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――遠くの声を聞こうとする時、耳をすますものです。それと同じです。心をすますのです。
それがどんなことを言っているのかをハッキリわかったわけではない。それでも、そんな伽音の言葉を信じ、響は意識を集中させた。
それは自らの中にある妖力を使うことに似ていた。
すると、微かだが周囲に無数の生命が動いていることが自然と伝わってくるのを感じられる。
これが本当に多くの人の生命なのだろうか。
おそらく感じ取れるのは、そう広い範囲ではないだろう。だが、その探知する範囲を移動することが出来るようだ。
ゆっくりと範囲を移動させながら、それを一つ一つ丁寧に感じ取っていく。なかなか大変な作業ではあるが、響は根気強くそれを続けた。
やがて、異質なものを感じ取った。
普通の人間の生命とは明らかに違っている。
(これは?)
それが何なのかは響にもよくわからなかった。
一条家の誰かに伝えようかとも思ったが、これが本当に『魂を喰う者』かどうかもわからない。
まずは確認したほうがいいだろう。
響はこっそりと通用門から屋敷を出ると、さっき感じた魂のほうへ向かって走り出した。
魂を感じたといっても、それは漠然とした感覚だ。
正確にその人の場所を感じ取ったわけではない。しかも、集中をしていない状況ではまるでそれを感じ取れるわけではない。
それでも、さっき感じた場所がどの辺りかは察しがついた。
(ここは……)
昼間、グールと戦った場所だ。
思わず響は足を止めた。
「お兄さん、面白い生命を持っているんだね」
その声に響は振り返った。
気づかぬ間に一人の男が背後に立っている。ヨレヨレのグレーのジャケットを着たボサボサ頭の丸メガネをかけた男。若いのか、年をとっているのかよくわからない風貌をしている。
瞬間的に嫌な感じがした。
だが、その男はさっき感じた生命のものとは違うことがすぐにわかった。
「今、何て言ったんです?」
「面白い生命を持っていると言ったんだ。いや、君は生命そのものだ」
それは以前、伽音から言われた言葉と似ていた。
気味が悪かった。
ただの当てずっぽうで言っているようには感じない。
「あなたは何ですか?」
ぶしつけな質問だと思いながらも、訊かずにいられなかった。
「百木禄太郎。それが俺の名前だ」
奇妙な名前だ。とても本名だとは思えない。だが、それが意味のない名前とも感じられない。
嫌な感覚があった。妖気や邪気のような決定的な力のようなものではない。ただ、この男を前にしていると嫌な予感がしてくる。
強いて言うならばーー
(自然なままのむき出しの悪意)
悪意といっても、この男が悪人だというわけではない。
人というものは無意識のうちに誰でも善意で自分を包んでいるものだ。だが、この男はそれがない。本能の中にある悪意を全く隠そうとしていない。
「こんなところで、あなたは何をしているんですか?」
「おやぁ、取調べのつもりか?」
「ただの質問です」
「実験をしている」
意外にも禄太郎はすぐに答えた。
「こんなところで? こんな時間に?」
「そうだ。実験といえば研究室にでも籠もってやるものだと思っているのか? こんなところだからこそ、こんな時間だからこそ出来る実験だってある。要は心構え次第だ」
「あなたがやっている実験はどういうものですか?」
「それは教えられないな。でも、ちょっとだけなら教えてあげてもいい。人の生命、人の魂、それを化学によって分析し、化学の力で管理する。そのための実験だ」
「人の生命を化学で?」
「なんだ? いったいそれがどんなことかわかっていないって感じだな。じゃあ、こういえばわかりやすいかもしれないな。たとえば化学の力でグールを作るとか」
「グール?」
ゾクリと寒気がした。まさかこの男が言っているのは、昼間のアレのことだろうか。「何のためにそんなことを?」
「何のため? 答えるまでもないだろう。化学というのはいつでも未来のためにあるものだ」
「未来のため?」
「かつて医者は医術を学ぶために死体を解剖して臓器がどうなっているのかを確認した。そういう過去があるからこそ今の医学がある。それと同じだ」
「それとこれとを一緒にするのはどうかと思いますが」
「なぜ? グールを作ることが出来るからこそ、グールを倒す方法だって知ることが出来る」
「そんなことをしなくてもグールは倒すことが出来ます」
「それはどういうものだ? たとえば妖かしの一族とか?」
やはりこの男は知っている。妖かしの一族のことを、そして、ひょっとしたら自分のことをも知っているのかもしれない。
今さら隠してみても意味はない。
「そう……ですね」
「妖かしの一族は確かに強い。だが、強いものが正しいとは限らない。強いものが全てを制御出来るとも限らない。どんなに強いものでも僅かな猜疑心、小さな妬みでその強さが無意味になることもある」
「何を言っているんですか?」
「これは化学ではない。ただの歴史の勉強だ」
「歴史?」
何を言っているのだ? 何を知っているのだ? いずれにせよ気味が悪い。この男の言葉を聞いていると、心を乱される気がする。
「キミは今、俺のことを胡散臭い奴だと思ったろ?」
「いえ……別に」
「いや、キミは思ったはずだ。なんだこの男は? こんな夜中になぜこんなところをほっつき歩いている? 何を気味の悪いことを言っている? でも、それを言うならキミも同じだ」
そう言って禄太郎は笑った。それは自然な笑いではなく、相手を弄ぶかのような、自分がいかにも上に立っているのを見せつけるようなものだ。
「ボクはーー」
「人を捜しているのか?」
「どうして、それを?」
「勘だよ。ただの勘」
「勘?」
「いや、嘘だ。こんな夜中にキョロキョロ周囲を見回しながら走っている奴が、誰かを捜していると考えてもおおよそは間違いないだろう?」
「……さあ」
気持ちが悪かった。禄太郎の言葉は簡単なインチキ占いのようなものだ。言い当てられて当たり前のことを言っている。だが、その裏側にもっと嫌なものが隠れているような気がしてくる。
「さ、お喋りはこのへんにしておこうか。キミは急いでいるようだから」
「そんなことはありませんよ」
考えていることを少しでも読まれないよう平静を装う。
「いや、急いでいるさ。キミは捜しているのだろ?」
「何を言っているんですか?」
恍けるというよりも、禄太郎とこれ以上話をしたくなかった。
この男は『魂を喰う者』についても知っているのかもしれない。だが、それについてこの男と話すのはどうしても嫌だった。
「そうかそうか。俺に言い当てられるのが嫌って感じか。しょうがない。じゃあ、邪魔者は姿を消すとしよう。また会おう」
禄太郎はそう言って背を向けた。