ジャクリーヌは聖女の夢を見る
ジャクリーヌは聖女の夢を見る。
それは、夢であるが妄想の産物ではなく、実際の出来事だ。彼女はかつて聖女だった。今から、およそ一年前のことだった。
◇
ジャクリーヌは王国の僻地にある小さな村で生まれ育った。特別、器量がいいわけでも美しいわけでもなく、いたって平凡な村娘だった。
そんな彼女の人生が一変したのは、鑑定式と呼ばれるイベントでのことだった。
現聖女の健康状態が芳しくなく、彼女が亡くなる前に次の聖女を見つけておかなければ、と王国中の娘たちに鑑定を受けさせた。
その結果、ジャクリーヌは次期聖女に選定された。
村の人々は皆、ジャクリーヌが聖女に選ばれたことを喜んでくれた。それは、聖女に選ばれることが栄誉であると思っているからであり、また村から聖女を輩出したということで、様々な恩恵が受けられると思ったからでもある。
本人は、聖女などという役職につきたくはなかった。しかし、『嫌です』と拒否できる雰囲気ではない。不承不承、受け入れた。
彼女が帝都に移送されてすぐに、先代の聖女が亡くなった。
ジャクリーヌは弱冠一五歳で聖女となった。
一般的な一五歳の少女は自由に遊んだり恋愛することができるが、聖女となったジャクリーヌには自由などというものは存在しない。恋愛をする余裕もなければ、誰かと付き合うことも許されない。
彼女は寝ている間以外のほとんどの時間を、聖女としての役目に費やした。身も心も疲弊して、だんだんと摩耗していく。
王国の人々は、しかし彼女に感謝したりはせず、それを当たり前のものだと思っていた。享受している平和が一人の少女の犠牲によって支えられているとは、まったく思っていないのだ。
敵国の人間が攻めてこないのも、魔族が攻めてこないのも、国土が豊かなのも――何もかもが聖女のおかげ。
聖女は王国を支えるシステムのメインパーツだ。なくてはならないが、もしも使えなくなれば付け替えればいい。代替可能品なのだ。
(早く、聖女の役目から解放されたい……)
そう思いながらも、それを口にすることはできない。きっと、彼女が聖女をやめることを国王や貴族たちは許してくれないし、許してくれたとしても用済みとなった自分がどうなるのか……。
はあ、とジャクリーヌは深くため息をついた。
彼女には好きな人がいた。できることなら、聖女をやめて、その人と結婚して静かに暮らしたい。しかし、国王によって第一王子であるディーンと婚約を結ばされてしまった。
婚約をこちらから破棄することはできない。王族相手にそんなことをしたらどうなるか……恐ろしくて想像することすらできない。
彼女の好きな人は、婚約相手であるディーンの護衛を務めている人物だった。名前はセドリックという。彼はジャクリーヌと同じく平民出身であるが、その能力の高さから、王子の護衛にまで上り詰めることができた。
セドリックはディーンとは違って、ジャクリーヌに対して優しかった。いつも親切丁寧で、穏やかな笑みを浮かべている。しかし、彼は誰に対しても親切丁寧なので、ジャクリーヌのことをどう思っているのかはわからない。
一方的な、片想いなのかもしれない。
けれど、同時に自分のことを好いてくれているのでは、とも思う。
セドリックに自分のことをどう思っているのか、聞くことは憚られる。『好きではない』と言われたらショックだし、『好きだ』と言われても、彼と結ばれることなどできないのだから――。
◇
聖女になってから四年ほどが経過したある日、寝ようとしたジャクリーヌのもとにディーンがやってきた。彼がジャクリーヌのもとにやってきたのは、多分初めてのことだと思う。
「ディーン様、どうされましたか?」
「一応、伝えておこうと思ってな」
ディーンは立ったまま、尊大な口調で言った。
「お前と結んでいた婚約を破棄させてもらった」
「……えっ?」
ジャクリーヌは驚きながらも、笑みを浮かべないように必死に我慢した。
(ディーン様のほうから婚約破棄してくれるなんて! これで、もしかしたら、セドリック様と婚約することができるかも……)
セドリックが自分のことが好きなのかはわからない。直接、好きだとは言われていない。けれど、自分と話しているときの態度からは、他の人と話しているときよりも親密さを感じられた。きっと、それは気のせいではないと思う。
「正直さ、ずっと嫌だったんだよ。お前みたいなブスと結婚するなんてさ」
ブス、などと言われて正直腹が立った。ジャクリーヌは特別美人ではないが、かといって、ブスというわけでもない。それに、仮にブスだとしても。そんなにストレートに言うのはとても失礼だと思う。
ディーンが普段遊んでいる女たち(彼はかなりのプレイボーイなのだ)が皆、超がつくほどの美人だから、相対的にジャクリーヌがブスに見えるのだろう。
ジャクリーヌは苛立ちを必死に押さえつけると、
「それでは私は――」
「ま、お前は聖女なんだし、結婚なんてしなくてもいいだろ」
「え……」
ディーンはそう言い放つと、さっさと去っていった。
ディーンと結婚することは避けられたが、だからといって事態が好転したわけではない。相変わらず、聖女としての仕事は多忙を極めているし、セドリックの気持ちもわからない。
(思いきって、聞いてみよう)
そう思った。
◇
ジャクリーヌのほうから訪ねるのは難しかったので、セドリックに部屋に来てもらった。彼は椅子に座ると、「何の用でしょうか?」と聞いてきた。
「セドリック様、率直に言って、私のことどう思いますか?」
「どう、と言いますと?」
「その……好きとか、嫌いとか……」
「好きですよ」
セドリックはさらりと言った。あまりに平然と言ったので、反応するのが少し遅れてしまった。
「…………好きというのは、どの程度?」
「結婚してもいいくらいに」
「そ――」
(――それは、私のことが好きだということだよね?)
両想いなんじゃないか、とは思っていたのだが、実際にそうだとわかると、やはりとても嬉しくなった。ディーンに婚約を破棄されたので、セドリックと結婚することはできるはずだ。
「じゃあ――」
「でも、僕は……」
セドリックはため息混じりに首を振った。
「ジャクリーヌ様と結婚することはできないんだ」
「ど、どうしてですかっ!?」
「それはね――」
セドリックの話によると。
ジャクリーヌがディーンに婚約破棄されたのとほとんど同じタイミングで、セドリックと王女アデルの婚約が決まった。もちろん、セドリックに拒否権はなかった。粛々と受け入れるしかない。
「そんな……」
ジャクリーヌは絶望から泣き出しそうになった。天国から地獄に突き落とされたかのような気分だった。
「だから、僕とジャクリーヌ様が結婚するためには――この国を出るしかない」
ジャクリーヌは聖女という立場を捨て、セドリックは王子の護衛という立場を捨てる。立場を捨てること自体にためらいはなかったが、二人が王国から逃げ出すのを看過してくれるはずがない。
逃げ切るのは難しい。
すべてを諦めるしかなかった。
◇
ジャクリーヌが聖女になってから五年という月日が経過した。彼女は激務に耐えかねて、体を壊した。聖女としての務めを果たせなくなってきたので、彼女が聖女に選定されたときと同じように、鑑定式をとり行った。
選定された次期聖女は、ジャクリーヌよりも遥かに美しく、能力的にも秀でていた。彼女に惚れこんだディーンは、彼女と婚約を結んだ。
ディーンの勧めもあり、ジャクリーヌは聖女の役職を降ろされ、次期聖女――エリスが聖女となった。
そして、ジャクリーヌは用済みとなった。
病から回復すると、ジャクリーヌは王宮から追い出された。その際に渡されたのは、今までの働きに対して少なすぎる金銭だった。自分の価値はこれだけしかないのか、と思うとなんだか悲しくなった。
ジャクリーヌは隣国である共和国へ行こうと考えた。王国では顔や名前が知れ渡っているので暮らしにくいからだ。
女一人で隣国まで旅をするのは大変だ。しかし、旅に同行してくれるような人はいない。ジャクリーヌは一人で黙々と旅をした。
聖女という重荷から解放されたこと自体は嬉しい。しかし、セドリックと離ればなれになることは寂しかったし、辛かった。この旅路に彼がいてくれたら、どんなに楽しかっただろう、と考えた。
「セドリック様……」
ジャクリーヌは安宿のベッドに腰かけて、セドリックのことを夢想した。夢のように淡い空想は、すぐに弾けて消えた。
(セドリック様は今頃、どうしてるんだろう?)
王女アデルと結婚したという話はまだ聞かない。ジャクリーヌの耳に入っていないだけなのかもしれない。
あれこれ考えていると――。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
ジャクリーヌは身構えた。部屋のドアには鍵がかかっている。乱暴な手段をとらなければ、外からドアを開けるのは難しいだろう。
(誰だろう……?)
思い当たる人物はいない。
今のジャクリーヌに知り合いと呼べるような人はいない。彼女は孤独だった。知り合いの振りをしてやってきた強盗の類だろうか?
「誰ですか?」
「僕です。セドリックです」
びっくりした。幻聴の類じゃないかと疑い、その後で詐欺師がセドリックの振りをしているんじゃないかと疑った。しかし、それは紛れもなくセドリックの声色だった。
ジャクリーヌは慌てて鍵を外してドアを開けた。
――セドリックが立っていた。
自然と目から涙が流れ、こぼれ落ちた。
「セドリック様……」
「お久しぶりですね」
「どうして……?」
「王宮からむりやり逃げ出して、ここまでやってきたんです。もちろん、ジャクリーヌ様に会うために」
ジャクリーヌはセドリックに抱きついた。彼は拒んだりしなかった。
その後、ジャクリーヌの宿泊している部屋に入ると、二人が別れてから今に至るまでの様々な話をした。時の空白を埋めるかのように――。
それから、二人は一緒に共和国への旅をし、一か月ほどして目的地にたどり着いた。
セドリックはそのたぐいまれな戦闘能力を活かして冒険者となり、ジャクリーヌは聖女に選ばれるほどの才能を活かして小さな診療所を開いて病気の人々の治療をした。
そして、二人は半年後に結婚した。
◇
目が覚めると、セドリックが心配そうな顔をして、ジャクリーヌのことを見つめていた。
「大丈夫かい?」
「ええ……」
「何か、嫌な夢でも見ていたのかい?」
「うん。私が聖女だった時の夢をね……」
「そっか」セドリックが言った。「君が聖女から一般人になって、もう一年も経つんだね」
「私としてはまだ一年って思うけどね」
ジャクリーヌが聖女でなくなってから一年。
彼女は未だに聖女だったときの夢を見る。決して良い夢ではない。見るのは大抵、辛かった場面ばかりだからだ。悪夢と言えなくもない。
共和国に住んでいると、王国の情報はあまり入ってこない。それに、二人が王国の情報を仕入れるのに消極的な――むしろ、シャットアウトしている面もある。だから、王国が今どのようなことになっているのかは知らない。きっと、自分たちがいたときとそう変わらないのだろう、と思っていた。
朝早くに、すぐ近くの家の主婦がやってきた。彼女は家で育てた野菜を、ときおり二人にくれるのだ。
「いつもありがとうございます」
ジャクリーヌは礼を言った。
「いいえぇ」
主婦は首を振ると、最近仕入れた話を二人にする。
「そういえば、聞いた? 隣の王国が滅亡の危機に瀕しているって話」
「……え?」
主婦は二人が王国出身だとは知らない。だから、それは純粋な世間話の類だった。
「滅亡の危機って……どうして?」
「ほら、王国は聖女によって外敵から守られてるでしょ? その聖女様がね、亡くなられたのよ」
「死因は?」
「詳しくはわからないけど、病死らしいわ」
「病死……」
過労がきっかけとなってか、それとも持病でもあったのだろうか……?
しかし、聖女が亡くなったとしても、すぐに新たな聖女を選定すれば、被害は最小限で済むはずだ。
王国は決して大きな国ではない。なので、人口も大国と比べれば少ない。しかしそれでも、聖女となれる逸材が一人くらいは存在するはず……。
「次の聖女は?」
「それがね、すぐに自殺してしまったらしいの」
「……自殺」
激務に耐えかねてだろう。考えてみると、ジャクリーヌが自死を選ばなかったのが不思議なくらいだ。おそらく、セドリックが――好きな人がいたから、頑張れたのだ。
「そのさらに次は――」
「なかなか見つからないらしいのよ。聖女が激務だっていう噂も流れてるから、有望そうな子は国外に逃げたりしてるとか」
聖女の適性を持つ者が見つからず、聖女の力に頼りきりだった王国は滅亡の危機に瀕している――。
聖女なんていなくても成り立つ国づくりをすべきだったのだ。
まあ、もう遅いのだが……。
ひとしきり話すと、主婦は満足して帰っていった。それを見届けると、二人はリビングの椅子に座った。
「王国が滅亡、か……」
「僕たちはもう王国の人間じゃないから、気にしなくていいんだよ」
一瞬、自分が王国に戻れば――と思った。しかし、ジャクリーヌにとって大切なのは、自分と夫であるセドリックであって、王国民の優先順位はそれよりかはだいぶ低い。心がまったく痛まないわけではないが、気にしないようにしよう。
◇
今日はお互いに仕事を休みにしたので、二人でのんびりと過ごす。とりあえず、温かいお茶をすすりながら、他愛もない話に興じる。
昼間に散歩に出かけて、市場で買い物をした。家に戻ってきてしばらくしたとき――コンコン、とドアノッカーが鳴らされた。
「はーい」
ドアを開けると、そこには三人の男が立っていた。
全員知らない男だ――いや、一人は知っている男だったが、一年前とはずいぶん見た目が変わっていた。みすぼらしくなり、老けた。
ジャクリーヌの元婚約者であり、王国の第一王子であるディーンだ。
後の二人は彼の護衛だろう。
「久しぶりだな、ジャクリーヌ」
それから、彼女の傍らにいるセドリックを見た。
「セドリックもな」
「お久しぶりです、ディーン王子」
セドリックは軽く頭を下げた。
「ん、知らないのか? 今の俺は『王子』ではなく、『国王』だ」
「ということは――」
「ああ。父上は亡くなった」
さほどショックを受けているようでもなく、きわめてどうでもよさそうな口調でディーンは言った。
「それはご――」
「そんなことはどうでもいい」
セドリックの言葉を遮ると、ディーンは用件を述べる。
「王国は今、滅亡の危機に瀕している。前の聖女が死んで、新たな聖女がまだ見つかってないのだ。だから、ジャクリーヌ。王国に戻ってこい」
「……戻って、わたしにどうしろと?」
「もちろん、聖女としての務めを――」
「お断りします」
ジャクリーヌははっきりと拒否した。
国王となった自分の命令をまさか拒否するとは思ってなかったのか、ディーンはあり得ない、と愕然とした表情を浮かべた。
「き、貴様……」
怒りで顔が赤く染まり、握りしめた拳が震えている。
「王国の国王であるこの俺の命令を拒否するというのかっ!?」
「私はもう王国の人間ではありませんから、国王様の命令に従う義務はありません」
「なんだとっ!?」
「それに、私をクビにして王宮から追い出したのはあなたではありませんか。いまさら、戻って来いなんて言われても……」
もう遅い――どころか、虫が良すぎる。
「後それと、私にブスって言ったの忘れてませんからね」
「このクソアマがっ!」
ディーンは握りしめた拳を振りかぶって、ジャクリーヌに殴り掛かってきた。しかし、セドリックの素早い足払いによって空を切り、間抜けに尻もちをついた。
「セドリック、貴様っ!」
「もう二度と、僕たちの前にあらわれるな」
「ふざけるなよっ! おい、セドリックを殺せっ!」
ディーンの命令に、しかし護衛二人は首を振った。自分たちではセドリックを殺すことができないとわかっているからだろう。それと、国王の命令と言えど、罪人でもない彼を殺しにかかることにも抵抗があった。
「クソ、クソ、クソ、クソォォォォォ!」
もう一度、今度はセドリックに殴り掛かったものの、あっさり避けられて、カウンターを食らった。顔面にセドリックの拳を食らい、ディーンは鼻血を流して倒れた。
「帰ってください」
ジャクリーヌが言うと、うずくまって泣いているディーンを引きずるようにして、護衛二人は去っていった。
◇
その後、ディーンが二人の前にあらわれることはなかった。
結局、新たな聖女が見つかる前に、王国は滅んでしまった。他国に侵略されたのだ。王族は当然のように処刑され、聖女という役職はなくなった。他国に侵略された今のほうが、かつてより平和になったのは皮肉というかなんというか……。
ジャクリーヌとセドリックの生活は変わらない。ジャクリーヌは病気の人々を治療して感謝され、セドリックは冒険者として名をあげている。
彼女は今でも聖女の夢を見る。
植え付けられたトラウマは、もしかしたら一生逃れられないのかもしれない。しかし、聖女だったときも、今も、そしてこれからも、彼女の隣にはセドリックがいる。彼がいてくれるだけで、とても幸せだ。
ジャクリーヌは今日も聖女の夢を見る。
目が覚めると、視界には愛しい夫の――セドリックの姿。
「また見たのかい?」
「ええ。私が聖女だったときの夢」
「今の君は――病気の人々を治療する君は、役職としてではなく、在り方として聖女みたいだと僕は思う」
「ありがとう」
ジャクリーヌは微笑むと、夫の頬に口付けをした。
そして、二人の静かで穏やかな一日が始まる――。