試練の時
第十一章
北に位置する同盟国の延漢から出立した使者が匈奴の状況を報告するために南魏王周越が住む紅寧城に派遣されるのは定期的に行われていた慣行だが、今回は周越に宛てたのと同様の報告を郭俊にも伝えるために、別の使者たちも数人派遣していた。南魏随一の軍師と言われる郭俊に匈奴の脅威を直接伝え、契丹との戦いを終えた後は延漢の援軍のために来てほしい、その旨を南魏王に上奏してほしい、との意向を含む派遣であった。異例の事態ではあるが、匈奴に奪われた土地の奪還のためには南魏の援軍を頼らねばならないと判断した延漢の丞相司馬徴が延漢王李荘に上奏して勅許を得た結果の施策であった。
使者たちが匈奴の現状を口頭で報告し、さらには詳細を示した報告書を郭俊に渡すと、郭俊は報告書を恭しく受け取った。しかし堅苦しい場はそこまでで、その後は使者たちを交えて幕屋で酒宴が繰り広げられることになった。
宴もたけなわのころ、使者たちを歓待すべく、かねてから郭俊が用意していた余興がはじまった。
「はるばる洛陽の翠安城から、この様な戦地の近くにまでお越しいただいた勅使のお歴々の御前で、拙い座興を披露することをお許しくだされ」
郭俊は、使者たちが延漢王の居城から来たという事実を大々的に伝え、深々と頭を下げたのち、陸正とともに器楽の準備に取りかかった。
余興は琴の演奏と剣舞という演目で、琴は景英という男性文官および毛紅梅という女性文官の共演であった。幼少の頃より琴を習っていた景英の技量は当然高いが、紅梅の器楽はその景英をも凌ぐ。紅梅の琴は南魏の文官の中で最高の名手だからという理由で紅寧城に赴任した孫紫蓮という女性に次ぐ素晴らしい腕前で、使者は和やかな雰囲気で酒宴を楽しんだ。
その次の演目である剣舞では、剣舞に長じた馬典という武官と歴戦の勇士である黄援の組み合わせだったが、この組み合わせは郭俊自身が考えたものであった。馬典の剣舞は南魏内では諸将に知られるほどの技量だったが黄援の剣舞というのは見た者がいなかった。しかし、軍功では南魏随一の黄援である。馬典に十日間は黄援に剣舞を教えることを事前に申し伝えておいたので、おそらく使者を十分に歓待してくれるだろうと郭俊は思っていた。
だが、馬典の剣舞は見事な所作であったのに対して、馬典の剣を受ける側の黄援の動きは武骨で、剣舞というよりは実戦向けの剣術に見えるものであった。そのせいで使者だけでなく自軍の将兵もやや表情を硬くして、酒宴はなごやかさを少し欠いてしまい、郭俊は気まずい思いをした。
(まずいな、この雰囲気は……)
二人に剣舞を舞う様に言ったのは郭俊であり、この宴席の十日以上前の時点では、舞うべき人物はもともと剣舞で有名な馬典と老練の武将である黄援が良かろうと踏んでいたのだ。もちろん黄援はそれから何度か馬典に頼んで剣舞のコツを教えてもらい、自分なりに練習もした。しかしながら十日間では練習の時間が足りなかった様である。
宴席が若干こわばった雰囲気になったことに郭俊が頭を悩ませていると、麗玉は郭俊のそばに寄って耳打ちした。そして麗玉の意図を察した魯雲も郭俊に近づき、郭俊と麗玉の双方に耳打ちした。郭俊は魯雲の提案をすぐに受け入れたが、麗玉の方は魯雲の提案を聞くと、「信用できない」とでも言いたげな表情を浮かべた。
その後魯雲は側にいた女性の文官に相談をして、二人で幕屋の外に出た。
(魯雲ったら、あんな変な提案をして……ご使者に本当に楽しんでもらえるのかなあ?)
数分後に戻った魯雲と女子文官は、相互に大きさの合わない服をぎこちなく着こなしていた。いや、着てはいるが幾分か着「こなせて」はいなかった。魯雲とその女子は服を交換したのだ。正確に言うと交換したのは服だけではない。その女子文官から借りて先ほど魯雲が身に着けていた冠は女子文官に預け、魯雲の頭部には女子文官の身に着けていた簪が艶やかに光っている。
そんな魯雲の女装姿を見た郭俊は楽しそうな笑みを浮かべたが麗玉は不安を覚えて深刻な面持ちで話しかけた。
「ちょっと!本当に大丈夫なの?どう考えても私と馬典将軍で組むのが無難だと思うんだけど……」
「大丈夫だよ。朱さんは馬典将軍の様に動いてくれれば、僕はそれに合わせるから、まかせてよ」
郭俊が魯雲の肩を持ったので、さすがに麗玉も魯雲の言うとおりにせざるを得ず、不安を隠せないまま剣を持って使者たちの近くに歩み寄った。
「お二人とも、見事でした!では、次は若き文武官たちに剣舞を披露していただきましょう!」
郭俊は剣を持った麗玉と魯雲を次の剣舞の演者として紹介した。
「郭俊どの、ひょっとしてこちらが勇猛な才媛として高名な朱麗玉どのかな?」
「はい、こちらが朱麗玉でございます」
「では、もう一方の女性の方は……いや、失礼!男性でしたかな?」
別の使者は一瞬だが魯雲を女性と思い込み、あわてて訂正した。しかし見間違うのも無理はない。身長的には女子の平均よりは高いとはいえ魯雲は童顔の美男子であるため、そのとき身に着けていた服装と簪のおかげで本物の女子に見えなくもない容貌をしていたのである。
「こちらの者は、魯雲と申します」
「ああ、魯雲どのも優秀と聞いています。高名な若手お二人にお会いできて光栄です」
「過分なお言葉をいただき、恐縮でございます」
魯雲と麗玉は使者たちに向かって深々と頭を下げた。そして先ほどの魯雲の提案通り、麗玉は馬典に倣い、先手を切って剣を振った。その凛とした剣舞を柔和な動きで受ける魯雲。
「おおっ!」
「ハハハ…これは面白い!……いや、面白いと言うより、むしろ艶やかと言うべきですかな?」
女性である麗玉が攻め込む様な攻撃的な剣舞を披露しつつ、それを受けるのが男である魯雲だということに若干の違和感があるかもしれないという懸念が、剣舞を始める前の麗玉と郭俊にはあった。とはいえ魯雲は男子にしては小柄であるから麗玉と身長面では大差がない。加えて魯雲の剣舞は、どことなく歌妓の様に女性的な流麗さがあった。麗玉はあくまでも女子の式服を着て剣舞に臨んだのだが、麗玉の剣舞は毅然とした気高さのあるものあった。それに対して魯雲の剣舞はたおやかな美しさをふくんだ舞踊であるため、まるで男装の麗人たる麗玉が歌妓を相手にしている様な一種珍妙な剣舞となって、宴席に拍手と笑いをもたらし、宴は大いに盛り上がった――
「まったく!…まさかアンタに、あんな妙技のおぼえがあったとは……」
剣舞を終えて使者たちに深々と礼をして幕屋を後にしたのち、麗玉は「してやられた」と言わんばかりの表情を見せながら言った。
「驚いた?朱さん」
今回ばかりは、珍しく魯雲の方から麗玉の顔を覗き込んで尋ねた。
「まあね……でも、ウフフッ!面白かったわ!アンタって面白い人だよね、魯雲!」
実に屈託のない笑いだった。魯雲の記憶の中では麗玉は勝ち誇ったような笑いと悔しそうな顔しか見せたことがない様な気がしたので、いつもの麗玉らしからぬ無邪気な笑い顔を見て、魯雲も楽しさのあまり微笑んでしまった。
「でも、宴席の皆さんが喜んでくれたのは、朱さんの剣舞がまるで清酒の様な透明さを終始一貫して保っていてくれたおかげだよ!僕の剣舞は一般的な剣舞の動きじゃないもの!僕の剣舞だけでは、あんなに喜んではもらえなかったはずさ!」
「う~ん……まあ、褒めてくれるのはうれしいし、確かにそういう面もあるかもしれないけど、でも魯雲が歌妓の様に柔和な剣舞でアタシの剣舞を受け止めてくれなかったら絶対あんなに喜んではもらえなかったよ!アンタ、どこかで本当に歌妓になるための練習でもしてたんじゃないの?」
「いやあ、実は僕の母親が昔、歌妓だったんだ。まあ、歌妓と言ってもそれほど売れていたわけじゃなくて、副業として歌妓もやりながら他の仕事もしていたっていうだけなんだけどね。それで僕は小さいころ、母に頼んで歌妓の踊りというのを教えてもらったんだよ」
「ああ、そうか……そういう背景があるなら理解できるよ。道理で……まるで歌妓の舞踊と剣舞の中間みたいな動きが出来たわけだ!納得したよ!でも……とにかく面白かった!!」
麗玉はもう一度、屈託のない笑い声をあげた。だがその直後に魯雲が放った言葉が、麗玉の表情を曇らせた。
「朱さんこそ、良い意味で面白い人だよ。それに僕よりも優秀だしね。是非とも雪蘭さんに会わせてあげたいよ。雪蘭さんも朱さんの良さを知ったら『会ってみたい』って言うだろうな」
「雪蘭……さん?」
魯雲が自らが想う雪蘭の名を無邪気に挙げた時点では、麗玉の表情の陰りはさほど深いものではなかった。
「うん。僕にとって大切な人さ。そのうち会わせてあげたいんだ。朱さんと雪蘭さんはどっちも素敵な女性だからね。素敵な人同士には是非とも仲良くしてほしいんだ」
「あ…そう……なんだ。アタシはその女性と会った方が良い……のかな?」
「え?…いや、まあ別に無理に会わなきゃならないわけじゃないけど、もしも会ったら良い友達になれるんじゃないかって思うよ。この地に赴任した人の中で、文官はともかく、文武官で女性なのは朱さん一人でしょ?麗玉さんさえ良ければ雪蘭さんの友達になってほしいよ。朱さんにとっても女性の友達がいた方が話し相手が出来て気分転換になると思うんだ……」
麗玉が何となく雪蘭に会う事を躊躇している様な雰囲気を感じた魯雲は、その躊躇の理由がわからず、自分なりの意見を述べた。
第十二章
その後魯雲は、麗玉に会った時には雪蘭の話題を出して、是非とも会ってみて欲しいと言った。
麗玉と雪蘭は性格も特技も対照的だがどちらも根は良い人だから友達同士になってほしいという魯雲の無邪気な提案を麗玉は断れず、そこまで言うなら会ってみようという気になってしまった。
(まあ、別に断る理由もないか……会うだけ会ってみても何も問題は無いだろうし……)
麗玉が漠然とした違和感、いや不安を感じたのは事実だ。しかし自らが雪蘭に嫉妬をしているという自覚がない麗玉は、魯雲の求めるままに雪蘭と会うことに同意をした。だが他方の雪蘭の方は気が気でない。嫉妬のあまりどんな意地悪をされるのかと内心ではハラハラしていたが、まさかそんな話を魯雲に切り出せるはずもなく、不安な心境のまま麗玉と会う羽目になってしまった。
魯雲が麗玉と雪蘭を各々軽く紹介して、魯雲が淹れたお茶を飲みながら、三人でしばしの歓談をすることになった。かつて魯雲が「故郷の成申では、こんな美人は一人か二人しかいない」と評したその「一人」である雪蘭は麗玉を目の前にして雪蘭自身の顔を鏡で見ている様な奇妙な感覚を覚えた。麗玉も麗玉で、知性はあまり感じさせないとはいえ雪蘭の控えめな雰囲気が醸し出す、麗玉自身にはない魅力とその美貌に目を引かれた。魯雲は内心で
(朱さんと雪蘭さんは姉妹ではないけど、こうして二人が並ぶと、まるで曹操が求めた江東の二喬みたいだな……)
などと、麗玉と雪蘭を伝説の美人姉妹になぞらえた。
だが呑気な魯雲とは対照的に、雪蘭の内心は決して穏やかなものではなかった。たしかに魯雲が麗玉に感心するのも無理はないと雪蘭は思った。巧みに馬を駆って伝令としての役割を十分に果たしたのみならず、軍議では魯雲と並んで先輩の陸正はもちろん西部の諸将全体を統括する郭俊にまで高く評価されるのもうなずける。麗玉は普段通りに話しているつもりだが、政情と言えば故郷の成申あるいはせいぜいその近郊の地域についてしか知らない雪蘭にとって、麗玉の話は非常に高度な政治談議に思えた。
他方の麗玉は、雪蘭があまり政情に精通していないことに配慮をしたつもりだった。
(何も別にこの人に対抗意識を燃やす必要はないはず……アタシは自分が正しいと思う事を、なるべく分かりやすい言い方で伝えれば良いだけだよね)
なるべく割り切って雪蘭と話をしようと思った麗玉だったが、どうにかすると雪蘭に対して敵対的な視線を向けてしまうのを抑えきれず、そんな自分を嫌悪した。雪蘭にとってそれは魯雲と親しい自分に対する嫉妬の視線であることが明らかだったが、自身が嫉妬しているという自覚がない麗玉は
(なぜ私はこの女性に対して厳しく接してしまうのだろう?)
という疑問を感じ、会話中に幾度となく自省した。そんな最中、
「あ、そうだ!朱さんの技を雪蘭さんに見せてあげてくれる?」
麗玉が嫉妬をいだいていることに気づいていない魯雲は、あることを思いついて無邪気に提案した。
「せっかくだから朱さんの素晴らしい剣舞を雪蘭さんに見せてくれないかな?もちろん僕が相手をするからさ」
「え?…うん、まあいいけど……」
魯雲に頼まれてつい応じてしまった麗玉だったが、普段の自分の心境とは何かが違っていると感じていた。
(あれ?なんだろうこの気持ち……こんな心境のままで普段通りの動きが出来るのかな?)
その疑問は実際に剣舞に入ることで答えを見ることになった。麗玉が今回の剣舞で見せた所作は延漢からの使者を迎えた時の流麗なる動きよりはぎこちなく、しかし精悍な力強さは込めた舞い方だった。以前とは若干の違いがあるとはいえ、たしかに麗玉の剣舞は見事である。ただ、受ける側の魯雲は、なんとなく麗玉の剣の一振り一振りに苛立ちあるいはさながら敵意の様に攻撃的な意図を感じてしまい、前回ほどにたおやかな動きで受け止めることには困難を感じた。まるで剣舞と言うよりも剣技の披露の様でもあり、魯雲は多少あてが外れた。
(幕屋で郭俊さまたちにお見せした時の剣舞とは少し違うな……でも、雪蘭さんも朱さんの剣舞を楽しんでくれている様だから、気にするほどの事じゃないか……)
実際には雪蘭の表情は純粋な感心だけではなく、少しこわばったものであった。麗玉の剣舞が見事なものであるのは事実だが、それは麗玉の振る舞いの一つ一つに雪蘭に対する敵意が含まれていることに気づいたことからくる当然の恐れなのだが、雪蘭の表情を麗玉に魅了されただけと判断した魯雲は、その表情の真意に気づかなかった。
その後、麗玉はしばしの歓談の後、自身の滞在する幕屋に戻った。先ほどまでの会話では端々に見られた教養と、その一方で魯雲に対しては幼子の様にずけずけと物を言う無邪気な態度という普段の麗玉を見ていた雪蘭に対して、魯雲は楽しそうに話しかけた。
「ほらね?朱さんは僕の言った通りの人でしょ?文武に秀でているけど勝気で、ある意味では幼児みたいで……でも悪い人じゃないよね。むしろ僕は彼女の勝気さと優秀さから学ぶ事が多い様な気がしてるんだ」
「そうね。たしかに仲明さんの言う通りの人だね……」
魯雲の指摘は事実なので否定は出来ないが、自分に向けられた嫉妬の炎が燃える麗玉の目つきをあらためて思い起こし、穏やかならぬ心境で魯雲に応じた。
「ん?どうしたの?雪蘭さん、何か気がかりでもあるの?」
「ううん、気がかりなんて何もないよ!たしかに朱さんって勝気で有能で、男勝りな面があるし何故か仲明さんをからかうのが好きだという変わった面があるけど、悪い人じゃないよね!」
「もちろんさ!朱さんは根は良い人だよ!」
あっけらかんと言ってのける魯雲の表情からは麗玉が雪蘭に対していだいた感情などまったく気づいていない事がうかがえた。
第十三章
多岐にわたる分野の筆記試験および器楽の実技試験がある文官の試験は、文武官の試験以上に知識が問われる試験である。しかし魯雲の場合は文武官とは言っても、ある意味での知力の高さとそして気になることに対する強い探求心のおかげで分野によっては文官以上に優れた知識を披歴する事があった。そんな魯雲の資質は今回、誰にとっても意外な形で示されることになった。
数カ月も前から軍議や政務の終わった後に、文武官どころか文官でさえほとんど誰も読まない様な資料を調べて、それも紙に書かれた文書や竹簡だけではなく口伝に過ぎない民間伝承までも集めながら、魯雲はとある目標を目指していた。そしてそんな魯雲の熱意は最終的に実を結ぶ結果になった。ある日、軍議を終えて自身の幕屋に戻った魯雲はそれまで調べた結果の集大成を丹念に混ぜ合わせていた。
「よし、ついに完成したぞ!これで間違いないはずだ!」
紙の書物に書かれた記述のみならずと竹簡における記述、そして民間伝承までも参考にしたうえで特定した材料を調合する。魯雲には自らの編み出した薬に関して自信があった。だが、まだ実用はしていない。もちろん命に別状はない薬のはずだが、まさか他人の体で試すわけにはいかないし、馬はもちろん野良犬だって苦しませたら可哀想だ。そう判断した魯雲は「ある決意」とともに腕まくりをした。
(別にいいさ!どうせしばらく動けなくなるだけだ!)
その薬を塗りこんだ鏃を、自身の腕に軽く刺してみた。鋭い痛みがじわっと広がる。そしてその直後に魯雲は自らの理論が正しかったことを身をもって知ることになった。
ただ、魯雲は事前にこの試みをすることを誰かに伝えるべきであったし、何といっても試す際には幕屋の中の床几に座った状態ではなく布団に寝た状態で試すべきであった。鏃を刺した後は一分と待たずに魯雲の体はぐらっと揺れた。
「あ…ま、まずい!この姿勢のまま薬が効いてきたら…危ない!……だ、誰か!誰かいないか?…た、助けてー!!」
さらにその数秒後にはその場にドサッと倒れてしまった。
たまたま魯雲の幕屋の近くにいた女性文官が助けを求める声に気づいて幕屋に入ると、そこにいたのはどう考えても卒倒したとしか思えない姿の魯雲がいた。そして魯雲のそばには矢が転がっている。幕屋に入った女性は幕屋を出て悲鳴に近い大声をあげた。
「た…た…大変です!!魯雲さまが……魯雲さまが……敵の矢に倒れました!!」
その声を聞きつけた二人の兵も魯雲のいた幕屋に慌てて駆け込んだ。
「まだ息はある!急いで医者を呼ぶのだ!助かるかもしれん!!」
「分かった!そなたは怪しい奴を探してくれ!しかし一体どうやってこんなところにまで刺客が潜り込んだんだ!?護衛の目は節穴か!?はたまた敵は妖術でも使って忍び込んだのか?!」
体が動かないとはいえ意識を失ったわけではない魯雲は、自分の調合した痺れ薬を試しただけだと必死に説明しようとしたが、ほかならぬその痺れ薬のせいで舌も回らなくなり、うわ言の様にうめくことしか出来なくなっていた。うめき声の様な魯雲の声を聞いた二人は魯雲があまりの苦痛ゆえに呻いているものと勘違いして
「魯雲さま、必ず下手人は捕まえます!ご安心くだされ!」
「それがしは医者を呼んでまいります!もう少しの辛抱でございます!耐えてくだされ!」
一方はそのまま幕屋を出て医者を呼び、そしてもう一方は下手人を探すべく「怪しい奴を見かけなかったか」と周囲の人々に尋ねて回ったので、魯雲の陣営はたちまち大騒ぎになってしまった――
数刻の後、痺れ薬の効果が切れて話をできる状態になった魯雲が事情を説明すると、周囲の人々は魯雲の調合した薬の効能に驚くと同時にその薬を自身の体で試すという魯雲の行動にも驚いた。
魯雲の調合した痺れ薬に関しては、その効能よりも自らの腕に鏃を刺して試したという魯雲の行為の方が南魏軍の中で話題になった。何という危険なことをするのかと驚く面々ばかりで、麗玉にいたってはその話を聞くと驚きを通り越して呆れてしまった。
「なんてことをしでかしたの?!魯雲の近くには馬がいたはずでしょ!馬で試すとか……それが出来なくても野良犬で試すとかすればいいじゃない!それなのに自分の腕に鏃を刺してためすなんて、信じらんない!」
そんな風に魯雲を糾弾した麗玉に対して銀月は
「しかしですね、朱さん。魯さんは『何の罪もない者は、たとえ野良犬でも痺れさせたら可哀想だ』と思ったとのことですよ。何とも優しい心の持ち主ではありませんか」
と、魯雲自身の説明を伝えて魯雲を擁護したが、
「何をおっしゃるんですか法さま!野良犬にまで情けをかけて自分の身を危険にさらすなんて、ただのバカですよ!一体どういう感覚をしているのでしょうね?アタシにはまったく理解できません!」
麗玉には全く理解の出来ない価値観であったので、魯雲を弁護した銀月とは対照的に魯雲には一切共感しなかった。
そうした騒ぎがあったのでほとんどの将兵――特に麗玉――には評価されなかった魯雲の業績であるが、単に闇雲に資料を調べた結果ではない。『三国志』は魯雲よりも麗玉の方が丹念に読み込んでいる資料であるが、その『三国志』の登場人物のうちで麗玉が特に気にしていなかった華佗という医者の使った麻酔薬について、魯雲は原典となる資料が何であるかを調べていたのだ。魯雲は他にも、蜀の諸葛亮という知恵者が孟獲という武将の弟である孟優を捕縛する際に使ったという痺れ薬についても「きっと具体的な材料が何らかの資料に書かれているはずで、たとえ書かれた資料が無くても口伝が残っているはずだ」と信じていた。そうした経緯があって、資料を丹念に調べることで『三国志』の時代に使われたものよりも強力な痺れ薬を精製出来ないものかと魯雲は考えていたのだ。
あいにく諸葛亮が孟優に使ったとされる痺れ薬については具体的な資料が見当たらなかったが、華佗が医療行為に使ったという麻酔薬の方は原典と思しき資料が見つかった。そうした資料と言える書物や口伝を総合的に判断し、薬草や鉱物に関する複数の資料を照合した結果として編み出したのが件の痺れ薬だったのだ。せっかく効能はあったのだが今回の騒ぎが大きかったせいで今まで軍議や射的における魯雲の功績を評価してきた者たちも「さすがに珍奇な薬はごめんこうむる」と評して魯雲の研究成果は相手にされず、南魏軍の中で魯雲の痺れ薬を使う者といえば魯雲がその薬を分け与えた魯雲直属の将兵だけという結果になってしまった。
そんな不評な魯雲の薬であったが、後日魯雲の陣営を襲撃した盗賊集団を容易に捕縛できたのは、そのとき盗賊の一翼を統率をして襲撃していた幹部の紀覧めがけて魯雲が調合した痺れ薬が塗り込まれた矢が放たれ、そしてあえて致命傷を与えぬ様に魯雲が射た矢が狙い通り腕と脇腹に矢が刺さったからであった。その幹部は射られた後に一~二分こそ通常に剣を振って戦おうとしたが、すぐに手足の動きが鈍くなり、その直後に落馬。最終的には魯雲が命じた部下によって捕縛された。
重用していた幹部を人質にされ、さらに投降を呼びかけるために魯雲が放った矢文が信用できる内容だと頭目の樊順が判断したため、樊順党と名乗るその盗賊集団は魯雲の軍門に下ることとなった。
第十四章
こうして自らの調合した薬も使いながら魯雲が小さな武勲をあげている間に、麗玉は郭俊にとって陸正に次ぐ第二位の愛弟子として、作戦立案を任されることもある立場になっていた。郭俊や陸正も認めざるを得ない智謀を示した麗玉は、最近は馬術や弓術にとどまらず槍術も少しずつ腕をあげている。それゆえ最近の麗玉は自らの膂力をもって敵を蹴散らす武勲もあげていた。
しかし、そんなある日――
「朱君、朱君、根本的なことを忘れているぞ!」
麗玉の立案した作戦を読んだ陸正が青ざめた顔で麗玉のもとに駆け寄ってきた。
「陸正どの、何でございますか?」
「今回の作戦において、貴公は如何にして兵站を確保するおつもりか?」
「あ……」
麗玉は二の句が継げなかった。輜重の確保を忘れるというのは軍を指揮する者としては基本を忘れたとしか言い様がない大失態である。
「やはり忘れていたのだな。もしやと思って私なりに兵站確保のために人員を割いた別案を用意しておいた。朱君から見て問題がないと思えば、この案に従って出陣してくれ」
陸正が渡した紙に書かれていた作戦は、麗玉の案とほぼ同じ案であるものの、兵站の確保のために一定の人員を別動隊として確保しているというものであった。
「陸正どのの案に異論はございません。ただ今ご教示いただきました案にて作戦を遂行させていただきたく存じます」
麗玉は自身の失態に対して改善案を示してくれた陸正に深々と頭を下げた。
「今回の件は郭俊さまには報告をしないでおくつもりだ。と言うのは朱君が今回見落としたことが朱君の資質の不足を示しているとは思えないからだ。今回の貴公は明らかに普段ならば見落とすはずがない点を見落としている。これは能力の問題ではなく何か心の病があるのが原因と思われるのだ。無理に教えてくれとまでは言わないが、何か心境の変化をもたらした理由があればその理由を教えてはもらえないだろうか?」
あまり立ち入ったことを聞くのも失礼とは思ったが、最近急に麗玉の注意力が散漫になっていたことに気づいていた陸正は、やむにやまれぬ思いで尋ねることにした。しかし、尋ねられた麗玉の方は
「私の心境の変化…でございますか?……」
そう言ったまま、しばし考え込んでしまった。
「そう…ですね。まあ、しいて言えば……魯雲さんが婚約をしているという話を聞いてから、なんとなく魯雲さんと話をしづらくなった、ということはありますね。しかし軍議の場であれば話をしないわけではありません。単に軍議以外では話しかけにくい様な気がしてしまう……という程度でございます。なので、特に今回の様な大失態をもたらす原因とは思えませんが……」
数分後には口を開いたものの、自分では納得できないかのような口ぶりで言った。だが、陸正は麗玉の心理を読み解いた。
「そうか。了解いたした。魯雲どのには婚約者の話をなるべくしないように言っておく。そして貴公も今の話は他の者には言わない方が良かろう。ただ、作戦の立案とか陣頭指揮において、何か普段とは違う気持ち……さながら霞がかかったような曇りが貴公の気持ちの中に生じたら、病気と称してしばし休むが良い。事は多くの将兵の命運にかかわる。病気で休むことは決して恥ではない。無理をしない方が良いであろう」
「はい…かしこまりました……」
麗玉は陸正の口ぶりからただ事ではない雰囲気を察知したが、さりとて踏み込んで陸正の真意を聞きだすことは出来なかった。麗玉は
(これは何か、私には言いにくいことなのだろう……)
と判断して、その日は陸正とはそれ以上の話をしなかった。
自分の部署に戻った陸正は頭を抱えた。
(困ったものだ。間違いない、麗玉は魯雲に恋心をいだいている!しかも麗玉本人がその事に気づいていない!一番面倒な状況だ……)
その後陸正はこの件を郭俊には伝えなかったが、作戦において麗玉が動揺した結果として何か問題を起こさないかヒヤヒヤした。とはいえ槍術や弓術や馬術といった武芸の面では麗玉の腕は鈍っておらず、「普段の能力を発揮できていないのではないか」という陸正の不安は幕屋において作戦立案にかかわる場面においてのみ配慮すれば良いことであった。それゆえいざ戦場に出た後の麗玉に関しては特段心配をせずに済んだのもまた事実であった。
第十五章
彭蒙の住む家から近い道場で、数日にわたって気合に満ちた掛け声が響いた。
「えい!…やあっ!……とおっ!!」
武官に仕官するための試験が近い。彭蒙は今まで以上に槍術や弓術の修練に打ち込んだ。
「組手」と称される、棍を互いに討ち合う訓練に付き合った同郷の猛者たちも、彭蒙の激しい攻勢に対して、終始守勢に回らざるを得なかった。
(こいつなら本当に武官として出世するかもしれないな……)
組手用の棍には、競技する者同士がなるべく怪我をしない様に熱い布が何重にも紐でくくられている。そして相互に鎧と兜を身に着けて打ち合うのだが、それでも彭蒙の剛腕から繰り出される棍を何度も浴びた訓練相手の若武者たちは、彭蒙によって付けられた傷跡をさする羽目になった。だが、そんな風に彭蒙の武芸に対する熱意に感心していた周囲の敬意はどうあれ、彭蒙は若干の物足りなさを感じていた。
(しかし、やはりアイツがいないと物足りないな……)
四人目の訓練相手を降参させてもなお血の滾りが収まらないかの様に肩をいからせつつ、彭蒙は思った。
「彭君、孟君ならば、明日には戻ってくるぞ!」
彭蒙の気持ちを察してか、本日一番目に彭蒙と組手で武を競った高裕は言った。
「おお!それはありがたい!」
彭蒙は満面の笑みを浮かべた。ここで孟君と呼ばれた人物の本名は孟幹といい、高基や彭蒙と同郷であるのみならず、彭蒙の組手に一番頻繁に付き合ってくれた好漢だ。棍の技量も成申では彭蒙に次ぐ第二位の武勇を誇る。武官の試験の前に一度は手合わせを願いたいものだと思ったところだ。
一年以上前に文武官の試験に次席で合格した魯雲を成申の人々は誇りに思ったが、今期に関しては武官の試験に挑む彭蒙と孟幹という二人の逞しさに、いやがおうにも期待が高まっていた。
その翌日、孟幹の屋敷を訪ねようと思っていた彭蒙を、孟幹の方から訪ねて来た。
「あ、孟君!」
「久しぶりだな。ますます腕を上げたようだが、俺も棍については伯父のもとで修業を積んできたぞ!」
孟幹の伯父の孟路は、かつて武官として功績をあげた人士だ。今は現役を退いているものの槍術や剣術の技量は衰えてはいないと豪語しており、武官に仕官したいと望んだ孟幹を十日間にわたり鍛えていた。だが、孟路から見た孟幹はすでに見上げる対象であり、修行とはいえむしろ孟幹の激しい攻撃に守勢で応じるのが精いっぱいであった。そんな頼もしい甥の武勇を見せつけられた孟路は、
「お前の技量は既に武官の試験に合格する水準に達している。さらに鍛え上げないとならないとは思えないが、まさか主席での合格でも目指しているのか?」
そんな問いを発してみた。しかし孟幹は
「伯父上、私は同郷の彭蒙との組手では五回に一回しか勝てません。武官としての合格を目指すのは当然ですが、彭蒙よりも良い成績で合格したいと思っております」
孟路は孟幹の意気込みに感じ入ったが、同時にその孟幹をもしのぐという彭蒙という人物が故郷にいることに驚いた。「野に異才あり」とは言うものの、決して大都会とは言えない成申にそんな傑物がいることが意外に思えたのだ。
十日間の修業を終えて帰郷した孟幹は確かに腕をあげていた。しかし彭蒙も同郷の豪傑と組手を繰り返してきたのである。相互に腕を上げたことを認め合いながら、組手の結果は今回も彭蒙の四勝一敗であった。
「くやしいな、あれだけ修業をしたのだが、彭君には勝てないか……」
「いや、しかし君も腕をあげたよ!俺も最近の組手を一日でも休んでいたら三勝二敗という結果になっていた様な気がする」
「そうか!ならば我らはお互いに上位者として合格できるかな……」
「そうかもな。だが世の中は広い。君や俺を超える武勇の徒がいないとは限らないぞ」
「そうだな……」
「あとは当日に疲労を残さない様に、走り込みなどの適度な訓練にとどめておこう」
「ああ、その方がいいな」
現代で言うところの整理体操にあたる、激しい運動の後の若干の体操をすることを重視した二人は、数日後に故郷の期待を受けながら武官の試験に向かった――
彭蒙と孟幹は両者ともに全力を出し切り、他の地方出身の受験者の目を引く武芸を披露した。だが二人とも合格したとはいえ、遠く離れた町の出身である呂恬という豪傑が弓術と馬術で一位を取ったことに加えて剣術と槍術でも彭蒙に次ぐ好成績であったことは、彭蒙に世界の広さを思い知らせる結果となった。
「やはり世の中は広いな……成申にはこんなに多数の武芸の達人などいなかった……孟君も合格したとは思うが、どれくらいの成績なのだろうかな?」
呂恬の見事な馬術や弓術をあらためて思い起こしながら、彭蒙は同郷の好漢の成績を気にせずにいられなかった。
孟幹は第八位で合格した。一般的に上位合格者と呼ばれる五位以内には至らなかったが充分故郷に誇れる成績である。おまけに、楽天的な孟幹は自身が八位だったという結果を聞いて
「俺は八位か!八なら末広がりだから、将来は主席よりも有望だな!」
などと言って笑っていた。
その後、孟幹は主席の呂恬および数人の合格者とともに武官として、北北西の地、すなわち援軍を求めている延漢の失地回復のために派遣された。その派遣の背景には、親交を結んでいる同盟国を援助しないわけにはいかないという理由に加え、もしも延漢の西部が完全に匈奴の手に落ちれば南魏は匈奴と国境を接する事になるので、最終的には南魏自体が侵略を受ける危険性を避けたいという実利的な理由もあった。
「彭君は契丹対策に派遣されるのか。俺の任地はもっと遠いがお互い成申を離れて活躍して勇名をとどろかせ、やがては成申に俺たちの名が聞こえる様になるといいな!」
孟幹は同輩および先輩の将兵とともに姜恂という英傑が守る朱環城に向かった。延漢の将兵と協力して匈奴に奪われた土地を奪還し、自分の名を伯父の孟路以上に高めてやろう、そんな強い熱意に孟幹は燃えていた。
第十六章
自らの順位を楽天的にとらえた孟幹とは異なり、彭蒙は少なからず悩んでいた。
(俺に足りていないのは馬術……いやそれよりもむしろ弓術だな!弓術さえ磨いていれば主席になれたかもしれないからな……もっとも、本当に俺に足りていないのは学問だが、魯雲の様な文武官ではないので学問はもともと誰にも期待されていないだろう。いつか主席の呂恬の様に匈奴討伐に行くためには、馬術や弓術をもう少し磨かないとならないな)
彭蒙は自身の弓矢を携えて魯雲の家に向かった。効率的な弓術の練習法について魯雲の意見を聞きたかったのだ。
剣術と槍術は主席の呂恬よりも成績が上であったのに次席にとどまったことが彭蒙には悔しかった。そうした悩みを本来なら武官の誰かに相談すべきだったのかもしれない。だが彭蒙は魯雲が文武官とはいえ弓術に関しては得意であることを思い出した事にくわえて、魯雲は人当たりが良くて他の誰よりも話しやすい幼馴染だという事もあり、彭蒙は魯雲の住居を訪ねる事にしたのだ。
「俺と君は分野こそ違うがお互いに次席だな!俺は今後は弓術を磨いて、契丹との戦いに勝利したあかつきには匈奴との戦いに参加するぞ!」
最近の彭蒙は魯雲と会うたびにそんな風に豪語していた。
だがあいにくその日の魯雲は部下から急な相談があると言われた上に重要な軍議も重なってしまい、遅くまで帰らないと雪蘭に伝えたうえで家を出ていた。しかし彭蒙は最近の自身の弓術の上達ぶりを魯雲に見せたくて、そしてまた昨今の政情に関する魯雲の意見を求めたくて、魯雲の住居を訪ねた。しかしそこで出くわしたのは魯雲ではなくて雪蘭であった。
「あ!……雪蘭!雪蘭ではないか!」
懐かしい声に思わず雪蘭が振り向くと、そこにいたのはかつて恋人であった彭蒙であった。
「公徳…さん……お久しぶりですね」
恋人同士の頃の様に字で呼んでしまったことを雪蘭は悔いた。他人行儀に「彭蒙さん」と言っておけば距離をおけたのかも知れないと思ったのだ。ともあれ実際には、雪蘭が恋人同士の頃の様に呼んでしまったためか、あたかも昔と今とで自分たちの関係が変わっていないのではないかという錯覚をしてしまった。
雪蘭に声をかけた時点において彭蒙の心に雪蘭に対する何らかの気持ちがあったのか否かは定かではない。ただ何となく懐かしさに声をかけただけかもしれない。だが、弓術の練習を繰り返してもその技量が自らの思ったほどには伸びない点に彭蒙が苛立ちを覚え、魯雲が親友であることを一時忘れる結果となってしまった。
魯雲は本日は仕事のため遅くまで帰らない。雪蘭がそう言った時点で彭蒙は引き返すべきだった。また後日魯雲によろしく伝えてくれ、そう言い残しておけば良かったはずだ。だが実際には、
「しばしお邪魔してもいいか?」
と雪蘭に許可をもらい、つい魯雲の住居にお邪魔してしまった――
その日の夜遅く、部下の相談を聞かされた後に上官である陸正および同期の麗玉による諌言を聞かされて疲労した魯雲は、雪蘭の表情を特に気にするでもなく寝所に着くなり眠ってしまった。帰宅すると雪蘭が何か不安を感じていないか気遣うのが魯雲の習慣だったが、疲れて帰宅後すぐに眠ってしまった魯雲はその夜の雪蘭の顔を見る事がなかった。
魯雲が夜遅くまで働いて帰ってきた日の翌日から、雪蘭は
「妾を妻と思わず、単なる召使と思ってください。仲明さんと一緒に住まわせてくだされば、召使として使ってくだされば、それで十分です」
などと言って寝所をともにすることさえ拒絶する様になった。そんなことを言わずに夫婦なのだから一緒に寝ようと魯雲は説得したが、雪蘭は同じ寝室の中で床にござを敷いてその上に布団を敷いて寝ることにして、寝台まで共にすることは決してできないと言い張る様になってしまったのだ。
その態度は決して魯雲を嫌っているものではなく、「妾の様に何かと至らない者が仲明さんと寝台を共にするのは申し訳ありませんので」という異常なまでにへりくだった心情のあらわれであった。そのため魯雲は怒る気にはなれず、雪蘭の意図をはかりかねていた。そんな魯雲が寝室を出ようとしたとき
「あれ?なぜこんな場所にこんなものが……」
あるものを見つけ、魯雲は首をかしげた。
雪蘭が魯雲に対して急によそよそしい態度をとる様になって三日後、雪蘭は魯雲が驚く様なお願いをした。
「仲明さん、折り入って話したい事があります」
「ん?…わ、分かったよ雪蘭さん。何でも気にせず、僕に話してよ」
雪蘭のあらたまった表情から、ただ事ではない雰囲気を察した魯雲は怪訝な表情になった。何となく嫌な予感がするが、かといって話を聞かない訳にはいかない。何を言い出すのだろうかと不安な気持ちで雪蘭の次の言葉を待った魯雲が聞いたのは、実に意外な発言だった。
「私との婚約を解消していただけませんでしょうか?」
雪蘭の提案に魯雲は今までになく動揺した。
「え?それは一体どうして……」
雪蘭の言葉に納得できない魯雲は、ひょっとして自分に何か落ち度があるのかと思った。
「ぼ…僕は何か雪蘭さんに悪い事をしてしまったんだろうか?もしそうならば申し訳ない。婚約を解消するかしないかはひとまずおいて、僕の何が悪かったのかを教えて欲しいんだ、お願いだよ!」
この魯雲の発言に今度は雪蘭が慌ててしまった。
「いえ、それは……申し訳ありません!…しかし具体的な理由は、今は言えません……しばしお待ちください」
「で…でも、そこまで言うからには僕に何か落ち度があったっていう意味だよね?違う?」
「いえ、そういうわけではありません。落ち度は私の方にあるのです。ともあれ具体的な理由はしばし待ってください。もう少し時が過ぎて、心の準備が出来てから……」
雪蘭の表情が深く陰ったことを察知した魯雲は、無理に聞き出そうとはしなかった。だが、今は婚約を一時解消して、その後にまた結婚をする気になるかどうかをよく考えたいとの雪蘭の意見を魯雲は受け入れた。そして雪蘭は立場上は住み込みの召使いという事になった。その提案は雪蘭自身が提起したものだけあって、魯雲が受け入れた際に雪蘭は
「ありがとうございます!」
頭を深々下げながらそう言った。とはいえ、魯雲は内心では雪蘭を大切な伴侶を思っていたので、それまでの魯雲の雪蘭に対する接し方は何ら変わることはなかった。
その後、麗玉は定期的に軍議でしばしば有意義な意見を述べは郭俊に認められたのに対し、魯雲は雪蘭のことが気にかかり、あまり活躍をせずにいた。弓隊の統括は任せてもらえたし弓術の腕が落ちたわけではない。ただ、一時期に見せた俊英らしい冴えた判断を、この時期の魯雲は出来なくなっていた。
それでも魯雲が少し気を持ち直せたのは、やはり雪蘭のおかげだった。寝床は共にしないままであっても別に料理や裁縫の技術が落ちているわけではないし、むしろ共に寝なくなってからの雪蘭は以前よりも魯雲の事を気遣う様になり、料理その他の内助で魯雲にますます貢献する様になっていた。
魯雲は雪蘭の振る舞いを見るにつけ、雪蘭から言われた「仲明さんに申し訳ない」という言葉の真意を測りかねた。しかし今はこうしてあえて少し距離を置きながらも健気に支えてくれる雪蘭がいとおしかった。そんな気持ちもあったので、軍師候補者としての活躍において麗玉にやや後れをとったとはいえ決して仕事面で大きな失敗をするわけでもなく、魯雲の軍務は周囲の評価に恥じない良好なものであった。
第十七章
文武官として十年に一度と言われる英傑の賈良と魯雲そして麗玉のうち武力においては賈良が飛びぬけて高いのは多くの人が認めるところである。しかし文武両道であろうとして意気込みを最も強く持っている者、すなわち負けん気が最も強いのは麗玉であった。あるとき麗玉が自らの後輩にあたる豪傑の武官の赴任地を魯雲に尋ねたのも、そうした負けん気が原因であった。
「ねえ魯雲。魯雲と同郷の彭蒙さんという人は今期の武官の次席だって言うけど、主席の呂恬さんという武官は郭俊さまのもとには配属されなかったみたいね。どこに赴任したの?」
馬術や弓術のみならず槍術や剣術にも優れた呂恬に会えれば良い見本になってもらえるだろう、麗玉はそんなことを思って呂恬の所在を尋ねてみたのだ。
「呂恬さんは匈奴に対抗するために北北西に赴任することになったよ。我が国の目下の課題は契丹との戦いだけど北の延漢が匈奴に奪われた土地を奪還するために陛下に援軍を要請しているから、優秀な将兵の全部を契丹対策に向けるわけにはいかないからね」
「たしかに……東の国境は膠着状態だからあまり戦闘もないだろうけど、アタシたちの先祖は匈奴には何度も大敗を喫しているものね」
「うん。何しろ僕たちの国の歴史上、匈奴に完勝出来たのって三人だけだもんね」
「え?三人?」
魯雲の言葉に戸惑った麗玉は、しばし考え込んだ。しかしいくら考えても三人目の名前が思い当たらない。
「ちょっと待って魯雲!三人目って誰のこと?智謀に優れた李牧将軍と、その李牧将軍をも凌駕すると言われた馮異将軍以外に、匈奴に完勝した事例って、アタシ知らないんだけど」
「あれ?朱さんが知らないなんて意外だな。ウッカリ忘れているだけじゃない?」
「いや、本当に思い当たる人物がいないんだけど……誰なの?教えて!」
「う~ん、朱さんなら間違いなく知っている人物だよ。どうせ忘れているだけだから少し考えれば思い出すよ。何しろただ単に匈奴に勝っただけじゃなくて単于の首級をあげた英雄だもの」
「単于の首級?……」
その言葉を聞いてますます戸惑った麗玉だったが、しばしの沈黙ののちに正解を思いついた。
「あ!ひょっとしてもしかして……陳湯?!」
「そう!陳湯将軍だよ!」
にこやかに答えた魯雲だったが、その表情を見た麗玉は明らかに不満そうに眉をひそめた。
「え~、でも陳湯は単に敵失で単于を討ち取れただけじゃない!大した業績じゃないよ!」
陳湯という武将が漢の皇帝の命を受けて匈奴討伐のために遠征した後、匈奴内部は漢と和睦するべきと主張する和睦派の呼韓邪単于と好戦的な郅支単于の二つの派閥に割れて内戦状態になった。そこで陳湯は部下の兵士たちを引き連れて呼韓邪単于に頼んで、郅支単于をおびき寄せてもらってその首級をあげたのだ。その後は一時的にとは言え匈奴と漢は和睦を結んだので陳湯のおかげで漢が匈奴の脅威から守られたのは事実なのだが、麗玉にとってその和睦は「単に敵失に乗じただけの成果」としか思えず、それゆえ陳湯という人物を麗玉は評価していない。
「匈奴が内戦状態だったことを利用しただけの陳湯なんかを李牧将軍や馮異将軍と同列に扱うなんて、仕官のための試験でも腰抜けな答えをした魯雲らしいわ!」
麗玉はやや呆れた様に言ってのけた。
「いや、別に僕も同列とは思っていないよ。確かに智謀では李牧将軍や馮異将軍の方が陳湯将軍より上だろうね。ただ、少数の部下とともに敵地の奥にまで乗り込んだ豪胆さは素晴らしいし、それに陳湯将軍の判断のおかげで匈奴との和睦が成立して多くの人が戦禍をまぬがれたことにかんがみると、やはり陳湯将軍の業績は評価するべきだよ」
「そうかなぁ……ちゃんとした戦闘行為による勝利じゃないんだから、そんなの評価に値しないんじゃないかなぁ?」
その後の魯雲と麗玉の会話は、今までも意見の対立をしたことが少なくない二人としては無理もない様な対立意見を含んだものだったが、今回の麗玉は以前に比べても魯雲を「腰抜け」と呼ぶ事が多く、魯雲は戸惑った。
「朱さん、朱さんが陳湯将軍を評価したくないのは分かったよ。ただ、何だか単に僕と意見が違うというだけとは異質な、強い拒絶を感じるんだけど……何か僕に対して、意見の違い以外に苛立つ理由があるの?」
「ごめん、今回は私の言い過ぎかも……以前の私の話し方なら今ほど魯雲に対してキツくなかったと自分でも思うんだけど……というか今の私も、魯雲以外にはこんなに辛く当たらないんだよ。なのにどうして魯雲に意地悪してしまうのか、自分でもわからないんだ……」
麗玉は自分の非礼を詫びた。魯雲は詫びた相手を糾弾しないことを信条としているので他人からの意地悪を根に持つ性格ではない。しかし最近の麗玉の言い方に単に「からかう」と言うのとは違う心の闇を感じていた魯雲は提案せずにいられなかった。
「朱さん、何か不安なことがあるんじゃないかな?朱さんの内心は朱さんなりに話したくない事情があるかもしれないから僕につらく当たる理由を今話す必要はないけど、でも誰かには相談した方が良いかもしれないよ」
「うん、そうだね……ごめんね魯雲。どうして魯雲につい意地悪をしてしまうのか、自分でも分からないんだけど、陸正さまになら相談しやすいので近いうちに相談してみるよ」
「うん、それがいいと思うよ」
魯雲にはついつい意地悪をしてしまう、その気持ちをどう整理すれば良いのか自分でもわからない。そんな相談を陸正に対して実際におこなっていたら陸正はどう答えたであろうか。それを「嫉妬だ」と看破することは陸正には容易だが、はたしてその様に陸正は明言しただろうか。
とはいえ、この後そうした相談は必要が無くなってしまう結果になるのだが、それはこの時点では麗玉も魯雲も知る由のない事だった。
第十八章
話し合いの場で対立することも多かった魯雲と麗玉だが、軍議のために話し合いをすることは仕事上当然必要であるし、ともに歴史談議を好む者同士だったので話をしなくなるという事は無かった。しかしそうした何度かの話し合いの最中、珍しいことに雪蘭が訪ねて来た。魯雲と麗玉が仕事のための話し合いをしていることは分かっているが、雪蘭としても是非とも魯雲に伝えたい事があったので、つい思い余って仕事の話の最中に二人のいる場に来てしまったのだ。
「あのう…仲明さん。そちらのお話が終わってからで良いので、私のお願いを聞いてもらえませんか?」
魯雲に話しかけた雪蘭の表情には、少なからぬ不安の色がうかがえた。何か深刻な問題が生じたらしい。魯雲は心配になったが、しかし先刻の軍議で話しそこねた細部の打ち合わせが残っているため麗玉との話はすぐに終わらせることは出来ない。その雰囲気を察した雪蘭は
「お忙しそうですので、そばで少しお待ちしてもよろしいでしょうか?」
と尋ね、魯雲は応じた。
「あ…うん。別にいいよ。あと少しで話は終わるので、待っててもらえるかな」
そしてしばしの後に雪蘭を幕屋に迎え入れた魯雲は、雪蘭の話を聞くことにした。
雪蘭が魯雲を訪ねるのは婚約者である以上問題は無いだろう。ただ、先日の様に魯雲の方から引き合わせたわけでもないのに麗玉との軍議も終わらぬうちに慌てて魯雲に会おうとしたのには別の事情があったのだ。
数日前に成申から届いた手紙の中には親友である春華本人ではなくその母親からの手紙があった。その手紙によると春華は病床に臥しており、是非とも雪蘭と彭蒙そして魯雲には激励の手紙を書いて欲しいというお願いが書かれていた。
春華の病気は決して命に別状があるものではないが、しばらく体の倦怠感が抜けないだろうと医者が言っていたとのことである。そして心身ともに元気になる様に、親友からの手紙があると良いのではないかとの判断も医者は下していた。
その件を彭蒙にはすでに伝えた雪蘭は、彭蒙からは激励の手紙を受け取っていた。だが魯雲にはこのことをまだ伝えていない。急いで伝えなければと思って魯雲を訪ねた際に、くしくも魯雲と麗玉が話をしている場面に出くわしたわけだ。
二人は既に仕事上の話を終えて、いつもの様に麗玉が魯雲をからかうという今まで何度もあったような会話の再現になっていたが、今回唯一違うのはちょうど近くに来ている彭蒙を是非とも麗玉に会わせたいという提案を魯雲がしているという点だった。麗玉は別に断る理由もないし今期の武官の試験で次席になったうえに槍術や剣術では主席の呂恬をしのいだ彭蒙という人物に会ってみたいという気持ちもあったので、彭蒙をその場に連れてくることに快諾したところであった。
魯雲は単に
「少しだけ待ってて。いま公徳を連れてくるよ!」
とだけ言って出て行き、結果として雪蘭は麗玉とともにその場に残された形になってしまった。雪蘭と二人きりで会話をするのは麗玉にとっては気まずいことだった。とはいえ謝罪の機会をもらえたと考えれば、むしろ好機とも解釈できる。
「范さん、こないだは悪い事をしたわ。ごめんなさい……」
「あ…いえ、別に気にしてませんので……大丈夫です……」
雪蘭の言葉は単なる社交辞令というわけでもなかった。魯雲に恋心を抱いている麗玉が嫉妬ゆえに雪蘭に対して攻撃的な態度をとった際に、雪蘭が不快な思いをしたのは事実だ。しかし故郷の春華が手紙で指摘した様に、ほかならぬ麗玉自身が自らの気持ちに気づいていないのだろう。そんな無自覚の嫉妬にまで反感をいだくことには道理がない。雪蘭はそう判断して、以前の麗玉の振る舞いは気にしない様にしていた。
魯雲にとって麗玉には彭蒙に会ってほしいという願いは、魯雲が彭蒙の気持ちを尊重していることからくる親切心である。将来の軍師候補と呼ばれるほど軍議において功績があり、さらには槍で敵兵を討った事さえあるという才色兼備の麗玉の名を彭蒙はしばらく前から耳にしていた。そんな勇敢な才媛には是非とも会ってみたいものだ。そんなことを彭蒙が言ったので魯雲は今回こうして麗玉に会わせる場を作ったのだ。魯雲の提案は彭蒙にとって確かにありがたいことなのだが、その場にまさか雪蘭がいるなどとは思っていなかった。
魯雲に連れられてきた彭蒙は、その場にいた二人の女性のうち麗玉よりも先に雪蘭に気づいた。そして雪蘭も彭蒙も、お互いを見ると気まずい思いをした様に目を伏せてしまった。
二人の反応の理由を、お互いに昔は恋人同士だったが今は既に別れたからだろうと解釈した魯雲は
(まずいことをしたな…)
と自分の判断を悔いた。
「いや、すまない。雪蘭さんを先に退室させておくべきだったかな。僕が悪かった。申し訳ない……ともあれ公徳、こちらが朱さんだよ!そして朱さん、こちらが僕の旧友の公徳……つまり武官部門で次席の彭蒙だ!」
そんな風に紹介しながら麗玉を見た魯雲は、麗玉の顔が少なからず紅潮していることに驚いた。
「…ん?…どうしたの?朱さん」
「え?…あ、いや!別に何でもないよ……魯雲……さん」
「え?」
普段なら、軍議以外で魯雲と話をするときは魯雲を呼び捨てにするのが麗玉だ。まさか麗玉が自分に敬称を付けて呼ぶとは思わなかった魯雲は面食らった。
しかし傍らにいた雪蘭は麗玉の気持ちを察した。確かに麗玉は魯雲に対して淡い恋心をいだいていたのだろう。だが、今の麗玉は顔が紅潮しているのみならず手指をそわそわと動かしている。それも彭蒙を見た瞬間からだ。その様子の意味することはただ一つ!
しかし魯雲は麗玉の表情やしぐさの異変の原因がまったく分かっていない様である。雪蘭と同郷の厳春華ほどではないが雪蘭もそれなりに人情の機微に聡い……と言うよりは魯雲が鈍感すぎると言うべきか。
「ええと……朱さん?……どうしたの?いつもの様に僕をからかってくれていいんだけど……」
そこまで言ったところで魯雲は麗玉のあまりの変貌ぶりの原因が何か深刻な心身の不調かと思った。
「ひょっとして…朱さん!病気なの?大丈夫?早く治療をした方が!」
「な…何を言っているのよ…んですか!魯雲…さん。アタシは…いつもと何も変わらないじゃないの……ですよね?」
普段の麗玉と明らかに違うのに本人はいつもと同じと思い込んでいる。麗玉の身を案じて狼狽した魯雲はおろおろと取り乱した。そんな魯雲の様子を見た雪蘭は思わず吹き出してしまった。
「笑い事じゃないよ雪蘭さん!普段の勝気な朱さんじゃないんだ!絶対に何かの病気だよ!」
「いや、違うわよ!私は別に普段通りだってば。魯雲…さん!私が勝気だったっていうのは魯雲…さんの気のせいだってば!」
魯雲の発言を必死に否定する麗玉に、雪蘭は加勢した。
「そうですよ。朱さんの言う通り、朱さんは別に勝気なところなんて無いですよねえ」
「そう!……ですよ范さん。よく分かってる…らっしゃいますね!」
渡りに船とばかりに雪蘭の言葉にすがる麗玉。雪蘭はさらに言葉を続けた。
「おそらく仲明さんは、朱さんが真剣に軍議に臨んだり兵法書を読んだりする時の雰囲気から朱さんを勝気だと思いこんだのでしょう。今の朱さんが普段と違うというのは仲明さんの杞憂に過ぎないですよ」
「そう!……ですよ。范さんのおっしゃる通り!……ですよ」
かつては魯雲に同調して麗玉の事を勝気だの男勝りだのと評した雪蘭が以前とは正反対の評価を下したので、魯雲は首をかしげた。雪蘭はそんな魯雲に近づき、そっと耳打ちをした。
「仲明さん、今は私に話を合わせてください。たとえそう思っていなくても……お願いします」
具体的な事情は魯雲には分からないが、とりあえず何らかの事情があることは分かった。自分にとって大切な存在である雪蘭の頼みとあればさすがに断るわけにもいかず、雪蘭の必死なお願いを魯雲は受け入れた。
「いや、失礼失礼!公徳、僕はとんだ勘違いをしていたようだな。うん、雪蘭さんのいう事が正しいよ!」
「ん?そうか?まあ、お前がそう言うならそうなんだろう……ところで、こちらの朱さんという女性は剣舞も得意だとのことだが、俺はそういう優雅な事がまったく出来なくてなあ……そんな事が出来る人を尊敬するよ……」
「ん?ああ、そうそう!せっかくだから見てくれよ!この前の剣舞は、見事とはいっても何故か少し攻撃的だったんだが……今日は本来の技巧的な舞い方が出来るかな?」
「だ…大丈夫!…ですよ!というか、そもそもアタシは決して攻撃的じゃない……ですよ!」
相変わらずぎこちない口ぶりの麗玉であったが、彭蒙の前で舞うということから少なからず緊張した。しかし、魯雲の歌妓のごとく柔弱な剣舞を見ると本来の流麗なる剣舞を披露することが出来て、彭蒙も雪蘭もその舞踊の見事さに魅せられた。
その後雪蘭は魯雲と話をしたいと言って、麗玉と彭蒙を置いてその場を去った。その道すがら――
「ところで雪蘭さん……」
「何ですか?仲明さん」
「さっき雪蘭さんが言った言葉の意味が分からないんだけど、」
「え?…妾の言葉って?」
「雪蘭さん、さっき言ってたでしょ?『今は私に話を合わせてください。たとえそう思っていなくても』って、あれはどういう意味だったの?」
「ああ!そのことですか!それはですね……」
魯雲の耳元にヒソヒソささやいた雪蘭の言葉に驚いた魯雲は
「ええっ!そうだったの?!」
素っ頓狂な声をあげた。
雪蘭が魯雲に伝えた内容、それはもちろん麗玉が彭蒙に一目ぼれをした、というものであった。雪蘭にとってはそれはあまりにも明らかな事実であったが、魯雲には雪蘭の言葉が信じられなかった。
「でも、朱さんにそんな様子は全然なかったよね?雪蘭さんの勘違いじゃないの?」
そこで雪蘭は説明を続けた。
「よく考えてください仲明さん。前に仲明さんや私と会った時の麗玉さんは私も認めた通り勝気で男勝りでした。そして剣舞だって攻撃的なものだったじゃありませんか。それに対して今日の麗玉さんの剣舞は、とても柔和な…と言うよりも艶やかな舞だったでしょう?明らかに心境の変化が見て取れるほどの違いが舞の所作の中にありました。それに……」
「それに……何?」
雪蘭の次の言葉を待ちきれず尋ねた魯雲に、雪蘭は答えた。
「麗玉さんが顔を紅潮させたのだって公徳……彭蒙さんを見た途端の変化ですよ」
雪蘭は、彭蒙をウッカリ字で呼んだので訂正しながら言葉をつづけた。たしかにもともと長馴染みなのだから仮に「公徳さん」と呼んだからと言って魯雲が嫉妬する事は無いだろう。ただ、雪蘭は彭蒙との距離を置かねばならないと自分自身に言い聞かせるために言い換えたのだ。
雪蘭はさらに続けた。
「しかも、手を終始もじもじさせて……あそこまでハッキリと恋心が現れる人なんて珍しいというくらいの豹変ぶりでした。あの状態の麗玉さんを見て彭蒙さんに何も特別な感情をいだいていないと解釈することには無理がありますよ」
そこまで聞いて鈍感な魯雲もさすがに納得した。
「まあ、何はともあれあの二人には仲良くなって欲しいね。でも朱さんは仕事一筋で今まで誰にも恋愛感情をいだいたこと自体がなかったみたいだから、どんな風に公徳に接すれば良いのか分からないかもしれないし……不安だなあ。……公徳が朱さんの気持ちを受け止めてくれるといいよね」
この言葉を聞いた雪蘭は少なからず驚いた。
(仲明さん、朱さんは他ならぬ貴方に恋心をいだいていたんですよ。それこそ公徳さんに会う直前までね……)
雪蘭は思わずそう言いそうになったが、その言葉は口に出さなかった。それは他ならぬ麗玉自身にとっても気づいていなかった想いであり、それを今さら指摘しても誰の得にもならないこと。ならばこの問題は麗玉の心境を知った自分の内心にとどめ、他の誰にも明かさないでおこう。それが皆の幸せのためだ。
そこまでは理路整然と判断できた雪蘭であったが、
(でも、そうすると残る問題は、妾自身の事だよね……)
自分自身がやるべきことを考えると少しだけ気が重くなった。とはいえ、これで彭蒙と二人で話をする機会が出来たとも言える。雪蘭は口を開いた。
「仲明さん、朱さんのことですけど……」
「ん?」
「公徳さんは朱さんの気持ちに気づいてないかもしれないので、妾が公徳さんにお伝えに行っても良いでしょうか?是非ともそうしてあげたいんです」
「え…ああ、うん。それが良いんじゃないかな。朱さんの気持ちに気づかなかった僕が言っても説得力がないだろうから、雪蘭さんから言ってあげた方が良いと思うよ……あとで公徳のところに行ってきたら?」
魯雲はその後、当初の雪蘭の頼み通り故郷の春華にお見舞いの手紙を書き、一方で雪蘭は公徳に会いに行った。
「公徳さん、あのう…お話があるんですけど……」
「ん?話?……まさか……この前の事か?!」
「あ…いえ、あの事はもう忘れましょう……ただ、私自身はいつか仲明さんに謝らねばなりませんが……」
「だったら俺も仲明に謝罪する!雪蘭だけに苦しい思いをさせるわけにはいかないからな!」
「いえ、そういう事でしたら私から仲明さんに公徳さんの謝罪をお伝えします。それよりも公徳さんには、これからあの人を大切にしていただけないでしょうか?」
「ん?あの人とは……誰のことだ?」
彭蒙は魯雲と同じく麗玉の気持ちにまったく気づいていない様だった。そこで雪蘭は先ほど魯雲に対してしたのと同じ説明を再度する羽目になってしまった――
彭蒙の側は一目ぼれというわけではないが、しかし麗玉の教養と凛とした美しさ、そして読書と軍務の合間を縫って武芸にいそしむ毅然とした態度に幾分かは心を惹かれていたのも事実ではある。しかし雪蘭から麗玉の想いを伝えられた時点の彭蒙は、雪蘭や魯雲に対する複雑な気持ちがあって素直に自分が麗玉に限らず誰かの想いを受け入れて良いものなのかと迷っていた。とはいえ、麗玉のみならず雪蘭も彭蒙と麗玉の交際を強く望み、最終的には麗玉の気持ちを受け入れることになった。
武勇に優れ、単に武官試験の次席というだけではなく槍術や剣術では英傑の賈良さえも上回ると言われる彭蒙と、女性の文武官の中では一番の軍功をあげている麗玉は、南魏の将兵の誰にとっても最高の恋人同士であった。彭蒙はたしかに知力においては魯雲はもとより賈良にも劣る。とはいえ、否むしろそれだからこそ魯雲と同格の兵法の見識を持つ麗玉が支えることで互いの不足した部分を補い合える素晴らしい関係だと誰もが思った。
その後、彭蒙との交際が進むにつれて麗玉は一時的に陥っていた様な精神的不安定を脱却し、陸正のみならず郭俊も高く評価するほどの活躍をする様になっていった。諸将の幾人かはそんな麗玉を見て、歴史に名を遺した王異という女性武将に麗玉をなぞらえた。その評価を聞いた銀月は
「いえいえ、王異どのはあくまでその智謀によって軍議に貢献したのが主な功績でございましょう。それに対して朱どのは智謀のみならず馬術や弓術にも優れ、さらには槍術でもって敵を何名も討ちとっております。朱どのの方が格は上でしょう」
などと言って褒めそやした。
近いうちに麗玉と彭蒙は夫婦になるであろう。その噂を耳にした者の中で一番喜んだのは陸正であった。
(それで良い。彭蒙という豪傑のおかげで、朱君は魯雲に対する自らの恋心を忘れていくだろう。彭蒙も朱麗玉も、魯雲や賈良そして呂恬に劣らず我が国にとって重要な若者。是非とも朱君と支えあって我が国のために活躍してほしいものだ)
陸正はそんなことを考えながら、麗玉と彭蒙という、誰もが認める有能な人士同士の交際を温かく見守った。
第十九章
契丹と接している国境の中で特に戦闘が激しいのは郭俊たちの率いる大規模部隊が交戦している北西部で、その南に位置する韋攸たちの中規模部隊はそれに次ぐ長期にわたっている戦闘地域だ。およそ八割五分の確率で勝利する郭俊の部隊と、それには劣るとはいえ七割強の確率で勝ち越している韋攸の部隊がある限り、契丹に奪われた領土を奪還するのは時間の問題と思われた。
だが地理的条件は郭俊たちに別の困難をもたらし、慎重に戦う敵の出現はこれまでの戦術が通じない事態を生んでいた。郭俊たちが今回対峙することになった敵の部隊は、周囲を木に囲まれた森の中に陣を作ったのだ。対する郭俊たち南魏軍も極端に離れては敵の動きを察知できないので、その地域からある程度は近くにある陣を作らねばならなかった。移動のしやすさという要素も加味した結果、森林地帯の中にあってもなるべく木がまばらな場所を選んで陣を築くことになった。
敵の陣取った地形を見ると、なるほどよく考えている。川から遠くはないから飲み水には困らない。木が生い茂っているから隊列を組んで攻撃するのは若干難しい。そして背後には急峻な丘陵地帯があって、その丘陵が背後を守る盾の役割を果たしている。火計を用いることも考えた郭俊だったが、あいにく南魏軍の方が風下に当たるので火を使うのは郭俊たちにとって自殺行為になってしまう。
この地域の地理を考慮に入れた敵の部隊に郭俊はしばし良い作戦を思いつかなかったが、敵が地の利を活用するなら敵の裏をかくことが肝要と、件の丘陵も含めた近隣の地域全体を見通せる地図を見ながら郭俊は作戦を考えた。
(急峻な地から奇襲をかけ、敵を背後からせん滅する)
そこまでは作戦を思いた郭俊であったが、この作戦の際には肝心の急峻な地に行くまでに細い道を超えねばならないこと、そしてそれ以上に明鏡党と称する集団との対立を回避することが至上命題であった。
鬼谷先生の思想的後裔と称する程泰という人物を党首にいただき、その弟の程植を副党首として外部との交渉に当たらせる明鏡党は、西の国境近くの田舎に集落を作って自身の農作物をおもな糧として過ごしている、いわば一種の宗教団体の様な共同体である。その詳細は近隣の村の住民にも詳しく知られていないが、道教を起源に持つとのうわさもあり、その噂にふさわしく特殊な旗印を掲げたり体術を磨いたりという、一風変わった団体でもある。そしてその本拠地こそが件の丘陵なのだ。
明鏡党は南魏に協力的ではないが、かといって契丹など他の勢力と共闘しているわけでもない、いわば中立の勢力である。たしかに明鏡党も、郭俊や陸正が陣中で指揮を執りつつ魯雲たち有能な文武官が陣頭に立って攻撃すれば倒せないわけではない。しかし攻めにくい森の中にいる契丹の部隊こそがあくまでも倒すべき敵である。本来倒すべき敵との戦い以外にさらに戦線を拡大すべきではあるまい。しかも契丹にとって背後に当たる明鏡党の集落が襲撃によって騒がしくなれば、おそらく敵は中立だったはずの明鏡党が急に反乱を起こしたと解釈するであろう。そうなってしまえば敵は陣中にとどまっておらず、攻撃あるいは移動のためにいくつかの部隊に分かれて森の中を動き回るに違いない。その後は敵の動きを補足することは出来ず逆に南魏軍の方が奇襲を受ける可能性が高まる。こうした事情もあって、明鏡党の住む土地は騒ぎを起こさず穏便に通してもらうことが郭俊たちにはどうしても必要だったのだ。
(明鏡党との対立は避け、敵の本隊に奇襲をかけるまでは極力隠密裏に行動をしたい。そのためには交渉しかないだろう。しかし、誰を交渉に派遣するべきか……)
明鏡党との交渉という点に関して郭俊にとっては、陸正と、それからもう一人どうしても話をしておきたい文官がいる。それらのものと話をして決めねばならないが、最終的には主だった武官や文武官については敵の正面に回ってもらい、郭俊は別動隊として文官中心でなおかつ一部文武官も連れていくという編成を考えねばならないと思った。
郭俊は、酈陽という高齢の文官および陸正を呼んだ。そしてその二人と協議を重ねて、どのような編成で隊を二つに分けるべきかを決定した。
結果として麗玉の隊は明鏡党との交渉には参加せず、敵から離れてはいるが敵が物見やぐらを立てれば見える位置に陣を築いて防御の体制を取らせることにした。しかし防御が主目的とはいえ、いざという時は馬典を先鋒とした兵団を送り、その馬典が危機に際した場合は最も軍歴の長い黄援を援護に向かわせることを軍師の代理を務める者たちに言い渡した。
軍師の代理とは、すなわち文武官の麗玉と甘成、そして文官の許秀であった。甘成は文武官ではあるが武官に近い資質の持ち主で、麗玉との組手では三勝二敗の勝ち越しという戦績であった。とはいえ今のところ病気のため先鋒や次鋒を任せられる健康状態ではなく、病気が癒えるまでは幕屋にあって麗玉や許秀とともに作戦立案にたずさわる様にと厳命されていた。許秀の智謀は陸正にこそ劣るが、それでも麗玉や魯雲という俊英が士官する前は陸正に並んで郭俊の弟子として軍議に参加していた文官である。最近は王都武漢の伝令を取り次いだり輜重を任されたりという裏方を買って出ているものの、時々は兵法書を読み返している勉強熱心な好青年だ。そんな許秀ならば麗玉に劣らず軍議に貢献できるであろうという読みが郭俊にはあった。
陣中にはまた、かつて延漢からの使者のために琴を演奏した紅梅およびその後輩の女性文官もふくめ器楽の得意な者たち数名を滞在させ、紅梅には及ばないながらも男性文官の中では器楽で一位に叙せられた景英も滞在させた。郭俊率いる別動隊が急峻な地を行軍するため琴などの器楽奏者を連れていくことに意義を見いだせなかったのもあるが、敵を動揺させ、あるいは油断させるために音楽の力が必要になれば麗玉の命令で陽動作戦に使う様にと助言して麗玉に器楽隊を貸しておくというのが郭俊の判断であった。
かくして郭俊を筆頭に陸正と銀月そして酈陽が文官部門の統括という立場で出立した別動隊は、最近では練達の黄援と互角かそれ以上と評されることもある武芸を誇る賈良を先鋒とし、魯雲率いる弓隊は輜重を守り、武官の王信が殿を務めるという布陣で明鏡党の住む山中へ向かった。
他の任務もそうだが、任務というのは全般的に慎重に臨まねばならないものである。特に今回は敵の背後を突くための隠密行動なのだ。騒ぎは絶対に起こしてはならないし、なるべく落ち着いて事態に対処しなければならない。
しかしそんな場に身を置きながら、魯雲の心には若干ながら不埒な思いが湧いていた。別に具体的にどうこうしようというわけではないが、視界の端に時々映る銀月の姿に胸の高鳴りを禁じることが出来なかったのだ。
(いやいや、交渉は戦ではないが、戦と同じく真剣に望まねば任務に失敗する。銀月さまの気品ある美しさに見とれている場合ではない)
そもそも雪蘭という大切な女性がいる以上、決して不貞行為などあってはならないことであるとも魯雲は自らに語りかけた。ただ、実際の不貞行為は考えていないとはいえ、理知的であるが強気な麗玉の雰囲気とは全く異なる銀月の上品な魅力は、彼女が魯雲より四歳年上であることからくる落ち着いた雰囲気と相まって魯雲の心をしばし奪ってしまったのだ。
(気持ちの問題だけなら不貞にならないよね。とはいえ、雪蘭さんが僕のこんな気持ちを聞いたら怒るかもしれないから銀月さんに心を惹かれた事は言わないでおこう)
などと考えた魯雲は、なるべく任務の事を考える様に頭を切り替えるのに時間を要する結果となった。
明鏡党との交渉に際しては明鏡党と南魏軍の双方が三人以内の代表を決めて交渉に臨む様にとの条件が明鏡党から出された。その条件を受けた郭俊の判断により陸正と魯雲そして酈陽が使者として選ばれた。丘陵の中腹に位置する寺院のお堂の様な建物。それが明鏡党の指定した交渉の場だった。
その屋内に魯雲たち三名が入ると、党首である恰幅の良い程泰、その隣に座した少し痩せ形の弟は程泰の弟で副党首の程植、そしてさらに隣には知的な雰囲気の漂う侍女らしき人物が座っていた。もっともその女性は交渉そのもののためではなく、外部に不穏な動きがあれば程泰や程植に伝えるための仲介役であるとの紹介を受けた。まさか交渉を無視して矛を交えることなどあり得ないのだが、もしも屋外で何か異変があれば伝令を取り次ぎ、程泰や程植の方から外部の部下に伝えたい事があれば自らが伝令となる、そうした役割を担っているとのことである。
「明鏡党党首の程泰でござる」
「副党首の程植でござる」
二人は同時に頭を下げ、その直後に件の女性が
「趙香林でございます」
と言って頭を下げた。
ついで魯雲たち三名も各々名乗り、頭を下げた。陸正が代表の中で最も高位として中央に座ったため陸正に対して話すべきと判断した程植は
「陸正どの、貴公がもしかしてあの樊順党の幹部を痺れ薬で捕獲して樊順党全体を味方に引き入れたお方かな?」
この問いに陸正は
「いえいえ、それはこちらの魯雲と申す者の業績でございます」
と言って魯雲を紹介した。
「おお、こちらの魯雲というお方の業績か。まだお若いのに英明なお方でいらっしゃいますな」
程植は魯雲を褒め、そして側にいた程泰と香林も興味深そうに魯雲を見た。
「ありがとうございます。お褒め頂き光栄に存じます」
魯雲は笑顔を浮かべながら頭を下げた。
その後しばらくは程泰も程植のみならず香林も、魯雲が痺れ薬を調合するためにどんな資料をどうやって収集したのかという話を興味深く聴いていた。そして魯雲がその痺れ薬の効能を自分の腕に矢を刺すことで試したという話を聞いたときは、三人とも驚愕した。
かつて華佗という医者に関する文献を調べただけあって、薬草に関する魯雲の知識は深いものだった。その点が程泰や程植をはじめとした明鏡党の幹部たちの興味を引いたことは間違いない。だが、それだけで彼らの支配権にある土地を通ることを認めてくれるというわけではなかった。交渉はあくまでももっと政治的な次元で決まるものなのだ。魯雲には交渉が進まぬ状況を打破する策は思いつかなかった。
そんな魯雲の内心を見透かしたのか、程泰は核心にせまる問いを投げかけた。
「魯雲どの、貴公は確かに兵法に精通し、薬にも非常に詳しい。さらに野良犬であっても罪なき者を苦しませたくないという理由で痺れ薬の効能をご自身で試したという貴公の優しい御心のおかげで、貴公は功徳を積んだとも思う。それは素晴らしいことであると認めざるを得ない。しかし、貴公らの属する南魏の政治は武断政治ではないのか?南魏の丞相は、そして国王は何を考えておる?いつまで戦を続けるつもりか?敵の土地を蹂躙し、その民草を根絶やしにするまで矛を収めるつもるは無いのか?」
この問いに対して明確に答えたのは陸正であった。
「貴公がその様にご心配なさるお気持ちも分からなくはありません。しかしながら我らが国王の周越陛下は武のみならず文をも重んじるお方でいらっしゃいます。このたびこうして不幸にも生じてしまった戦乱の時代も、匈奴の先代の王たる兼蛇津単于の御代においては固く守っていた延漢との不可侵条約を朱那郁単于が破ったことに端を発します。契丹による侵攻も恐らく単独で決めた事ではなく、朱那郁単于の意向を受けたうえで延漢の同盟国たる我らが南魏を攻めたものと思われます。東方の国境においても隣国の青燕との間で矛を交えることがありましたが、それとて残念ながら不可侵条約を青燕が破ったことによる不幸な結果であり周越陛下のお望みになった戦ではございません。それが証拠に我が国の東方における戦は青燕の将兵を国境の外に追いやったところで休戦しており、南魏から青燕の国内に攻め込んでなどいないのです。貴公のご心配は、おそれながら杞憂に過ぎないかと存じます」
その言を受けて党首の程泰はうなずいた。だが、まだ周越の人柄や南魏の政策には疑義を捨てきれないでいた。
「なるほど、確かに貴公のおっしゃる通りだ。その点は認めざるを得ない。しかしながら、それだけでは貴公ら南魏の将兵たちが大義や道理を重んじる者たちだという確信までは持てないのだ。青燕は南魏と同じ民族が作った国家であろう。そうした青燕に対して貴公ら南魏の将兵や国王が抱いた自制心を、異民族たる匈奴や契丹に対してもいだけるかな?貴公らの国王は、あわよくば匈奴や契丹の地を蹂躙して我が物にしたいと願っているのではないかと思うが、いかがか?」
この問いに対しては、陸正もついに押し黙ってしまった。陸正を含め郭俊たちの率いる部隊の面々は恐らくほぼ全員がこの戦いを祖国防衛のためと考えており、南魏王周越には異民族を虜にしてその土地を奪おうという意図は無いと思っている。しかし、そうした南魏の将兵たちの気持ちを伝えても、程泰たち明鏡党の人々が信じてくれるだろうか?どう言えば自分たちの意図を信じてもらえるのだろうか?そんな疑問が陸正の頭を埋め尽くしたとき、酈陽が口を開いた。
「まさにその点こそが貴公らの真の関心事とのことでございますな。明鏡党が道義を重んじる方々の集団ということが、貴公の今の疑問によって伝わってまいりました。まずは何よりその点について敬意を表したいと存じます」
おそらく酈陽はお世辞ではなく本心からその様に述べたのであろう。魯雲にはそうした確証こそないものの、酈陽の口調はその様な誠意を感じさせる穏やかな口ぶりであった。
その雰囲気を察して程泰も程植も、酈陽に対して深々と頭を下げた。
「そちらの御仁は、何やら政治や法律にお詳しい方とお見受けいたしますが、どのような経歴のお方でいらっしゃいますか?」
この問いに対して酈陽は、軽く頭を下げてから自らの素性を明かした。
「私のごとき者にご丁寧にお話しかけてくださり、光栄に存じます。私は文官の酈陽と申します。こちらのお二人とは異なり武芸や兵法には疎いのですが、今まで公職において内政や外交といった政務をつかさどって参りました」
この言葉には程泰も程植も興味をいだいたらしく、両者とも身を乗り出して酈陽の話を傾聴する態度を示した。
魯雲はもとより陸正に比べても格段に余裕のある雰囲気で酈陽は話をつづけた。そしてその話しぶりは相手の反応を読み取りつつ、聴き手に回り、しかし話をするときは相手の関心を惹き付けるべく関心事項については迂遠な物言いをせず的確に答えていった。さらに程泰や程植の発言から明鏡党が理想の政治として周代の政治を念頭に置いていることを察した酈陽は、南魏において文官になるためには周代の法も学ばねばならないことを例に挙げ、さらには現在の南魏の政治観が明鏡党の理想と合致するものであることを堂々と述べていった。
酈陽の話す内容、そして話しぶりに魅了されたのは程泰や程植だけではない。補佐的な役割としてその場に居合わせた香林も酈陽の話に心を惹かれた様子で、興味深そうな表情で何度もうなずいていた。
かくして、最終的には酈陽の説得に納得した明鏡党の党首と副党首は、その占拠している丘陵地を南魏の軍勢が通過することを許可した。その際に
「貴公ら南魏の将兵がまことに真義を重んじるのであれば、降伏した敵は殺さないであろうな」
との問いを投げかけたが、その点については酈陽のみならず陸生も魯雲もうなずき、程泰も程植も香林も南魏軍を信用するにいたった。
明鏡党が支配する地を無血で通ることが出来ると知り、南魏の将兵たちは大いに喜んだ。その中にあって郭俊は単に喜ぶのみではなかった。陸正と魯雲そして酈陽をもってこそ成しえた交渉結果であったし、もしも人選を間違えれば成しえなかったであろうことを事前に予期していたかのように、喜びながらも同時に落ち着いた表情をしていた。たしかに魯雲たち三名の資質も優れていたが、その資質を見抜いた郭俊もまた慧眼の士であった。
その後の交戦は背後からの奇襲が成功したこともあって容易に勝利することが出来た。敵から攻め込まれないための盾だと考えていた地形であり、しかも明鏡党という勢力が支配している地域にある丘陵地から多数の将兵が一気呵成に襲撃をかけ、虚を突かれた陣中はたちまち混乱状態に陥った。この功績は郭俊およびその郭俊に交渉役として選ばれた陸正と魯雲そして酈陽のおかげであるのだが、一方で敵陣の正面から見える距離に陣を取りながら敵の注意を引き続けた麗玉たちのおかげでもあった。
軍議における麗玉は敵が油断していれば陣中で将兵の演武をおこなって襲撃する可能性を示唆し、敵が苛立っているときは紅梅をはじめとする器楽に秀でた文官たちに演奏をさせて挑発する、といった相手の注意を引く行動を提案した。それに対して甘成も許秀も賛成。敵は見事に正面にいる麗玉たちの部隊の動向に気を取られ、郭俊たちによる背後からの奇襲に対してなすすべもなく総崩れになったのだ。
郭俊率いる南魏の軍勢はその後、降伏した敵の将兵は決して斬らず、明鏡党との約束通り捕虜とした。もっとも、これは今までも郭俊をはじめとする南魏の主義であった。ただ、今回は明鏡党との約束をしたという経緯があったため、明鏡党の党首たちのいる丘陵地を再度訪ねて
「我々が約束をたがえず斬らないでいることを、貴公らのどなたかその目でお試しになられますか」
とまで言って相手の意向を確認した。実際には誰も捕虜の護送まで見届けると申し出る者は無かったが、誠意を見せる意味で必要な措置だと判断した郭俊の命令により、そのような呼びかけは一応おこなうことに決定したのだ。
この戦闘の後、魯雲は酈陽を訪ね、酈陽に深々と頭を下げた。
「酈陽どの、申し訳ございませんでした」
「ん?何が申し訳ないのじゃ?」
「実は僕は、酈陽どのを今まで軽んじておりました。酈陽どのに限らず、軍務に当たらぬ文官の皆さまを一段低く見ておりました」
「ああ、なんじゃ。その様な事か。いやそれは至極もっともな心境じゃよ」
「?」
「実際問題として考えてくだされ。文官は国内の要職についているときは役にも立つが、この様に戦地に赴任する文官など少数であろう。もちろん、郭俊さまや陸正さまの様な兵法に通暁した文官は別じゃが、この地に赴任した女性の文官とか儂の様に外交や内政そして法学を重視してきた者たちは、戦闘行為の合間に中継都市への伝令として、あるいは陣中の誰かが病気にならないかと健康維持に貢献して……いわば陰ながらに支える存在」
「…左様ですか……」
「それゆえ、本務が戦闘行為である以上、儂らが役に立つ場面は少なく、結果としてこの地に赴任している文官は少ない。戦場における文官などそうした補助的な意味合いしかなく、今回の様に交渉が必要という場面など稀有な出来事じゃ。太平の世が来れば我ら文官の出番こそ多く、『狡兎死して走狗烹らる』という言葉の通り武官こそが職を解かれるかもしれぬが、何世代後にそんな平和な時代が来るのかと考えると、儂には心細い限りなのじゃ」
厳かな声で答えた酈陽は、何やら遠い未来を見ている様であった。遠い未来、たとえば千年以上も先の未来には戦そのものが無くなって武官も文武官も不要になり、官僚とはすべからく文官を意味するという時代がいつかは来るかもしれないが、そうした時代は何世代先のことなのか想像も出来ない。酈陽の表情にはそんな思いをいだいている様な気配がうかがえた。少なくとも魯雲には酈陽の表情は深い心情の表れに思えた。
年齢が違うから読みの深さも違うのかもしれないが、はたして自分が酈陽と同じ年になれば今の酈陽の様な読みが出来るかどうかと考えると、魯雲は自身の読みの浅さゆえに不安にならずにいられなかった。魯雲の心に武芸や兵法書以外に、まだ自分が学ぶべきことがあるのではないか、それは外交や内政といった一部の文官が習熟している分野なのではないか、という疑問が頭をもたげてくることになったのは、酈陽によるこの言葉がきっかけであった。
第二十章
その後、郭俊が率いる部隊は慧森軍との対決に臨まざるを得なくなった。慧森軍とは「軍」と称されてこそいるものの、契丹や南魏や延漢の擁する軍の様な公的存在ではない。そして傭兵というわけでもない。彼らは、いわば食い詰めた元農民たちが武装した集団である。
その慧森軍との戦いに際し、魯雲にとっては郭俊の意図をはかりかねるところがあった。慧森軍との戦いの主軸は、郭俊にしては珍しく兵糧攻めという相手の消耗を狙う消極策であった。郭俊もこれまでそうした消極策を取ったことが無かったわけではない。また、いかに南魏で当代随一の軍師と言ってもすべての作戦が成功するわけではなく、作戦が失敗して撤退を余儀なくされたこともない訳ではなかった。しかし今回の郭俊は、余裕に満ちた表情をしていながらあえて消極的な兵糧攻めを仕掛けており、しかも自軍の陣営の前面で精強な武官たちの演武をこれみよがしにおこなっている。
他にも魯雲には気になる点があった。何やらせわしく兵糧袋を陣の奥から敵に見える位置にまで持って来ている。そして何より軍議に際して魯雲に席を外す様に命令し、今のところ陸正と麗玉にしか今回の作戦を打ち明けないと郭俊は言ってのけたことに対しては、何か不穏な動きを感じずにはいられないのだった。
今回は魯雲の率いる弓隊が任務から外されたが、そのことが問題なのではない。問題なのは魯雲が軍議から外されたことだ。これまではたとえ魯雲の率いる隊に任務が無い場合でも、陸正や麗玉と並んで魯雲も軍議に参加させるのが郭俊の率いる部隊の慣習であった。にもかかわらず郭俊が今回に限って魯雲を軍議に呼ばなかったことは、魯雲に奇妙な不安を与えた。仲間外れにされているという意味ではない。普段と異なる決定を下した理由には、魯雲を含め自軍の将兵全体に対して隠したい何らかの理由があるのではないだろうか、という懸念がぬぐえないのだ。
(何となく胸騒ぎがする……何故だろう?何か不穏な空気を感じるのだが……)
魯雲は焦っていた。明確な理由があるわけではない。しかし今回の作戦には何か血なまぐさい匂いを感じずにはいられないのだ。もちろん、戦闘行為は全般的に非情なものであり、南魏がかつて青燕から、そして今はこうして契丹から国境を侵害されたという結果として生じた自衛の戦争であっても、戦闘行為の中に平和主義がある筈はない。どちらかの陣営が全滅あるいは撤退もしくは降伏をするまで血の匂いのする戦場に穏やかな日がめぐり来ることはない。ただ、今回の戦闘は今まで以上に何かよからぬことが起きそうな雰囲気があるのだ。この魯雲の直感がどこから来たのかは分からない。「いかに戦乱の世とはいえ、あたら命を無駄にするな」と、天帝あるいは伝説の名君が魯雲に啓示をくだしたのだろうか。
そこで魯雲は、現在の状況から郭俊の意図を推測しようと試みた。現在は敵をうまく兵糧攻めに出来ている。そして魯雲が率いる弓隊は今回の任務から外されている。しかも郭俊は味方全体に対して何か隠し事をしている――
敵の状況や自軍の陣の状況、そして郭俊のこれまでの作戦から、そして武官という偉丈夫たちの演武を陣の目立つ場所でおこなわせて意図的に敵に見せつけていること、さらには兵糧袋の位置をかえたことから郭俊の今回の作戦を予想するに至った。
(まずい!もし僕の読みの通りだとしたら、郭俊どのの作戦は成功するだろうが……しかし、成功してほしくない!)
それは軍人としてはあるまじき心境だったかもしれない。しかし魯雲は今回の作戦に対してどうしても言いたい事があり、軍議の場で自説を述べざるを得ない心境になった。思わず軍議の場に駆け込んだ魯雲に郭俊は問いかけた。
「ん?魯君ではないか!一体どうした?今回の作戦では君の部隊は特に役割を与えていなかったはずだが……」
作戦を練っている幕屋には普段と同じく郭俊および陸正と麗玉がおり、この地域の地図を広げて軍議をしている最中だった。
「郭俊さま!私は今回の作戦に対して意見を述べたいと存じます!」
「なに?しかしまだ作戦は明かしていないぞ。どういうことだ?」
そう言った郭俊のみならず、陸正と麗玉も少なからず驚いた表情をした。
「郭俊さまが今回お立てになった作戦は、おそらく以下の通りでございましょう。すなわち、今までなるべく精強であるかの様に見せかけた東の陣において、王都からの急な招集があったかの様な偽の報告を流布させ、あえて豊富な兵糧…いえ、表面の部分は本物の兵糧でしょうが、その下にあるのは兵糧に見せかけた焚き木を多数袋に入れたものでしょう。その袋を放置してそのまま東の陣を空けます。その際に慌てて引き返したかの様に振る舞いつつ敵が通りやすいように陣の門を開け放ったままにします!」
そこまで聞いたところで郭俊は思わず微笑んだが、陸正と麗玉は魯雲の言葉に顔をこわばらせた。魯雲は続けた。
「今まで我が軍による兵糧攻めにより困窮していた敵の事ですから、慌てて追撃するよりも先に我が陣にある兵糧を狙うはずです。そこで陣の門から近いところに敷いておいた手綱を馬の力で引き揚げ、そして陣から出られない様にします。後は火矢を周囲から放ち、我が軍の陣とともに敵を焼き尽くす作戦……つまり兵法書に言うところの金蝉脱殻の法を逆用し、さらに火計も使うおつもりでございましょう!」
魯雲の言葉をそこまで聞いた郭俊は思わず膝を打った。
「おおっ!見事だ魯君!貴公の今回の読みは朱君も陸正どのも超えたな!二人とも私の説明を聞くまで、兵糧袋に見せかけた木の入った袋や偽の報告までは予想できなかったぞ!」
郭俊は魯雲の見識を激賞し、隣にいた陸正も大きくうなずいた。そのさらに隣にいた麗玉は魯雲の読みに対して少し嫉妬した様子だったが、さすがにその麗玉も魯雲の読みの深さを認めざるを得なかった。だが、褒められたはずの魯雲本人は浮かない顔をしていた。そんな様子を察して口を開いたのは陸正だった。
「どうした?今回の魯君は間違いなく正しい読みをしていたぞ。何故そんなに険しい表情をするのだ?」
陸正の問いかけにしばし沈黙した魯雲であったが、郭俊に向き合って言った。
「郭俊さま、今回の作戦を遂行しない様に……いえ、遂行するとしても一部変更をしていただく様にお願い申し上げます!」
「ん?…それは何故だ?」
驚く郭俊に、魯雲は意見を述べた。
「今回の我々の敵である慧森軍は、もとはと言えば食い詰めた農民の集団です。規模は全く異なりますが、その本質は王莽の時代の赤眉の乱の様なものです。元来は国策として南魏の中の人手不足になっている農村に移住させるべき人々です。敵の戦意を奪うためにおびき寄せて火計を使うのはやむを得ないとしても、決して全滅させるべき存在ではなく敵意を削いだうえで労働力として国家に組み入れるべき人材です!そのため私は、陣の門のひとつを開錠しておき、そこから逃げた敵に対しては私が調合した痺れ薬を塗った矢を射て、可能な限り捕虜にする案を提言いたします!」
魯雲によるこの提案に対して麗玉は反論した。
「ちょっと魯雲!これは戦なんだよ!そんな甘い考えをしちゃダメだよ!……まあ、たしかに赤眉は最終的には光武帝に降ったけれど、そこに至るまでの苦労は決して生半可なものじゃない、とてつもない労力を要する過程を経てようやく降ったんだよ。そんなことは魯雲も知ってるでしょ!」
だが魯雲も負けてはいない。
「もちろん知ってるさ。だからこそ『規模は全く異なります』って言ったんだよ。慧森軍なんて赤眉の百分の一にも満たない小集団じゃないか。それを降すのに大きな労力なんて必要ないよ」
魯雲はあくまでも自説を固持したが、この点に関しては陸正も麗玉と同意見だった。
「魯雲どの、貴公の気持ちは分かります。赤眉が降った経緯はもちろん私も存じておりますが、それはあくまでもいくつかの偶然が重なって成し遂げられた僥倖に過ぎません。戦とは元来非情なものです。情を論ずる場ではございません。ここで一気に慧森軍を全滅させ、我が方の士気をあげるべきです」
しかし郭俊はしばしの逡巡の後、ハッキリと言い切った。
「いや、ここは魯君の言うとおりにしよう。陣の門のうち一箇所のみ開錠することとする。その代り魯君は自らの部下とともに、確実に敵を生け捕りにせよ!これは軍師としての命令である」
郭俊は何故この様なことを言ったのだろう。かつての赤眉の様に食い詰めた人々を哀れに思ったのか、それとも冷徹な判断ゆえか、その意図は分からない。陸正と麗玉は不満そうな表情を見せたが、郭俊の命令であるので異議を申し立てるのははばかられた。
「郭俊さま、ありがとうございます!」
深々と頭を下げた魯雲に対して、郭俊はくぎを刺した。
「ただし、生け捕りにするために矢を射る部下たちに対する説得は魯君自身でおこなうこと!他の者からは説得しない!それでも見事にこの作戦をやってのけられるか?」
この言葉に一瞬ひるんだ魯雲だったが、
「かしこまりました!必ず私の部下たちを説得してみせます!」
堂々と断言し、部下たちのいる場所へ向かった。
自分は間違ったことをしていない、という自信が魯雲の背中を押してくれた。魯雲は堂々と部下たちの説得を始めた。
日頃の魯雲は麗玉にほぼ比肩する弓術と知力、そして賈良に比べて部下を思いやる篤実な態度で同期はもちろん先輩の諸将よりも部下に人気があったのだが、今回の決定に関しては部下たちの反発を招かざるを得なかった。
「魯雲どの、敵に情けをかける必要などありません!当初の郭俊さまの案の通り敵を全滅させる作戦で行きましょう!」
「慧森軍にはこれまでの敵と異なり明確な敵意は無いというのは魯雲どののご指摘の通りでしょう。しかし敵意が無くても現状においては脅威です。いくら前に樊順党という盗賊集団が魯雲どのに帰順したからと言って、今回も同じ結果になるとは限りません」
こうした意見に対して魯雲は
「しかし、すでに郭俊さまのご同意も得ている!郭俊さまの同意がある以上、今回は私の案の通り敵を矢で痺れさせて捕虜にする事が命令にかなっていることになるのだ!」
と言ってどうにか部下を説得しようとしたが、部下の大半は明らかに不満そうな顔をした。そしてついに魯雲は、
「貴公らの意向はよく分かった。この件に関して命令はしない。それ故あくまでもお願いだ。慧森軍の者たちを殺さず捕虜にするために我が作戦に協力してほしい。我が意に応じる意思のある者のみこの場に残ってもらいたい!我が言に不満がある者はこの場を去っても軍規違反として処罰はしない!賛同する者のみ残ってくれ!」
とまで言わざるを得なくなった。結果として、一部の部下はその場に残ったものの、残った者は魯雲直属の将兵全体の四割にも満たない人数だった。
「残った者はこれだけか……とはいえ、残ってくれた者たちは全員、私のやり方に同意してくれるという事だな?」
その問いに、その場に残った将兵は皆うなずいた。確かに少数とはいえ協力してくれる者たちがいるのはありがたい。しかし魯雲は同意してくれなかった者たちの意向をはかりかねていた。さらには自分の判断が間違っているのかもしれないという不安が魯雲の頭をよぎった。
(間違っている?僕は間違っているのだろうか?……)
深い迷いに悩まされて自身の判断について不安になった魯雲に、一人の偉丈夫が近寄ってきた。
「魯雲さま、私は魯雲さまのご意見に賛成でございます!」
そう語った体格の良い男の表情から真摯な思いを感じた魯雲だったが、その男の名を思い出せずに戸惑った。
(見たことのある顔だ……だが名前を思い出せない……)
魯雲の心境を察した男は
「私をお忘れでございますか?紀覧でございます」
「ああ、樊順どのの配下の!」
魯雲はそこで思い出した。紀覧はかつて盗賊団の切り込み隊長として魯雲の統括する部隊を襲った荒くれ者だったが、魯雲により痺れ薬を塗った矢を射られて捕縛された。以来、頭目の樊順ともども魯雲に帰順して魯雲の第二部隊となっていた元盗賊集団の幹部であるが、その第二部隊に対する命令の際は党首である樊順を経由して下していたので紀覧の顔を忘れていたのだ。
「魯雲さま、私は魯雲さまのおかげで命を救われました。さらに魯雲さまは我々樊順党を貴公の配下に擁してくださり、旧友とたがわぬ扱いをしてくださいました。このたび民草を集めて編成したる慧森軍の将兵も、魯雲さまが周越陛下の御代のため、南魏の良民のために貢献できる道があると知れば、なんで喜んで貴公の配下にならぬことがありましょうや」
その言を受けて魯雲は幾万もの味方を得た思いであった。
「ありがたや、紀覧どの。貴殿をふくむ樊順党の豪傑たちは、かの曹孟徳の青州兵のごとく、私にとっての股肱の臣です。これからも忌憚なく意見を述べてくださればこの魯雲、感謝の言葉もないでしょう」
そこまで述べたところで、魯雲は一点だけ訂正した。
「いな、青州兵という比喩は不適切かもしれませぬな。貴公ら樊順党の器量が青州兵におよばぬからではなく、私の将としての器が曹孟徳どのにおよびませぬからな。それにあくまで私は陛下の家臣たる郭俊さまの弟子。そして貴公らはこの魯雲の私兵ではなく南魏の将兵。私に万が一のことがあったら郭俊さまの直属となって南魏を支えてくだされ!」
「ありがたきお言葉。ですが私ども樊順党は皆、魯雲さまのおかげで生活の糧を得られるようになりました。また、第二部隊として公的な地位も与えられました。現在の職位が郭俊さまの権限により与えられた下賜の様なものだとしても、郭俊さまではなく魯雲さまの配下として奮戦する所存です!」
紀覧の言葉に魯雲は思わず涙が出そうになった。紀覧と魯雲はしばし手を取り合って相互に深々と頭を下げた。
その後、自らの調合した痺れ薬を塗り込んだ矢を矢筒に幾本もおさめた魯雲は陣の中で唯一開かれた門戸の左舷、射手として自信を持って敵の胸部より下を射抜ける範囲の射程圏内に身を置き、その左翼には樊順党の中で弓術の得意な者と、多くは無いが旧来より直属の部下で今回の魯雲の決定に賛同してくれた者たちを配し、門戸より敵の出てきたるを今か今かと待っていた。
「敵は来ますでしょうか?」
魯雲の隣に配された弓兵は不安げに言った。そんな部下に対して魯雲は自信ありげに答えた。
「来るさ……郭俊さまの読みが外れることなど滅多にある事ではない。わが陣営の将兵も今回の急な撤退は実際に後方で異変があったものと思い込んでいる。『敵を騙すにはまず味方から』という格言の通り、味方まで輜重を置き去りにして急ぎ撤退する様に命令されたのだ。敵もよもや罠とは思うまい」
「いえ、それがしが申しているのは、この開錠された門の事でございます」
「何?」
「たしかに今回の敵は飢えたる者たちなれば、兵糧につられて無人の陣中に飛び込んでくるでしょう。しかし魯雲どのの仰せになった作戦の通り、開錠された西の門にまでたどり着けますかな?」
「う…それは、たしかに……確約の出来ぬことである。……もしも慧森軍の将兵がこの門にたどり着けねば、その時は……残念ながら彼らは焼け死ぬ事になるな……」
そんな話し合いをしているうちに、魯雲たちが待機している門の反対側に位置する門が土中に埋められた紐を引っ張る形で閉じられ、数分後には陣中から火の手があがった。周囲から放たれた火矢が兵糧の入った袋さらにはその袋の下にある木片に燃え移ると、陣中はさながら祭壇のかがり火の様に赤々と炎をあげた。
「魯雲さま、陣中から火があがりましたね」
「そうだな。つまり敵はすでに我が方の陣で焼かれる苦しみの中にある、ということだな……」
(ここまでは郭俊さまの読みの通りだ。だが、この門だけが開いていることに敵が気付いてくれるか否かは全くの偶然に賭けるしかない!……たのむ!気づいてくれ!)
祈る様にして待ち続けた魯雲の気持ちが天に通じたのか、はたして敵の数名が開錠された門から我先にと飛び出してきた。
「よし!敵の胸より下に向け、矢を放て!」
先ほどすでに伝えていた内容を再度確認する様に魯雲は命令を下した。魯雲はじめ幾人もの弓隊員は出てきた敵に痺れ薬を塗った矢を射かけ、次から次へと千鳥足になった敵は、数分後にはその場に倒れた。
(残念ながら致命傷を負った者もいるかもしれないな……)
魯雲の不安は正しかった。魯雲自身はもちろん、心臓よりも下を狙って射る様にと心がけて射た弓隊の者たちだったが、動く敵に対して必ずしも致命傷を与えずに射ることが出来る弓の名手ばかりではない。倒れた者たちを捕縛しながら、その中の数名が死んでいることを知った魯雲は悲しんだ。
とはいえ、開錠された門から逃げた敵の大多数は痺れ薬で身動きが取れなくなっているだけであって絶命したのがわずかであるのも、また事実だった。
(多少の犠牲が出たとはいえ、まずまずの結果ではないだろうか?)
魯雲がそんなことを思った次の瞬間、蹄の音を激しく鳴らして一騎の若武者が魯雲たちの右舷より駆け寄ってきた。
(慧森軍の別動隊か?!しかしどこからどうやってここに来たんだ?……)
そんな疑問が頭をかすめたが、南魏の旗を持っていたため瞬時に魯雲と同じく南魏の軍属であることが分かった。そしてその若武者の顔を見た魯雲は
「あ、賈君!」
思わずその名を呼んだが、その直後に賈良は魯雲にとって思いもよらない行動に出た。魯雲およびその部下が捕らえた、痺れ薬で体の麻痺した者たちを次々に自らの槍で突き刺したのだ。
「……?!」
言葉を失う魯雲。
「な…何をするか!貴公、正気か!?」
近くにいた紀覧が驚き、馬を駆って賈良のもとへ駆けつけた。
「私は正気だ。食い詰めた農民など味方に引き入れても役に立たん。郭俊さまは当初の予定通り敵を全滅させるべきだったのだ!」
「しかし、この門から逃げた将兵を捕虜にすることは郭俊さまが許可したことだぞ!」
「そんなことは承知の上だ!味方に引き入れても役に立たない連中など、郭俊さまの命令がどうであれ、この場で処刑してくれる!」
さらにもう一名を刺そうとしたその刹那、ガシッ!と鋭い音が響いた。紀覧が矛をもって賈良の槍を止めたのだ。
「貴様、邪魔立てする気か!」
「貴公こそ軍の命令を無視している!謀反の意志ありと疑われても仕方ないぞ!」
「こしゃくな!まずは貴様を倒してから、これら役立たずの貧農どもを誅殺してくれるわ!」
激しく数合討ち合う両者。何とか賈良を止めようと、魯雲は槍を持って賈良に近づいたが、賈良が紀覧の矛をしのぐ合間に繰り出す槍の攻勢により、魯雲が持っていた槍は実にアッサリと弾き落されてしまった。そのとき――
「待て待てー!賈君!やめろー!」
駿馬を疾駆させて賈良を追っていた麗玉がようやく追いついた。
「お前も邪魔するつもりか?」
「賈良君!あなたがやっている行為は命令違反よ!認められないわ!」
「認めなければどうする?力ずくで止めるとでも言うのか?」
「う……」
麗玉は言葉に詰まった。麗玉が女子の中では最高の槍術を身に着けているとはいえ、さすがに賈良の槍術には及ばない。そんな心境を見越してか、賈良は笑みを浮かべながらさらに挑発した。
「何ならそっちの盗賊あがりと二人がかりでもいいぞ!相手をしてやる!」
その言葉を受けて紀覧は賈良に矛を振るった。麗玉も槍をもって賈良に対抗。歴戦の二人を相手にした賈良は、いかに豪傑とはいえさすがに先ほどの様な余裕の笑みを浮かべられなくなった。しかしながら双方とも「殺そう」という意図はない。あくまでも殴打して落馬させるのが目的であるので、力強くはあるが殺意のない力比べの様な武闘が続いた。
魯雲は賈良の背後に回ってコソコソと逃げる様に離れたが、一定の距離まで離れると得意の間合いを得たと確信して振り返った。
その直後――
「ウッ!?…な、なんだ?……何が起きた?」
臀部に突如痛みを感じた賈良は一瞬背後に気を取られ、紀覧がその直後に振るった矛に側頭部を討たれて落馬した。
「こ…これは魯雲の仕業か?!」
賈良を止めねばならないが、なるべく深刻な怪我をさせないように止めたいと咄嗟に判断した魯雲が放った矢は賈良の臀部に刺さっていた。怒った賈良は魯雲を追おうとしたが今度は麗玉の槍が賈良の脚を薙ぎ払って、賈良はものの見事に転倒した。賈良はさらに立ち上がって魯雲を追いかけようとしたものの、その頃にはすでに鏃の痺れ薬が効果を発揮し、手も足も自由には動かせなくなっていた。
長年南魏に貢献した武勲第一の黄援にも匹敵すると言われた英傑の賈良は、こうして敵ともども捕縛されてしまった。
その後、魯雲とその配下、そして第二部隊というべき樊順党の将兵は、生き残った慧森軍を縛ったまま郭俊のもとに連れて行った。そして賈良については麗玉が連行した。郭俊や陸正は論功行賞を行い、今回陣頭指揮を執った甘成を功績第一に、馬典を功績第二位に各々叙した。生け捕りに成功し、賈良による私刑という難をからくも逃れた敵の将兵は、命は助ける代わりに農村での役務に従事させることが決まり捕虜として護送された。
その後は当然ながら賈良や魯雲の処分が問題となった。黄援は賈良ほど武芸に秀でた逸材を一回だけの軍命違反で厳罰に処するのは南魏全体にとっての損失だとして、賈良に対して処分をしない様にと郭俊に申し出た。
「たしかに魯雲どのは将来の軍師候補者であると同時に弓術にも優れており任を解きたくない人物です。そして今回の軍議に際して朱麗玉どののみならず陸正どのの読みをも超えていたことには敬嘆ざるを得ません。しかし賈良どのの武勲こそ魯雲どのの智謀よりも得がたいものでございます。賈良どのに対する処遇だけは厳しくなさらぬ様、何とぞ御高配のほどを」
この黄援の発言を聞いた陸正は大きくうなずき
「賈良どのの任を解くは、曹魏にとって張郃を失うに等しく孫呉にとって呂蒙を失うに等しい」
と主張した。
しかしそうした意見に、麗玉だけは反対して
「郭俊さま!軍功が上か下かで処遇を決めるべきではありません!今回の作戦で命令に反したのは賈良どのであって魯雲どのに咎はありません!魯雲どのが矢を射たのも賈良どのに重傷を負わせることなく賈良どのを止めるためにやむを得ず選んだ措置です!魯雲どのを処罰すれば法を破ることを認める様なものです!」
と魯雲を弁護したが、最終的に現実問題として賈良の武勲を軽んじられないと判断した郭俊は、「今回だけ」と条件を付けたうえで賈良の命令違反を不問に付すことにした。その一方で魯雲には軍務を一定期間休む謹慎処分が下された。
魯雲に賛成した者たちの中でも特に樊順と紀覧をはじめとする樊順党の将兵は、この決定に納得しなかった。
「命令に違反したのは賈良さまの方ではないか!なのになぜ魯雲さまが批判されねばならぬのだ?」
そんな不満を述べる樊順に続けて紀覧は
「魯雲さまに咎があるのであれば、その魯雲さまに従って賈良さまを止めようとしたそれがしにも咎があることになる。ならばそれがしも罰を受けねばなるまい!」
とまで言った。二人のそんな気持ちは魯雲にとってはありがたいものだが、かといってこの場を丸く収めないと軍全体の士気にかかわる。
「樊順どの、紀覧どの、貴殿たちが僕のために怒ってくださるのは非常にありがたい。しかし知勇兼備の賈良君は他に類を見ない逸材だ。郭俊さまも他の部下から不満の声があがらない様にやむをえず判断をくだされたのだろう。ここはやはり僕一人が処分されるのが妥当だと思う」
魯雲の言葉にしばらくの間は渋い表情をしていた二人だったが、樊順が
「魯雲さまがそうおっしゃるのなら……」
と言うと紀覧も
「いたしかたありませんな……」
そう述べてしぶしぶ今回の沙汰を受け入れ、最終的には樊順党の者たちにも今回の処遇に不満を述べない様にという指示を党首の樊順みずから出すことになった。
次に魯雲はもう一人の自分の味方を説得して今回の沙汰を納得させようとした。雪蘭である。雪蘭は魯雲が前線に立つのを好まない。武官ではなく文武官なのだからどちらかというと指揮を執ることが多いが時々は弓隊の隊長として敵陣に切り込むこともあったし、今回の任務は如何に逃げ惑う敵を捕獲するためとはいえ直属の配下の大半が協力してくれない状況での任務であった。それゆえ魯雲が少数しか味方のいない状況で戦って戦死するのではないかと心配した雪蘭は、決して今回の任務を喜んではいなかった。しかしその雪蘭も、魯雲が謹慎処分になったと聞くと悲しそうな表情で言った。
「生活に苦しんでやむを得ず武装蜂起した人々に対して仲明さんはお仕事を与えようとして身の危険を顧みず任務に邁進しただけですのに、なぜその仲明さんが謹慎処分なのですか?妾には納得できません」
だが、魯雲が
「まあ、ものは考えようだよ。謹慎されたからこそこうして雪蘭さんとゆっくりお話しできるんじゃないか!」
と言うと無邪気にほほ笑み、そして魯雲の身の回りの世話をかいがいしく続けた。魯雲はそんな雪蘭を見ると謹慎処分の退屈さが癒されるのを感じた。
謹慎中の魯雲は当然陣中を自由に動くことは禁じられていた。そこで麗玉に伝えたい事は雪蘭に頼んで手紙を届けてもらった。最終的には魯雲が処分される事になったとはいえ麗玉は魯雲を弁護してくれたのだ。そのことに対する礼は一筆書かねばなるまい。そう思って雪蘭に頼んで渡してもらった手紙に対して、麗玉は意外な返事を寄こした。
麗玉が言うには、別に魯雲のためにやったのではなく、軍規を乱したのは魯雲ではなく賈良だったので魯雲を弁護したまで、とのことであった。この言葉を受けとめた魯雲は
「朱どの、貴公がそれがしを弁護した意図、しかと承知した。しかし、理由の如何を問わずそれがしの利になることを貴公が主張してくれた以上、やはり貴公に礼を述べたことは道義にかなうと思うところである」
との返信を書いた。麗玉からは
「魯雲どの、貴公の文意、しかと承知した」
という短い手紙が来たので、このやり取りはそこで終わった。
その数日後、謹慎を解かれた魯雲が麗玉の幕屋にやって来た。
「久しぶりだね、朱さん」
「うん…そうだね」
「この前は僕を弁護してくれて本当にありがとう。結局は僕の方が謹慎という処分を受けてしまったけど、朱さんが僕を擁護してくれたのはうれしかったよ」
「べ…別にアタシは魯雲のためにやったんじゃないよ!命令に違反したのは賈良君の方だから賈良君の方にキッチリとした処分をしないと軍が乱れると思っただけだよ……っていうか、それはこないだ手紙で書いたことだよね」
「うん…それはたしかにそうなんだけど、それでもお礼を一言直接言いたかったんだ。それに、他にも朱さんに言っておきたい事があるしね」
「アタシに……言っておきたいこと?」
「うん。実は僕は……」
「?」
「郭俊さまの配下から別の部隊に移りたいというお願いをしたんだ」
「え?…どういうこと?」
「韋攸さまのいる、ここよりも南部の地域に赴任したいというお願いをしたんだよ」
「え?……で、でもそれって何故?」
「賈良君との関係が悪くなったせいで居づらくなった……」
「え?…それって魯雲のせいじゃないよ!魯雲は悪くない!アタシ、もう一回郭俊さまを説得するよ!」
慌ててそう言った麗玉だったが、
「…いや、そういう面も確かにあるけど、それだけじゃないんだ。だから僕の事を弁護してくれなくていいよ」
魯雲がそう言うと疑問に思って問いかけた。
「え?…そうなの?」
「うん。実は郭俊さまも前に僕は軍事よりも内政や外交といった分野の方が向いているかもれないとおっしゃっていたし、僕自身も以前の明鏡党との交渉で酈陽さまという立派な文官を見てから内政や外交に興味が湧いていて、それで郭俊さまに頼んでみたんだ。たしかに賈良君ともほとぼりが冷めるまで距離を置いた方が良いだろうからという理由で頼んだというのもあるけど、もともとそうした気持ちもあったんだよ」
「そうか…そんなことを考えていたんだ……寂しくなるね。でも韋攸さまのもとで頑張ってね、魯雲」
「うん。朱さんも元気でね!」
「そうだね。お互いに頑張ろう!」
二人は笑顔で誓い合った。
次に魯雲は樊順党の面々と別れを告げた。樊順党は実質的には魯雲の第二部隊なのだが形式的には郭俊が魯雲に預けている部隊に過ぎない。それゆえ、樊順党を連れて行って良いかと魯雲が郭俊に尋ねた際に許可を得られなかったので、残念ながら別れることになったのだ。
樊順党の面々、特に紀覧と樊順は魯雲との別れを悲しんだ。それは魯雲も同じ気持であった。直属の部下でさえ六割以上が反対した慧森軍の生け捕り作戦にも樊順党は全員が協力してくれたし、中でも紀覧は賈良を必死に食い止めてくれたのだ。それでも魯雲が
「決して永遠の別れではありません。貴公ら樊順党が私と同じ任地に派遣されることもあるでしょう。今回のお別れは、あくまでその時までの一時的なお別れに過ぎません」
と言うと、悲しみながらもようやく別れを受け入れた。