、厳格な処置は取らなかった。ただ、今後は甘成に先鋒を務めることは許さないということだけはハッキリと命じた。

(甘成どのにあまり厳しい処遇を下せば、我が方の結束に亀裂が入る。今は我々が一丸となって強敵を倒さねばならない時期だ。わずかでも不和の種をきたくない)

そうした心配があったため、郭俊は厳しい処置をとれずにいたのだ。甘成の処遇は穏便にしないと禍根かこんを残すと判断した郭俊は甘成については先鋒を決して認めないという処置で誰も不満を述べないと確信したが、城に籠った敵を如何に討つかという目下の課題に頭を悩ませることになった。

昇鶴城に逃げ込んだ韓叡と張蓋およびその部下の将兵は、豊富な兵糧に頼って長期にわたって籠城する意図の様だった。

将兵の数では郭俊の率いる軍隊の方が勝っている。しかし、城壁を盾にされたまま打って出てこないままでは兵力の消耗は避けられない。敵が出撃すれば迎撃できるだけの陣形を構えて罠に嵌めることは郭俊にとっては容易である。だが、一度の敗戦で教訓を得た韓叡は、これまでのどの敵よりも慎重になっていた。


南魏の第一軍師として活躍してきた郭俊の敗戦率は一割五分程度である。そして「一度敗北した敵には決して敗北しない」と自らに立てた誓いの通り、郭俊はこれまで同じ敵に二連敗を喫したことは無かった。しかしそんな郭俊も今回ばかりは智将韓叡の慎重な性格と英傑張蓋の剛勇ぶり、そして敵の輜重もなかなか尽きそうにないという状況から、さすがに自らの智謀による勝利を諦めるに至った。

「残念ながら、今回ばかりは特段の策を立てられないか……」

やむを得ず諸将を招集した郭俊は、一騎討をもって決着をつけたいという提案を述べた。

「敵将の韓叡は、確かに一敗地にまみれさせることには成功した。だが用心深い敵なので、今後は挑発に乗ってくることなど無いだろう。これまで幾度か功を奏した陽動作戦も、今回の籠城では通用しなかった。それゆえ、残念ながら韓叡の軍を下すには、一騎討による決戦しかないものと思われる。そこで諸将に呼びかける。副将の張蓋と一騎討をしてくれる猛者がいたら、名乗り出ていただきたい!」

これまで幾度も知略で敵を破った郭俊が、今回ばかりは自らの智謀に頼れぬことを認めて諸将の武のみを頼りにしている。この事態の重みに誰も名乗り出るものはいないのではないかと、ほとんどの将軍が思った。

僭越せんえつながら、私にその大任をまかせて頂けないでしょうか?」

重い沈黙を打ち破る凛とした声で、彭蒙が志願した。周囲の武将は彭蒙の巨躯きょくに期待をいだいたが、しかし幾多の戦果をあげた諸先輩を目の前にして名乗り出る態度に、若干の不快感もまたいだかずにいられなかった。

とはいえ、中には彭蒙の気概を買う者もいた。今期仕官した武官たちの中にあって、彭蒙は弓術と馬術でこそ呂恬に後れを取ったが槍術に関しては随一であるし、剣術でも賈良をしのぐ猛将であることを根拠に彭蒙の起用を申し出た。

「他に名乗り出たい者がいれば、その者たちの意向も無視は出来ないが、いかがかな?」

郭俊は諸侯の表情をうかがった。しかし、今回の敵ばかりはさすがに強すぎると見なしたのか、あるいは練達の勇将である黄援さえも激しい討ち合いの末に僅差で負けたことに恐れをなしたのか、他に名乗りをあげる者は誰もいなかった。かくして張蓋と一騎討をするのは、新参者なれど南魏に於いて当代随一の彭蒙ということになった。


第二十四章

しかし、昇鶴城に立てもった敵は何故か一騎討ちの日数を遅らせるようにとの書状を送ってよこした。血気盛んな張蓋が急に怖気づいたとは思えない。周囲の部下が一騎打ちを制止しようとして揉めているのだろうか?

一日、また一日と約束の日が遅れるにつれ、南魏の諸将、特に彭蒙は苛立った。しかし五日目にはついに昇鶴城から張蓋が出てきた。

「やあやあ、我こそは当代随一の張蓋なり!南魏の諸将のうち、我が槍の錆にならんと願う命知らずは、今すぐ名乗り出よ!」

そこでいよいよ彭蒙が向かって行った。

「お前が腰抜けで有名な張蓋か!今まで通り怖気づいていれば命を長らえたものを!自ら死期を早めるとは愚かな奴!」

「何をこしゃくな!」

その後は両者ともに裂帛の気合を込めての激しい一騎打ちとなった。

双方武芸を極めた達人同士の一騎打ちである。両者の槍がガッシ!ガッシ!と討ち合うたびに、天も地もこれを恐れるかはたまた言祝ことほぐかと言わんばかりに周囲の空気はふるえ、地はうねった。

張蓋の身を案じる韓叡およびその側近は気が気でない様で、ハラハラしながら両者の討ち合いを眺めていた。しかしそれは南魏の諸将も同じであった。郭俊はもちろんこれまで武勇で名の知られていた黄援や賈良や馬典そして王信はもとより、智謀において功績の大きかった麗玉や甘成も両者の討ち合いを手に汗握って見守った。

しかし両者の武芸は全くの互角であった。勝負は昼にまで至っても決着がつかず、昇鶴城内の軍師に当たる韓叡が郭俊に一刻の休憩を双方に与えることを提案し、郭俊もそれに同意。その提案を受け入れた張蓋と彭蒙は水を飲み、かわやに行き、馬を変えて再度切り結んだ。しかしさらに二刻の時が過ぎても決着はつかず。ついに韓叡は部下に命じて退却の銅鑼を鳴らせた。

「残念だが、今日はここまでの様だ。命令にそむくことは出来ない!」

「命令ならば仕方ない。だが次に相まみえた時はお前の命日だぞ!」

「ふん!それはこっちのセリフだ!」

そうしてその日の一騎打ちは引き分けとなり、双方の陣営は張蓋と彭蒙という豪傑の凄まじさを口々に論じた。

しかし翌日、昇鶴城から張蓋は出てこず、韓叡の派遣した使者が「張蓋将軍は急病のため、一騎討は延期したい」との申し出があった。この手紙に激しい不満を感じた彭蒙は使者の胸ぐらをつかんで

「以前も何日か待たせておいて、ふたたび待てとはふざけた話だ!いったいいつまで待てば次の勝負が出来るのだ?!」

と問いかけた。その腕に込めた力があまりに強くしかも使者を激しく揺さぶったので使者は言葉を発する事が出来なくなってしまった。賈良や麗玉が必死に彭蒙をなだめてようやく口を聞けるようになった使者は

「病気なので何日後に治るかは分からない」

と答えた。しかしこの答えに不満な彭蒙が使者に再びつかみかかったので、今度は賈良と麗玉と黄援さらには郭俊までも協力して彭蒙を使者から引き離す羽目になった。

その六日後、ようやく出てきた張蓋は、病気と言われていたのが嘘の様に異常な勢いで彭蒙に斬りかかった。だが彭蒙も数日間待たされた苛立ちを一気にぶちまける様に強烈な気合で武芸の限りを尽くし、再度両者は全く互角の討ち合いをすることになった。

おまけにその日は前回と違い正午の時点で韓叡に命じられた部下が銅鑼を鳴らしたため、前回よりも短い一騎打ちになり張蓋にも彭蒙にも不満が残った。

再度の使者はその日のうちにやって来た。そして今度は直接彭蒙に伝言を伝えるのは危険と察知して、「再度しばらくの間、一騎打ちを休ませてほしい」という内容を郭俊に伝えた。その内容を彭蒙が聞けば激怒することが分かっていた郭俊は、今回は事前に賈良と黄援と麗玉と馬典そして王信に彭蒙を押さえつけさせたうえで、使者の言葉を彭蒙に伝えた。

そして次は十日以上も経過してから再度の一騎打ちとなり、またも両者は互角の斬り合いとなったのだが、今度は正午どころかわずか一刻の討ち合いで韓叡が退却の銅鑼を鳴らせたため、彭蒙だけではなく張蓋も憤懣ふんまんやるかたないという表情で引き下がり、昇鶴城では張蓋が韓叡を罵倒する叫び声が一刻以上もとどろいた。

そしてもちろん、その日の夕方には昇鶴城から再度の使者が訪れ「またいつか一騎討を申し込みたいが、韓叡将軍の意向もあるので、それが何日後になるかは分からない」との由を伝えた。その頃にはもう彭蒙も周囲に当たり散らすことは無くなっていたが、使者の申し出を伝えた郭俊に対して悔しそうな視線を投げかけたことに郭俊は心を痛めた。

その夜は自棄酒やけざけを飲む彭蒙をなだめるのが大変であったと後日郭俊は聞かされた。麗玉を中心に黄援と馬典と賈良と王信がそろって「彭蒙どのは何も悪くない。むしろ彭蒙どのの武勇を張蓋あるいは韓叡が恐れるからこそ、再度の対決を遅らせているだけだ」と言って何とか彭蒙の自尊心を保つように配慮して、ようやく彭蒙が

「やけ酒は無駄だな!同じ飲むなら張蓋を見事討ち取って、勝利の宴会で美酒を飲みたいものだ!」

と言ってくれたので何とか丸く収まった。彭蒙や黄援や馬典そして王信といった武官はともかく、郭俊はもちろんのこと麗玉や許秀や甘成そして銀月や紅梅は、この様に一騎討を伸ばしたり一刻のみで打ち切らせたりする韓叡に何か意図があるのではないかと思っていた。あるいは賈良も何か違和感を感じていた様で、郭俊に対して

「韓叡およびその側近が何を考えているのかわかりません。彭蒙どのを苛立たせて失敗することを狙っているのでしょうか?」

などと疑義を述べた。しかし郭俊も韓叡の意図をはかりかねていた。疑問を投げかけた賈良には

「おそらく張蓋が討ち取られれば昇鶴城のみならず契丹全体にとっても大打撃だから、負けるのを恐れているのだろう」

と答えたものの、実は自分も同じ心境、つまり逆に彭蒙の方が討ち取られれば南魏にとって大打撃になるという事を恐れ、内心では次回の一騎打ちがなるべく長く延期されることを祈っているという事に気づいた。

双方の陣営が煮え切らない思いを抱えていたそんなある日、何か現状を打破できないかと頭を悩ませている郭俊のもとに麗玉が馬を駆ってやって来た。

「郭俊さま!韋攸さまの使いとして、魯雲どのがいらっしゃいました!」

「何?韋攸どのの使い?!」

麗玉の言葉に郭俊は驚きを隠せなかった。韋攸が赴任しているのはこの戦場よりは南に位置する。一応は契丹からの攻撃も想定して魯雲の様な文武官や楊達ようだつをはじめとする歴戦の武官も幾名かは配しているものの、今すぐ戦闘に巻き込まれることは無いであろうと思われた地域だ。それゆえ、軍事よりも内政に優れた文官である陶玄とうげんおよびその部下の鄭基ていきを配し、食料の確保とか南蛮との外交交渉をむしろ期待されている地域である。その南西の地から魯雲の様な重要人物が使いとして訪ねて来たということは、かの地で何か不穏な動きがあったのだろうか。

しかし、麗玉とともに幕屋に着いた郭俊は、魯雲の落ち着いた雰囲気から魯雲の報告がおそらく凶報ではないであろうことを察知した。

魯雲の言うところによると以下の通りであった。南蛮と南魏の信頼関係は深く、滅多なことで不和は生じないと判断した韋攸は、陶玄や鄭基の協力を得て目下の関心事項である契丹の内情を探ることに注力していたのである。

もちろん本来の任務および任地を変える以上、王都に使者を送ってその旨を伝えていたが、丞相は国王に報告するまでもなく即座に認めた。それは韋攸ほどの知恵者が南魏にとって契丹と南蛮のいずれがより敵対的であるかを見誤る筈がないという信頼があったからだ。

そして韋攸と陶玄そして鄭基の三人は、武官の楊達の発言を受けて、とある撹乱政策をしばらく講じていたのだ。その撹乱政策とは昇鶴城周辺の契丹に何とか講和派の人士を集めることであった。当初その策動は難航した。とはいえ郭俊はもちろん韋攸もまた概ね勝ち戦を繰り返してきたこともあって、契丹の中には南魏と早く和睦を結びたいと思う者たちが多くなってきたのも事実だった。その中にあって昇鶴城のそばの地域で徐々に和睦を求める声を強めるべく尽力する事は、徐々にではあるが何とか功を奏することになった。

この策動の過程で昇鶴城の情勢も徐々に分かってきた。張蓋自身は一日も早く一騎打ちで南魏の猛将を打倒して武勲をあげたいと思っているのだが、韓叡が張蓋の意見に反対していたのだ。そして韓叡が反対する背景には何とか昇鶴城の近隣の地域から援軍を呼び寄せようとする韓叡の策動と、厭戦気分の強い講和派をたきつけて援軍の派遣を邪魔しようとする陶玄や鄭基のせめぎあいがあったのだ。

結果として昇鶴城内は韓叡派と張蓋派に意見が割れ、今回の様に数日援軍を求める策動をしては一騎討をして、また数日援軍を求めてはまた一騎討をする、という奇妙な状態が生じたわけである。

最終的に援軍の望みがようやく絶たれて更に南魏との和睦を求めた方が良いという意見が昇鶴城の近隣地域で支配的になったが、それは魯雲の尽力以上に韋攸や陶玄や鄭基のおかげだった。もちろん魯雲もこの外交政策において自分がまだまだ不勉強だと思いながらも努力を続けてはいたのだが、さすがに高名な先達たちの能力には及ばなかった。

「魯君、貴公の話は了解した。あえて韓叡が一騎討の日取りを遅らせていたことの背景には、その様な事情があったのだな」

「左様でございます……」

郭俊の発言にうなずいた魯雲は言葉をつづけた。

「この点に気づくことが出来たのは、そもそも武官の楊達どのでした。豪傑として名高い張蓋という武将がいよいよ出陣したと聞いて、郭俊さまの部隊を心配した次第です。そして、楊達どののご意見を受けて韋攸さまが契丹の内政を把握していた陶玄さまや鄭基さまに相談し、こうした作戦を取ることになったわけなのです」

魯雲の言葉を受けて郭俊は興味深そうにうなずいた。

「まさに知者は知者を知る様に、勇者は勇者を知るわけだな。別の地域の話だが、延漢きっての猛将、廉淵将軍にいたっては、直接会ったわけでもない呂恬君でさえも『私ごとき、姜恂将軍に比べれば幾分か劣ります。ましてや廉淵将軍にはとても及びません』と手紙に書いていた。同じ延漢とはいえ西の端にいる呂恬君が直接目にするわけではないのに……姜恂どのがお話になったのであろうが、稀代の猛将の噂となると武官同士では話題に上がることもあるのであろうな」

「その様ですね。楊達どののみならず、同じく武に生きる于桓うかんどのも張蓋の勇名はご存知でしたので……そして、こうして政治的に昇鶴城を孤立させるのには成功しましたが、さすがに昇鶴城の敵は強敵。そこで韋攸さまのご意見をお伝えしたいと存じます」

「そうか……それで、韋攸どののご意見とは如何なるものであろうか?」

「はい。それはこういう事でございます……」

魯雲が伝えた韋攸の意見に、郭俊は激しく驚いた。韋攸の意見とはすなわち、韓叡および張蓋を昇鶴城の領主およびその補佐官として認め、昇鶴城を一つの自治区として南魏との講和を求める、というものだったのだ。

いかに韓叡や張蓋に苦戦を強いられているとはいえ、戦に勝つために多くの将兵を長らく率いてきた郭俊にとっては受け入れたくない案であった。とはいえ、今回の敵の手強さゆえに、もしも契丹で本当に講和派のみが政権を握る様になるまでの間、昇鶴城が平和を保ってくれれば非常に助かるのも事実であった。

「韋攸さまはもちろん、楊達さまも昇鶴城を一種の同盟国の様な属州として南魏との和議を結ばせる方が良いとお考えです。そしてこれは、契丹の内部で講和派の声を昇鶴城に聞かせる様に仕向けた結果でもあります。この案を採用してくだされば韋攸さまのみならず陶玄さま、そして鄭基さまのご努力も報われるというものでございます」

「そうは言っても、そのような制度を実現するには丞相閣下どころか周越陛下から勅許を賜らねばなるまい。陛下も事情を……今回の敵の強さを知れば、おそらくご理解くださるとは思うが、そのためには説明の使者が必要だ。誰に使者として行ってもらうのが最善だろうか……」

この郭俊の迷いに対して

「僭越ながら、その任務、私に任せていただけないでしょうか?」

名乗り出たのは許秀であった。

「幸い周越陛下は近々、視察のために楽郷城にいらっしゃいます。郭俊さまが魯雲どのの御進言の由を書状にお書きくだされば、私が急いで楽郷城に書状をお届けに参ります。陛下と直接面識のある私が伝令となって説得申し上げれば、陛下もご同意なさいますでしょう」

「許秀どの、貴公の御配慮に感謝する。この郭俊、周越陛下に書状をしたため、是非とも昇鶴城にいる敵の将兵を仮の領主と見なしていただく様に進言いたす」

郭俊は許秀に向かって頭を下げた。

かくして郭俊は書状を許秀に託し、周越からの許可を得たうえで韓叡と張蓋に各々領主と副領主という肩書を与えて、昇鶴城を一つの村落に値するあつかいとすることを提言した。周越はその場にいた側近にも相談しつつ、さらに許秀の意見もよく聴き、最終的にはその和平案を飲んだ。この業績は実際問題として契丹内部で講和派の意見が強まっていることにもよるが、そうした状況を的確に伝えた許秀の弁舌のおかげでもあった。

その許秀が和平を認める勅許を周越からたまわると、急ぎ馬を駆って郭俊のもとに向かった。そして郭俊はさっそく昇鶴城に和議を申し出た。

郭俊によるこの提案を韓叡は即座に受け入れたが、張蓋は当初反発した。しかし酈陽が使者として派遣され、

「我らは韓叡どのの智謀と同様に、いやそれ以上に張蓋どのの武勇を惜しむのだ。貴公の武を我ら南魏のために使ってくれとは申さぬ。ただ、契丹において南魏との講和を求める声が日に日に強まっている中で、その素晴らしい武を南魏を討つことに使わなければ、それで我らも貴公らを一城の主と認めたいところなのじゃ」

と言って説得したところ

「それがしはあくまでも契丹の将。ゆえにそれがしは契丹が貴公ら南魏との講和を結ぶ日が近いとの理由においてのみ、矛を収める所存でござる」

として張蓋が応じたため、昇鶴城を中立の地域とする協定が結ばれた。

とはいえ、このことは同時に南魏と契丹の間で和平協定が成立したあかつきには韓叡や張蓋をはじめとする昇鶴城の軍勢は南魏の属州になるのも城を明け渡して故郷に帰るのも自由という身分になることを意味している。契丹と南魏の間に和平が成立するまでの間は国境付近に一つの独立国を認めることになるかもしれない異例の措置であるが、契丹内部の講和派が政治の実権を握ればこれまでくだした敵と同じく配下においたも同然になる。前代未聞の対応であったが、郭俊の陣営では黄援や賈良や彭蒙といった張蓋と討ち合った武将はもとより、韓叡の慎重な用兵に頭を悩ませた文官や文武官もこの案を受け入れた。

(苦渋の選択だが、やむを得まい。それにしても韋攸どのおよびその配下のご尽力には感謝しないとならないな……)

かつて雲台うんだい二十八将軍筆頭の鄧禹とううから輜重を奪って光武帝自身が出陣するという結果をもたらした大司馬の李育りいくの如く、慎重な戦いをして敵の隙を見事に突く異才として評されていた郭俊であったが、今回こうして契丹の内政にまで精通してその派閥争いで韓叡を追い詰めた韋攸こそ李育の再来かも知れぬ。郭俊はそんな風に感じた。

(韋攸どの、契丹の政情を把握し、それを戦の駆け引きに利用なさる貴公の情報網と緻密なる深謀には、この郭俊敬服いたす。今回の貴公のはからい、生涯忘れませんぞ!)

郭俊は韋攸の任地である南の方角に向かって深々と頭を下げた。さらには自身の感謝の気持ちを伝えるべく、郭俊は韋攸のもとに戻る魯雲に礼状を手渡した。南の任地に戻った魯雲はその手紙を韋攸に渡し、韋攸は郭俊の感謝の意を知ることになった。


第二十五章

呂恬や孟幹が延漢の諸将と共闘している対匈奴戦において異変が起きた。延漢軍の指揮を執っていた皇太子の李嬰が急病に倒れたのだ。命に別状はないが指揮を執れる状態ではなく、兵法にも精通している皇太子が戦線を離脱して闘病のために王都の近くの城に撤退してしまったことは延漢にとって大きな打撃となった。

やむを得ず皇太子を指揮権を解いて代わりに自らが出陣しようとした国王の李荘であったが、重臣たちに止められたのでやむを得ず丞相の司馬徴を派遣した。司馬徴は内政の面では有能であり兵站の確保に尽力したが、戦地ではなく中継地点にある要害の地を守るために留まることにした。

(おそらく自分は戦地にいても李嬰殿下ほどの活躍は出来まい。むしろ兵站を確保するために尽力した方が軍に貢献できるだろう)

そのように考えた司馬徴は確かに部下を巧みに使って兵糧の運搬を滞りなくさせた。とはいえ作戦参謀として貢献した李嬰ほどの活躍は出来ないため、延漢軍の勢いは若干落ちた。

司馬徴が自身の考えを李荘に伝えると、李荘もやむなくこれを承知した。

(やはり私自身が行くべきであったのだろうか。たしかに私が行っても李嬰ほどの知見は示せないが他ならぬ国王自身が来たと知れば現場の将兵の士気も上がった事であろう)

などと思ってみたが、今から命令をひるがえしても良い結果にはなるまい。かと言って第二軍師の蔡単を補佐に付けるとすれば北辺や東方の情勢にも精通している上に国内の政治を俯瞰できる重要人物が王都洛陽から離れることになる。それはやはり避けたい事だった。

(司馬徴も軍事や外交はともかく内政には明るい。高祖劉邦を支えた蕭何しょうかの如く輜重を守ってくれれば前線の将兵が兵糧に困ることは決してあるまい)

それはそれで李荘の本心であった。とはいえその一方で

(しかしやはり韓信かんしんあるいは馮異ふういの様に陣頭で軍を統括してくれる者、あるいは范増はんぞうの様に陣中に身を置きつつもはかりごとをめぐらしてくれる者にこそ将兵の近くにいて欲しいものだ……)

という願望が頭をもたげてきたのも事実だ。

その結果、思いつめた李荘は南魏王周越に親書をしたためた。その親書にいわく――


貴国には知者賢人綺羅星の如くと聞く。寡人かじん、貴国の人材豊富たること我が国の遠く及ぶところではないと知るにつけ、さらに昨今の北狄ほくてきの精鋭の意気軒高いきけんこうなるを見るにつけ、貴国より英明なる賢者の派遣を請いたく書状をしたためるに至る。願わくは貴公の擁する諸賢のうち、その一角を担う人士の一名を、寡人に対する助力のために延漢の南西の地へと遣わしてはくれぬものであろうか。勿論この御協力に際しては金銀をもって謝礼となすのみならず、貴国が不幸にも北狄に蹂躙されるに至った際には、我が国に人材乏しいとえども、限られた人材の中で可能な限り賢明なる者を貴国の救援のために派遣し、協力いたす所存なり。


延漢という同盟国の危機は、ひいては南魏自体にとっても危機である。そのことを良く知る周越は丞相の張豊ちょうほうをはじめとする王都の重臣たちとともに、誰を派遣するかを巡って昼夜議論を重ねた。最終的に郭俊は、王命により陸正および幾ばくかの将兵を対匈奴戦のために派遣することにした。軍議は郭俊と麗玉と甘成と許秀、そして女性の文官の中で最も兵法に精通している銀月が中心となっておこなうことになった。

南魏からの援軍を受け入れて延漢の軍勢は活気を帯びた。すでに孟幹たち南魏出身の武官たちは延漢において匈奴の急襲を数回にわたって撃退しており、呂恬の剛勇ぶりにいたっては、延漢はおろか南魏にも匈奴にも名の知られている廉淵にはさすがに及ばないにせよ軍功第二位の姜恂との差はそれほど大きくはなく、延漢では第三位の武勇を誇る猛将と評されていた。

そのうえでさらに今回は陸正という名参謀に加えて武功のある将兵たちも派遣してくれたので、周越の配慮にいたく感動した延漢では、将兵のみならず王族も南魏に感謝の意を示し、国王の李荘はさっそく使者を通して約束の金品を南魏の王都に届けた。


第二十六章

その後、郭俊のもとから麗玉が離れることになった。韋攸から麗玉及びその部隊を南にある韋攸の任地に派遣してほしいとの依頼があったのだ。昇鶴城の戦いで韋攸の世話になったからか、それとも郭俊の赴任地における強敵のほぼ全てに打ち勝った余裕ゆえか、今後のために麗玉及びその直属の将兵を派遣してほしいとの韋攸の依頼を郭俊は受け入れた。

こうして、かつては郭俊の配下として、今は韋攸の配下として、魯雲と麗玉は再開することになった。

「久しぶりだね朱さん」

「そうだね、魯雲。……あ、そういえば最初にお礼を言わないとならないね」

「お礼?」

「うん。だって、韓叡や張蓋を懐柔する策を献じたのは魯雲でしょ?」

麗玉の指摘に魯雲は思わず照れ笑いをした。

「う~ん…そんな風に買いかぶってくれるのはうれしいけど、あれはあくまでも韋攸さまと陶玄さま、そして鄭基さまのおかげだよ」

「え?そうなの?」

「まあ、僕もそうした謀議に参加はしたけどね。でも主たる任務として敵国の内情を正確に把握できたのは別に僕のおかげじゃないよ。僕はあくまでそのお手伝いをしただけさ」

「ふ~ん」

もしかしたら魯雲が謙遜しているだけなのかもしれないが、謙遜なのか真実を言っているのか判然としなかった麗玉は、その点をそれ以上掘り下げて尋ねる気にはならなかった。

「それよりも朱さん。見て欲しいものがあるんだ!」

「え?見て欲しいもの?」

「うん。僕の弓術だよ。政治についても韋攸さま達のもとで学んでいるけど、弓術も時どき練習しているんだ。今から見てもらえるかな?」

「う、うん……まあ、別にいいよ」

二人は城内の中庭にある弓術の修練場に向かった。しばらくぶりに会った麗玉に自らの成長ぶりを示すべく、魯雲は自身の武芸を披露したかったのだ。魯雲の弓術の上達ぶりを見た麗玉は

「ふ~ん、けっこうやるじゃない……腕をあげたね、魯雲!」

と素直に認めた。

魯雲がいまだに槍術と馬術では麗玉におよばないとはいえ、弓術において麗玉と互角になったことを麗玉は評価した。また、内政や外交といった政治の機微に関しては魯雲の方が自分よりも高い知見に至っていることも麗玉は素直に認めた。とはいえ、これまでも時どき揉めた二人のことである。さすがにまったく意見の対立が無かったというわけではない。

仕事の後に政治や歴史の談議になり、話題が『史記』の項羽と劉邦におよんだ際、史実上は劉邦に負けた稀代の猛将項羽が天下を取り得たとしたら、その最大の好機は如何なる時点であったかという話題になった。

咸陽に到達するための競争の際に必要以上に敵を殺したことが項羽の最大の失敗であり、その競争の際に敵を懐柔して仲間にしていれば項羽は天下を取れたであろうと評した魯雲に対して、鴻門の会およびその前の晩こそ項羽が天下を取るための最大の好機であったと麗玉は評した。

「たしかに敵の将兵を説得して味方に引き入れていれば項羽は劉邦に先んじて咸陽に到達できただろうね。だけどその業績で得られるものって何?単にお飾りの皇帝から咸陽の政治を委任されるだけでしょ?そんなの天下取りにおける分水嶺にはならないよ。それになまじ委任されてしまったら劉邦と項羽は同僚という立場になるから劉邦を討つための口実が出来ないじゃない。それよりも張良の懐柔策に取り込まれた身内の意見なんて無視して四十万の大軍を使って劉邦を討てば良かったわ。たとえ部下に反対されてそれが出来なかったとしても、せめて鴻門の会で范増の指示通り劉邦を斬れば良かったのよ!せっかく劉邦が函谷関を閉ざして謀反を疑われる原因を自ら作ったんだから、その疑惑を大義名分にして劉邦を斬れば項羽の天下統一は確実だったわ!」

「でも、そんなことをしたら後で劉邦の遺族から『劉邦に謀反の意図はありませんでした。これは冤罪による処刑です』と言われるんじゃないかな?……まあ、最悪の場合項羽が責任を取って皇帝の座を諦めて文武両道の季布きふ将軍に禅譲すれば楚軍が天下を取ることは出来るかもしれないよ。でも、それって楚軍による天下統一とは言えるけど、皇帝になるのは季布将軍であって項羽自身じゃないよね」

魯雲が提起したこの疑義に、麗玉は呆れてしまった。

「たしかに季布将軍は知力も兼ね備えているから武力一辺倒の項羽よりも皇帝にふさわしいとはアタシも思うよ。だけど、なにも別に劉邦の遺族に気兼ねして項羽が皇帝の地位を季布将軍に譲る必要はないでしょ!」

「でも、それでは楚軍以外の陣営が誰も納得しないよね?……というか楚軍の中でも項羽の支持者が減るんじゃないかな?」

この魯雲の意見を聞いた麗玉は思わず吹き出しそうになった。

「あのねえ魯雲、私たちが生きている今の時代くらい秩序があればそんな議論にもなるかもしれないけど、当時はこれから秦の次の王朝を作ろうしている時代だよ。劉邦の遺族が何と言っても、項羽が季布に禅譲しなければならないっていう圧力なんか項羽の武勲の前にはかすんでしまうよ!」

「う~ん……でも、僕はそんな強引な手法には納得できないなあ……」

「それはあくまでも魯雲が納得できないっていうだけでしょ!劉邦を斬ってもその後の論功行賞をきちんとやれば、別に楚軍の誰も文句を言わないよ!」

そこまでは以前と同じく厳しい口ぶりで魯雲の意見を否定した麗玉だが、急に珍しく麗玉らしからぬことを言った。

「……でも、まあ魯雲のような考え方も、今の時代には合っているかもね。今の時代ならばたとえ項羽ほどの豪傑でも、劉邦の様な人望のある武将を冤罪で処刑したらその後は誰かに禅譲しないと国内が治まらないかもしれないわ。むしろそういう世の中こそが魯雲の望みなら、自分の望む様な国家のために政治を頑張ってみたら?」

魯雲の意見を麗玉は認めなかったが、あまり強く否定する口ぶりではなかった。むしろ激励するような言い方に、魯雲は少し戸惑った。

「ありがとう。頑張るよ。……でも、珍しいね」

「え?何が?」

「いや、朱さんが僕の意見をあまり否定しないで、むしろ僕を激励してくれるなんてさ……」

「そうかな?私って以前はそんなに魯雲に対してキツかった?」

この発言には魯雲の方が思わず吹き出しそうになった。

「もちろんそうだよ!以前は何かにつけて僕をからかってたよ!朱さん自身も謝罪したことがあるくらいだったじゃないか!……まあ、朱さんの方が僕よりも優秀だし、朱さんの言い方は別に悪意のある感じじゃなかったから頭にくることは無かったけど、キツい言い方をしていなかったとは言えないと思うよ」

「そう言えばそうだったかも……でも何故だろう?今は別に魯雲をからかおうという気持ちになれない。かといってもちろん無視するつもりもなくて、魯雲は魯雲で頑張って自分の道を進んでほしい、って素直に思えるよ」

麗玉の心境の変化が何故なのかしばらく考えていた魯雲と麗玉だったが、普段は他人の情愛に鈍感な魯雲が珍しく先に正解を思いついた。

「分かった!公徳でしょ!公徳が朱さんを大切にしてくれてるから朱さんは前よりも苛立つことが無くなったんじゃないかな?」

「え?!……」

そう言われて麗玉も思い当たった。確かに自分は、彭蒙と付き合う様になってから以前ほど同僚と対立しなくなった気がする。もちろん、もともと魯雲以外の同僚とは魯雲に対しておこなう様な「からかい」をしていなかった。とはいえ、軍務を失敗せずに徹底的にこなしたいという麗玉の気負いが周囲に圧迫を与えていたこともあった。今でも麗玉は軍務に関して手を抜いているわけではないが、最近の麗玉の言動には厳しさの中にも柔和さが見受けられると同僚に評されたのは、彭蒙と交際をする様になってからであろうと思えてくる。

「そう言われればそうかも……たしかに公徳さんとお会いしてから、私は変わったかもしれないね。魯雲…さん、良い人を紹介してくれて、ありがとう」

「え?…ああ、うん。でも別に僕が紹介したというよりは、才媛の朱さんの名は先に公徳にも知られていて、それで公徳の方が『会ってみたい』って言ってたんだ。だから朱さんが公徳に会えたのは僕の紹介というよりも公徳の意志だし、それに僕らの陣営で名が知れるほどに活躍していた朱さん自身の力量の成果だよ」

「そう…かな…?」

魯雲に褒められて少し恐縮してしまった。彭蒙に会わせてくれたことのお礼を言っても麗玉自身の知名度のおかげ、とまで言われるとは思わなかったからだ。そんな麗玉に魯雲は言葉をつなげた。

「でも、それはそれとして……」

「ん?」

「僕に感謝してくれるのはうれしいけど、別に魯雲さんとまで呼ばなくても、今まで通り魯雲でいいよ!その方が朱さんらしいし、僕も気が楽だよ」

「あ…そうか!わかった。そうするよ!」

魯雲の話をそこまで聞いたところで、麗玉はふと何かを言わなければならない様な気がした。

(あれ?そう言えば公徳さんは魯雲について何か言ってなかったっけ?)

そこで麗玉は膝を打った。

「あ!そうだった!」

「え?」

「そう言えばアタシ、公徳さんから魯雲に伝言を預かってたんだ…」

「伝言…って?」

「いや、違うか……伝言じゃないな。たしかに伝言ではないわ……でも公徳さんが、何だか気になることを言ってたんだよね」

「気になること…って何?」

「それが……実は私にも具体的な内容は分からないの」

「え?」

キョトンとした魯雲に対して麗玉は言葉をつづけた。

「ただ、公徳さんは魯雲に何か謝らないとならない、って言ってたの。具体的に何の事なのかを聞こうとしたら『俺と仲明の問題なので、具体的な内容を麗玉に言うわけにはいかない。ただ、仲明には謝罪しないとならないんだ』とだけ言っていたの。何だかアタシ、公徳さんの言葉が理解できなくて、夢の中にいるような気分だったわ。魯雲、公徳さんとアンタの間に何があったの?」

「いや、特に思い当たることは無いな……公徳が何か勘違いしているんじゃないかな?本当は彼の責任じゃない事柄に対して、勘違いで責任を感じてしまっているんだと思うよ」

「ふ~ん…公徳さんの勘違いかぁ……」

魯雲はその様に答え、麗玉も以後はその話題を口にすることは無くなった。麗玉の気持ちは落ち着いた様だ。だが魯雲の方には不安があった。

(朱さんは公徳と仲良くやっている様だな。それに対して僕の方は……まあ、今はまだ平和が訪れていないから仕方ないけど、いつかは雪蘭さんにキチンと向き合わなくちゃ……)

しばらく前に帰郷した雪蘭の事を思い出しながら、魯雲は現在の任務を全うして雪蘭と再会することを自らに誓った――


その頃、故郷に帰った雪蘭は機織りに打ち込んでいた。魯雲と再び会える日がいつになるのかは分からないが、会った時には是非とも見栄えのする立派な服を着てほしいと願って、魯雲が無事に帰郷することを願いながら精魂込めて機織りに打ち込んでいた。

(仲明さん、どうかご無事で……)

韋攸の任地は郭俊がいた地域よりも安全と魯雲は言っていたが、そう言われてもやはり不安な雪蘭は、せめて自分が出来ること真剣にやろうと決意し、魯雲の無事を祈りながら機を織る日々が続いていた。


第二十七章

韓叡および張蓋という智将と猛将の進撃が止められたことで、契丹内部には版図拡大を諦めて南魏と和平交渉を行うべきだとする講和派の声が強まっていた。契丹王の弟である副王が強固な主戦派であるため即座に和平交渉が始まるという楽観主義は早計だろうが、肝心の王自身は副王の手前やむを得ず主戦派の意見を聞いているだけの様である。韋攸の用いる情報網がそのことを把握すると、王都にいる周越にも伝令からその情報が伝わった。

いよいよ契丹との戦いも終息を迎えるかと、最近では国王の周越のみならず王都武漢の人々の大半も安心していた。その結果、郭俊が率いる諸将および麗玉たち軍師候補者は、各々しばしの休息を与えられた後、今こそ延漢の求めに応じて援軍を派遣し、匈奴との対決に精力を注ごうとしていた。

そんな矢先、魯雲や韋攸のいる地域に武漢からの使者がやって来た。第三軍師である法純の見立てでは、東の青燕が北の匈奴もしくは北東の靺鞨と同盟を結んで南魏を東から攻めるかもしれないという懸念があるとのことであった。そのため今まで派遣する将兵の数を増強して、王都は手薄になっている。北の国境を隣接している延漢は今まで南魏との同盟関係を破ってはいないので内政は丞相の張豊に任せて良いのであるが、軍事や外交について詳しい重臣たちが法純や呂平の赴任している東の地域に向かったので、王都には是非とも韋攸を配したいという事情があった。韋攸ほどの重要人物を異動させるのだから当然その地域の守りが弱くなることは周越および紅寧城の重臣たちも承知の上である。しかし契丹との戦いの主戦場は韋攸のいる地域よりも北に位置する郭俊たちの所在地だ。それゆえ韋攸を武漢の紅寧城において勤務させても西の国境が侵されることはあるまいとの憶測があった。

紅寧城から来た使者に恭しく接した韋攸は命令に従い急いで出立しゅったつの用意をしたが、留守を任せる息子の韋丹と部下の魯雲に対しては

「私はおそらく残りの人生のほとんどを王都で過ごすことになるであろう。私も郭俊どのも法純どのも、さながら南魏における韓信を目指して任務に邁進していたが、丞相閣下が蕭何ならば、陛下は私を張良として紅寧城に配しておきたい様である。とはいえこれも任務とあらば受け入れるしかない……」

少し寂しそうに語った。しかしそんな韋攸を魯雲は励ました。

「韋攸さま、張良は後日不老長寿の法を学び、韓信よりも末永く健康に暮らしました。韋悠さまも張良の故事にならって健康を保ちつつ長寿を達成なさってくださいませ」

韋攸はうれしそうにニコリと微笑んでうなずいた。

(おそらく敵は今後も郭俊さまのいる北部に兵を進めるだろう。こちらに方向転換する事は無いのではないか?もちろん韋攸さまがこの地を離れたと知ったら話は別だが、この情報を敵に漏らす者などいないだろう)

韋攸を見送った後、魯雲は楽観的に考えていた。しかし、韋攸の動きはやがて契丹にも伝わった。郭俊および韋攸の智謀により幾度もの敗北を喫していたため、その両翼の内の一方である韋攸がいなくなったならば、郭俊のいる地域ではなく、より南から攻め込んだ方が容易に南魏に侵攻できる。南魏との徹底抗戦を訴える王侯の中で最高位にある、契丹王の弟はそう考えたのだ。

もちろん韋攸の赴任していた地域も国境に近い地域なのであるから、配備されている南魏の将兵が極端に少ないというわけではない。また、兵を統括する将軍たちも黄援には及ばぬまでも武功を誇る歴戦の武官楊達をはじめ、戦の経験豊富な複数の将がおり、韋攸の息子でもあり文官に仕官した際には主席であった韋丹いたんもいる。しかし郭俊の大部隊に比べれば兵の数は少なく、しかも現在進軍を準備している契丹の軍勢は国王の弟が総司令を務め、いやがうえにも士気が高まっていたこともあって、現在の戦局は決して魯雲たちにとって好ましい状態ではなかった。

今回の敵が王族の直属部隊であること、およびその人数を想像するにつけ、魯雲は心細くならざるを得なかった。

(現在この城内にいる味方の人数では勝てないかもしれない……最悪の場合、僕は……城を枕に討ち死にするしかないのか……)

最悪の場合は城を枕に討ち死にするしかないのかもしれない。これまで多くの将兵の死を見て来た魯雲だ。自分もそれらの人と同じように死ぬのは仕方ないのかもしれないという気はする。しかし、この城を落とされ敵の侵攻を食い止められなければ、最終的には故郷の成申を含む南魏の領土が奪われ、領民が奴隷として売買されるかもしれない。

(たとえ今回の戦で僕が死ぬとしても、出来ることならばせめて故郷を守る役に立ってから死にたいものだ。それに、万が一のために雪蘭さんに宛てた遺書を残しておこう。雪蘭さんにはどうしても伝えないとならない事があるからな……)

そんなことを考えていた魯雲のもとに、北の方角からやって来た伝令が吉報を伝えた。

「魯雲さま、郭俊さまの陣営より、援軍の皆さまがいらっしゃいました!」

「何?援軍だと!?どんな人物たちが来たのだ?詳しく聴かせてくれないか?」

伝令によると、おもだった武将は武力が随一の彭蒙を筆頭に、文武に優れた甘成、楊達に比肩する武芸者の王信、そして樊順党の将兵たち。また文官としては、銀月および器楽を学んだ紅梅たちも援軍として加わり、多くの兵士たちも頼もしい援軍であった。法純の妹である銀月はもちろんのこと、紅梅など今回派遣された文官たちは普段の任務こそ器楽を主としているとはいえ法律や政治に加えて兵法も学んでいるのが今回選抜された文官の面々である。弓とか槍を用いることには不得手でも陣形や地の利については習熟している。そのため銀月や紅梅もふくめて、文官も軍議で意見を聞くに値する人士ばかりだった。

しばらくぶりに歴戦の勇士たちとの再会した魯雲。その中でも魯雲が特に喜んだのは、やはり樊順や紀覧といった樊順党の将兵と再会できたことだった。

「樊順どの、紀覧どの、久しぶりですね」

「魯雲さま、お久しぶりです」

「再度こうして魯雲さまと一緒に戦えて、光栄に存じます」

魯雲と樊順、そして紀蘭は互いに手を取り合って再会を祝した。それが大きな励みとなったのであろう。この諸将と兵たちが一丸となれば、敵が王族の率いる精鋭であろうと倒せるはずだという確信を魯雲はいだいた。

並みいる歴戦の諸将、そして韋攸の息子である韋丹も交えて、軍議は魯雲の提案する策を皆で論じるという形式で始められた。その軍議において魯雲は、自分なりの読みおよびその読みに基づく作戦を、あたかも熟練した軍師のごとく堂々と伝えた。

「おそらく敵はこれまで郭俊さまの作戦で個別撃破されたことから教訓を得て、密集して攻撃する事になると思います。なのでその前提で話しますが、仮に密集しないで二手に分かれたら、その時点で銅鑼どらを鳴らします。そうしたらこの別案の通りに先鋒と次鋒の隊が左右の敵を抑えつつ、残りの隊が敵の中央に切り込む態勢を取ります……」

魯雲の二段構えの作戦のうち、敵が予想外の方向に進んだ場合については全員理解した。

「そして、もしも敵が密集して正面からの強行突破という方針であるなら、先鋒や次鋒は次の様に動いてください……」

その後魯雲は、もしも銅鑼の次に鐘が鳴ったら、あることをしてほしいと銀月をはじめとした女性文官たちに伝えた。

魯雲の作戦を知った麗玉は

「敵が二手に分かれても分れなくても、私の隊は城壁で敵を迎撃するという任務ですね。…これは私にとっては分かりやすい作戦ですが、他の隊の諸将はご同意いただけますか?」

と問いかけた。それに対して魯雲は

「いずれの場合でも動き方はほぼ同じです。要は銅鑼を鳴らす時期が早いか遅いかの違いだけであって、銅鑼を鳴らすと先ほど言った通りの方角に転換をする、という事です。違うのは先鋒と次鋒が出撃した後の後詰が中央を突破するか否かですが、その点の指示は韋丹どのに殿しんがりを務めていただくので、韋丹どのにお任せいたします」

自身の作戦を提示した後、今回の作戦を即座には理解できない者たちに対して繰り返し説明をした。魯雲の立てた作戦に基づく軍議は諸将を納得させたので、軍議はすぐに終わり、各将は各々の部下に配置を命じた。

魯雲率いる弓隊は先鋒として、弓を構えた状態で敵を引き付け、射程圏内に入った瞬間一斉に矢の雨を敵に浴びせる予定だ。魯雲自身は今回の戦闘においても痺れ薬を塗った矢で敵の胸から下を射ることを提案していたが、かつての慧森軍の場合とは異なり戦意を喪失して逃げている敵ではないのだから今回は情けをかけることに道理はないという部下の反対意見により、前回の様な協力は得られない結果となった。

その後、開かれた城門から作戦通りの陣形を取るために各々の隊が出陣し、場内を守る将兵と文官を残して全員が整列したところで城門が閉じられた。これで後は可能な限り魯雲たちが敵を食い止め、それがかなわないときは城壁にいる将兵が応戦をするという事になる。

今回の作戦で先鋒を務めるのは魯雲の率いる弓隊だった。

敵がまだ攻撃態勢に入らぬ時点で、機先を制すべく魯雲は攻撃命令を出した。

「いざ進め!駆け抜けろ!敵に矢の雨を浴びせつつ、右斜めへ進め!」

魯雲の鶴の一声で、弓隊は矢を射りながら右斜め前へと駆け抜けた。

(ここで敵が密集した行軍のまま直進すれば良いが、もしそうでなければ左斜めに方向転換する銅鑼どらを鳴らしてもらわねばなるまい……)

ここで魯雲の願望がかなった。敵は弓を射りつつも敵から見ると左舷にあたる方向に隊列をかわした魯雲の部隊を軽んじ、城へ進む行軍の疾駆を速めた。

そこで次は彭蒙率いる部隊が正面から敵の右舷に回った。敵の前を疾駆しながら右斜めの敵の一角を切り崩すのが彭蒙の一番目の役割だ。出来れば敵の豪傑と一騎討をしたいという血気盛んな気持ちを抑えつつ、彭蒙は冷静に号令を下した。

「いざ進め!駆け抜けろ!敵に矢の雨を浴びせつつ、左斜めへ進め!」

魯雲の部隊とは異なり弓術に長けた者が多くはないのが彭蒙の部隊である。しかしそれでもなるべく弓兵を前に出し、彭蒙自身も弓の練習を繰り返したおかげで以前よりは腕をあげていたことも一因となって、魯雲の部隊ほどではないが敵に矢の雨を浴びせることになった。もっとも、敵兵も前面に弓隊を配していたため、彭蒙の配下の兵士が逆に敵の弓に射殺されることも少なくはなかったが……

魯雲の部隊と彭蒙の部隊、左右に展開した二つの部隊に左右の両翼を削られた形であったが、正面切っての強行突破作戦をはじめから狙っていたかのように動じることなく果敢に襲い掛かってくる将兵たちがいた。そこに待ち受けていたのは同じく強行突破を狙っていた楊達の部隊、そして樊順党であった。

「弓兵を先頭として、いざ進め!!」

怒号にも似た楊達の号令が響き渡ると、序盤は弓隊が、そして次には楊達をはじめとした槍術の使い手が次から次へと躍り出た。

「行くぞ!我々も後れを取るな!」

樊順の号令が響くや否や、樊順党は樊順などの幹部さえも置き去りにする疾風のごとき勢いで敵中に切り込んだ。

その背後を守るのは甘成の部隊と王信の部隊、そして殿しんがりにあたる韋丹の部隊。これらは魯雲と彭蒙のいずれの部隊が先に不利になるかによって右にも左にも援護できる様に二つの部隊として整列していた。

(そろそろ転換する時点かな…だとすると我が隊はどちらに向かうべきか……いや、そもそも私や王信どのの部隊に先駆けて甘成どのの部隊に行ってもらうべきは果たしてどちらの方角か……)

そんなことを韋丹が考えた刹那、

「よし!今こそ転換だ、左斜めへ進め!敵を討って血路を開くのだ!」

魯雲の命令のもと、魯雲率いる弓隊が左舷に大きく方向転換した。もっとも、これは危険な賭けであった。魯雲自身も含めて槍術や剣術にあまり長じていない者が多いのが魯雲が率いている弓兵を中心とした部隊だ。とはいえ、軍師候補者であり最近では内政についても学んでいる立場である魯雲でさえも折を見ては槍術の鍛錬を積んでいる姿を見ている。魯雲のそんな懸命な姿に触発された隊員たちは不慣れながらも槍術に励み、以前に比べれば弓術ばかりを重視する部隊ではなくなっていたのも事実だ。

「我々も転換だ!右斜めへ進め!我らが隊こそが敵将の首級をあげるのだ!」

自信に満ちた様な彭蒙の号令が鳴り響き、彭蒙をはじめとする将兵が一丸となって敵の右舷から中央後部へと切り込んでいった。

敵の左右両翼を削りつつ後方の敵にも打撃を与える魯雲の作戦はおおむね読み通りに進んでいた。軍議における魯雲の発言に従えば、長方形の敵の布陣をひし形に変えるのが魯雲と彭蒙の役割で、あとは楊達が樊順が中心となって敵の正面を切り崩し、左右から敵を圧する魯雲や彭蒙の助力を得て敵を挟み撃ちにする、というものだった。

ただ、やはり将兵の人数がもたらす限界はあった。そして能力差がもたらす問題は魯雲自身も感じている。かつて麗玉に組み手で連敗したころに比べれば魯雲が槍術の腕をあげたとはいえ、やはり小柄な体格ゆえに膂力りょりょくに限界もあり、しかも内政の補佐の合間を縫っての鍛錬では生粋の武官たちの槍術には及ぶべくもなかった。

そんな魯雲が危機に陥った。魯雲が討たれては今回の一戦のみならず南魏にとっても一大事なので、周囲の部下が魯雲を守りながら槍を振るい矢を射た。だが、敵を次々と薙ぎ払う彭蒙の部隊に比べれば幾分勢いがない。

後ろに控えて戦況を見ていた甘成は部下を率いて魯雲のいる方面に向かうべく敵の左舷を突破しつつあったが、ギリギリ間に合わないのではないかという不安が甘成の脳裏をよぎった。そのとき、

ガシッという音が魯雲の耳に響いた。魯雲を討とうとした敵将の槍を受け止めたのは、しくもかつて慧森軍との戦いにおいて賈良の槍を止めた紀覧であった。その直後、ひるんだ敵将の首を紀覧の側近が討ち取った。

「紀覧どの!貴殿には再び救われたな!この魯雲、いくら感謝しても感謝しきれぬぞ!」

「いえいえ、魯雲さま!我ら樊順党こそ魯雲さまの御高配で今こうして南魏の軍属として働かせていただいています。貴重な任務を下さった魯雲さまに報いるのは当然のことでございます。それでは、ひとっ走り行って敵をなぎ倒してまいります!」

紀覧およびその場にいた十数名の部下は魯雲が転換を指示した地点から見て左斜めの方向、つまり敵の後部中央へ向けて弓矢と槍をもって勇ましく切り込んだ。魯雲は自身の直属の将兵以上に奮戦する紀覧およびその部下に深々と頭を下げ、「我も負けじ」とばかりにその背後を負い、弓矢をもって戦闘に貢献した。

(故郷の成申を誰にも蹂躙させない!故郷の人たちは僕が同志とともに……いや、他ならぬ僕自身が守らなきゃならない!)

魯雲の心はいつになく熱気に満ちていた。こんなに血のたぎりを感じたのは、これまでの魯雲の人生において初めての事であろう。

自衛のため、故郷を守るため、そうした気持ちがここまで自身を奮い立たせるとは思ってもみなかった。国を担う文武官という公職に就きながら、国威発揚とか天下統一といった大義名分に、魯雲はどうしても共感できなかった。しかし、故郷を守るという目的の戦いならば、俄然がぜん気持ちがたかぶるものだ。

自衛のための戦い――それこそが内政に特化する人士になることを避けたかった理由なのだと、魯雲は今はじめて気づいた。

(そうだ!内政で非常に功績がある陶玄さまを尊敬しつつも、どうしても「陶玄さま以上に軍師の韋攸さまから多くを学ばないとならない」という気持ちを抑えきれなかったのは、こんなに大切な、自衛のための戦いがあるからなんだ!)

馬車を御者に疾駆させながら指揮をりつつ、射程圏内に入った敵に矢を放ちながら魯雲は思った。

城の近く、いわば殿しんがりの位置にいた韋丹は覚悟を決めた。南魏軍から見て右舷に当たる敵は魯雲の直属部隊と樊順党が切り崩し、左舷の敵は彭蒙の部隊が切り崩しつつある。最も苦労しているのは楊達や王信のいる正面の部隊だ。

「甘成将軍と王信将軍に伝えよ!我が隊も続くので、ともに正面の敵を討つようにと」

韋丹の前方にいる甘成の部隊および王信の部隊に対して、正面の敵と切り結んでいる楊達の部隊を助ける様に指示すると、韋丹は自らも部下を率いて正面の敵を討つべく出撃すると主張した。

そんな韋丹は側にいた部下から

「韋丹さま!韋丹さまは魯雲さまに万が一のことがあったら麗玉さまと協力して指揮を執る様にと言われている身です。軽々(けいけい)に出撃すべきではありません!」

と止められたが、

「いや、戦況をよく見よ!魯雲どのや樊順どののいる右舷は若干優勢。彭蒙どのの部隊はさすが南魏随一の猛将だけあって格段に優勢。それに対して楊達どののいる正面は、やはり敵の本隊としのぎを削っているだけあって最も苦戦している。そして、そもそも我が隊も他の隊も最後まで正面で戦わねばならないのではない。必ずや魯雲どのか彭蒙どのが部下に銅鑼を鳴らせる!その時になったら右斜めに転換だ!」

「かしこまりました!銅鑼が鳴るまでの辛抱ですな!」

先ほどまで韋丹を制止しようとしていた部下は頭を下げ、陣頭にいる弓兵のもとへ行き出撃を指示した。その会話を聞いていた于桓は

「韋丹さま、ご心配には及びません。私と我が隊は、韋丹さまの危機をお救いするべくこの位置に配されました。韋丹さまに害を成す者は我が隊が必ず討ち取ります」

「ありがたき言葉。感謝いたすぞ于桓どの」

楊達には劣るとはいえ、長らく韋攸の配下として戦い、幾ばくかの武勲をあげてきた于桓の言葉に韋丹は感謝の意を表した。

(今の戦況にかんがみるに半刻以内に銅鑼は鳴るだろう。だがもしも戦闘が長引けば、さすがに我が身もこれまでだな……)

「韋丹を守る」と堂々宣言した于桓の言葉を軽んじるつもりはなかった韋丹だが、たとえ于桓とその部下が命を懸けて奮戦しても今回こそは戦死するかもしれないという可能性を韋丹はかんがえた。それはこの度の契丹の軍勢がこれまでにない人数であることに加えて、国王の弟が指揮を執ることによって、契丹がそれまでの敗戦の記憶を忘れるほどに士気が高まっているからだ。

偉大なる軍師韋攸の息子として、魯雲という優秀な後輩とともに戦った者として、最悪の場合は敵を自らも指揮官ではなく将兵と同じ立場に立って敵を一人でも多く斬って死ぬ覚悟に至っていた韋丹は、普段は軍勢に指示を出すために肌身離さず持っている羽扇を懐にしまい、将兵と同じように剣を手に取った。

しかし、韋丹が死の覚悟を決めた、その数分後……

ジャーン!ジャーン!ジャーン!!……

魯雲のいる右舷の遠方から銅鑼の音が響いた。

「よし!今こそ好機だ!我らは右斜めに進軍!敵の側面に着いたら鐘を鳴らす!そうしたら左斜めに進め!あとは敵に向けて突撃だ!」

韋丹は我が意を得たと言わんばかりの大音声だいおんじょうで叫んだ。韋丹の部隊は命令通り右斜めに進軍。敵から見て左の角に当たる将兵と切り結びながら戦場を疾駆した。それに呼応するかのように先んじて敵と切り結んでいた楊達の部隊は左斜めへ、そして出撃して間もない甘成の部隊は右斜めへ、そして王信の部隊は左斜めへ、各々血路を開いて突き進んだ。

魯雲の隊と彭蒙の隊、そして樊順党によって契丹陣営は左右に位置する将兵の多くを討たれた。だが、中央部に位置する王族とその側近はまだ健在だ。それが正面で斬り合いを繰り広げていた楊達と甘成の率いる部隊まで左右に広がったので、中央にドッと躍り出た。このまま行けば契丹の軍勢が城にたどり着くのはもはや時間の問題であろう……そう思われた矢先、

ガーン!ガーン!ガアーン!!……

韋丹が鐘を高らかに鳴らした。

「よし!再度の転換だ!」

魯雲と彭蒙と樊順と楊達、そして甘成は一斉に叫んだ。韋丹の鐘の合図。それは魯雲もしくは彭蒙が敵の背後、なかんずくその中央部分を突ける状態になったことを意味する。

魯雲の隊は、やはり槍術に秀でた者が少ないからか反転しても後方から攻め入るのに時間がかかり、樊順党の将兵による協力によってかろうじて反転しているところだ。しかし彭蒙はさすがに南魏随一の豪傑。部下とともに駿馬を駆って、敵の背後から見事真一文字に切り込んだ。

この時、もしも敵が残存勢力のすべてを魯雲あるいは彭蒙を討つことに使っていれば、魯雲の立てたこの作戦は失敗していたであろう。だが、あいにく「南魏軍は我々の背後から追撃している」と後方から早馬で伝えた伝令は、自軍の中央にいる高位の将校が城壁の上を凝視している場面に出くわした。

「な…なんだあれは!?」

城壁の上では、女性の文官と文武官が優雅に舞っていた。否、その舞は優雅というよりはむしろ艶やか、あるいは妖艶というべきかもしれない。歌妓というよりはむしろ娼妓の様なその舞の振る舞いには、あたかも娼館の前を通りかかった男を誘うかの様な手の動きをも含むものだった。

この振る舞いに契丹の将校たちは激しく苛立った。その舞は魯雲が指導した結果である。魯雲自らが男を誘う娼妓の様な立ち居振る舞いを示し、その動きを模倣できるように練習させたのだ。それにしてもどうして魯雲はそんな振る舞いを的確に教えることが出来たのか?実は魯雲の母親は生活に困って歌妓だけではなく娼妓としても家計を支えていたのである。あるいは歌妓としても秀でた娼妓と言うべきかもしれない。かつて魯雲の母が客を誘った時の振る舞いを今回魯雲が真似してみせて、城内の女性たちに振る舞い方を指導したのだ。

魯雲が的確に指導した娼妓の舞は敵に恥辱を与えた。さらにその直後、優雅な琴の音が城壁の上から響いてきた。紅梅を団長とする楽団が琴を一斉に弾きはじめた。楽団には銀月も加わっていた。銀月も相当な琴の名手なのである。

「南魏の将兵は我々を愚弄する気か!城壁の上で遊んでいる、あのふざけた連中をぶった切れ!」

今回の軍勢の最高司令官であり、王の弟でもある耶律玄賽やりつげんさいは、怒号とともに城めがけて馬を駆った。

とはいえ、娼妓の様な舞も優雅な器楽も、城壁の上にいる南魏の将兵が油断をしているということを意味しない。周囲には麗玉をはじめとする弓術に長けた将兵が守っており、槍術に秀でた者もいれば敵を圧殺出来るほどの大きな岩を用意した者たちもいた。舞と琴の音によって「馬鹿にされた」という怒りに燃えた敵兵が城門に近づくと、娼妓さながらの振る舞いをしていた文官および文武官は急いで後ろに下がり、麗玉をはじめ弓術に秀でた者たちが前に歩み出て一斉に矢の雨を降らせた。

先ほどまでの媚を含んだような舞および優雅な音楽に腹を立てていた玄賽以下の将校は一気に雰囲気が変わって猛攻撃に転じた城壁の南魏軍の切り替えの早さに戸惑った。だが、城壁から琴の音が再度聞こえてくるに至って「この城を何としても落とさずにおくものか」という怒りに燃えた契丹の将兵は、我先にと馬を駆った。もちろん城を落とすつもりなのだから、梯子もあれば盾もある。そして弓矢に長じた将兵もいる。いくら南魏の側に城壁や多数の弓矢があるとはいえ、決して落とせない城とは限らないはずだ。

そんなことを思った直後、ようやく彭蒙およびその部下が敵の幹部のいる中央部にまで切りかかった。背後から敵が来ていることに気づいていた者も契丹の軍勢の中には幾人かいたので、背後の危機を察した者たちは個々人として迎撃を試みた。もちろん討ち取られた南魏の武者もいた。しかし豪傑の彭蒙およびその部下に対抗するには、一丸となって方向転換をして、弓兵を駆使して反撃すべきであった。

「背後から非常に手強い敵の一団が迫っております。まずは背後の敵を倒すことに専念すべきでしょう」

伝令はおおむねそんな内容を高位の将校に伝えたが、玄賽およびその側近は城壁の上の妖婦のごとき舞と雅楽に腹を立てて城攻めを優先してしまった。背後の敵には二名の将が撃退の任務に抜擢され、その配下の兵卒たち数百名ともに方向転換して立ち向かったが、彭蒙の剛勇ぶりおよびその部下たちの奮戦の前に、すぐに討ち取られてしまう結果となった。

そしてその彭蒙は、今や敵の幹部がいる位置にまで駿馬を走らせ刻一刻と近づいていた。この時点の契丹の軍勢を真上から見ることが出来たら、やや極端に言うとさながら楕円形の大福餅にゆっくりと包丁を入れる過程の様に、背後から彭蒙の隊およびそれに続く魯雲の隊が弓と槍を持って切り込んでいる様子が見て取れたであろう。そんな状態に危機感をいだき、彭蒙の隊を止めようとして斬りかかった将兵がいないわけではなかった。だが彭蒙の槍さばきと、そして人数の差によって彭蒙や魯雲の隊の犠牲は少なく、対する契丹の将兵の中には討ち取られる者が多かった。

玄賽およびその側近は、そんな背後の情勢にはおかまいなしに正面の城壁を目指して馬を駆り、部下が梯子をかけたところで突撃命令を出した。とはいえ、城壁の上からは弓矢が雨の如く降り注ぎ、梯子をよじ登る兵の中には大きな岩によって梯子ごと押しつぶされる者もいた。五本もかけた梯子のうち三本は岩に押しつぶされ、予備の梯子を持っている後続の将兵は、あらかた南魏の将兵に打ち取られた。

それでも予備の梯子が一本だけ城壁にたてかけられた時点では、すでに城門の上から落とす岩は無くなっており、弓矢でもって射殺されることになった、しかしながら、将兵のうち数名は盾によって身を守りつつ、かろうじて城壁の上にたどり着いた。

とはいえ、梯子を登って城壁の上にたどり着いた者たちは、麗玉の槍が的確に喉あるいは心臓を貫かれ、即座に倒れる者がほとんどであった。麗玉とは距離のある別の梯子から登った者も一人の兵に対して二人で当たれる余裕が南魏にあったため、おおむねは討ち取られた。

そんな中でわずかに奮戦した練達の武将は一人でもって南魏の兵卒二人を相手にしながらも、かろうじて互角の戦いを繰り広げた。そのためたまたま麗玉のそばにいる護衛の兵が一人になってしまった。その間隙を縫ったかのように、麗玉の近くにかけられた梯子をよじ登っていた玄賽が、ようやく城門の上にたどり着いた。麗玉の傍らにいた兵は慌てて応戦しようとしたが、その攻撃を玄賽は巧みに盾で受けとめ、一刀のもとにその兵を切り捨てた。

麗玉は咄嗟に槍で応戦したが、玄賽は盾を見事に使いこなして傷を負わせることが出来ない。

(こいつは相当な強敵だ!)

そう思った麗玉は得意の槍さばきで次から次へと流麗なる技を繰り出した。そのためかろうじて玄賽の盾を弾き落す事には成功したが、次の瞬間には逆に麗玉の槍が玄賽の剣によって弾かれてしまった。

「おぬし、なかなかの腕前だな!名は何と申す?」

問いかけた玄賽に麗玉は答えた。

「私は都尉の麗玉!して、貴公の名は?」

「俺は副王の玄賽!」

「何?副王?!」

麗玉は少なからず驚いた。身につけている服や鎧から高位の武将だとは思っていたが、まさか副王ともあろう者がここに来ているとは!

「王族といえども俺を文弱と思うなよ!我が兄が曹丕そうひならば俺は曹彰そうしょう!俺は王族随一の武芸者だ!」

そう言って斬りかかって来た玄賽に対し、麗玉も抜刀して剣術同士での戦いとなった。

長期にわたり剣術を磨いていた麗玉だったが、対する玄賽も相当な猛者である。麗玉は素早い身のこなしでどうにか斬られずに済んではいるが、玄賽の見事な剣技を前にして守勢に回ってしまい、どうしても切り込めない。

玄賽も麗玉の剣術が高度なものであると感じた。今のところかろうじて攻勢を保っているが、麗玉は退きながらもかろうじて玄賽の剣を受け止める。斬れそうでいながらなかなか斬ることが出来ない敵に、玄賽が苛立ちを覚えたまさにその時

「待て!そこなる敵将、しばし待て!!」

玄賽の背後から大柄な男が呼びかけた。それは背後から敵を追撃して、ようやくこの城壁の上にたどり着いた彭蒙だった。

「貴公の相手はこの彭蒙だ!」

「何だと?!」

彭蒙に対峙した玄賽は、敵の巨躯にも臆せず果敢に斬りかかった。だが彭蒙の練達の剣捌けんさばきにより、玄賽は切り結んで四合目にして剣を弾き落されてしまった。丸腰になった玄賽の首をまさにねようと彭蒙が剣を振りかざしたその瞬間――

「待って!」

麗玉の声が響き、彭蒙は動きを止めた。さらに麗玉は自身に背を向けた玄賽に向かって叫んだ。

「玄賽どの、両手をあげて今すぐくだりなさい!もしもその剣を取ったら、私があなたを斬ります!」

玄賽がその声の方向を見ると先ほど切り結んだ女武者が殺気を含んだ表情で剣を向けている。

(弾き落された剣を取ろうとすれば斬られる。だがもし味方が駆け付けてくれれば敵に隙が出来る。その間隙をぬってこの女を人質にすれば勝てるかもしれぬ……)

そんな甘い考えが玄賽の脳裏をよぎった。だが次の瞬間には麗玉の配下の兵士が槍や弓を持って現れるに至り、楽観的な望みは雲散した。

「わ……分かった!降る!」

両手をあげた玄賽を麗玉は配下に命じて捕らえさせた。両手を背中に押し付けられた状態で城壁の縁の近くまで連れて行かれた玄賽は双方の軍勢からよく見える位置に立たされた。彭蒙が大音声だいおんじょうをもって叫ぶ。

「敵将はここに捕らえたぞ!今すぐ全員、降伏せよ!降伏せねばこいつの首をねるぞ!」

つい先ほどまで騒がしかった戦場は、彭蒙の言葉によって一気に静まりかえった。

「今すぐ武器を捨てて降れ!副王さまを討たせてはならない!」

玄賽の側近の一声でその場にいた契丹の将兵は攻撃の手を止めた。だが、他方の南魏の将兵は動きの止まった敵を斬るべきか否かしばし躊躇した。その直後

「降った将兵は斬るな!捕虜とせよ!降る者は武器を捨て、両手をあげよ!」

ようやく城門の近くまでたどり着いた魯雲が叫んだ。一人二人と武器を捨てる者が続いた。しかし中には、丸腰になった途端に斬られるのではないかとの不安がぬぐえず武器を捨てない者もいた。

だがその直後に

「魯雲どのの言う通り、降った者は斬るな!降った者を斬ったとあっては南魏全体の名誉にかかわる!咸陽を落とし損ねた項羽の愚行を繰り返すことは、まかりならん!」

麗玉の凛とした声が響き渡った。これによって武器を捨てきれないでいる敵の前にいた南魏の将兵たちは一歩下がって攻撃態勢を解き、その様子を見て契丹の将兵は全員武器を捨てた。

麗玉の言葉を聞いた魯雲は意外に感じながらもうれしくなった。かつて項羽が降伏した将兵まで斬ったせいで咸陽に着くのが遅れたことを魯雲が糾弾した時、麗玉は魯雲の意見に同意しなかった。あるいは少なくとも項羽の最大の失敗とまでは見なしていなかった。だが麗玉の今の発言からすると、少なくとも自分たちの生きている時代において項羽の二の舞になれば南魏の名誉にかかわるという事は同意してくれた様だ。

そんな麗玉の姿を一目見ようと魯雲が城壁の上を見上げると、そこには堂々とした立ち居振る舞いの麗玉が満足そうな笑顔を浮かべて立っていた。そしてまるで魯雲の方を向いている様にも見えた。多数の将兵が入り乱れている戦場で麗玉が城壁の上から魯雲を見つけられたとは思えない。だが魯雲には、自分の方向を向いている麗玉が、まるで自分を見ている様な印象を受けたのだ。

その後麗玉は玄賽を捕らえた部下に命じて城門の下に降りさせ、側にいたほかの部下数名にも随伴して城門の前で待つ様に言い渡した。

麗玉が振り返ると、疲労困憊ひろうこんぱいしながらも満足そうな笑みを浮かべる彭蒙と目が合った。麗玉は一瞬何かを言いそうになったが、彭蒙が先に口を開いた。

「……ただいま、麗玉……」

「……おかえりなさい、公徳さん……」

まるで帰宅した夫を妻が迎える様ななごやかな挨拶を交わした二人は、お互いに思わず吹き出してしまった。先ほどまでの戦闘の凄まじさがまるで嘘の様な牧歌的な雰囲気がそこにはあった。


第二十八章

その後、南魏と契丹の間には終戦協定が結ばれることになった。南魏との徹底抗戦を訴えてきた主戦派の親玉である耶律玄賽が生け捕りにされ、それにならって玄賽の部下たちも降伏して捕虜になったので、契丹の王都から来た穏健派の国王および諸侯は喜んで和平協定に臨んだ。

契丹の側からは今回捕虜になった玄賽の兄であり王でもある耶律昭鞍やりつしょうあんおよび第二王子である耶律垂庸やりつすいよう、さらには玄賽の一人息子である耶律暫隗やりつざんかいという三名の王族と、その他の重臣が参加した。和平交渉の終わるまで、国内の政務は皇太子である耶律迎傭やりつげいようおよびその妹の樹庵公主じゅあんこうしゅ、そして迎傭と垂庸と樹庵の教育係である高官が執り行うという事になり、契丹国内の主要な政治権力者は和平交渉のために国境まで来るという形になった。

対する南魏の交渉は最高位の者でも丞相の張豊であって国王の周越は参加せず、他には張豊の補佐のために国境付近の二県の太守が来ただけであった。これは単に契丹を軽んじていたというよりは別の事情があった。周越は皇太子を東の要衝に派遣して王都にも韋攸を召喚しなければならないほど東の国境が気になる状態だったことが原因だ。そうした事情を和平交渉の場で説明したわけではないが、戦勝国側が交渉の責任者として派遣する者としては丞相でも十分すぎる高位の者だろうと契丹の王侯も考えていたので交渉の相手として南魏王自身が来ないことに対して何ら不満は述べられなかった。

和平交渉においては戦勝国である南魏が相当の賠償金を要求したが、契丹の領土や領民には手を出さないこと、および今回の戦いで捕虜になった契丹の将兵について副王の玄賽を含む高位の者たちは南魏において終身刑とし、下位の者たちについては有期刑とするというものであった。侵略を受けた国の提案として決して無理な要求ではないが、賠償金の問題はともかく玄賽およびその側近たちが終身刑というのは玄賽の兄である昭鞍や息子である暫隗には納得が出来なかったようで、当初の予定よりは長引いた。とはいえ、最終的にはその条件を昭鞍も暫隗も受け入れ、和平交渉は南魏の有利な条件で集結した。

この交渉の後、最終決戦のために城の内外で戦った将兵や文官に対して論功行賞をおこなうことにした張豊は、並みいる将兵と文官の前で魯雲を功績第一に叙する事を発表した。

「これまで郭俊どのと韋攸どのから指導を受けたとはいえ、このたびの戦で御身おんみは実に見事な采配をしたものだ」

魯雲を褒めたたえた張豊はそれに続いて周囲を見回しながら言葉をつづけた。

「魯雲どのを今回の戦の功績第一位に叙勲する事に、どなたか異議はあるだろうか?」

並みいる諸将の誰も異議を述べないと思っていた張豊だったが、もし万が一にでも異議があれば聞いておきたいと思ったのも事実なので、将兵たちの顔を順番に見渡した。そんな張豊の前に意外な人物が歩み出た。

「おそれながら丞相閣下、私めに異議がございます」

その言葉を発したのは魯雲だった。

「ろ…魯雲…どの?……し、しかし御身は功績第一位に叙されたのだぞ!一体何が不満なのか?」

「さればその事でございます。たしかに契丹との最終決戦の作戦立案は私めによります。しかし作戦通りに戦闘が進んだにもかかわらず、決して楽な勝利ではありませんでした。ここにおられる皆さまがた、そして不幸にも戦闘で命を落とした将兵たち全員の協力があって、かろうじて得た勝利でございます。なんで私めが第一に叙勲されるべきと言えましょう。もしも功績のあった者を表彰するとのご意向でありましたら、この場の者たちと死んだ将兵も含めて全員を第一位に叙してくださいませ」

魯雲の言葉に張豊は戸惑った。そしてしばしの逡巡の後

「魯雲どの、御身のご意向はよく分かった。しかし、形式上とはいえ功績第一位の叙勲は一名に限定しておこなわれるのが慣例というものだ。どうしてもお受けできないのなら、御身の代わりとしてどなたか一名を功績第一位に御指名なされよ」

今度は魯雲が張豊の言葉に少し戸惑った。だが、しばしの逡巡の後に魯雲は答えた。

「ならばそちらの朱麗玉どのが叙勲を受けなさるのがよろしいかと存じます。最終的にすべての敵が武器を捨てて降伏したのは朱どのの言葉によるものです。朱どの、どうぞお受け取り下さいませ」

魯雲は麗玉に向かって頭を下げた。それは是非とも受け取ってほしいという意味合いであったが、同時にそのお辞儀は咸陽を落とし損ねた項羽の失敗を麗玉が引き合いに出してくれたこと、つまり魯雲の価値観を受け入れてくれたことに対する礼でもあった。そんな魯雲に対して、麗玉もまた頭を下げた。

「かしこまりました魯雲どの。第一位の叙勲はお受けします。そのうえで、叙勲にともなって頂ける金品は死んだ将兵たちに均等に分け、その遺族に遺産としてお渡しするのが至当しとうであると私は考えます」

麗玉によるこの寛大な提案には魯雲のみならず他の諸将も、そして張豊も感服した。だが張豊は丞相という高位の者として訪問している立場上、自分の権限で魯雲に対して何か褒美を取らせねばならないという使命感をいだいた。

「魯雲どの、御身も朱どのも大変立派な御仁であることは分かった。とはいえ、ほかに何か望みは無いか?丞相の権限として取り計らえることはいろいろとあるぞ。御身には何か私にして欲しいことはないのか?」

「ならばおそれながら丞相閣下にお願いしたき事がございます」

「ほう、左様か。ならば何なりと言うが良いぞ」

「これまでの戦闘でとらえた契丹の捕虜たちを終身刑にはなさらず、五年と言わず十年でも二十年でも良いので、いつかは故郷に帰ることが出来る処分としてくださいませ。どれだけ年数を経ても、彼らをいつかは故郷に帰れる身としてくださることが、この魯雲の願いでございます」

「う……」

この言葉には張豊もしばし返答に困った。だが、

「ろ…魯雲どの、御身の情け深いお気持ちは素晴らしい。ただ、敵の将兵なかんずくその幹部の処遇に関しては私の一存では決められない。陛下にお伺いを立ててみる。私に出来るのは、あくまでもお伺いを立てるところまでだ。それで納得してくれ!」

「ありがとうございます!」

魯雲は膝をついて深々と頭を下げた。

こうして契丹との最終決戦に関する論功行賞は、魯雲を含む多くの武将にとって納得のいくものとなって終わった。


第二十九章

後日、魯雲は麗玉に呼び出された。この前の戦闘をふり返ってみたいという名目で呼び出された魯雲だったが、その意図が理解できなかった。失敗から学ぶ反省会の様なものかと思ったが、今までそうした提案を麗玉から受けたことは無いし、そもそもこの前の戦闘はおおむね勝利に終わったのである。

(呼び出された理由は分からないけど、まあいいか。どうせ成申には春華さんに出した手紙が届いてから帰れば十分だし)

魯雲はそんなことを考えた。帰郷したらもちろん雪蘭には会いたい。だが魯雲にとっては雪蘭に会う前に春華に相談したい事があるのだ。相談したい点について事前に手紙を出しておいたので、自らが送った手紙が春華に着く前に帰郷しても手持ち無沙汰だと考え、魯雲は麗玉の求めに応じたのだ。麗玉の意図が分からぬまま、かといって断るのも失礼と思って、魯雲は麗玉が指定した中庭に来た。すると――

「魯雲、遅いよ!けっこう待ったわ!」

そこにはすでに、腰に手を当てながら若干すねたような表情の麗玉が待っていた。その表情からは先日の戦の功労者らしい峻厳さはすっかり消えており、まるで駄々っ子の様な幼さが見受けられた。

「ごめんごめん。でも僕は約束の時間よりは早く着いたでしょ?」

「まあ、アタシだけなら別にいいけど、せっかく素敵な観客に来てもらったんだから、約束の時間よりも早いからと言って待たせたことは良くないよ」

「え?素敵な観客って?」

そう言った魯雲が建物の方を見ると、その陰から現れたのは銀月だった。

「あ…え?…法さま?」

なぜ銀月がここにいるのかわからなかった魯雲は驚いた。だが麗玉は冷静に

「せっかくアタシが呼んだんだから感謝してほしいな。さあ魯雲、もう一度アタシと組手をしようよ!」

と言うと、そばに置いてあった二本の棍を取り、そのうちの一本を魯雲に差し出した。

「う……」

魯雲は言葉に詰まった。以前銀月の前で繰り返し負けた時の惨めさが脳裏をよぎる。銀月の前で再度みっともない姿をさらすのは避けたいので、魯雲としては何とか組手を拒否したいところだ。

だが、麗玉は挑発するように言った。

「ほらほら!せっかく再度アタシとの組手を法さまに見てもらえるんだから、もっと嬉しそうな顔をしなさいよ」

この口ぶりからして今さら嫌とは言えないらしい。やむを得ず魯雲は麗玉が差し出した棍を受け取って構えた。

(また僕が負けるかもしれないけど、何はともあれ朱さんの顔は打たないように気を付けよう。傷が付いたら大変だもんな……)

麗玉が今回差し出した棍も組手用の厚い布が縛り付けてあるものなのだが、それでも顔を打てばあざにならないとは限らない。前に麗玉と組手をした時と同じことを考えながら、魯雲は麗玉の腹部や胸部、そして側頭部を狙って棍を振るった。

それを受ける麗玉は

「えい!やあっ!とうっ!……」

と、叫び声だけは威勢が良いが、棍に込める力は以前よりも弱い様に感じる。さらに、魯雲のわずかな隙を突いて攻勢に回った麗玉であったが、以前に比べると攻撃が単調だという印象を魯雲に与えた。

(朱さん、どうしたんだろう?体調が悪いのかな?ひょっとして今日はご飯を食べないで来てしまって、空腹のままこの組手に臨んだとか?)

そんなことを考えた魯雲だったが、次の瞬間には別の考えが頭に浮かんだ。

(ひょっとして朱さんが弱くなったんじゃなくて、僕が強くなったんじゃないのか?!)

弓術こそ麗玉と互角になったが馬術や槍術では絶対に麗玉にかなわない。以前はそんな風に思っていた魯雲だったが、魯雲は魯雲なりに槍術の鍛錬を積んできた。その成果が今こそ現れたに違いない。

「えい!…おうっ!…たあっ!!」

自信を得た魯雲が麗玉の棍を幾度か打ち据えると、ついに麗玉の棍が宙を舞った。

「ま…まいったわ!アタシの負けよ!……強くなったね、魯雲!」

麗玉は両手をあげて降参したことを示すと、銀月の方を向いた。

「法さま、ご覧の通りです。魯雲は強くなりました。今もう一度アタシと組手をしても、負けるのはアタシでしょう」

魯雲に負けたことを認めるセリフを麗玉が言ったのは今回が初めてではなかろうか。麗玉の発言を聞いた銀月は落ち着いた口調で認めた。

「そうですね。もう一回やっても麗玉さんが負けるでしょうね」

銀月の言葉に魯雲は満面の笑みを浮かべたが、なぜか負けた方の麗玉も少しだけほほえんだ。しかし麗玉が微笑んだことに魯雲は気づかなかった。

だが次の瞬間、銀月は意外なことを言ってのけた。

「何度やっても麗玉さんが負けますよ。だって麗玉さんは魯雲さんに勝ちをゆずるつもりで組手をしたんですから」

このセリフには魯雲も麗玉も目を丸くした。

「え?……ほ、法さま……それは一体どういう意味で?……」

問いかけた麗玉に、銀月は落ち着いた様子で答えた。

「誤魔化さなくてもいいんですよ麗玉さん。私は先日の城壁の上での麗玉さんの戦いを見ています。あの耶律玄賽とほぼ互角の斬り合いをした麗玉さんが、今の魯雲さんの攻撃で棍を弾かれるなんて明らかに不自然です。麗玉さんは何か思うところがあって魯雲さんに花を持たせたのでしょう」

この言葉を聞いた魯雲は麗玉の真意を知りたくて麗玉の方を向いたが、その麗玉が全てをあきらめたような表情で

「な~んだ。バレちゃったぁ!……せっかく魯雲の名誉挽回のために法さまの前でわざと負けたのに、逆効果だったか……」

と言いながらガクッと肩を落としたので、ようやく麗玉の真意を悟った。今回の麗玉は以前とは逆に、わざと負けて魯雲のカッコいい姿を銀月に見せようとしたのだ。その意図に気づいた魯雲も麗玉と同じくションボリ肩を落とした。二人がそろってガッカリと落ち込んだのを見た銀月は慌てて言葉をつなげた。

「で、でもですねぇ……魯雲さん、麗玉さんは女子の文武官の中では槍術においても最強ですし、男子の文武官の中には麗玉さんに負ける人は魯雲さん以外にもいます。気にすることではないですよ。それに、今の魯雲さんの棍の技巧を見れば以前より強くなったことはうかがい知れます。魯雲さんが先日の戦いで槍をもって数名の敵を討ったという噂は本当だったのだと、今の魯雲さんの棍さばきを見て理解しました」

「法さま、まことですか!僕も強くなりましたか!」

嬉しそうな顔の魯雲に銀月はさらに話しかけた。

「はい、もちろんです。それにですね魯雲さん、麗玉さんはあの彭蒙さんと何度も組手をして鍛錬したのですよ。麗玉さんは卓越した武勲を誇る猛将のもとで鍛錬したのですから強くなって当然です。それに対して魯雲さんは外交や内政といった政務を手伝う傍らで棍の鍛錬をなさっていますよね。それでこれだけ腕をあげたのですから、魯雲さんの上達ぶりは素晴らしいですよ」

そこまで言われて自分が認めらたこと知った魯雲は大いに満足した。その表情を見た麗玉は魯雲に恥をかかせないで済んだことがうれしいのか、微笑みながら優しく語りかけた。

「認められてよかったね、魯雲!それにそもそも公徳さんを私に紹介してくれたのも魯雲だからね。つまり私が強くなったのは魯雲のおかげだよ!」

その言葉に魯雲は嬉しそうに応じた。

「そうかな…うん、そうだね。僕のおかげか!……そう言ってくれてうれしいよ、朱さん!」

魯雲と麗玉そして銀月はその後、お茶を飲みながらしばし歓談した。歴史に通じた者同士の会話にふさわしく、歴史上の英傑たちを話題にしつつ、なごやかな雰囲気の中で談笑が続いた。そして思う存分話し終えた三人は、各々の任地へと旅立っていった。


第三十章

後日、久しぶりに成申に戻った魯雲は実家に荷物を置くと、一本の矢を収めておいた矢筒と道すがら用意した手土産用の果物と矢筒のみを持って、厳春華の豪邸に向かった。一時的に婚約を解消しているとはいえ雪蘭がしばらく前に帰郷しているのだから、本来の順番としては最初に会いに行くべきであるのだが、今の魯雲にはどうしても春華に相談したい事があったのだ。

(この相談が終わらない限り、雪蘭さんに会うことは出来ない)

それがこの時点における魯雲の心境だった。

事前に手紙で帰郷したら折り入って話したい事があると伝えて日時を決めて春華からの了承を得ていたので、むしろ春華の方が魯雲を待つ様な形で屋敷に魯雲を招き入れた。土産の果物は召使の一人が恭しく受け取り、

「魯雲さま、ありがとうございます。こちらは書斎にいらっしゃる大旦那さまにお持ちします」

と言って春華の父親に当たる厳家の家長厳統げんとうの書斎に果物を持って行った。

「仲明くん、久しぶりだね。以前の病気の時には、励ましの手紙をくれてうれしかったわ。仲明くんたちの手紙のおかげで病気もすっかり完治したよ」

「そう。春華さんはすっかり回復したんだね。それは良かった……」

「うん、ありがとう。……それにしても急にどうしたの?どうしても折り入って話したい事があるって手紙に書いてあったけど」

春華の言葉を聞いて、魯雲は今回こうして厳家を訪ねた理由をいよいよ明かすべきと判断した。しかし本題を切り出す前に言っておくべきことがあるのだ。まずはその点を言わなければ――

「でも春華さん、その前にさ…」

「ん?」

「春華さんの豪邸なら、御者さんとか、召使いの人たちもいるよね」

「うん。いるよ」

「そういう、この家で雇われている人たちを、今はこの部屋と隣の部屋から引き下がらせてほしいんだ。とても内密な話なので」

「分かった…」

春華はすっくと立ち上がり、いったんこの屋敷から出て、仕事は後にしてもらう様に召使たちに伝えた。魯雲はもうひとつの可能性も考えて

「それから、もしも春華さんの親御さんに聞かれても困る話なんで、ご両親がどこにいるのかも気になるんだけど」

と言ったが、春華は安心させた。

「父は書斎にいるから仲明くんがここで話をしても聞こえないよ。母は召使と一緒に買い物に出かけているから、母に聞かれることもないわ」

「そう。分かったよ、ありがとう」

「で、折り入って話したいことって、具体的に何なの?」

これで僕の話は誰にも聞かれない。そう判断した魯雲は、いよいよ話を切り出した。

「ようやく分かったよ。雪蘭さんが僕に対して卑屈なまでにへりくだっていた理由が」

雪蘭が急にへりくだった態度をとる様になって戸惑っている、という悩みは既に魯雲が春華に手紙で打ち明けていた事柄だった。

「ふ~ん。で、その理由って?」

やや興味深そうに言った春華に対して魯雲は一言お願いをした。

「でも、これを誰かに知られたら雪蘭さんの気持ちを傷つけるから、誰にも言わないでほしいんだ。『誰にも言わない』って約束してくれる?」

「いいよ。絶対に誰にも言わない!雪蘭自身にも言わない!」

「実は……これを見て気づいたんだけど……」

魯雲が差し出したのは一本の矢だった。

「え?それがどうしたの?」

「僕たちの寝室に矢が落ちていたんだ。思い出したよ。あの頃の公徳が弓矢の練習を頻繁にしていて、普段から弓矢を持っていたってことをね。それに対して僕は弓術が唯一の得意な武芸であるけど、弓矢を置く場所を決めているから寝室にまで弓矢を持ち込んだりはしない。おまけにその頃の僕は弓術よりもむしろ苦手な槍術の方を練習していた。だから僕がウッカリ寝所に僕の矢を置き忘れたなんていう事は考えられない」

「ということは…つまり?」

話が核心に迫った事に気づいた春華は、身を乗り出して魯雲の次の言葉を待った。

「雪蘭さんは、不貞行為をした。そしてその相手は公徳だってことさ」

「ふ~ん。そうなのね。…それで、仲明くんは雪蘭をどうしたいの?」

親友が不貞をしたことに関して特段驚いていないかの様な春華の表情があまりに意外だったので、普段は他人の表情から心境を読み解くのが苦手な魯雲も、この時ばかりはさすがに春華が既に事情を知っていたことに気づいた。

「知ってたの?雪蘭さんの不貞」

「うん。でも私から仲明くんに言うべきじゃないって思っていたから」

「そうか……春華さんにとって雪蘭さんは親友…というか妹みたいな存在だものね。そんな事を僕に明かせるはずがないよね」

「ううん。そういう意味じゃないよ」

首を横に振って否定する春華に、魯雲は戸惑った。

「え?じゃあどういう意味?」

「実は私……雪蘭から相談されたのよ。『不貞をしたことを自分の口で、自分の言葉で仲明さんに謝りたい。でも怖くて謝れない。どうすればいいの?』ってね。だから私は言ったの。『私が代わりに謝っておいてあげようか?それとも、今はまだバレてない様だから、このまま何事もなかったかの様に仲明くんと付き合うことも出来るかもしれないけど、どうする?』って。そうしたら『たとえ仲明さんが許してくれなくても、自分の過ちは絶対に自分で謝らなきゃならない!』って言ってたの。だから雪蘭が謝罪をするつもりだということは、私から魯君に伝えるべきかどうか、どっちが雪蘭や仲明くんにとって良いのか分からなくて迷っていたのよ……」

「そんなことがあったのか……」

「そうなのよ。……で、仲明くんは雪蘭の態度をどう思っているの?今のままの雪蘭の態度では良くないって感じてるんじゃない?どうせ不貞行為をした後の雪蘭は罪悪感をいだいて『わたしを妻と思わず、単なる召使と思ってください。仲明さんと一緒に居られれば、召使として使ってくだされば、それで十分です』とか言ってるんでしょ?」

「うん。そうだよ!まさにそうなんだ!……たしかにそう言いたくなるのも無理はないよね、罪悪感があるのなら……」

「そうだよね。うん。それは無理もないことだよ。で、仲明くん自身はどうするの?」

春華の問いかけに対して、魯雲は明確に答えた。

「僕は、雪蘭さんを許すよ。僕の口からハッキリそう言ってあげたいんだ!雪蘭さんが僕との婚約後に一度だけとはいえ公徳と体の関係を持ったという事を知った時は確かに傷ついたよ。だけどあんなに必死に自分を責める雪蘭さんを見たら、許さないわけにいかないっていう気持ちにしかなれないんだ……」

「そう言うと思ってたよ。仲明くんは反省している人に対しては糾弾しないからね」

魯雲にとって自分の意図を見透かされていたことは少し悔しかったが、説明の手間が省けたという気もする。そこですんなりと話を続ける気になれた。

「それで、どんな言い方をすれば良いかっていうのが僕の相談なんだ。単に『一度の過ちで雪蘭さんの価値がなくなるはずがないよ。きちんと謝ってくれさえすれば怒らないよ』って言えばいいのかな?あと、『雪蘭さんの家族には絶対にこのことを明かさない。だから安心して』っていう事も言いたいな」

「その言葉で十分だと思う。大丈夫だよ。……でもね……」

「ん?」

春華の意図を把握できなかった魯雲は首をかしげた。

「でも……何?」

「でも、詰めが甘いよ仲明くん。今の状況を考えてみなよ。人払いをしている以上、私と仲明くんは二人っきりだよね」

「そうだね。でもそれが何か……あっ!」

魯雲は春華の言いたいことにようやく気付いた。

「そうだよ。あえて人払いをして男女が二人で会ったことが人に知られたら、仲明くんこそが不貞行為をしていると思われちゃうよ!確かに雪蘭の方が先に浮気したし、私は独身だからそんな疑いをかけられても私をとがめる夫そのものがいないけど、私と二人で会ったことを雪蘭が知ったらどうするの?」

「……」

この春華の問いに魯雲は、しばらく押し黙ってしまった。だが、その直後に驚く様なことを言ってのけた。

「でも、そう思われたら、かえって気が楽かな。むしろそういうウソを雪蘭さんに伝えてほしい。春華さん、お願いしてもいいかな?」

「え?……」

今度は春華が口ごもった。

「だってさ。そういう風に雪蘭さんが思ってくれれば、雪蘭さんは『不貞行為したのはお互いさま』って考えて罪悪感をいだかなくなるよね。雪蘭さんがあまりに申し訳なさそうな様子だから、僕が単に『許す』って言うだけでは僕の言葉が重荷になって、気まずくなっちゃうかなって思ったんだ。でも『不貞したのはお互いさま』って思ったら、さすがに罪悪感が薄くなるでしょ?だからいっそそういうウソを雪蘭さんに伝えて欲しいんだ!」

魯雲の思いがけない提案に、春華はしばらくキョトンとしていたが、思わず吹き出してしまった。

「アハハハハハ!」

「え?……」

春華の大笑いに、今度は魯雲が驚いた。そんな魯雲の目の前で、春華は頭を抱えながら言った。

「な~んだ!詰めが甘かったのは私の方か。いや、詰めが甘かったというか、そもそも読みを間違えていたわ。まさかそこまで言うとは思わなかったもの……」

「??……」

春華の真意をくみ取れずに呆然としている魯雲にかまわず、春華は後ろを振り向いた。

「聞こえたでしょ?出ておいで!」

春華の呼びかけに応じて、廊下からひょっこり顔を出したのは、なんと雪蘭だった。

「え?あ…あれっ?雪蘭さん?!」

意外な人物の登場に目を丸くする魯雲。その魯雲をオドオドした表情で見つめる雪蘭。他方の春華は雪蘭とは対照的に、「してやったり」と言わんばかりの笑みを浮かべていた。

「ええと……春華さん、これは一体どういう……さっき春華さんは雪蘭さんにも言わないって言ったのに!」

「どうもこうも、私は雪蘭には何も言っていないよ!魯君の気持ちを伝えたのは仲明くん自身!」

「いや、でもさっき誰にも聞かれない様に召使の人たちには出て行ってもらう様に言ったよね?」

約束を破られたと感じた魯雲の言葉に春華は即座に答えた。

「でも仲明くんは、『廊下に隠れている雪蘭も屋敷から出て』とは頼んでないよ。あくまでも私の家で雇っている召使たちに、仲明くんの話を聞かないでってお願いしただけでしょ」

「う…た…確かにそれはそうだけど、だってまさかここに雪蘭さんがいるなんて思わなかったんだもん……」

魯雲は困惑したような表情を浮かべた。そんな魯雲を尻目に、

「さあて、これだけ仲明くんの内心が雪蘭に伝わったんだから、次は雪蘭の気持ちを聞く番だよね!」

春華はイタズラ好きな幼児の様な笑みを浮かべながら雪蘭の方を向いた。

わたし……わたしはもちろん、仲明さんには大変申し訳ないと思っています。できれば仲明さんに許してほしいです。でも、一度だけとはいえ不貞行為を働いたのは事実です。こんなわたしが許していただけるのでしょうか?」

この発言を聞いた春華は、さながら不意に足払いを食らったかの如く体をヨロッと傾けた。

「ちょっと雪蘭!今の仲明くんの話を聞いてなかったの?仲明くんは雪蘭を許すってハッキリ言ったんだよ!しかも、私と浮気したことにすれば『浮気をしたのはお互いさま』と雪蘭が思ってくれるだろうから、そういうウソをついてほしいとまで言ったんだよ!これで許されてないと思うんなら、仲明くんが一体どういう発言をすれば許されたことになるのか言ってもらいたいわよ!」

まくしたてる春華に対して雪蘭はおずおずと

「仲明さん……仲明さんは、わたしに気遣って、あえて優しく言ってくださったのではないでしょうか?それでわたしの方から別れ話を切り出す様になさったのかと思うんですが……」

その発言を聞いた春華は

(やれやれ、一体どうやって説得すれば雪蘭は納得するんだろう?……)

と言わんばかりに額に手を当てて黙り込んでしまったが、魯雲が

「雪蘭さん、ひょっとして雪蘭さんの方が僕と別れたいの?」

と問いかけると雪蘭は必死に首を横に振った。

「だったら僕が『怒らない』と言ってるんだから、雪蘭さんの方から『許されていない』って決めつけるのはおかしいよ」

魯雲の言葉に春華は力強くうなずいた。

「仲明さんは本当に許してくれるんですか?わたしは一回だけとはいえ、仲明さんと婚約した後に公徳さ……彭蒙さんと不貞行為に至ってしまったんですよ」

「でもそれはあくまでも一時の気の迷いで、しかも今は僕に対して申し訳ないって思ってるんでしょ?だったら僕は雪蘭さんに対して怒ってなんかいないよ!」

そこまで言っても今ひとつ魯雲の言葉が真意と思えないのか、雪蘭はまだ不安そうな表情を解いていなかった。そこで魯雲は本来は言わないでおこうと思っていたことを言った。

「それにね雪蘭さん。今だから言うけど、僕も雪蘭さんとの交際が始まってから少しの間だけ他の女性に心を惹かれた事があったんだ」

「え…それってひょっとして麗玉さん?」

「い…いや、違うよ。もう少し年上の銀月さんっていう女性なんだけど……まあ、相手が誰であれ、そういう風に気持ちが惹かれることは僕にもあったっていうことさ!」

「でも、実際にその女性と……その…あのぅ……体の、関係は……」

「もちろん無かったよ!たしかに僕はそんな風に実際の行動には移さなかったさ!」

「それでは…仲明さんはあくまでも気持ちだけの事であって、わたしや公徳さんの場合とは違いますよね……わたしは公徳さんと……そのぅ…体の関係を…持ってしまいまして……」

そう言ってうつむいてしまった雪蘭の頭をなでながら、魯雲は言った。

「でも雪蘭さんは、そのことをずっと申し訳ないと思っていたんでしょ?」

この問いに雪蘭は即座に何度もうなずいた。

「それはもちろんそうです!わたしはずっと仲明さんには申し訳ないと思っていましたし、公徳さ……彭蒙さんも仲明さんに謝らなければならないと言っていました。その彭蒙さんの謝罪の意志に関しては、わたしが代わりに仲明さんにお伝えすると申しました……」

「そんなことがあったんだね。でも、もういいよ。公徳のこともふくめて、僕はもう気にしてないよ」

「あ…でも、彭蒙さんはその後に謝罪文を書いてくださったんです。せっかくだからお見せしましょうか?」

「そうなの?……だったらせっかくだから見せて欲しいな、その手紙。でも雪蘭さん、今それを持ってるの?」

彭蒙からの手紙を雪蘭が手渡すと、魯雲はその文面を食い入る様に呼んだ。そこに書かれた内容は、魯雲の住居を訪れた際に再会した雪蘭と情を交わした事を謝罪するものであった。そして彭蒙はまた、俺に対しては許してくれとは言わない、ただ雪蘭だけは許してあげて欲しいとの願いが書かれていた。

魯雲が彭蒙からの手紙を見ている間、雪蘭は魯雲の心に嫉妬の炎が燃えあがるのではないかとハラハラしたが、傍らで見ていた春華は落ち着いていた。彭蒙からの手紙を読み終えた魯雲はその手紙をたたんで懐に入れた。

「分かった。雪蘭さんはもちろん、公徳についても過去の事は気にしないよ。この手紙には返事を書いて、別に過ぎたことは気にしていないと公徳に伝えるよ」

「やっぱりね。そう言うと思った!仲明くんらしいわ!」

魯雲の返事を見通していた春華は、口元に笑みを浮かべながら言ったが、魯雲はそんな春華に向かって言った。

「春華さん、たしかに春華さんが人の内心を読むことに長けているのは認めるけど、これは僕らしい判断ではなくて、他の人も本来するべきことじゃないかな。公徳だってこんなに真摯に謝罪の手紙を書いたんだし、雪蘭さんもずっと申し訳ないと思って僕と接していたんだからさ。それで許さないなんて言う方がおかしいよ」

魯雲の言葉に春華は少し戸惑った。

「う~ん……まあ…たしかに、もしその通りなら世の中は平和になるだろうけど、みんなが仲明くんの様に他人を許せるとは限らないよ。でも、仲明くんの様な人が政治にかかわってくれれば、世の中は良くなるかもしれないから、仲明くんには今のままの仲明くんのままでいて欲しいな」

わたしも仲明さんならではの度量の大きさがなせるわざだと思います!彭蒙さんとわたしを許してくださり、本当にありがとうございます!」

「別にそのことはもういいさ。それよりも雪蘭さん……」

少しあらたまった表情をした魯雲に雪蘭は不安を覚えた。一体何を言い出すつもりなのだろう?

「もう雪蘭さんは許されたんだから、これからは僕に対して敬語を使わなくて良いよ!前と同じ様に話してほしい」

「あ、はい!わかりました……いえ、あの……わかったわ!仲明さん!今からは、なるべく昔のように話すわ!」

「うん。是非そうしてほしい。その方がうれしいよ!」

魯雲の発言に顔をほころばせる雪蘭。その様子を見た春華は語りかけた。

「よかったね雪蘭。ところでさあ、せっかくだから今あれを渡してあげなさいよ!仲明くんなら受け取ってくれるからさ!」

「え?…そ、そうかな?」

不安そうに応じた雪蘭に春華は言葉をつなげた。

「絶対大丈夫よ!」

その言葉に励まされたのか、雪蘭は急いで先ほど隠れていた廊下に駆け込んだ。隣の部屋に何か用意していたのだろうか。その意図が分からず呆然としている魯雲が待っていると、数分後に雪蘭が戻ってきた。その姿を見て魯雲は顔をほころばせた。その様子を見た春華は楽しそうに言った。

「喜んでくれた様ね、仲明くん」

「もちろんさ!とっても素敵だよ!」

雪蘭が両手に抱えていたもの、それは魯雲のために丹精込めて作った式服だった。魯雲よりも先に帰郷した雪蘭は、もしも魯雲が自分を許してくれたらこれを渡そうと思って用意していたのだ。もっとも、雪蘭自身は「どうせ許してもらえない」と考えて受け取りを拒否されるに決まっているという前提で考えていたが、

「そんなの仲明くんの気持ちを聞いてみなきゃ分からないじゃない!」

という春華の言葉に励まされて、もしも許されたときのためにと今回こうして春華の家に持って来ていたのだ。丁寧に織られた服を魯雲は雪蘭から受け取った。

「よかったね雪蘭。仲明くんは受け取ってくれるらしいよ!」

「あ、ありがとう仲明さん!……仲明さんは、これからも私と仲良く暮らしてくれる?私と夫婦になってくれる?」

「うん。もちろんだよ雪蘭さん!これからは夫婦として、僕と仲良く暮らそうよ!」

雪蘭を優しく抱きしめる魯雲と、そんな魯雲の胸に頬をうずめる雪蘭。春華は、そんな二人を温かいまなざしで見守り続けた。


ここまでお読みくださった皆さま、まことにありがとうございます。本作品はこれで一応完結です。

「『エヴァンゲリオン』のアスカとシンジのようなキャラを『三国志』のような世界で活躍させたい」というのが本作『南魏紀伝』の執筆の意図です。そんな漠然とした執筆意図で長編を書けたので私自身としては満足していますが、読者の皆様は本作にどのような感想をいだいてくださったでしょうか。

ところで本作で名前が挙げられている人物のうち、主人公の魯雲およびその同時代の登場人物そして慶山王魯胤は架空の人物ですが、それ以外の人々は実際に歴史に名を遺した人物たちです。歴史に名を残した人物を先達として参考にしつつも単に真似るだけではなく自分なりの工夫を加える魯雲や麗玉(およびその他の人々)の活躍を、楽しんで読んでいただけたのであれば幸いです。本作を最後まで読んでくださった皆様のご多幸を、心よりお祈り申し上げます。

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