若き勇者たち
『南魏志麗玉伝』に曰く――
錬賢王[注]の御代以降、女子にして文武官たる者幾人かあり。しかしてその中で最も特筆に値する者の姓は朱、名は麗玉なり。常に刻苦勉励し、弓馬に秀で、能く兵を率い、夷狄を討つこと不寡。その武芸、女子において是を凌ぐ者なく、男子において是を凌ぐ者寡し。その智謀、同期において是に比肩する者、童顔の美男子たる魯雲公耳。戦場におけるその美貌、さながら嵐の中に咲く妙なる大輪の花の如し。
これなる佳人、魯公の面前にありて幼子の如く振る舞うことあり。魯公それを訝りて曰く「怪なる哉」と。されど魯公、その振る舞いの所以を知ることを得ざると謂えり。
注:南魏王周越の諡
第一章
南魏王周越の命により、女子にも文官のみならず文武官の採用の門戸が開かれて五年の歳月が経過した。今期の文武官の筆記試験に合格して実技および口頭試問の場に臨んだ受験者の中で、筆記試験の成績が特に良かったのは、男子の魯雲と女子の朱麗玉であった。
両者とも筆記試験の成績が最上位であるため合格はほぼ確実だが、男子でありながら実技である馬術と弓術において女子の麗玉に負けたことは、魯雲の誇りを傷つける結果となっていた。
(槍術や剣術はともかく、馬術と弓術は相当に練習したんだけどなぁ……)
口頭試問の試験室には二番目に呼ばれる順番になっていた魯雲はそんなことを考えながら、試験室から自信ありげに麗玉が出てきたところで彼女と目があって、思わず目を伏せてしまった。麗玉を見た時の魯雲の印象は、「かなりの美人だ。我が国全土を探せば他にもこんな美人がいるのだろうけど、僕の故郷の成申では、こんな美人は一人……いや二人だけだろう」というものであった。とはいえ、いくら美人でも性格が峻厳そうな麗玉という女性に対して、魯雲は当初あまり良い印象を持てなかった。
(主席はおそらく、この朱麗玉さんという女性だな。そもそも実技が悪すぎた僕は、次席にもなれないかもしれない……)
そんな不安が頭をよぎった時、
「では、次に魯雲。君の番だ」
文武両道の才媛と無理をして主席の座を争うことを諦めたのか、少しばかり緊張は解けかけていた。
「失礼いたします」
なるべく深々と頭を下げてから試験室に向かう魯雲。口頭試問の場に向かうと三人の試験監督が床几に座っていた。中央の席に座していた試験監督が、机の上の地図を示した。
試験監督から投げかけられたのは、籠城している敵がいて場内に兵糧は今のところ尽きておらず、兵力では自軍が十分に優越している場合に、その城を落とすにはどうすれば良いか、との問いであった。城およびその周辺の地図を見せられた魯雲は、その城の東側の、城から徒歩で半刻ばかりの場所に大河がある事、そしてその大河の近くに指か棒で押された様な若干の痕跡がある事に気づいた。しばしの沈黙――
「さて……そろそろ君の答えを教えてくれないか?」
試験監督にうながされて、魯雲は口を開いた。
「城を落とす方法は二つあると思いますが、私自身が提起したい方法は一つだけです」
「では、君が提起したい方法とは?」
すこし怪訝そうな表情を浮かべた試験監督に対して、魯雲は堂々と答えた。
「降伏した者たちの命を助けると矢文で知らせるべきです。その矢文には、兵士としてもしくは農民として生きる道を与えることを書いておくべきと思います」
この答案に少なからず驚いた様子の試験監督はしばし沈黙したが、やがて口を開いて問いかけた。
「よし。君の考えは分かった。だが、城を落とす方法は二つあると言ったな。もう一つはどんな方法だ?」
この問いに対して、魯雲は少し逡巡を見せながら、ゆっくりと答えた。
「まず、将兵の一部を、城の東にある大河の上流に集め、木を切らせて河の水を止める堰を作らせます。その間に河とは反対の方にある西の門の近くに陣取り、何度か夜襲をかけるかの様な陽動作戦を仕掛けます。夜に鐘や太鼓で騒ぎを起こして、攻撃するかのように騒ぐのです」
先ほど麗玉という女性が指をさしたのであろう、地図上の少し皺になっている箇所を指さしながら魯雲は言った。
「それで、その後はどうするつもりだ?」
魯雲の答えの核心を知りたいと思った試験監督の一人は、身を乗り出しながら尋ねた。
「大河の水をせき止めるに至ったら、西の門にいる将兵を東の門に移動させ、東の門と河の間の地点に集めます。さらには、夜襲をする演技をしている間に一部の将兵を使って東の門から見えるところで炊事している演技をするべきしょう」
「というと?」
「実際にたくさんの兵糧を使う必要はありませんが、竈を作ってたくさんの湯を煮立てます。要は、敵に対して『西の門における夜襲は陽動作戦で、東の門の近くにこそ大群が集まっている』と思わせるわけです。実際に東の門の近くに将兵を集めるのですが、そのことを隠さず、わざと察知させます」
魯雲はそこまで話したところで、先ほど試験を受けた麗玉が指をさしたであろうもう一か所の場所、つまり東の河を指さした。
「そして夜襲ではなく、昼間に東の門に攻撃を仕掛けます。西の門で何度も繰り返し夜襲するかの様な偽装をされて苛立っていた敵の事です。わが軍の攻撃が本当は東門を狙ったものだと知ったら、それまでの恨みを晴らすために深追いするでしょう。わが軍が河を渡り終えて、敵がこの河を渡ろうとして河に入ったところで、上流の堰を留めている綱を切り、一気に敵を溺死させます。仮に濁流に飲まれず河を泳いで渡り切った敵は、なるべく捕縛しましょう。殺すことも出来るでしょうが、捕虜にした方が我が国にとっても得になるはずです。これが私の考えた二つ目の方法です」
「そうか。君の考えはよく分かった!試験は以上だ。帰って良いぞ」
「はい。失礼いたします!」
試験監督が我が意を得たりと言わんばかりの表情をしたのを察知した魯雲は、先ほどよりは格段に軽い表情をして、深々と頭を下げて試験会場を去った。
国の重要な官僚を選ぶ大切な試験である。総合的な評価を複数の試験監督で検討したうえで合格者を決めるのだ。しばらくの間、試験場のある都会から離れることになるので、魯雲に限らず受験者は合格発表の日まで故郷に帰ることになる。魯雲も他の受験者と同じく帰路に就いた。
(おそらく試験自体は受かるだろうけど、文官ではなく武官や文武官として合格した人々は、たぶん契丹に抗するべく西の国境付近に赴任だろうな。ということは、あの高名な郭俊さまあるいは韋攸さまの配下になるのかな……)
故郷の成申に向かう馬車に揺られながら、魯雲はそんなことを考えた。
かつての漢王朝の時代と異なり、魯雲が仕官を目指している時代の中国に皇帝は存在しない。三国志の時代で言うところの魏と呉のうちの東部に当たる地域をその領土とする青燕は建業を王都とし、華北は洛陽を王都とする延漢がこれを統治しており、そして魯雲が属する南魏は青燕の版図以外の江南の地すなわち今で言う中国の南部と南西部をその領土とし、武漢を王都と定めていた。
社稷四百年を誇る漢王朝が滅んだ後に劉備と曹丕そして孫権が各々皇帝を名乗って覇を競ったがゆえに多数の将兵の命が失われたことを教訓として、青燕と延漢と南魏の国王はそれら三国の中で誰も皇帝を名乗らないという盟約を結び、三国間では不可侵条約が結ばれていた。とはいえかつて青燕は南魏に侵攻したことがあり、その際に王の周越は軍師としての功績第三位にあたる法純および精強な将兵を派遣してこれを撃退。それ以後青燕と若干不和になった南魏は、東の国境には件の軍師および一定人数の将兵を配する事を決定した。しかし南魏に青燕と徹底抗戦するつもりはなく、奪われた土地を奪還したところで東の戦は収束を迎え、かつては多数配された将兵のうち、現在でも駐在する者は半数であった。
周越のそうした判断を弱腰と評する者はいなかった。なぜなら西の国境を接する契丹こそが南魏にとっての当面の脅威であったからだ。北の延漢は北部のほとんどの国境を匈奴と接して北東部の国境は靺鞨と接しているためなのか、はたまた不可侵条約を尊重する意図なのか、南の国境を接する南魏ときわめて友好な関係を継続的に結んでいた。東部の青燕も南魏や延漢のみならず靺鞨とも対立しうる位置関係にあるのだが、青燕王宋謙は靺鞨からの侵攻を受けていないこともあってか靺鞨と接する北部の国境に多くの将兵を配する意図は無いように見受けられた。
それ以外の周辺諸国としては南蛮や鮮卑があるが、魯雲や麗玉が仕官を目指した時期において南魏の武官や文武官の主たる任務としては契丹の対策、副次的な任務としては延漢を匈奴から守るための援軍派遣であり、こうした西から北北西における防衛こそが南魏にとって目下最大の懸案事項であった。
第二章
「おお、仲明!仲明ではないか!」
成申に着いた魯雲が自らの字を呼ばれたなつかしさに振り返ると、そこで見たのは武勇に優れて故郷のみならず近隣の地域にまで名が知れた、旧友の彭蒙であった。
「あ、彭君か!いや懐かしい!」
旧友同士の久しぶりの再会に、魯雲と彭蒙はお互いに顔をほころばせた。小柄で少女の様な顔立ちの魯雲と巨躯を誇り精悍な顔つきの彭蒙は、見た目も特技も対照的だが、子どものころから仲の良い幼馴染だ。
「おいおい、俺が字で呼んでいるのに彭君とは他人行儀だな。昔の様に公徳と呼んでくれよ。……まあ、何はともあれ久しぶりだな。どうだ?一献酌み交わさないか?」
彭蒙の方は胸襟を開き、せっかく昔の様に字の公徳で呼んでほしいと言ったのだが、酒の誘いという事もあって魯雲は少し浮かない表情をした。
「いや、僕は酒はあまり……」
「あ、そうだったな!まあ酒屋は酒屋でも、酒よりもむしろ料理の方が自慢という店がある。そこに行こう!」
魯雲があまり酒を飲めない事を思い出し、彭蒙は料理が美味なことで有名な酒場に誘う事にした。
「まあ、最初の一杯くらいは……」
酒屋に着いた彭蒙は魯雲に、なるべく飲み口の良い酒を勧めた。
「そうだな。いくら僕でも一杯くらいは飲めるさ」
さすがに一杯も飲まないのは失礼にあたるかと思って飲んだ魯雲だったが、魯雲にとっての酒の一杯は、酒豪の彭蒙にとっての五杯以上に匹敵する。まるで果汁のような味がする飲み口の良い清酒をちびりちびりと飲みながら、料理の到着を待った。
「それはそうと、雪蘭さんは元気か?」
魯雲は彭蒙の恋人である范雪蘭の名を、複雑な気持ちで口にした。
(僕は雪蘭さんにまだ未練があるのかな)
と自嘲気味な笑みが込み上げたが、なるべくそうした表情を出さない様にグッとこらえた。
「うん…まあ……元気ではあるが……」
言い淀んだ彭蒙に対して魯雲が怪訝そうな表情を見せたことが気になったのか、彭蒙はとっさに言葉を付け足した。
「いや、別に病気じゃないんだ。ただ、俺はあいつと結婚はしない方がいいかと思ってな……」
「何だって?あれほど相思相愛だったじゃないか?!」
出てきた料理が羹だったため、猫舌の魯雲は一気には食べることが出来ない。美味な料理をゆっくり食べながら彭蒙の説明を待った。
彭蒙によると、すでに彭蒙は范雪蘭とは別れているとのことで、理由は彭蒙の方から交際を取りやめたとのことだった。まだ婚約前での決断とはいえ、おそらくこの二人は結婚するのだろうと思い込んでいた友人たちはいささか驚いた。彭蒙の言い分としては、雪蘭は確かに美人ではあるが、何かにつけて行動が遅く、そしてそれ以上に他人に流されやすいところがあるので、常にテキパキとした行動を自慢している強気な彭蒙にとっては何となく物足りない女性だとのことであった。
それではお互いに別の相手との交際でも始めたのかと魯雲が問うと、どうやらそうでもないらしい。今の雪蘭は親友である厳春華にのみ心を開くようになっているとのことで、なるべく男性とは会話をしたくない様である。ちなみにその春華という女性は、雪蘭ほどではないものの周囲の目を引くほどの美貌の女性であり、胸がやや小ぶりな雪蘭とは異なり、ふくよかな胸が彼女の魅力をさらに高めていた。
「しかし公徳……別れたのは仕方ないとしても、春華さんのところに雪蘭さんが訪ねてばかりというのは、君にとってはつらいだろう」
「ああ、たしかにまあ……それはそうだな……」
彭蒙には非常に卓越した武力があり、それゆえに村の自警団にとって極めて重要な人物だ。とはいえ彭蒙の実家である彭家は春華の実家である厳家とは先代からの付き合いであったし、厳家は成申でも一二を争う富豪だった。その厳家から彭蒙が疎まれると、いくら自警団にとって重要な人物とはいえども彭蒙の立場は悪くなる。
(春華さんが公徳に悪い印象を持っていないと良いのだが……)
魯雲は彭蒙の身を案じた。別に雪蘭が彭蒙の悪口を吹き込んでいるとは思わない。雪蘭はそうした悪意のあることはしない女性だと魯雲は信じている。ただ、彭蒙の方から雪蘭を振ったことは事実だし、別れた原因について性格の不一致ではなく、行動が遅いとか他人に流されやすいという欠点を挙げるような言い方をしている。別に雪蘭が意図的に歪曲しなくても彭蒙自身の言い方が彭蒙の真意をゆがめて伝えてしまう様な気がする、というのが魯雲の心配事であった。
男子では魯雲と彭蒙、そして女子では雪蘭と春華、この四人は幼馴染であると同時に、故郷の成申では幼少のころからそれなりに有名な四人であった。聡明で学問を好む魯雲、武芸に秀でた彭蒙、料理や裁縫が得意な雪蘭は、それぞれ人目を引く分かりやすい素養を備えていたが、その三人の特技以上に知る人ぞ知るのは春華の異才だった。「誰かの発言の意図が分からなければ厳家を訪ねよ」という言葉は春華の住む厳家の近所の人が教訓にしている。
春華は学業でこそ魯雲に負けるが、わずかな発言からでも他人の真意を読み解くことに長けていた。それゆえ春華が十四~五歳のころには、厳家の近所の住民は人間関係で相談したい事があると、春華に相談するために厳家を訪ねることが時々あり、そして春華による推測は、約八割の確率で発言者の真意を言い当てることが出来るほど高度なものであった。
魯雲が今回こうして帰郷した以上、その春華にも一言挨拶をしないとならないだろう、そんなことを思った彭蒙は言葉をつづけた。
「ところで、試験の結果発表までは自宅にいるつもりか?ならば他の旧友にも挨拶をした方がいいぞ」
「そうだな。ご近所の皆さんには挨拶をしないとな」
(実家のご近所への挨拶も必要だけど、雪蘭さんや春華さんにも会いたいな……)
魯雲のこの希望は、比較的早く叶えられた。
魯雲が出かけるまでもなく春華の方から、富豪の令嬢らしく立派な馬車で魯雲の実家を訪ねて来たのだ。
「おや、これはこれは厳家のお嬢さま、お久しぶり!」
魯雲の母親は喜んで春華を客間に招き、自室にいた魯雲を呼び出した。
「ああ、春華さん。お久しぶり」
久しぶりに旧友と会って顔をほころばせる魯雲。春華もそんな魯雲の表情を見て心が和んだ。
「お久しぶりね仲明くん。元気そうで何よりだわ」
「うん、元気だよ。春華さんも元気そうだね」
魯雲と春華は客間で茶を飲みながら再会を喜んだ。
「ところで、実は先ほど公徳に会ったんだけど……」
「ああ、会ったのね……だったらもう聞いてるかな?」
「え?」
「そのう…雪蘭との関係について……」
「うん。別れたんだってね」
「そう……でも、公徳くんは特別落ち込んでいないのかもしれないけど、雪蘭の方はちょっと……」
春華の言いにくそうな様子から、雪蘭が何か良くない状況にあるのかなと漠然とした不安を感じた魯雲は少なからず動揺した。
「だ…大丈夫なのかな?雪蘭さんは食欲が無くなったり寝込んだりしているの?」
人情の機微に聡い春華はその魯雲の表情から彼の真意を読み取った。
「仲明くん、やっぱりまだ雪蘭のことを……」
「うん……まあ、でもさあ……雪蘭さんは僕みたいな人は相手にしてくれないんじゃないかな?」
「僕みたいな人……って言うと?」
魯雲の言いたい事を春華は推測できていたが、あえて尋ねてみた。とはいえ、それは決して意地悪をしたいという心理からではない。魯雲自身の言葉で魯雲の劣等感を指摘してこそ魯雲を擁護できると考えたからである。
「つまり…もっと、こう……ちがうじゃないか!僕なんかは公徳と!雪蘭さんは一時的とはいえ公徳と付き合っていたんだから、僕なんかよりもっと……たとえば、孟幹君とか高裕君みたいな、野性味のある豪傑と付き合うのが良いんじゃないの?!」
(思った通り、やっぱりそこが引け目を感じている原因なのね)
納得した春華であったが、さらに言葉をつなげるのを待った。
「顔だって、僕は女性みたいな顔だから、きっと雪蘭さんは顔も含めて僕の事なんて好きじゃないと思うよ!厳さんも本当はそう思ってるんでしょ?」
「たしかに私もそう思っていたよ。以前はね」
魯雲が自らの劣等感の原因をすべて言ってのけたところで、ようやく春華は本題を切り出した。
「だけどね、今の雪蘭は違うの。たしかに一時は彭君と雪蘭は付き合っていたけど、雪蘭はその後に後悔して、仲明くんの様に優しくて賢い人と付き合えば良かったって思ったの」
「ひょっとしてそれも春華さんの推測?……まあ、たしかに春華さんの推測ってよく当たるけど、この件に関しては違うんじゃない?」
「ううん、推測じゃないの。雪蘭本人がそう言っていたのよ」
そこまで聞いて魯雲は、ようやく春華が雪蘭自身の気持ちを代弁していることを知った。
「え?ということはもしかして……」
「うん。今の雪蘭は、魯君と付き合いたいんだってさ」
春華のこの台詞を聞いて魯雲は飛び上がるほどに喜んだ。
「え?それって本当?本当に本当?!」
子どものようにはしゃぐ魯雲を見ながらクスクスと笑わずにいられなかった春華だが、その問いに対して誤魔化さず
「本当だよ」
と答えてあげた。
この春華の態度は決して魯雲に対する気づかいではない。そうではなくて雪蘭に対する気づかいなのだ。
魯雲と彭蒙は同い年で、春華は彼らより一歳上、そして雪蘭は一歳下であるから、春華から見れば雪蘭は二歳下という事になる。そうした年齢の差もあるがそれ以上に雪蘭は小柄で可憐な容姿をしていることもあり、何かにつけて理知的という印象を受ける春華にとっては妹のような存在であり、雪蘭の心配事を春華はいつも自分自身の心配事であるかの様に重視していた。それゆえ春華自身は特に恋を追う事は無く、自身の都合よりもむしろ雪蘭にとっての最適の伴侶を見つけてあげたい、という気持ちをもって雪蘭を見守る暮らしをしていたのだ。その春華の気持ちが今回こうして魯雲と雪蘭の交際をもたらすことになったので、春華はほっと胸をなでおろした。
第三章
試験結果を知り更に官僚として就任をするためには、試験監督から直々の発表を聞く必要がある。そのため魯雲は故郷を離れて、試験場のある都会に行くための馬車に乗った。
しかしながら、武官の側面も併せ持つ文武官という部門での仕官を目指す者のうち、約八割の人々は馬車ではなく勇ましく馬を駆って都心に向かっており、そうした面々と出くわした魯雲はバツの悪い思いをした。そして麗玉が馬車の上の魯雲を見た時は冷ややかな笑みを浮かべていた。麗玉の冷笑が美しいこともあいまって、魯雲の感じる引け目は相当に強いものとなった。
しばらく前に訪ねた試験会場に着くと、改めて女子受験生の少なさに気づく。それにわずかな女子受験者たちも、その大多数は文武官ではなくて文官の志願者だろう。文武官は文官と同じ日に合格が発表されるので、この会場にいる女性の誰が文武官の受験者なのか魯雲には分からない。もっとも、印象に残る美貌と気高さを示した麗玉だけは例外だが。
文書で掲示された合格者名簿の中に、やはり魯雲と麗玉の名はあった。それはもちろん喜ばしい事なのだが、名簿に自分の名があっても「当然!」と言わんばかりの笑みを浮かべる麗玉を見た魯雲は
(この朱さんという女性と同じ場所には赴任したくないなあ……何しろ気が強そうだもんなあ……)
などと考えていた。
「たしか…君が魯雲君だったね。おめでとう!もちろん仕官を受諾してくれるよね。もしそうならば、査問室に来てもらいたいのだが……」
試験監督が自分の顔を覚えていてくれたことがうれしかったが、査問室という言葉が気になった。
「もちろん仕官を受諾させていただきます。ところで先生、査問室というのはどういう意味でしょうか?」
魯雲の不安そうな表情を見て、試験監督は少し表情をやわらげた。
「いや、なにも君に問題があるというわけじゃない。本来は微細な問題を検討するために文官が集まる査問室を、優秀な合格者の表彰の場として使用することが恒例になっているから言っただけだ。是非とも来てくれ!君も大切な受賞者だからね!」
試験監督に言われるままに公舎の中の奥まった部屋に行くと、そこには麗玉ともう一人、魯雲よりも長身で筋肉質な男子が魯雲を待っていた。
「お久しぶりね。あなたまでここに呼ばれるとは思わなかったわ」
小首をかしげながら魯雲に語り掛ける麗玉はたしかに美人だが、やはり気難しそうな女性だ。魯雲は言葉に詰まり、軽く会釈をしただけだった。そしてもう一人の、体格の良い男子とも相互に会釈を交わした。
数分後、身なりの良い人物が試験監督に引き連れられながら現れた。服装からして王都とつながりのある高官であろう。その高官は、最初に魯雲に向かって語りかけた。
「魯雲君、見事次席での合格だ!おめでとう!」
「ありがとうございます!」
次席という成績を示す証書を恭しく受け取りながら、魯雲は深々と頭を下げた。
次に高官は、内心の余裕のためか若干の笑みを抑えきれない麗玉に顔を向けた。
「朱麗玉君、君も見事次席での合格だ!おめでとう!」
この言葉に、麗玉はもちろん魯雲も驚いた。
「あ…ありがとうござい…ま…す?」
お辞儀をして証書を受け取ったものの、明らかに納得していない表情の麗玉。そして高官らしき人物が三人目の前に立ったところで魯雲は状況を察した。
「賈良君、見事主席での合格だ!おめでとう!」
「は……はい!ありがとうございます!!」
賈良と呼ばれたその大柄な男子は、一瞬だけ自分が首席であることに驚いたようだが、すぐに満面の笑みを浮かべて深々と頭を下げながら証書を受け取った。
「あの…先生。質問をしてもよろしいでしょうか?」
「かまわんよ」
戸惑ったような表情をした麗玉からの問いかけに、高官の後ろにいた試験監督は答えた。
「妾は何故、次席なのでしょうか?いえ、それよりも、この賈良さんとおっしゃる方は、なぜ主席なのでしょうか?」
「ああ、たしかにその疑問は無理もないね。朱君と魯君は筆記試験ではともに最高点で、しかも魯君は実技で高得点だったのは弓術のみだが朱君は弓術も馬術も高得点だったからね。だが、賈君は筆記試験こそ十二位だったものの、馬術と槍術と剣術に秀いでており、武官部門の受験者の中でも他に類を見ないほどの好成績だったんだ。朱君の馬術や弓術の得点が低いのではない。賈君の武芸が特に秀でていたという理由なんだよ」
「か…かしこまりました……」
賈良が首席の座に就いたことには納得した麗玉だったが、魯雲と目があうと次の疑問を口に出さずにはいられなかった。
「あのう…先生……」
「何だね?」
賈良という優秀な同期生がいることに気後れしたのか、少しおずおずとした態度で麗玉はさらに尋ねた。
「さしつかえなければ…なのですが、こちらの魯雲さんとおっしゃる方は、何故に次席なのでしょうか?教えていただけますでしょうか?」
「たしかに、魯君は筆記試験では朱君と同じ最高点だったが、実技では唯一高得点だった弓術でも朱君より劣る。しかし口頭試問の成績で朱君よりも上だった。朱君が思いついた答えも魯君が思いついた答えもまったく同じだったが、魯君は他に代案も述べた。そしてその代案も良く……というか、その代案こそが有意義な答えだったのだ。試験当時は気づかなかったが、他の試験監督とも検討した結果、そういう評価になったのだ」
麗玉にとっては少しばかり納得のいかない答えである。しかし、理由を明確に述べられたのも事実だ。ほんのわずかの沈黙ののち、
「かしこまりました。ご丁寧にご回答くださいまして、誠にありがとうございます!」
麗玉は膝をついて深々と頭を下げた。
その後は高官がしばし訓示を述べ、主席と次席に選ばれた三人は、他の合格者にも恭しく頭を下げられながら会場を後にして、その日に泊まる官舎に向かった。
次席どころか合格者の中で一般に上位合格者と認められる五位にまでも届かないのではないかと心のどこかで思っていた魯雲は、次席になったことでもちろん上機嫌であるが、主席の賈良は魯雲以上に満面の笑みを浮かべつつ胸を張って官舎に向かった。しかし麗玉だけは釈然としていなかった。そして、馬車で官舎に向かう魯雲に、馬を駆って近づいてきた。
「あのぅ…魯雲君、もし嫌でなければ……なんだけどさ、あなたが口頭試問で答えた答案って何なのか、妾に教えてもらえないかな?」
先ほどまで誇り高そうだった麗玉が急にしおらしい態度をとったことが少し珍妙に思えたが、魯雲は包み隠さず自分の回答を伝えた。
「ええッ!そんな事なの?それが答え?そんな理由でアタシと同じ次席になったの?!」
手綱を緩めて魯雲の馬車と同じ速度で馬を歩かせながら、馬上で魯雲の回答を聞いた麗玉は驚きを隠せなかった。
「魯君…いや、魯雲!アンタの答えって、単なる腰抜けの答えでしょ!アンタは馬術においてアタシに遠く及ばず、弓術だってアタシに負けたのに、そんな答えのおかげでアタシと同じ次席になったわけ?!」
魯雲の回答のうちのひとつ、城の西門で夜襲に見せかけた陽動作戦を仕掛けた後に敵を東門からおびき寄せ、そして溺殺するという点は麗玉の答案と同じだった。東門に自軍が集中したかの様に見せるために、余分な数の竈を作って湯を煮立てることで突撃直前の大規模な炊事をしているかの様に敵に思わせるところも同じだった。麗玉は、自身とまったく同じ答案を魯雲が述べたところまでは悔しがりつつも相手を認めるような表情をしていたが、「そもそも矢文で敵に投降を求めるのが最善である」という魯雲の提言が魯雲の口頭試問での得点を高めた発想だったと知って、明らかに納得がいかないという感じの態度に変わった。
「これはくやしいわ!主席をとれなかったのは、あの賈良君という武芸に秀でた英傑のせいなので納得できる。だから次席なのは仕方ない。だけど腰抜けの魯雲と同じ順位っていうのはくやしいよ!」
麗玉は魯雲の顔を見ながら、悔しさをまったく隠さずに言ってのけた。
「おまけに……アンタは顔も、どうみても女っぽいしね!それに声の質も良いから、女装して歌妓でも目指したら、歌妓の中では主席をとれるかもね!」
幼いころは女子と見間違えられた魯雲には、そうした言葉は聞き慣れたものだった。女子の様な容貌の魯雲は、故郷でも容貌をからかわれた経験がある。そんな魯雲にとって自身の外見が女性の様であるという指摘は聞き慣れているので気にしない。しかし、たしなめるべき事だろうと思って一言告げた。
「朱さん、僕は別に自分の容貌を気にしないけど、あまり親しくなっていない人について容貌を云々するのは、あまり礼節を重んじている態度ではないと思うよ」
もっともな指摘を受けた麗玉は一瞬ひるんだ。
「た…たしかに……アンタの言うとおりだわ。謝罪するよ」
しかし次の瞬間には
「で…でも、事実は事実でしょ!それにアンタが武芸に疎いのは見た目の問題じゃないよ!口頭試問はともかく馬術と弓術で女子のアタシに負けたんだよ!そして体格も男子にしては小柄な方なんだから、歌妓を目指した方が良い成績になりそう、というのは間違ってはいない評価だと思うよ!」
と反論した。この発言に対する魯雲の弁明は、以下のような少し苦しいものであった。
「う……まあ、それはそうだね。たしかに、僕に対する評価はそれでいいさ。ただ、世の中には『たとえそれが事実であってもハッキリとは言わない方が良い場合もある』っていう事を僕は言いたかったんだ」
「それはアタシにも分かってるよ!……」
少し強気に言った麗玉だったが、その数秒後には
「でも、ありがとう。魯雲の今の忠告は、たとえ分かっていても時に忘れてしまうかもしれないことだからね。注意を喚起してくれたことには感謝するわ」
何となく割り切れない気持ちのまま、魯雲に対する感謝の言葉を一応述べた。
才媛で勝気、馬術と弓術に秀でている。親身な指導者のもとで学べば将来は軍師にもなれる様な才能を秘め、おまけに美貌も兼ね備えているけど、少し道を誤ると将来的には危険な立場に立たされるのかもしれない。そんな懸念をぬぐえないのがこの女性だな、と魯雲は思った。
麗玉は、賈良に主席の座を奪われたことは悔しくないが、どうしても自らと魯雲を比べずにはいられない自分の気持ちにいら立った。しかし魯雲を無視したり軽視したりはしたくなかった。たとえ「からかう」という無粋な形でも良い。何となく、この少女の様な容姿の小柄な男子には何らかの形でかかわっていたい、という気持ちを抑えるのが難しくなっていた。
そんな風にお互いに奇妙な形で意識をしあう様になった魯雲と麗玉だったが、その後この二人は同じ任地に赴任し、西部の国境での戦争において先輩たちとともに切磋琢磨することになった。
第四章
かの有名な曹操が築いた魏の領土に比べれば、東部は青燕と靺鞨の領土となっている点において延漢の版図は曹魏に劣る。とはいえ、その領土は曹丕が皇帝として名乗をあげた時期の魏の約六割の領土を擁していた。また、北の匈奴との関係も、先代の兼蛇津単于の時代には多少の揉め事こそあったものの決して深刻な対立には至らずに済んでおり、延漢は長年にわたり平和な時代を過ごしていた。しかし、政権が変わって好戦的な朱那郁単于が即位した後、匈奴は延漢の北西部に疾風迅雷の進軍で侵攻し、わずか一月で最北端の甘雪城を落としたのを皮切りに、半年後には同じ州にあるすべての城、すなわち麋河城と丹城および流蘭城を手中に収めた。
その後、延漢は国王である李荘の勅命により武功第二位の姜恂という武官に指揮権を与えて将兵を派遣。一時は匈奴と互角の攻防を繰り広げた。だが延漢は青燕と靺鞨に対抗するため東部に将兵を配し、さらには匈奴全体を警戒して第一軍師の荀慶および古の名将廉頗将軍の末裔と噂される軍功第一の猛将である廉淵は北辺全体を注視する立場に任じられ、北西部に多数の将兵を一気に繰り出す朱那郁単于の強襲に対しては後手後手の対応に回ってしまった。そのため、匈奴が襲来して数年の後には朱那郁単于の猛攻は南西部においても広く及び、多くの州が匈奴の手に落ちる結果となった。
もちろん、この大敗の報を聞いた延漢の王や重臣は単に手をこまねいていたわけではない。丞相の司馬徴は李荘に対して、智謀に優れた第二軍師の蔡単を北西に派遣する以外に打開策は無いと上奏した。しかし蔡単は内政にも必要な人物であり、他の方面からの敵も考慮した多角的な対応をするには自身と丞相の他に蔡単も王都に配したいという理由で李荘は蔡単の派遣を拒否した。
「北部と東部に不穏な動きがある以上、荀慶や蔡単や廉淵を西部に派遣することは出来ない……」
李荘の言葉も道理である。とはいえ、たとえ有能な猛将や軍師を派遣できないとしても、奪われた西部領土の奪還のためには一定数の将兵を確保しないとならない。李荘と司馬徴および王都の重臣たちは軍議を重ね、北部や東部の守りが手薄にならない様に一定数の人員を確保しつつ南に位置する南魏とは親交を深め、奪われた西部の奪還のためには蔡単の代わりに蔡単のもとで兵法を学んだ皇太子の李嬰および幾ばくかの将兵を派遣する結果となった。
その後、かろうじて匈奴の手に落ちていないかった南西の陽砂城を拠点に、姜恂および李嬰を中心とした反撃が繰り広げられ、その近郊にある麗羽城と朱環城と眉岩城は半年後に匈奴から奪還。しかし数に勝る匈奴に対して多勢に無勢では姜恂や李嬰も充分な戦果をあげる事は出来ず、戦闘は膠着状態に陥った。
華北の大部分を支配している延漢は、その東に位置する青燕と同様に南に位置する南魏にとっては異国である。しかし先代の南魏王である周憲の治世においてこれら三国は同盟を結び、基本的には国境を脅かす契丹や靺鞨そして匈奴に対抗することを国是としていた。確かにそれでも青燕に関してはかつて同盟を破って南魏の領土を一時攻めたことがあった。だがその際には軍師として功績第三位の法純に大権をあたえ、武芸において王信と互角と言われた呂平をはじめ多くの将兵を引き連れて戦った結果、法純の作戦および呂平たち将兵の活躍により領土を奪還することに成功した。
それ以来、青燕およびその北に位置する異民族の靺鞨および鮮卑に対峙するため、法純は南魏王の命令によって東の都市にとどまることとなり、その部下の将兵も二年ごとに入れ替わる形で東の国境付近と故郷を往復する暮らしとなった。今では青燕との対立はそれほど実現可能性が高い懸案事項とは思えないが、周越には匈奴と契丹だけに専念はせず、東の国境にも将兵と軍師を配することで国民を安心させたいという意図があった。
そんな青燕とは対照的に北の延漢は、匈奴という共通の脅威があるためなのかそれとも延漢の国王あるいは丞相の判断なのか、今までのところ南魏とは親交を深める友好的な政策を執っており、決して国境を侵すことは無かった。南魏も現国王の周越をはじめ王族および丞相ともども延漢には好印象を持っており、共存共栄を目指す政策は長年に渡っていた。
周越およびその側近である王都武漢の諸侯は現時点でこそ契丹に対する防衛に専念したいと思っているが、延漢の領土が奪われたことで一部の国境が匈奴と接する様になったため、北西からの匈奴の侵攻を防がなければやがて危機は南魏全体におよぶと懸念している。そのため将兵の一部は契丹のいる西部ではなく北西部にも派遣しないとならないという事態であった。
一方、とりあえず今のところ匈奴は主に延漢と対立しており南魏にとって匈奴は窮迫の危機ではないので、まずは西の契丹との戦いに収束の目途が立ってから延漢に援軍を派遣としたいというのが周越たちの意向であった。そのため西部にいる魯雲や麗玉たちに対する王都からの期待は非常に大きなものとなっていた。そんなある日――
「どうした?浮かない表情をしているが……演習はお前の圧勝だぞ、魯雲」
険しい表情で沈思黙考している魯雲のそばを通りかかった、軍師としての功績第二位の韋攸は言った。
「お褒めいただき恐縮です。しかし、私は今回の演習の結果を『引き分け』にして欲しいと存じます」
「何だと?……いったい何故だ?!」
驚きを隠せない韋攸に対して、魯雲は事の次第を説明した。
「あれは単に勘が働いただけの理由で得た勝利です。あくまでも演習だと分かっていたので思い切って逆転の発想で危険な選択をすることが出来ただけです。もしもあれが実戦だったら、僕は恐ろしさのあまり正攻法に固執し、結果として多くの将兵を死なせてしまったでしょう」
「言っている意味が分からん。どういうことだ?」
この後、魯雲は自らの勝利の原因が「演習だから思い切って逆転の発想をできた」という僥倖に過ぎないことを説明するのだが、そもそもここで言う「演習」とは何だろうか?
ここで言う演習とは、先代の南魏王にして周越の父である周憲の提案による、軍師候補者同士の知恵比べのための競技である。軍師候補者は双方千名ずつの将兵を統率し、一方は防御側として陣をかまえ、他方はその陣に対して攻撃側として襲撃し、どちらが勝つかを試すというわけだ。とはいえ実際に将兵を死なせるわけにはいかないので、一つの規則を設定した。それはすべての将兵に槍や刀は持たせずに、印鑑用の朱を含んだ布を巻いた棒を持たせ、鏃もその棒の先端と同様に印鑑用の朱を含んだ布の塊とし、実際に殺傷することではなくて「朱を付けられた者を死んだものと見なす」という条件に基づきどれだけの兵士が生存できるかを試す、というものである。
この演習は当初、どちらかの陣の兵士の半数に朱が付いた時点で勝敗を決していたというのがその判定基準であったが、その後に改良がくわえられた。陣内にある「帥」の旗の立てられた幕屋の中に玉璽を模した銀製の印鑑を置き、その印鑑を陣の外に持ち出せれば攻撃側の勝ちとして逆に持ち出せなければ防御側の勝ちとする、という基準で勝敗を決めることになったのだ。
そして今回は魯雲が攻撃側、麗玉が防御側となって演習をおこない、結果は魯雲の圧勝であった。しかし、魯雲はそんな結果について「勘が働いただけ」と言っていた。そこに至る経緯は次のようなものであった。
麗玉が敷いた陣形は八門金鎖だった。いや、正確に言うとそれは「さながら八門金鎖の様に見えるが少しだけ異なった印象を与える何か」であった。八門金鎖の陣形は軍師候補者といえども全員が知っているものではないが、多数の兵法書を読んでいる者ならば稀に目にすることのある陣形である。
八門金鎖の陣形は知っている魯雲だったが、今回の演習の際にその陣形を見た際には若干の違和感をおぼえた。たしかに魯雲は従来の八門金鎖の陣形との違いにハッキリと気づいたわけではない。ただ、兵法書で見た八門金鎖の陣形とは「何か」が若干異なっている様な気がしたのだ。
(これは何かありそうだ……危険な手段だが、ここはあえて……)
若干の逡巡の後に魯雲がとった行動は、本来ならば絶対に将兵を入れてはいけない「死門」に半数もの将兵を投入する、という作戦だった。本来ならば八門金鎖を破るのには最も安全な「生門」にこそ最大数の将兵を投入するべきなのだが、魯雲は敢えて最も危険な選択をしたのだ。結果は見事なまでに魯雲の圧勝であった。魯雲の統率した将兵は印鑑を持ち出したのみならず玉麗側の将兵の過半数に朱を付けた。他方、魯雲側の将兵で朱を付けられたのは一割弱であった。この件で麗玉は非常に悔しがり、周囲が麗玉を見る目は冷ややかなものとなった。
しかしそうした評価は麗玉にとってはもちろんのこと、魯雲にとっても気に入らないものだった。何故ならその結果は魯雲自身が言った通り「勘が働いただけ」、つまり「兵法書にある八門金鎖の陣形とは何かが違う様な気がするので敢えて兵法書とは正反対のことをやってみた」という咄嗟の判断によるものであって、自信を持って選択した行動の結果ではなかったからだ。そして、これが単なる演習ではなくて実戦であったら、もしも麗玉が敵の軍師で、彼女の陣に対して本気で攻撃しないとならないとしたら、あえて兵法書と正反対の選択をするなどという恐ろしい事は魯雲には出来なかったであろう。たとえ魯雲がその場で今回の演習と同じく「何かありそうだ」と思ったとしても、実際の戦場での魯雲は兵法書にある通りに生門に最大の将兵を投入して麗玉の陣で自軍の将兵の過半数を失ったに違いない。少なくとも魯雲自身はそういう不安がぬぐえなかった。
そうした経緯を素直に伝えた魯雲と向き合いながら、韋攸は深々とうなずいた。
「魯君、これで君が言った意味が分かった。そして朱君が言っていた意味も分かった。あれは単なる悔し紛れではなかったのだな……」
「今回の件について、朱さんは何か言っていたんですか?」
「実は彼女はな、『あの諸葛亮の故事に従って戦ったのに、なぜ負けたんだろう?』と言いながら、悔しがるというよりも、なんとも納得のいかなそうな表情をしていたのだ」
韋攸の言葉を聞いて
「あ…そう言えば!」
思い当たる節があったのか、魯雲はひとりごちた。麗玉は座右の書として、『三国志』という資料を日頃から持ち歩いていた。麗玉はその資料を何度も読み返したに違いない。
そんな魯雲の内心を察して韋攸は言った。
「そうだ。彼女によると、『三国志』という書物に登場する諸葛亮という知恵者は、本来の八門金鎖の陣形に変更を加えて生門から入った敵にこそ最大の打撃を与える陣形にした、とのことだった。彼女自身はその諸葛亮という知恵者の実際の陣形を知っているわけではなかった様だが、『諸葛亮ならばおそらくここに変更を加えるだろう』と思った箇所に変更を加えて今回の様な陣形をとったらしい。もっとも、実際の諸葛亮独自の八門金鎖の陣形ならば死門に突撃すれば勝てるという簡単な攻略法は無いのかもしれないが、彼女なりに工夫をしていただけに『なぜ負けたのだろう?』と納得のいかない雰囲気だったのは、そういう事だったわけだ」
「そうですか。そんな事があったんですか……」
魯雲は韋攸の話を聞いて納得した。
その後、今回の演習に関しては魯雲の提案通り引き分けということにされた。とはいえ、引き分けとされた理由を聞いた者の中にはその評価に納得せず
「魯さまが朱さまに花を持たせた様なものだな。偶然とはいえ勝ちは勝ちだ」
などと言う者もおり、いくら魯雲の勝利が一か八かの賭けによるものだといっても、この時点において麗玉の評価は魯雲よりもまだ低いものだった。
第五章
魯雲は麗玉について、その容姿の端麗さと自分にくらべて格段に勝る馬術と槍術、そして幾分勝る弓術について評価していた。それに演習における魯雲の勝利が一か八かの賭けによる偶然の産物であることも認めているので、兵法に関する麗玉の知識も認めていた。だが、麗玉の魯雲に対する心情は、麗玉自身でも良くわからない複雑なものであった。たしかに魯雲が少女の様な容姿をしている点や男性にしては小柄である点をからかうことはなくなった。しかし、軍議では麗玉も魯雲と同様の見解にいたるので演習で一回大敗したことがどうあれ周囲は徐々に兵法における魯雲と麗玉の見識の高さを同等に評価するようになっていったものの、内政に関する見識に関しては魯雲の方が麗玉よりも一枚上手という評価をする者がおり、その点が麗玉にとって気に入らなかった様だ。
そんなある日、魯雲と出くわした麗玉は挑発的なことを言ってのけた。
「ちょっと魯雲!あんたは呉の魯粛の子孫だとか慶山王魯胤の末裔とか噂されている様だけど、私は自分の先祖を誇りに思っているし、あんたなんかに負けないからね!」
「いや、そんな伝説の名君の名前を引き合いに出されても……」
魯雲の一族は、慈悲深い名君と称された伝説上の小国の王と苗字および故郷が同じという理由で、故郷の成申では時どき「慈悲深い名君の末裔ではないか」と噂された。また、内政に優れた呉の魯粛という人士が魯雲の先祖であるという噂も地元の人は時々ささやいたものだった。しかし魯雲自身は苗字が共通しているという事について「おそらく単なる偶然の一致であろう」と考えており、家系図について親に尋ねることもなく、自身の祖先に関する噂を別段うれしく思ってもいなかった。それに対して麗玉は自らの先祖を誇りに思っているらしい。そうした発想が無い魯雲は興味を持って尋ねてみた。
「朱さん、ええと……さしつかえなければ教えてもらえるかな?朱さんの先祖って、どなたなの?」
「私の先祖は、あの光武帝でさえも倒せなかった朱鮪よ!」
(あ、道理で……いや、そんなことを言ったら失礼かな?)
朱鮪の話をするべきか否か迷っている魯雲の内心を察したのか、麗玉の方から語り始めた。
「今の魯雲の表情からすると、どうせアタシのことを『道理で生意気』とでも思ってるんでしょう?優秀なら、業績があるなら、べつに生意気でもいいじゃない!」
朱鮪とは、後漢を打ち建てた光武帝劉秀の兄である劉伯升を讒言に基づいて処刑し、その後は追い詰められて籠城する羽目におちいったとはいえ光武帝の配下で最も優秀と言われた知恵者の馮異でさえも捕縛することが出来ず、最終的には仁を重んじる岑彭という名将が説得することで光武帝に帰順したという、優秀ではあるが悪人でもある点で評価が分かれる人物だ。麗玉は顔だちこそ整っていてかなりの美女だが、しかし中身は歴史書で読んだ朱鮪みたいだ、という印象を魯雲はぬぐえなかった。
そんな魯雲に麗玉はさらに厳しいことを言った。
「そもそも、アンタは弓術こそまあまあだけど馬術は上手じゃないし、文武官じゃなくて文官の試験を受けた方がよかったんじゃないの?筆記試験だけならアタシと同じ点数だったんだし。それにどうせ剣術や槍術もたいしたことないんでしょ?」
南魏の官僚になるための試験には武官と文官のほかに、武芸にくわえて孫子や呉子や尉繚子といった兵法書、そして内政や外交に関しても出題される「文武官」という制度があった。筆記と実技と口頭試問が出題されるので勉強する範囲は多岐にわたるのだが、当代の役人の試験の中で受験者数が一番多いのは文武官の採用枠である。そんな試験を文弱の徒と言われ続けた魯雲が受けたことは、故郷では少し話題になる程度には珍奇な事柄であった。
(痛いところを突くなあ……でもまあ僕の武芸と言えば弓術だけが取り柄だし、それだってこの朱さんに負けてるんだから、たしかに朱さんの指摘の通りなんだけど……)
麗玉の主張を認めざるを得ない心境の魯雲であったが、どうにか自己を正当化しようとした。
「まあ、たしかにそれはそうなんだけど……何となく自分を試してみたくてさ……」
しかしそう言った直後には
(とは言っても、実は単に自分を試すわけじゃない。弓術以外の武術では僕が全然かなわない、公徳に追いつきたいという意図で文武官の試験を受けたんだが……でもそんなことを言うのは恥ずかしいなあ…)
などという劣等感そのものの心境が拭えなくなるのも事実だった。そんな焦った表情が顔に出たところで、
「ああ、そういう事ね!なーんだ!」
焦った表情が顔に出たところで、麗玉は我が意を得たりと言わんばかりの笑みを浮かべた。麗玉の口ぶりと表情に魯雲は戸惑った。
(え?僕は公徳のことなんて一言も麗玉さんに言っていないぞ!なのになぜ朱さんはそんなことを推測できるんだ?)
「要するに、女の人でしょ?あんたの目的は。文武官になれば出世して都尉になれる可能性だってあるし、もしも都尉にまでなれば結婚相手をかなり自由に選べるものね」
(いや、それは邪推だ。あくまで僕は公徳に……)
そう言いかけた時、魯雲自身の中にとある疑問が浮かんだ。
(あれ?そもそもなんでそんなに僕は自分を公徳と比べたがるんだろう?)
そこに至って魯雲はようやく自分の対抗心の正体を知った。要するに気がかりなのは雪蘭なのだ。
小柄な魯雲がどれだけ頑張っても、彭蒙の様な武勲をあげることは出来ないだろう。それよりむしろ文官特有の出題科目を勉強して、たとえそれが魯雲にとって興味を持てない漢代や周代の法からも出題され、さらには琴などの器楽までも科目にふくんでいる試験であっても、武芸の実技試験がある文武官として仕官するよりも文官として仕官することの方が楽であったはずだ。そのことは魯雲自身もよく知っている。それにもかかわらず彭蒙の武勲に近づこうとしたのは、雪蘭の気を引きたいからであった。たとえ彭蒙には及ばなくても、多少は彭蒙の様な武芸の真似ごとをしたいのは、彭蒙の様にたくましくなった自分を雪蘭に認めてもらいたかったからなのだ。
「クッ…クククッ……ふふふっ……」
てっきり痛いところを突かれて動揺するかと思った魯雲が奇妙な含み笑いをしたので、麗玉は虚を突かれた。
「ど…どうしたの?魯雲!急に変な笑い方をして」
「いや、ごめんね朱さん。でも、朱さんの指摘で自分の気持ちが分かって、うれしいよ。おかげで気持ちの整理が出来た。ありがとう」
「ええと……そんな風に言われると、なんだかアタシの方はモヤモヤするんだけど!」
「いや、つまり朱さんのご明察のとおり、っていうことだよ!僕が文官じゃなくて文武官の試験を受けたのは、やはり『女性に対して自分を良く見せたい』という気持ちだったんだ。それが分かって自分の中の疑問が解けた、というわけさ。それは麗玉さんのおかげだよ」
「あ…そう…なんだ。うん、そうなんだね。……って、本当にそうなの?!」
自分の言った予想なのに、その予想を魯雲が簡単に認めたことに対して麗玉は戸惑った。
「うん。そうだよ。とは言っても単に『女性全般の気を引きたい』というわけじゃないけどね、でも朱さんの指摘は半分くらい正しいよ。当たらずとも遠からず、だね」
「そう…そうなのね。…ふうん……って、まあ、大方そんなところだと思っていたけど……ただ、『女性全般の気を引きたいというわけじゃない』という言い方が気になるわね。まるで特定の誰かの気を引きたいかの様な……いや、まあいいわ!」
そこまで言って、麗玉は顔をフルフルと震わせた。麗玉の表情はまるで「これ以上は詮索したくない」と言わんばかりであった。
そんな麗玉の表情を、魯雲は単に「あまりに私的な側面を知ろうとするのは失礼だ」と考えた麗玉なりの節度だと思ったが、麗玉の考えは違った。
(あれ?なんでアタシはこの点を詮索したくないんだろう?魯雲をからかえれば気分転換になると思ったのに、なぜかこの点は詮索したくなくなっちゃった!)
今までなら、というか今でも他の事柄なら、魯雲を詮索して弱みを見つけたらからかおうと思っていたはずの麗玉の心境の変化に、当の麗玉自身が戸惑っていた。だが、魯雲はそうした戸惑った表情も、単に「麗玉なりの配慮」という風にしか解釈できなかった。
しかし、この時の会話を機に、しばし麗玉は魯雲と少し距離を置くことになり、そしてそうした理由については、麗玉自身も分からないまま、日々が過ぎることとなった。
第六章
そのころ魯雲の故郷では、雪蘭が魯雲に会いたい想いを募らせていた。いくら二人が相思相愛になったとはいえ、故郷の成申から離れた赴任地にいる魯雲にとって実際に雪蘭と会うことは難しい。雪蘭はいずれは魯雲の赴任地に行こうと思っているし両家の家族もそのほとんどが賛成をしているのだが、雪蘭の父だけは「雪蘭の料理や裁縫が素晴らしいから実家から離れないでほしい」と言って雪蘭の嫁入りを少し待ってほしいと言い張っていた。
「でもねぇお父さん、お母さんだって料理がうまいし、裁縫だって私は自分で習得したんじゃなくてお母さんから習ったんだよ!実家にはお母さんがいれば私がいなくても家事に困ることはないじゃない!」
実家の家事は母に料理や裁縫をまかせ、自分は恋人の魯雲のもとに行きたい雪蘭であったが、父親は
「お前のお母さんも家事は得意だけど、俺はお前の料理も時には食べたいから、魯雲君のところに行くのはなるべく待ってほしい」
と言うばかりだった。
それは単に雪蘭の料理や裁縫の技術を惜しんだばかりではない。魯雲が嫌いなわけでもない。しかし、魯雲は軍に所属しているのだ。雪蘭が魯雲と結婚をしなくても、もしも二人が恋人同士であれば戦地から遠くはない場所にある官舎に魯雲とともに住むことになるのだろう。
(万が一何か窮迫な事態が生じて雪蘭が戦禍に巻き込まれたら、悔やんでも悔やみきれない――)
雪蘭の父にはこうした不安があったのだ。
魯雲と雪蘭は婚約こそしたものの、雪蘭の父の不安が原因で、結婚をするのはもう少し時を経て魯雲の赴任地が安全であることが示されてからにしてほしい、という事になり、二人はまだ結婚には至らず、魯雲と雪蘭の交際はしばらくの間は手紙のやり取りをするにとどまった。
しかし魯雲は雪蘭の父親が何故雪蘭を手放さないのかについて真意を理解しかねた。そこで魯雲は麗玉に相談してみることにした。
「雪蘭さんのお父さんは一体どういうご意図なんだろう?ひょっとして朱さんなら分かるんじゃないかと思ったんだけど……」
「ええとぉ……それはぁ……ア、アタシには分からないわ!ゴメンね魯雲!!」
雪蘭の父親の意図が実際に分からない麗玉には他に言い様がなかった。そしてそんな問いを投げかけられたことによって麗玉の胸中に何かモヤモヤとした霧の様なものが湧いてきた。別に魯雲と話をするのは嫌ではない。むしろ麗玉の方から魯雲をからかう事は少なくない。だが、雪蘭についての話題になると、どうしても何か割り切れない気持ちが頭をもたげてくるのだ。その気持ちが何なのか分からないまま、麗玉の心は魯雲と話をしたい気持ちとしたくない気持ちの合間を揺れることとなった。
しかし流石に麗玉は気丈である。魯雲から雪蘭についての相談を受けた時は何とも言い難いモヤモヤとした思いが判断力を鈍らせたものの、いざ戦場に立つとこれまでと同様の弓術そして最近徐々に腕をあげている槍術をもって敵をなぎ倒すことも珍しくなかった。指揮官としてだけではなく武人としても麗玉は少しずつ成長していた。
第七章
「者ども!我に続け!我とともに黄援将軍のもと馳せ参じ、外敵を討つのだ!」
麗玉の凛とした声が陣中に響いた。他の隊が敵を撹乱してその間隙を突くとはいえ、敵中深くに切り込んで、蔡城にいる味方に伝令として駆け付け、さらにそのまま味方とともに城外へ打って出るのだ。
契丹との戦いの主力部隊である、郭俊率いる大部隊は、蔡城で孤立する黄援という将軍の部隊と協力して敵を討つ作戦を決行した。そのために選ばれたのが、作戦を最もよく理解してなおかつ弓術と馬術に秀でた麗玉の率いる部隊であった。大任をまかされた直後は不安になる将兵もいたのだが、自信に満ちた麗玉の声はそんな者たちの不安を払拭した。
麗玉たちが敵の将兵の主力部隊と当たらない様に陽動をかけて敵を手薄にしたのは郭俊直属の精鋭たちであった。一糸乱れぬ動きに敵はこれぞ憎き敵の本隊とばかりに切りかかったが、戦うと見せかけては逃げ、逃げると見せかけては戦い、それも正面からではなく巧みに左右から挟撃をする陣形を取ったため、敵は隊列を乱して個別に討たれる様になった。
その間隙をぬっての麗玉率いる強行軍ではあるが、麗玉およびその側近は弓術と馬術に優れ、そしてほかならぬ麗玉自身も最近は槍術を磨いていたので、立ち向かう敵兵をなぎ倒して蔡城にいる黄援ら自軍の将兵と見事合流した。
こうして要衝に位置する蔡城を陥落の危機から救ったことは、その際に披露した武勲ともあいまって、麗玉の名を敵味方ともに知らしめる結果をもたらした。
「伝令として決死の任務をこなしながら同時に兵卒を五人以上も斬り、さらには敵将の一人を生け捕りにしたとのことだ」
「いやいや、斬った兵卒は十人とのことだぞ。しかも生け捕りにした敵将は二人らしい」
幾人かが異なるうわさを唱えたが、実際のところ斬った兵卒は十二人で、生け捕りにした敵将は一人であった。しかもそうした武勲をあげるに至った経緯が、蔡城内にいる味方に伝令として決して多くはない数の味方と駆けつける際に得た戦果であったことが、麗玉の勇敢さを印象付けた。
蔡城内の味方と呼応して敵を狭隘な地に追い込んで撃滅する作戦自体は麗玉自身ではなく、国内では当代随一の軍師と言われる英明な郭俊が立てたものであった。軍師候補である麗玉と、もう一人の軍師候補である陸正という先輩の知恵者もその作戦に賛成した。しかし出撃の時期や合流する地点を蔡城内にいる自軍の将兵に伝えるためには、どうしても伝令が必要であった。その伝令の役目を麗玉は自ら買って出て、得意の馬術と弓術、そして最近少しずつ腕を上げていた槍術でもって件の武勲をあげたのである。
麗玉が伝令として伝えた敵を挟撃する作戦も成功して戦闘には勝利したが、麗玉は浮かない顔をしていた。蔡城内から出撃して作戦に従い武勲をあげた老将軍の黄援は、麗玉の表情をいぶかって尋ねた。
「そなたは伝令としての役割を果たし、文武官らしく武勲もあげた。それなのに一体何が不満なのか?」
黄援の問いに麗玉は答えた。
「文官の中の最高位であらせられる軍師の筆頭である郭俊さまが立案なさった素晴らしい作戦が功を奏したのが今回の戦果の最大の要因です。私の智謀は郭俊さまのみならず陸正さまにも遠くおよびません。弓術には自信がありますが馬術はそれほど優れてもおらず、ましてや槍術は……今回生け捕りにした敵将も本来は斬るつもりで戦いましたのに、私の膂力が不足していて落馬させるだけにとどまりました。あの時そばにいた味方が急いで敵将を捕縛してくれなければ、生け捕りにすることさえ出来なかったはずです。軍師の補佐のみならず武官に近い役割も担うからこその文武官であるのに、私が今回果たせた役割は単に伝令としての役割のみでございます」
この発言を聞いた黄援は麗玉の目指す水準の高さに恐れ入った。
「いやいや、そもそも女子の身でありながら、馬術や弓術が優れているというだけでなく果敢に適地を疾駆する豪胆さ、見事なものと言わざるを得ない。それに槍術とて、膂力の不足は女子なれば仕方のない事。敵将を生け捕りに出来たのが偶然とはいえ、落馬させたのはそなたの槍術あればこそであろう」
予想外の高い評価に麗玉は深々と頭を下げた。
「数々の武勲をあげていらっしゃる黄援将軍にそれほどまでにお褒めいただき、光栄でございます」
「何とおっしゃる!儂など武官として、文を捨て武を選び、武のみに打ち込んで漸くこの程度の武勲よ。そなたの様に文武官として郭俊どのの御意図をくみ取り、それを伝令として伝える任務の合間に武功をあげる女子は、儂なんぞよりも自らを誇って良かろうぞ!」
「かさねがさね、ありがたきお言葉」
こうした経緯もあり、麗玉は南魏で当代随一の軍師と評される郭俊の愛弟子になるのみならず、武官からも一目置かれる存在となった。
その数日後、麗玉の功績を知った魯雲と賈良は各々惜しみない賛辞を送ったが、その内心で受けた印象は非常に異なっていた。魯雲は麗玉に敬意を表すると同時に、今後の彼女が功を焦って怪我をするのではないか、あるいは敵に捕縛されるのではないかと心配をした。賈良は自らの武勇に自信を持っており、郭俊の意図をくみ取った麗玉の智謀を見せつけられても、自らが知力面では及ばないことに関して最初から「そんなものだろう」と思って頓着していなかった。人には一長一短があるのだ。知力面で自分が麗玉に劣っているのは認めるが、他の文武官どころか武官からも高い評価を得ている自身の武力によって国に貢献するつもりであるので、麗玉が麗玉なりの得意分野で活躍することを嫉妬する気はなく、麗玉の功績に対して嫉妬と懸念のどちらの感情も湧かなかった。
賈良は自身の能力を冷静に分析しており、動揺したり一喜一憂したりしない性格の人物である。武将としてはそうした資質は武力や知力以上に有意義かもしれない。そして武人として何をするべきかについて魯雲はもちろん麗玉以上に突き詰めて考えている。そのことはもちろん良いことなのだが、賈良の価値観が後日魯雲や麗玉と対立する事になるとは、この時点では誰も思っていなかった。
魯雲と麗玉と賈良に対しては、
「今期の文武官は優秀だな。特に上位の三人は十年に一度の俊英ぞろいだ」
そんな評価が黄援をはじめとする武官のみならず文武官からも下された。さらに文官の中には
「兵法においては郭俊さまも韋攸さまも朱どのと魯どのを高く評価なさっている。東の青燕に対する守りにあたっている法純さまも朱どのや魯どのの活躍を知ればおそらく高く評価なさるだろう」
などと評する者も少なくなかった。そして武官の中には、かつて南魏の五虎将軍と呼ばれた軍功のある者のうちの三人すなわち黄援と馬典と王信が賈良の武芸を見た際の評価を引用して
「黄援どのも馬典どのも賈良どのの武芸を高く評価し、王信どのにいたっては『槍術も剣術も、そして用兵における慎重さも、私は賈君に遠くおよばない』と評しておられた。王信どのの謙虚さ故の発言かも知れぬが、たとえそうだとしても心強いことよ」
などと言って誉めそやした。
第八章
第三位の軍師法純の妹である法銀月は、兄の法純ほどではないが兵法に精通している。内政面でも優れている銀月は最近まで、かつて呉の陸抗が築いたと言われる楽郷城で勤務しており、楽郷城内の兵糧の管理、および近隣諸地域の治水を主たる任務としていた。
しかし、その任務は内政専門の文官に引き継がれ、銀月は郭俊たちのいる西の国境付近への派遣を命じられた。政務面での業績のみならずその気品と美貌によっても人気を得ていた銀月が別の地に赴任することを楽郷の官僚たちは悲しんだが、契丹対策のためには輜重の強化と国内の政情に詳しいものを派遣することによって国境付近にいる郭俊たちと王都との連携を取りやすくしたいという丞相の上奏により下された王命であるので、誰にも異を唱えることは出来なかった。
任地に着いた銀月はまず第一に郭俊と陸正に挨拶をした。そして次に、長年に渡り武芸で貢献している高齢の黄援にも深々と頭を下げて敬意を表した。
その挨拶の際に郭俊から
「法どの、他の者たちで早めに挨拶をしておきたい者は、どなたかおりますか?」
と問われたので、銀月は最初に輜重を担当している許秀の名を挙げ、そして次に、若手でありながら先達以上の活躍をしている賈良と魯雲そして麗玉に挨拶をしたいと答えた。
さっそく郭俊は銀月を許秀に会わせた。許秀は元来は軍師候補者であり、今も暇があるときは兵法書を読んでいるが、郭俊の大部隊が国境付近に遠征して長期にわたっていることおよび将兵の数が増えたことから、長期戦では兵糧こそが肝要ととらえて自ら輜重の任務を買って出たのだ。そんな許秀と銀月の対談は、同種の任務に従事しているという理由ゆえに非常に話が弾んだ様である。
許秀との話し合いを終えた銀月が賈良に会いに行くと、ちょうど弓矢の訓練の最中であった。銀月は賈良が小休止するまで待って汗を布で拭いた後に深々と頭を下げる賈良と面会。これからともに軍務にいそしむことを約束しあった。
次に魯雲と麗玉がいる陣中を訪ねた銀月の耳に、威勢の良い女性の声が響いてきた。魯雲と麗玉は、棍を使った組手の直前であったのだ。
「いいわね?アタシは槍術でも実戦で活躍しているんだから、いくらアタシが女子だからって手加減しないでよね!」
「う…うん、わかったよ」
そう言った魯雲だったが
(朱さんはあんなこと言っているけど、さすがに顔は打たない様に気を付けよう。先端を柔らかい布でくるんでいるけれど、もしも顔を打って痣が出来たら大変だもんな)
などと配慮をしており、棍を振るった際には麗玉の側頭部と胸と腕および腹部を狙った。だが魯雲の攻撃は、まるで「すべて事前にお見通し」とばかりに麗玉の棍にことごとく受け止められ、次はアタシの番だとばかりに繰り出される麗玉の鋭い棍の乱舞に魯雲は一気に守勢に回らざるを得なくなり、ついには胸部に見事な一撃を食らってしまった。
「これが布を巻いた棍じゃなくて槍だったら、今ので致命傷だったよね!」
「う…うん……たしかにそうだね」
誇らしげに言う麗玉に対して魯雲は思わず負けを認めてしまった。女性の文武官で最も優れた槍術を身に着け、魯雲以外の男子の文武官との組手でも勝つことがしばしばある麗玉との組手である以上、たとえ負けても仕方がないことだ。なのに何故か急に負けん気を起こした魯雲は、ついうっかり
「だけどさ…今のは僕もけっこう善戦したと思わない?もう一回やったら今度は僕が勝つんじゃないかな?」
悔し紛れにそんなことを言ってしまい、再度の挑戦をすることになった。
だが、結果は先ほどと大差なかった。麗玉の棍を何とか受け止め、さらにかわすことには何度か成功したものの、魯雲の攻撃は見事なまでに毎回麗玉の棍が受け止め、最終的には棍を弾かれて素手になった魯雲は、今度は棍を脇腹に打ち込まれることになった。
「ほ~ら、やっぱりアタシの勝ちだね!……って、そんなに強く突いたつもりはないけど、大丈夫?」
思わずひざまずいた魯雲を見て麗玉は言った。
「だ…大丈夫だよ。今のはちょっと油断しただけ。次は朱さんに勝ってみせるよ!」
「え~?どう考えても魯雲は実力で負けたんだよ。無理をしないで今日はもう終わりにしよう!このままもう一回組手なんてやったら大ケガするかもしれないよ」
まったく根拠のない強がりを言う魯雲に麗玉は呆れた様な表情をしながらたしなめた。
「そうですね。失礼ながらそちらの女性のおっしゃる通り、もう一度組手をしても男性の方が負ける様な気がします」
銀月の落ち着いた気品のある声を聞き、魯雲と麗玉は来客があることに気づいた。思わず声の方を振り向く二人。
「あ、失礼しました。申し遅れましたね。私はこの度こちらに赴任をすることになりました、法銀月と申します」
「は…はじめまして!」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
魯雲と麗玉は銀月に会釈した。
「貴方たちが朱麗玉さんと魯雲さんでいらっしゃいますよね?」
「ええ…私は朱麗玉と申します」
「僕が魯雲です」
銀月は前の赴任地でも聞いた二人の評判を伝えた。
「棍の技量においてはお二人の力量には差異がございます様ですが、弓術に関してはお二人ともお得意で、しかも兵法においては陸正さまも郭俊さまもお認めになっていらっしゃるとか……出来ればお二人とも兄に会っていただきたい人士ですが、兄の任地が国の反対の方ですから、それはかなわない事でしょうね」
「お兄さま…ですか?」
この女性は一体どんな人物の妹さんなのだろうかと麗玉が怪訝な顔をしたところ
「はい。私の兄は軍師の法純と申します」
「ああ…あのご高名な!」
魯雲は驚いた。
(まさか第三軍師である法純さまの妹さんが西の国境近くまで赴任してくるとは……)
「はい。私は主に治水と食糧確保に尽力してまいりましたが、郭俊さまや陸正さまのお手伝いのために、この地に参りました。先ほど賈良さんの素晴らしい武芸も見せていただきました。ですが朱さんと魯さんは武芸よりもむしろ軍議に参加して指揮をなさる事の方が多い様ですね。今後お仕事でご一緒することもあると思いますので、こうしてご挨拶に参った次第です」
「左様でしたか。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げた魯雲に続き、
「よろしくお願いいたします」
麗玉も頭を下げたが、その直後に魯雲の顔が少し紅潮していたのを麗玉は見逃さなかった。魯雲の顔色から魯雲が銀月に対して多少なりとも恋慕の感情をいだいたのに気づいた麗玉は嫉妬の情を抑えることが出来なかったのである。郭俊や法純よりは年下とはいえ魯雲と麗玉から見れば銀月は四歳年上にあたる。しかし魯雲は、単に年上だから心を惹かれたのではない。銀月には落ち着いた魅力と気品、そして知性に裏打ちされた凛とした美しさがあった。
雪蘭という恋人を大切に想っている魯雲は決して不貞行為をしようなどとは思わなかった。だから銀月の前で武勇を見せつけて銀月と特に親しくなろうと思っているわけではない。しかし連続で敗れた姿をこの銀月という女性に見られることに対しては、何とも言えぬ恥ずかしさを感じた。
(朱さんとの組手をもう一度やってもどうせ負ける。そんなみっともない姿は、この素敵な女性に見せたくないな……)
そんな魯雲の内心を見透かした麗玉は
「よし!魯雲!もう一回組手をしよう!」
明るい口調で切り出した。
「え?もう一回?」
驚く魯雲。
「そう。もう一回やろうよ!」
「で、でも……さっき『今日はもう終わりにしよう!』って言ったのは朱さんでしょ?」
「気が変わったの!それにアンタだって内心では『負けてばかりでは情けない』って思ってるでしょ?」
「う…まあ、それはそうだけど……」
「だったらやろうよ!今度は魯雲がアタシに勝てるかもしれないよ!」
そう言った後に魯雲に近づきそっと耳打ちした。
「次はわざと負けてあげる。あんな素敵な女性の前で連敗したら、魯雲も恥ずかしいでしょ?」
雪蘭を裏切り銀月に好意を示すという意図は魯雲にはないが、やはり素敵な女性の前で恥をかきたくない、そういう気持ちから魯雲は再度の組手を受け入れた。
だが実際には麗玉は手加減をせず、数回の打ち合いの後、またも棍で胸を見事に突かれてしまった。
「今回のも、アタシが持っているのが槍だったら致命傷だったよね!」
「そ…そうだね……」
てっきりわざと負けてくれるものと思った麗玉の勝ち誇った表情に苛立ちを覚えた魯雲だったが、麗玉の実力は認めざるを得なかった。
第九章
こうした麗玉からの仕打ちがあったが魯雲はめげず、魯雲と麗玉そして賈良という三人の逸材は各々自身の持ち場で奮戦し、さらには諸先輩の助力もあって、南魏軍の陣営は活気に満ちていた。そんな日々が過ぎた後、魯雲のもとに嬉しい来客があった。雪蘭である。
雪蘭の父は長らく雪蘭を魯雲の任地に行かせることに反対していたが、さすがに魯雲の両親と自身の妻、そしてほかならぬ雪蘭自身に説得されて、最終的には魯雲のもとに行くことを認めざるを得なくなったのだ。
「雪蘭さん、久しぶりだね」
「そうね。久しぶりね……」
魯雲が淹れたお茶をゆっくり飲みながら、雪蘭はしみじみと答えた。
魯雲と雪蘭はお互いの近況を話し合い、魯雲は雪蘭の話を楽しく聴いて気持ちが和らいだ様だった。しかし雪蘭は、当初こそ魯雲と話が出来ることを楽しんでいたが、魯雲の話題の大半が麗玉に関するものであることに幾ばくかの不安を覚えた。
「あの……仲明さん……」
しばしの歓談の後に雪蘭は小さな声で魯雲に呼びかけたものの、次の言葉を紡ぎ出せずに雪蘭は黙ってしまった。
「どうしたの?雪蘭さん」
不安そうな表情を見せる雪蘭を心配して、魯雲は尋ねた。
「ううん、特に問題は無いの。ただ、その麗玉さんという人って、どういう人なのかな、っていう興味がわいただけ。とても面白そうな人なので」
「うん、たしかに面白い人だよ。優秀ではあるけど勝気だし、僕の事をからかうけれど、決して嫌な感じの人じゃない。今後僕たちの国にとって必要になる人物だろうから仲良くするべきだと思うけど、彼女の様な性格の才媛と結婚する人は何となく苦労しそうだな、という気もする。まあ、いくら親しくてもそんなことまで言うのは失礼だから、ここだけの話にしてね」
魯雲は雪蘭が単に麗玉という女性に興味を持っただけ、という単純な読みでその後も麗玉の言動についてしばらく麗玉の話をした。しかし、雪蘭の方は単に麗玉に興味を持ったというわけではなかった。魯雲が語った麗玉の言動を記憶にとどめ、その日のうちに故郷の厳春華に向けて手紙を書いた。
雪蘭の手紙。そこには魯雲が語った麗玉と魯雲の言動が詳細に書き込まれていた。それは、この麗玉の言動から麗玉が考えている事を推測してほしいとの意図であり、より具体的に言うと、麗玉が魯雲をからかう意図を推測してほしい、というものだった。
魯雲と雪蘭が住んでいる住居はさすがにすぐに戦場となりそうな地域からある程度は離れている。そして雪蘭に限らずその場にいる兵士に頼んで馬で故郷に手紙を届けることがしばしばある。そのくらいの人員の余裕はあり、そしてたまには故郷と手紙のやり取りを出来るようにした方が将兵の士気が落ちずに済むので、上官も故郷と手紙をやり取りすることを認めていたのだ。
とはいえ早馬を駆らせるわけではないのだから、手紙が届くのには幾日もかかる。筆まめな春華のことであるし大親友の雪蘭からの手紙であればおろそかにすることはあるまい。届いたその日に読んで、なるべく早く返事を書いてくれるだろう。雪蘭はそう信じていたが、春華からの返事を待つ間、どんな内容の便りになるのか不安な日々が続いた。
雪蘭の手紙を受け取った春華は即座にその手紙を読み、そしてその日のうちに返事をするべく筆と硯を用意した。さらにそれから幾日かが過ぎ、ようやく成申から馬で運ばれた手紙が雪蘭の手に届いた。
内容は雪蘭の懸念通りだったが、少しだけ異なっていた。雪蘭の懸念では、麗玉は魯雲に恋心を抱いており、近いうちに魯雲を逢瀬に誘うであろう、というものであった。しかし春華の手紙は、雪蘭の懸念の後半は否定していた。たしかに、おそらく麗玉は魯雲に恋心を抱いているであろうと春華も見立てていた。その点は春華も雪蘭と同じ見立てである。しかし春華の手紙は、ほかならぬ麗玉自身が自らの恋心に気づいておらず、からかうことはあっても麗玉の方から魯雲を逢瀬に誘うことは無いであろうというものであった。
とはいえ、春華にも麗玉に対する懸念がある。麗玉は自分の気持ちに自覚がないだけであって、魯雲を想っていないわけではない。もしも魯雲が雪蘭とともに住んでいることを知ったら麗玉は嫉妬するだろう。そして嫉妬していても自らの感情が嫉妬であるという自覚がないだけに、麗玉自身でもなぜ魯雲につらく当たるのか分からないまま、魯雲につらく当たる日々が続くかもしれない、というものであった。
(困る!それは困るわ!)
春華から送られた返事を読んで、麗玉は頭を悩ませた。そして、その手紙が絶対に魯雲の目に触れることのない様に、自らの服を縛っている帯に挟んだ。
(仲明さんが「僕たちの国にとって必要になる人物」とまで評した麗玉さんがもしも仲明さんに言い寄ったら、仲明さんはその誘いを断れないかもしれない。でもそうした懸念が無いのだとしても、それが単に麗玉さん自身がご自分の恋心に気づいていないだけだというのなら、私が仲明さんと付き合っていることを知った時に、麗玉さん本人も理由がわからないまま周囲に八つ当たりするかもしれない……それで、国にとって必要になる人物の活躍が頓挫したら、みんなが困っちゃう!……ならばいっそ私が仲明さんと別れるべきなのかな?)
一瞬はそんなことを考えた雪蘭だったが、即座に自らの考えを打ち消した。
(やっぱりそれはダメ!私から仲明さんに別れ話を切り出すなんて出来ない!)
一度は魯雲からの交際の申し込みを断って彭蒙と付き合っていた雪蘭は、そんな自分を受け入れてくれた魯雲に別れ話を切り出すことなどできないと思った。そんなことをしたら魯雲に申し訳ないという気持ちもあるが、ほかならぬ雪蘭自身が魯雲と別れたくないのだ。魯雲から別れ話を切り出されるのもイヤだが、それ以上に、まさか自分から「別れましょう」と言えるわけがない。
自分は一体どうしたら良いのか?そもそも自分にはどうにも出来ないのではないか?そんな如何ともしがたい不安を感じながら悶々とする日々を過ごした雪蘭だったが、魯雲も麗玉もそんな雪蘭の心境を知る由もなかった。
第十章
軍議においては時に麗玉をうならせる高度な見識を示すとはいえ武芸の面では麗玉に比べて劣る魯雲だったが、そんな魯雲が内政に関しては麗玉よりも向いているのではないかと感じた郭俊は、現在の赴任地よりは後方支援に近い韋攸のもとにいつか派遣しようとも考えていた。とはいえ、今のところ郭俊の任地にこそ有能な人物が必要であるので魯雲を手放すわけにはいかない。軍議には魯雲を参加させつつ、全体的な統括は自分と陸正そして麗玉がおこない、魯雲には主に兵站をまかせ、また時には弓隊を統括させ、多くの将兵を擁する現在の陣営内部に各人の資質に応じた配備を心掛けていた。
たまには弓術と馬術と槍術で貢献しつつも主に軍議に参加して高い見識を示す麗玉と、黄援や馬典などの歴戦の諸将とともに戦場を疾駆する賈良は各々自身の持ち場を得た感じがあるが、魯雲は内政にも関心を抱きつつ、兵站や弓隊の統括も真面目にこなしつつも、自分の中で何を目指しながら国家に貢献するのかについてハッキリとした目標が見つからないままの状態であった。
ただ、与えられた任務に専念しつつ更に万が一のために備えて時には槍術の鍛錬もしている魯雲の態度を、その高い知見とともに評価する者も少なくなかった。しかしながら麗玉は、自身の槍術と弓術にさらなる磨きをかけるべく打ち込みながら
「魯雲が槍術に打ち込んでるの?!魯雲は前に私と棍の組手を十回やって九回も負けてるんだよ!今さら鍛錬しても大して上達しないよ」
などと、事実ではあるが痛いところを突くことを言った。
軍議では郭俊や陸正といった偉大な先達の手前、極端に魯雲を軽んじる態度は控えていたが、それ以外の場では魯雲をからかう事が少なくなかった。魯雲も、最近でこそ弓術がようやく麗玉の技量に近づいてきたが、馬術と槍術で後れを取っていることを自覚していたので決して麗玉の批判を否定しなかった。麗玉にたびたびからかわれて、穏やかならぬ気持になることが無いわけではない。とはいえ、麗玉にからかわれることを恨むというわけでもない。魯雲は
(朱さんの様な優秀な人物から見れば僕の能力不足は時に不満を覚えるものなのだろうけど、まあそれは仕方ないことだよな)
という、割り切った考えを持っていた。