殺しの聖女
私は、とても変わった両親に育てられたと思います。物心付いた頃から、徒手はもちろん短剣・長剣・槍・投擲・弓など戦闘の訓練に明け暮れてきました。武道などではなく、敵や獲物を倒すための技です。自然の中で狩猟採集をして生き抜く方法も修得しました。
両親が私に常々言っているのは、理不尽に屈しないということです。戦闘やサバイバルの訓練もその一環でした。
そんな私も学齢に達すると普通の学校に入りました。周囲の子とは適当に合わせていたつもりでしたが、そうもいかない状況が発生しました。クラス内でのいじめです。私が標的にされたわけではなかったのですが、両親の教え通り、理不尽を見過ごすことはできなかったのです。
いじめグループが標的の子に暴力を振るおうとした時、私は立ちはだかりました。日頃の訓練のおかげで私の体育の成績が飛び抜けているせいか、いじめグループも私を標的にしようとはしなかったのですが、その時は向こうに人数がいたので私に襲いかかってきました。私は最初にわざと一発叩かれて、正当防衛を堂々と言える状況を作りました。あとは相手の攻撃に対する防御の形をとりながら、相手が突き出してきた手や足を痛め付けました。
いじめグループ全員が立ち上がれなくなった頃、やっと教師が駆け付けました。私はいじめグループに襲われたので身を護るために反撃したのだと説明しました。
後日、いじめグループの親たちが学校に怒鳴り込み、私の親も呼ばれました。そこで私は携帯電話に録音した音声を再生しました。現場でのやりとりが再現されて私が襲われた事実が明らかになり、いじめグループの親たちは青ざめました。すでに事情を知っていた私の親は落ち着いた声で言いました。
「娘に暴行を働いた者達も子供であり、刑事責任は問えないでしょう。しかし民事責任を見逃すつもりはありませんよ。正式に謝罪と賠償を請求します」
いじめ被害者はクラスに何人もいるので、いじめグループにはクラスのみんなの前で謝罪させました。私の戦闘力を思い知ったせいか、その後はおとなしくなりました。
進学すると、今度は暴力教師が私の前に現れました。教師自らがいじめを行っているといったありさまで、目を付けた気の弱そうな子に理不尽な言葉の暴力や、時には体罰もしていました。私はこの女教師を見逃せず、わざと視線で挑発しました。女教師は誘いに乗って私の顔を平手で打ってきました。もちろんヒットする瞬間に合わせて体を引いてダメージを逃がしていますが、傍から見たら殴られて吹っ飛んだように見えるのは計算の内です。私は尚も女教師を睨み付けて挑発しました。二発目が来た時、私は牙を剥きました。動きから見て、この女は何かの武道の有段者クラスです。手加減する必要は全くありません。女の打撃をかわして手を掴んで引き込み、相手の肘に私の膝を叩き込んで肘関節を逆側に折りました。女は激昂して今度は左手で殴りにきましたが、思う壺です。当然左肘も折ってやりました。両手をだらんと下げたまま、女は半狂乱になって足で攻撃してきました。もちろん今度は女の膝が餌食になりました。
「お前を暴行の現行犯で逮捕する」
這いつくばった女を見下ろして私が冷たく言い放った時、騒ぎを聞き付けた隣の教室の教師が飛び込んできました。この女に惚れているという噂の独身男です。男は事情も聞かずにいきなり私に飛びかかってきました。女と違って完全に素人の動きです。私の正当防衛の餌食になるのはあっという間でした。私は男にも暴行による現行犯逮捕を宣言し、ネクタイを外して拘束しました。
暴行犯を取り押さえた旨を携帯電話で警察に通報し、駆け付けた警官に教室の防犯カメラを指し示して、学校側がもみ消しを図る前に記録映像を押収するべきだと伝えました。
学校側は親に示談を申し入れてきましたが、親は頑として受け付けませんでした。今度は成年が相手なので刑事・民事とも追求しました。
この事件そのものは報道されましたが、教師の名前は公表されませんでした。インターネット上では犯人探しが始まりましたが、やや迷走して、無関係の何人かの名前が挙がりました。インターネットで世論を誘導してバッシングに持ち込むのは本意ではありませんでしたが、無関係の人が風評被害を受けるのを防ぐために、仕方なく捨てアカウントを使って真犯人である女教師の実名と顔写真を流しました。すると、問題の教師が学生時代に部活の後輩をいびって自殺に追い込んだなどという過去の悪行が明らかになりました。女は懲戒免職になりました。あとは転落人生まっしぐらです。どこに逃げてもインターネットで晒されて、この世に居場所をなくし、逃げる先はあの世しかありませんでした。
こうしてクズ教師の理不尽を退けた私でしたが、次は人智を超えた理不尽に遭ってしまいます。それは夏休みに入ってすぐのある日、入浴中に起こりました。体が浮き上がって浴槽の底から離れ、まるで太陽の中にいるように周囲すべての方向からまぶしい光に襲われました。目を閉じても瞼を貫いて光が刺さってきます。同時に呪文のような声が強く聴こえてきました。私は体育座りをしてぴったり揃えた太ももの間に顔をうずめて両手で耳をふさぎ、必死でこらえました。
やがて浮遊感がなくなり、私の体が床に座っているのを感じました。顔を上げてみると、そこは薄暗い大広間でした。私を中心にして床に青白く光る円形の模様があります。魔法陣のようです。見回すと、神官のような服を着た者が十人ほど魔法陣を囲んでいます。その外側にも大勢の人間がいるようです。聖女、召喚、成功といった単語が耳に入ってきました。
私の正面にいた白い髭の、サンタクロースのような雰囲気の老神官が両手を差し出しながら近付いてきました。視界がはっきりしてくると、両手の間に細い鎖が見えました。ネックレスのようです。まさにサンタクロースのような笑みが顔に貼り付いていますが、私はこの男が敵だと直感しました。どんな方法かは分かりませんが、私は自宅の浴室から誘拐されたのです。この者たちが、私を誘拐犯から助け出した存在だとは思えません。私は入浴していた時のまま裸で濡れた体です。
立ち上がってみると、意外にも体調は正常でした。麻酔薬を嗅がされたわけではないようです。それどころか、体力とも気力とも違う不思議な力がみなぎっているのを感じました。
「聖女様、ようこそおいでくださいました。守護のネックレスをどうぞ」
老神官が差し出した手を掴むと背後に回り込み、腕をねじり上げました。
「ここはどこだ? お前は誰だ?」
「せ、聖女様は混乱しておられる。取り押さえよ」
「私は混乱などしていない。質問に答えろ」
強くねじり上げると、ボキッと音を立ててあっけなく腕が折れました。この男の骨が脆いのか、私の中にみなぎる不思議な力のせいなのかは分かりません。私はうめき声を上げる老神官を蹴飛ばしました。
私を囲む神官のうち、一番小柄な少女は泣き崩れて座り込んでいます。他の八人は、次第に包囲の輪を狭めるように近付いてきました。老神官も、顔を苦痛に歪めながらもこちらに向き直りました。
「臨兵闘者皆陣烈在前!」
私は素早く九字を切りました。普段であればそれは祈り、あるいは精神集中のための儀式のようなものですが、体の中の不思議な力が外にあふれて、見えない兵が私を護って立っているように感じました。
(爺は殺さないように、それ以外の奴は生きるか死ぬか運次第……)
そうして私を囲む神官たちを打ち倒そうと『思った』瞬間、九人の見えない兵が突きを繰り出しました。
「げふうっ!」
ある者は腹を突かれて体をくの字に曲げて血を吐き、ある者は喉が潰れ首が折れて声もなく仰向けに、ある者は胸の真ん中が陥没して心臓を破裂させて倒れました。結果的には殺さないように意識した老神官以外、八人とも即死しました。
「抜剣を許す。取り押さえよ」
私を囲む人の輪の向こうの壇上から声がしました。中央に中年男、向かって左に中年女、右に若い男です。発言と服装、位置からして、この連中の親玉です。例えるなら王、王妃、王子といったところです。
壁際にいた男たちが剣を抜いて私の方へやってきました。
(さっき神官たちを倒した力が使えるならば……)
私が気合を込めた瞬間、剣を持った男たちは一斉に壁まで吹き飛んで叩き付けられました。タックルを受けたなどというレベルではありません。首や手足はあらぬ方向へ曲がり、ピクリとも動きません。
「きゃあああ!」
悲鳴を上げて逃げ出そうとする者がいました。私が扉を睨み付けると、どうやら内開きの扉に圧力が加わって開かなくなったようです。扉を叩いている女の後頭部を睨み付けました。
(あいつらも誘拐犯の一味。許さない)
パン!
破裂音がして、女の頭が破裂しました。扉に殺到する者たちに怒りを込めた視線を走らせると、まるで仕掛け花火のように続けざまに破裂していきました。機関銃の連射のような音が鳴り響きました。
私以外、立っている者は誰もいませんでした。壇上の三人は腰が抜けたのか、椅子に座ったままでした。
「どういうことか説明してもらおう」
私は親玉に近付いて行きました。
「ま、待ってくれ聖女殿、私の妃にしてやる。将来の王妃だ」
若い男が立ち上がって手を広げて言いました。
「誰が誘拐犯と結婚などするか。死ね」
その言葉と同時に若い男の体は爆散しました。隣の席の中年男にも血が降りかかりました。
「ああああ」
中年女が泣き叫びました。やはり若い男の母親なのでしょう。
「ふん。誘拐犯にも子を想う気持ちはあるのか。だがお前たちは私を私の親から奪った」
女を睨み付けると、女は息子の後を追って爆散しました。
「お前が親玉だな。お前は何者だ」
「こ、この国の、王である」
「この国とは、どこだ」
「******」
男の口から出たのは、どうやって発音するのかさえ分からない音の列でした。会話は成立しているのに、固有名詞となると全く分かりません。ひとまずその問題は後回しです。
「私は自宅にいたはずなのに、なぜここにいる?」
「せ、聖女召喚の儀によって、召喚した」
「何のために」
「魔族の侵攻を、退けるためだ。魔族の力が満ちると、我々の国に攻め込んでくる。それに対抗するためには、聖女の力が必要なのだ」
「勝手な言い分だな。もし私がこの国を救ったならば、この国を私の物とするが、それでもいいのか」
「それは、できない。王になるのは、王家の血を引いた者しか……」
「王家が滅んだらそれまで。別の支配者が現れるだけだ。滅べ」
王と名乗った中年男も爆散しました。
老神官は殺さないように手加減しておきました。私は尋問するために壁際の死骸から剣を取ってきました。もちろん素手でいくらでも痛め付けることはできますが、この汚らわしい爺に直接触りたくなかったのです。
「起きろ」
老神官の顔を剣の側面で叩きました。
「ん。む……ひっ」
老神官は私に気付いて息を飲みました。
「お前はさっき私にネックレスを着けさせようとした。守護のネックレスと言っていたが、本当は違うだろう。あれは何だ。答えろ」
「ほ、本当に、守護のネックレスです」
「お前達にとっての守護というわけか。だったらお前に着けさせてやる」
「ひ、ひっ」
「騒ぐな」
私は剣の柄で老神官を殴り倒しました。
「お前が私にしようとしたことを、お前がされそうになったらこれほど怯えるとは。よほどおぞましい物のようだな」
老神官から奪ったネックレスを、強引に着けさせました。とたんに顔から表情が消えました。仕組みは全く分かりませんが、精神に影響を与えているようです。聖女召喚とやらで無理やり連れて来られた私が連中に従わないことは、向こうも考えているでしょう。となれば、私を服従させるための道具というのが一番ありそうです。
「立て」
老神官に命じると、無表情のまま何も言わずに立ち上がりました。これなら、上手くここから脱出できるかもしれません。最初はこの国そのものを滅ぼしてやろうかと思いましたが、誘拐という悪行に関与したとみなせるのは今のところこの部屋にいる連中のみです。ここは一旦外へ出て様子を見ることにしました。
私は、すでに絶命している神官たちを一通り調べました。八人中、女が四人です。その中で一番小柄な女神官が私と同じくらいの背格好でした。幸い、この女は首が折れて出血せずに死んでいます。私は女から服を脱がせて身に着け、神官に変装しました。
次は他の死骸の懐を改めます。私に無法を働いた結果討たれた者たちですから正当な戦利品です。硬貨が入った革袋が集まりました。取り出してみると、見たこともない図柄の金貨や銀貨などでした。文字も全く知らない物です。やはりここは、いわゆる異世界である可能性が高くなってきました。
私は泣き崩れたままの少女神官の前に立ちました。
「おい、立て。悪魔め」
私は少女の頬を張りました。
「ひっ」
「立てと言っている」
少女はふるえながら立ち上がりました。私より少し背が低いですが、顔立ちからすると歳は私と同じくらいかもしれません。
「お前は私から全てを奪い、また私の両親から私を奪うという悪行に及んだ悪魔のうちの一匹だ。そのことは分かっているな」
「は、はい」
「償いをする気はあるか。なければ今すぐ殺す」
「わ、わたくしにできることがあるのでしたら、何でもいたします」
「ここから出て人目に付かない場所に行きたい。適当な場所はあるか」
「神殿の裏の、農園の管理小屋なら……」
それならば、老神官に命じれば道順をいちいち言わなくても行けそうです。ただここで少し気がかりなことがありました。集めた革袋が意外にかさばるし、重さもかなりあるのです。かばんのような物は誰も持っていませんでした。
(かばん、かばん……)
その時、目の前の何もない空間に、何かが口を開いているように感じました。私は革袋の一つをそこに入れてみました。すると、革袋はその口の中に入って姿を消しました。
「収納魔法……」
少女神官は驚いた表情でこちらを見ています。この世界には存在する魔法のようです。今度は取り出してみました。おそるおそる手を差し込むと、革袋に触れました。どうやら自在に出し入れできそうです。私は革袋を全部そこに入れました。
「神殿の裏の農園の管理小屋へ行け」
老神官に命じると歩き出しました。
「お前も付いて来い」
老神官、少女神官、私の順で一列になって歩きました。大広間は地下の最奥にあったようです。老神官を先頭に歩いて行くと、幸い見咎められることもなく外に出ました。大きな城でした。どうやらあの中年男は本当に王だったようです。
管理小屋に着くと、私は聖女召喚について老神官に色々聞きました。老神官は感情のない声で答えました。そして一番肝心な元の世界に戻る方法ですが……
「魔王が持つ宝玉があれば可能だと古文書に書かれております」
という答えでした。国境に来た魔族の撃退どころではありません。敵の親玉です。何という高難度ミッションでしょうか。
「その宝玉で魔族が異世界に攻め込むことはないのか?」
「異世界に渡れるのは異世界から召喚された本人だけだと伝わっております」
私の元の世界が侵略される恐れはないようです。いずれにしても、魔族と戦う以外に理不尽を打ち破る道はありません。
「仕方がない。魔族の国との国境へ行く。案内できるか」
私は少女神官に尋ねました。
「は、はい。ですが……」
「何か問題があるのか?」
「あの……せ、聖女様は、身分証をお持ちではありません。あの時、国王陛下から賜ることになっていたのですが」
「それがないと国境へ行けないのか?」
「職業ギルドのどれかに登録して会員証を発行してもらえば、通行できます。魔族との戦いに赴くのでしたら、冒険者ギルドがいいかと」
「なるほど。ではそうする。それから私の名前はマリだ。発音できるか」
「マ……ウィ?」
「マ・リ」
「マ・ク゚ィ……マ・ニ……マ・ディ……マ・ði……」
試行錯誤の結果、どうにか私の耳にマリと聴こえる音を探り当てました。
「では、以後私を決して聖女と呼ばないように。それはお前たちが押し付けた役名だからな」
「わかりました、マリ様」
老神官から聞くべきことは聞いたので、あとは処刑です。死骸は土に埋めたいところです。農園の管理小屋なので土を掘る道具はありますが、人力では時間がかかりすぎます。
(あの見えない兵に、土を掘らせることはできるだろうか?)
ここまで来る間に見た限りでは、この世界の文明レベルは少なくとも数百年は遅れているようです。当然、動力式の建設機械などはありませんが、建設機械による穴掘りをイメージしてみました。すると、ほぼ思ったように土が掘られて穴の脇に積み上がっていきました。
「穴の底に降りろ」
老神官に命じると、底に降りて立ちました。服従のネックレスを回収して正気に戻った瞬間、刀をイメージして見えない兵に斬らせました。老神官は声も上げずに真っ二つになりました。
「ひっ」
少女神官は顔をそむけました。私はまた建設機械をイメージして穴を埋めました。
「悪魔め。未来永劫地獄で苦しむがいい」
私が冷たい声で言うと少女は嗚咽を漏らしました。
冒険者として行動を始めるにあたって、必要な装備を揃えました。少女神官の助言で、異世界人ではなく国外から来た冒険者のフリをすることにしました。
私は一通りの武器を使えるので短剣・片手剣・弓を持ち、服装は軽戦士スタイルにしました。神官は冒険者として活動するときも神官服のままで上にローブを着る程度らしいです。
冒険者ギルドに行って少女神官の代筆で二人とも登録し、会員証を手に入れました。魔族の国に接しているのは西の辺境伯領ということなので、乗合馬車を乗り継いで西へ向かいます。
道中、この国の事情を少女神官から聞きました。貴族同士にも主従関係があり、王からしか命令を受けない上位貴族、その下に付く中位・下位貴族というヒエラルキーがあるそうですが、あの聖女召喚の儀で上位貴族の大部分は死んだそうです。唯一あそこにいなかった上位貴族が西の辺境伯で、異世界人を召喚することをよしとせず、今も国境で魔族と対峙しているそうです。辺境伯というのは国境に接する地の領主で、元々隣国からの侵攻に対して最初に応戦する役目を担っているということです。
あの場にいた神官の中で一際幼いこの少女ですが、魔力が強いために抜擢されたそうです。治癒と浄化の魔法が使えるので冒険者としての活動も可能なようです。
「魔獣の群れだ!」
七日目の昼頃に国境に着いたとたんに戦闘が始まりました。
(普通の冒険者のフリをしたまま倒せるだろうか?)
冒険者ギルドの会員証を提示して国境の防壁に上がり、そこから弓を使ってみると、巨大な獣の姿をした魔獣に命中はするものの、倒すには至りません。そこで、おそらく魔力だと思われる不思議な力を矢に纏わせて飛ばしてみることにしました。
ズドン!
巨大な魔獣がのけぞって倒れ、一撃で即死しました。
(これは少しやりすぎかな……)
纏わせる魔力の量を絞りつつ次々に矢を放っていきますが、余裕で一撃即死です。次第に周囲からも注目が集まっている気がします。
防壁の上には弓使いの他に攻撃魔法を放つ魔法使いもいます。火の玉や氷の槍を飛ばしたり、雷を落としたり地面から棘を生やしたりしています。それを見ると、ここが物語に出てくる剣と魔法の世界なのだと実感せざるを得ませんでした。
門から出て近接戦闘をしている人たちもいます。相手が巨大なだけあって、みんな槍で突いています。やはり負傷者は出ていて、門内に設けられた救護所に運び込まれています。
「救護所を手伝ってこい」
後ろに控えていた少女神官に言いました。
「は、はい」
彼女は救護所へ駆けて行きました。魔力の強さゆえ聖女召喚の儀に抜擢されたくらいですから、おそらく国のトップクラスに相当するのではないかという気がします。
獣型の魔獣の次は、人型の魔族が襲ってきました。頭が牛です。元の世界の神話に登場するミノタウロスを思わせる姿をしています。これも魔力を纏わせた矢なら一撃で倒せました。矢は辺境伯家の方で用意してくれていて、私は休まず魔族を倒し続けました。
夕方が近くなった頃、攻めて来る魔族はいなくなりました。倒した魔獣や魔族の回収が始まりました。伝令が来て、私を含めた一部の人が回収の間の援護として防壁に残り、他の人は回収の手伝いに加わりました。
「あんた、すげえ強弓だな」
両隣の弓使いに言われました。回収された魔獣や魔族は解体されています。慣れた手つきで部位に分けていくところを見ると、普段からやっているのでしょう。肉の分け方からすると、食用にするようです。凶暴な敵も食べ物にしてしまう、驚くべき人間の胃袋です。
回収が終わり、冒険者ギルドの出張所で防衛に参加した冒険者に報酬が支払われました。その後は辺境伯家から酒食の振る舞いがありました。会場の一角で人だかりができていると思ったら、囲まれているのは少女神官でした。周囲にいる人たちの様子を見るに、負傷して彼女の治癒魔法を受け、お礼でも言っているのでしょう。彼女はなぜか困ったような顔をしていましたが、私を見付けて駆け寄ってきました。
会場では肉料理が食べ放題でした。
「あんなゴツい魔獣の肉だから硬いかと思ったが、意外に柔らかいな」
「生きている間は魔力で身体強化されていますが、魔力が抜ければ柔らかくなります」
満腹になった頃、精悍な顔つきで身なりのいい男性がテーブルの横に来ました。
「弓の勇者殿と癒しの聖女殿はパーティだったのかな?」
どうやら私と少女神官のことを言っているようです。
「わ、わたくしは聖女などではありません……」
泣きそうな顔で首を振りました。多分、救護所でも聖女呼ばわりされたのでしょう。
「失礼した。私は西の辺境伯*****・*****。少しお話しする時間を頂いてもよろしいかな?」
「はい」
やはり固有名詞は聞き取れません。私たちは馬車で十分くらいの所にある屋敷に案内されました。
「最初に私の立場を説明させて欲しい。元より私は聖女召喚には反対だった。全く別の世界から本人の意思に反して召喚し、本来その人に無関係な魔族対策に当たらせるなど、非道にも程がある。それに、それだけの力を持った人物を頼みにして、助けてやる代わりに国を寄越せと言われたらどうするのか。王は馬鹿だから王子の妃にしてやれば褒美として十分だなどと寝言を言っていたが、とても納得を得られないだろう。だからこちらの世界の人間だけで対処するべきだと主張してきた」
私が聖女として召喚された異世界人だというのはお見通しのようです。
「私も全く同じ考えです、辺境伯様。召喚に関わった者どもは私を誘拐した罪人ですから全員処刑しましたが、あなたを敵とは考えていませんのでご安心ください」
少女神官がビクッと体を固くしたようです。
「それにしても弓しか使っていないのに、私が召喚された者だとよく判りましたね」
「貴殿が矢に魔力を込めて放っているのに当家の魔法使いが気付いてね。尋常ではない魔力だと。しかしなぜ我々に加勢を?」
「私が元の世界へ戻るために、魔王を倒す必要があるからです」
これには辺境伯も驚愕の表情を浮かべました。
「戻る方法があるとは知らなかったが……まさか魔王の討伐が必要だとは……」
しばらく考え込んで、彼は決断したようです。
「魔王討伐には出来る限り協力しよう。我が国の愚か者どもが仕出かした事への償いでもある。魔族領へ潜入しての情報収集は行っているから地図などもある」
辺境伯の調査資料をもらって検討し、方針は決まりました。辺境伯家がこれまでに調べた潜入ルートを使って、単独で潜入します。
翌朝、辺境伯に馬を用意してもらいました。収納魔法で馬の餌や樽に詰めた水を収納できたことも幸運でした。また念のため馬上で使うことを考えて、長い柄の先に剣の刃が付いた薙刀のような武器ももらいました。防壁の門を出て、改めて九字を切りました。
「臨兵闘者皆陣烈在前」
(ん?)
私を護る見えない兵の数が増えた気がします。重ねがけすると増えるのでしょうか。私は振り返って少女神官の方を向き、再度九字を切りました。
「臨兵闘者皆陣烈在前」
(この少女を護り賜え)
「マリ様、わたくしは……」
「救護所の仕事を続けろ。そしてもし大量の敵が押し寄せたら、門を出て現場で直接手当てをするのだ」
「は……はい」
私は馬に乗って出発しました。
最新の情報では、次の襲撃に向けた魔族の集結地点は西北西のようです。私は魔族との接触を避けるルートを進みました。
魔族を避けても、魔獣は棲息しています。見えない兵たちの力があれば蹴散らすこともできるとは思いますが、私は別の方法を試すことにしました。
「唵摩利支曳娑婆訶」
摩利支天の真言を唱えました。私の名前の由来でもある摩利支天は陽炎の神です。その加護は単に敵に勝つだけでなく、姿を見られずに行動できるというものです。九字によってあれほど強い兵を得られたのですから、隠形も可能なのではないかと思ったのです。その効果はてきめんでした。私は魔獣に全く気付かれることなく進んで行きました。これなら魔族を避けなくてもよかったかもしれませんが、せっかく資料があるので調査済みのルートを通って行きました。
資料にある野営に適した場所を経由して、三日目に魔王城に一番近い森まで来ました。さすがに辺境伯家の資料でも、情報があるのはここまでです。魔王城潜入に挑んだ人もいたかもしれませんが、その人は戻らなかったのでしょう。私はこれから魔王城に潜入して魔王、そして何より宝玉の在処を見付けなければいけません。森の中に馬を繋いで飼料と水を用意し、見えない兵に護らせました。
私は単身森から出て魔王城に近付いて行きました。遠くに魔族が二体見えたので一旦岩陰に隠れ、隠形を解いてから覗いてみました。すると魔族が驚くほどの速さで走って来たので見えない兵に斬らせようかと思いましたが、二体が私を挟む形で少し距離を置いて止まったので、一旦兵を止めました。すぐに私を殺す気はないようです。これは、潜入するチャンスかもしれません。
二体の魔族は虎のような頭をしていました。牛頭よりずっと格上に見えます。
「斥候か。メスではないか」
「慰み物にしてから食うか。まだ子供のようだが美味そうな体だ」
「待て。人族にしてはしなやかで美しい体をしている。顔立ちの美醜はわからんが、魔王様に差し出せば喜ばれるかもしれん」
「ふむ。では裸に剥いてみるか」
「い……いやあっ、やめて」
「ほう。我らの言葉を身に付けているのか。それならば魔王様自ら拷問なさるかもしれんな」
そういえばこの世界の人間とも会話ができていましたが、召喚されたために人間に限らず他言語を話せる能力が備わったのかもしれません。
「暴れると傷物になるぞ。魔王様に気に入られれば性奴隷として生きる道もあるだろう」
私は手首を掴まれて両手を上げさせられ、服を切り刻まれて裸にされました。そして後ろ手に縛られて魔王城に連れていかれました。
「斥候を捕らえて参りました。我らの言葉を話せるようでございます」
「ほほう……これは美しいな。幼体から成体への変化が始まった年頃のようだが、しなやかで、引き締まっていながら柔らかそうだ。よかろう、余が自ら吟味致す」
城内には首が二つだったり三つだったりして様々な形をした魔族が多数いましたが、意外にも魔王は角が左右に生えていて肌が青白い以外、人間と変わらない姿でした。私は首輪に綱を付けられて、奥の部屋へと連れていかれました。
部屋に二人きりになり、魔王が服を脱ぎ捨てると、砲身が上下二連でした。
「ひ、ひいっ……わ、私、何も知りません……!」
「そんなことは分かっている。この地まで送り込まれて来るような者は、捕えられて拷問されてもいいように、重要な事は何も知らされていないものだからな。だがお前は美しい。従順な性奴隷になれば可愛がってやるぞ」
私は台に縛り付けられて鞭で打たれました。
それから私は四つん這いで歩かされました。涙をぼろぼろこぼしてしゃくりあげながら魔王に従いました。
「お前はまだ幼い。余の二刀流を受けられるようになるまでじっくり調教してやる」
さらに奥へ連れていかれました。突き当りの扉に魔王が手を当てると開き、中は私が召喚された大広間と同じくらい広い部屋でした。中央には胸くらいの高さの台座があって、青白い光を放つ丸い石が乗っていました。ものすごい力を秘めているのを感じます。私に力を見せ付けることによって、屈服させるつもりなのかもしれません。
「この彗星石に力が満ちた時、我ら魔族の力が完全に解放される。その時お前の仕えた国も魔族に降るのだ。お前を余の愛奴にしてy――」
収納魔法から取り出した薙刀が魔王の脇腹を貫くと同時に、見えない兵たちも一斉に魔王を突き刺しました。私の中に恐ろしいほどの力があふれ、白い炎のようになって薙刀を伝って魔王に流れ込み、さらに足から地下へと流れて行くようでした。同様に見えない兵たちからも白い炎が魔王に流れ込みました。
薙刀を左手で持ったまま右手で宝玉を掴み、収納魔法に収めました。それから九字を続けて何度も切りました。見えない兵たちが十重二十重に私と魔王を囲みました。
「魔王様!」
異変を察知した配下たちが部屋に雪崩れ込んで来ましたが、見えない兵たちに切り刻まれて血しぶきを上げながら肉片に変わっていきました。
やがて魔王の体が灰のように崩れ去り、白い炎も止まりました。私と見えない兵たちは魔王城の門へ走りました。
私の身長の数倍はある異形の魔族も見えない兵たちの敵ではありませんでした。くさび形に先行する見えない兵が道を切り開きながら魔族を殲滅していきました。門を出たところで一旦止まり、追ってくる魔族がいなくなるまで斬り続けました。
追手がいなくなったところで森へ向かい、途中で切り刻まれた服のポケットに入っていた冒険者ギルドの会員証を回収して、馬に乗って国境を目指しました。今度は魔族を避けずにすり潰していきました。
帰り道も二度野営して国境を発ってから五日目、国境を襲撃するべく集結していた魔族軍に出会しました。私は繰り返し九字を切って兵を喚び、薙刀を突き上げて突撃しました。馬の速度のまま敵が切り払われていきました。
魔族軍を掃討して、あとは国境へ戻るだけになりましたが、私は着替えを持っていなかったので裸のままでした。変装した時の神官服を捨ててきたのは失敗でした。仕方がないので野営道具の毛布を羽織って国境へ向かいました。
国境に着くと、防壁の前にも上にも辺境伯軍や冒険者が並んでいました。魔族軍の集結を察知しての防衛態勢なのでしょう。私が着いたことで斥候が帰って来たと思われたようですが、特に説明せずに冒険者ギルドの会員証を見せ、辺境伯様にお知らせをと言って門を通りました。
辺境伯は本陣にいました。私が本陣に行くと、近くの救護所にいた少女神官が駆け寄ってきました。
「魔王を倒してきました。これが、魔王の力の源たる宝玉です」
「まことか……」
宝玉を見せると、辺境伯は口をあんぐり開けたまま固まってしまいました。
「マリ様、ご無事でしたか……!」
「ああ」
「ふ、服はどうなさったのですか」
「魔族に切り刻まれた」
「す、すぐにご用意いたします! 辺境伯様失礼いたします。マリ様こちらへ」
救護所の片隅にあるテントに連れていかれました。
しばらくして少女は前と同じような軽戦士装備を持ってきました。
「わざわざ買ってきたのか。代金は出す」
「いえ、ここで過分な報酬を頂いていますので。マリ様、お怪我は……」
「問題ない」
しかし、毛布をはずして私の体を診た少女が背中側に回ると、息を飲みました。そしてくずおれて私のお尻に抱き付いて泣き出しました。
「こんな……こんな傷を」
「鞭で打たれただけだ。深くはない。すぐ治る」
少女はしばらくふるえながら泣いていましたが、私のお尻をぺろぺろ舐め始めました。
「な、何をしている?」
「わたくしの治癒魔法は、こうして舐めると一番綺麗に治るのです。どうかお許しください……」
治療が終わり、浄化魔法で綺麗になった私は服を着て本陣に戻りました。
「先程は失礼した。衝撃が大きかったものでな」
「いえ。とりあえず今日の襲撃のために集結していたと見られる魔族軍は殲滅しておきました」
「たった一人でか……! 召喚されたのは、まことの勇者殿であったということか」
「さあ、今となっては分かりません」
「最新の偵察情報によると集結していたのは西南西の一群のみということであったが」
「私が潰したのはそれでしょう」
「となると今日のところは纏まった襲撃はないと見てよさそうだな」
「おそらく。しかし、魔族全体からすれば倒したのはごく一部でしょう。魔王を失ったことで侵攻を諦める可能性もありますが、逆に破れかぶれになって突撃してくる可能性もあります。警戒は続けるべきかと」
「うむ。ところで勇者殿が留守の間、神官殿の働きはまさに聖女と呼ぶにふさわしいものだった。敵が大挙して押し寄せた時、聖女殿が門から出ると、結界のごとく聖女殿を中心とした円の範囲内の敵が弾け飛んだのだ。負傷者の治癒も素晴らしかった。もしや彼女も召喚された者だろうか?」
そういえば、いざという時は門から出るように私が言ったのでした。ここに置いていった見えない兵は、ちゃんと仕事をしてくれたようです。しかしそれを知らない少女神官にしてみれば、敵の大群がいる門の外に出るのは決死の覚悟だったのでしょう。
「いえ、違います。治癒魔法は彼女自身の力ですが、結界については私を守護している神々に頼んでおいたのです」
「なんと、そんなことまで……!」
ここで私は、はたと気が付きました。九字とは九柱の神々から守護を受ける法です。そして摩利支天。いずれも私の元の世界の神々です。私は今異世界にいるにもかかわらず、なぜ守護を受けられるのでしょうか。それとも神はこちらの世界でも共通なのでしょうか。
それともう一つ、宝玉からは確かに大きな力を感じましたが、台座から取った時と辺境伯に見せた時の二度触れたのに、元の世界に飛ばされることはありませんでした。この宝玉にはまだ力が満ちていないらしいので、力が満ちた時に帰れるならいいのですが。
夕方になると警戒要員として辺境伯軍を残し、冒険者には日当が支払われ、辺境伯から酒食の提供がありました。一通り酒と料理が行き渡ったところで辺境伯が壇上に立ちました。
「皆に大きな報せがある。二日前、魔王が討伐された」
一瞬静まり返った後、会場から大きな歓声が上がりました。
「我ら全員の勝利である。ただ、魔族の大部分は健在であり、依然として脅威なのは変わりない。引き続き皆の奮闘に期待する」
食事が終わった後、私と少女神官はまた辺境伯の屋敷に招かれました。
「あの場では名を挙げなかったが、マリ殿のおかげでこの世界は救われた。また神官殿も国境の護りに大きく貢献してくれた。深く感謝する。して、マリ殿は今後どうなさる?」
「もちろん、元の世界に戻ります。その鍵となるアイテムはすでに手元にありますので」
「それは今すぐなのか?」
「魔族の力が満ちるとされている時期かと思います」
「ふむ……。魔王が既にいないのならば、魔族を殲滅して魔族領を併合してしまおうと考えているのだが、マリ殿に合力願えないかと思ってな」
「おそらくそれは無理でしょう。というのは、こちらの世界に来てからの私はなぜか元の世界の神々に護られているのです。その理由を考えるなら、別の世界へ不当に連れ去られた私を無事に元の世界へ戻すためではないかと思われます。これまでの私の行動もそれに沿ったものでした。しかし魔王を倒してアイテムを手に入れた今、魔族領に私が攻め込む理由がありません。したがって私の世界の神々の加護を受けられないことを考えなくてはいけません。帰還するまでの間、国境の防衛くらいなら協力できると思いますが」
「なるほど……マリ殿の力はこの世界の女神の加護によるものではないということか」
その時です。少女神官の体がぼんやり光り始め、明るさを増して眩しく輝きました。やがて光は弱まりましたがほんのり光ったまま、少女は閉じていた眼を開きました。青だった瞳が金色に変わっていました。
「私はこの世界の女神です。マリ様にお詫びとお礼を申し上げるため、一時的にこの神官を憑代としています」
「臨兵闘者皆陣烈在前」
咄嗟に私は九字を切りました。私の周囲を護る見えない兵とは別に、少女に憑依した女神の周囲を新たな兵が囲みました。女神は怯えた顔をしました。
「私がマリ様にご助力を願った事情をご説明させてください。マリ様の世界の知識があればご理解いただけると思いますが、魔族はある彗星から力を得ていました。今回は特にこの惑星と彗星がかつてないほど接近するため、魔族の力も膨大になります。魔族の侵攻を防ぐには、私が与えられる加護を全て受け入れられる『器』を持った聖女が必要でした。今私の憑代となっているこの神官は、この世界で最大級の器を持っていますが、それでも私の加護の一部しか受け入れられません。そこで私は異世界に聖女を求め、見付けたのがマリ様だったのです」
私は深く息をして怒りを抑えました。
「マリ様の器の大きさは私の加護をはるかに上回っていました。そしてマリ様が召喚されたことを察知して追って来られた神々の加護により、魔王は滅んだのです。魔王は穢れた地脈から生まれます。しかしマリ様の世界の神々の加護により、地脈の穢れまで焼き浄められたのです。魔王は二度と復活しません。あとは、七日後の彗星最接近の日に彗星石に帰還を願えば元の世界に戻れます」
私は女神を睨み付けて指差しました。同時に見えない兵たちが女神に刃を突き付けたのを感じました。
「だが、お前の本来の計画通りなら私は元の世界に戻る手段を得られなかったはずだ。これじゃまるで人身御供だな。この世界の人間ならまだしも、私は全く無関係な異世界の人間だ。お前のしたことは、腹が減ったら他人から奪えばいいという盗賊の所業に他ならない」
「返す言葉もございません。今まさに私はマリ様の世界の神々によって滅ぼされようとしています。最後にマリ様にお詫びを申し上げる猶予を頂いて、こうして参りました」
「悪魔め。礼も詫びも必要ない。そのまま滅べ」
少女に憑依していたモノは何か言いかけましたが、苦悶の表情を浮かべ、やがて消えていきました。あとに残された少女は意識を失って倒れそうになったので、私が抱き留めました。
「ほ……本当に女神は滅んだのか」
「そのようですね。私の世界の神々の逆鱗に触れたからでしょう」
辺境伯の問いに私は答えました。
「この世界はどうなってしまうのだろうか……」
「別に変わらないのではありませんか? さっき女神が言っていましたが、私の世界の神々は、わざわざ魔王の大元である地脈の穢れまで浄めたようです。私を元の世界に帰すだけなら、地上で活動している魔王を滅ぼせば十分だったはずです。思うに、魔王が二度と現れないようにすることで、これ以上神が介入しなくても人々が生きていける環境にしたのではないでしょうか」
「なるほど……マリ殿を連れ戻しに来たついでに我々にも温情をかけてくださったということか」
「おそらくそれは辺境伯様や兵士、冒険者たちが自らの力で魔族に立ち向かおうとしていたからでしょう」
その後、私は彗星最接近の日まで国境の防衛に参加しました。辺境伯軍と冒険者の一部は魔族領に進出して討伐を進めていきました。魔族は彗星の力を得られなくなって総崩れらしく、遠からず魔族領がこの国に編入される見通しだそうです。
聖女召喚の儀に立ち会っていた王族や上位貴族が全員死んだため、王位継承権を持っていた西の辺境伯にお鉢が回ってきたそうです。これまで優秀な三人の弟が辺境伯を補佐してきましたが、魔族領を辺境伯が手にした後に分割して弟たちが統治するそうです。
そしてついに彗星最接近の日がやってきました。私は辺境伯に別れを告げると、誰もいない森に入りました。少女神官は女神に憑依されていた間の記憶がないらしく、今日が最接近の日だとは知らずに救護所で働いているようです。
私は服を脱ぎ捨て、彗星石を取り出して掲げました。一段と強く光る彗星石に帰還を願い、あの日の浴室を思い浮かべました。
召喚された時と同様の強い光に包まれて目を閉じ、しばらくすると光が収まりました。目を開けると私は元の浴室にいました。急いで部屋に戻って携帯電話を確認すると、召喚された当日の日付になっています。時間も、少し長風呂をした程度しか経過していません。あの異世界での出来事が、まるで夢だったかのようです。こうして私の冒険は終わりました。
元の世界に戻って以来、あの世界で使えた特殊能力は使えなくなりました。魔力らしいものは感じられません。収納魔法も使えないし、九字や真言を唱えても超常現象などは起こりません。ただ一つ、どんな外国語でも会話ができるという能力以外には。