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目の前の光景に和泉伊織は唖然としてそれを見つめた。
長年生きてきたが、こんな化物を目にするのははじめてのことだ。それなのにそれがハッキリと危険な存在だとわかる。
肌は死んだ細胞かのように浅黒く、3メートル近い異形の姿。人の形はしているものの、それは既に元の姿が想像出来るようなものではなかった。
そこにいるのはまぎれもない化物だった。
それにも関わらず、不思議なほどに冷静な自分がいる。
これが本当に現実なのかと考える。そして、すぐにこれが夢でないことを理解する。
自分の人生を振り返ったとき、それは一つの特別なことを除いては、さほど特徴もない人生だった。毎日を淡々と生き続けている。それだけの日々だった。
その自分が今、化物と対峙している。
伊織は、目の前にいる化物を前にしてそんなことをぼんやりと考えていた。
(逃げるべきだよな)
こんな化物と戦おうとすることは間違っている。過去の経験がそう判断している。そして、そのくらいの冷静さは今の自分にも備わっている。これは無理で、無茶で、無意味でしかない。
それなのにきっと自分の頭の中に逃げるという選択肢がない。
背後に人の気配がする。
今は化物と対峙していてとても振り返ることは出来ないが、さっき目にしたあれはこの近くにある陸奥中里高校の制服だった。
自分が逃げることが出来たとすれば、きっとこの化物は背後の女子高生を狙うことになるだろう。
(このまま逃げるっていうのもかっこ悪いか)
生命の危険という場面で何を考えているのだろうと、伊織はふと可笑しくなった。そんなことを考えていることすら、バカバカしい状況なのに。
戦う手段は木刀一本のみ。長い旅行の中、たまたま先日手に入れたばかりのものだ。この木刀一本で目の前の化物に勝てるのかといえばそれはありえないだろう。これがたとえ真剣であったとしても、この化物に勝つのは難しい。
それにも関わらず、逃げるのは違うような気がする。
考えていられるのもここまでだった。
目の前に化物が近づいてきた瞬間、伊織は木刀をふりはらった。いや、その剣はすぐに止められた。
(……硬い)
まとも当たったにも関わらず、化物のほうはまるで反応がない。
そして、ゆっくりとしたモーションから、化物の腕が伊織の身体を貫く。それは痛みなどという言葉で表現出来るものではなかった。一瞬の激痛、そして、痛覚はすぐに消えた。
全身から力が消えていく。
もう指先一ミリ動かすことも出来ない。
(ああ、結局、無駄だったか)
消えゆく意識の中でそう思う。
「そうでもないよ」
その声が微かに聞こえた気がした。