ダイン、婚約披露をする
舞台の上で、役者たちが一礼する。
一際高い拍手を贈る。ちらり、と彼女から流し目を送られた。
それだけで、気分が高揚する。
あれは、自分と今夜は一緒に過ごすという合図に違いない。毎日料理人に最高の晩餐を用意させていたのが、ようやく報われる。勿論、当たり年のワインも準備させていた。
その後のことにまで想像を巡らせながら、青年はロビーに出ると慣れた風に楽屋へ通じる扉を開けた。
もう片方の手には、彼女にふさわしい真紅の薔薇の花束が握られている。
さほど広くもない廊下には、劇団員たちがあふれていた。
その中心にいるのは、ユリアーナと彼女に寄り添うように立つ、一人の男だ。
いつもなら、すぐに各自の控室に入っているのに、と不審に思う。
「おや、フーベルト様」
劇団長がこちらを認めて呼びかけてくる。
「本日もご来場いただき、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げられる。
このところ、裏方の男に対応させるばかりで顔も見せなかったのだが。ユリアーナがこちらに心を向けたことで、態度を改めたか。
「今日も素晴らしい出来だった」
鷹揚に頷いてみせる。更に礼を述べようとした団長の言葉を遮った。
「ユリアーナ。これから晩餐でも一緒にどうかな?」
薔薇の花束を差し出しながら、誘う。
にっこりと、焦がれた笑みを浮かべて、女優は唇を開いた。
「今夜は、婚約者をもてなさなくてはなりませんの。お誘いは嬉しく思いますわ」
「……は?」
「実家の親が、婚約者を決めたもので。今日は初顔合わせです」
「こ、婚約者?」
「ええ。折角遠路はるばる来てくれましたのに、放り出す訳にもいきませんでしょう?」
「いや、ではユリアーナ、演劇はやめてしまうのか!?」
顔色を変えたフーベルトが、叫ぶように問いただす。
「いえ、まだしばらくは続けてもいいと言ってくださってますから」
傍らに立つ男の腕に手を添え、軽く見上げた形で、ねぇ? と声をかける。
「あ、はい。舞台の上のユリアーナさんは素晴らしいですから」
「あら、舞台の上だけ?」
悪戯っぽく笑んで、言葉尻を捉えた。若い婚約者の言動に慌てる男は、見るからにただの田舎者だ。
「さあさあフーベルト様。外は暗いですからな、気をつけてお帰りくださいませ」
団長が声を上げ、裏方の男が扉を開ける。
気づかぬうちに、フーベルトはふらふらと陽の落ちた街路を歩いていたのだった。
「婚約者に!」
声を合わせて、男たちがジョッキを掲げる。
劇団全員、二十人を超える人数が、劇場近くの酒場に集まっていた。千秋楽などの打ち上げによく利用するため、今夜のような急な注文にも対応してくれたという。
その中心で、ダインは困ったような顔で酒杯を手にしていた。
今日の昼、突然に彼は『婚約者』に奉り上げられたのだ。
「ダインさん。私と、婚約してくださいませんか」
真摯な瞳でまっすぐに見つめながらユリアーナが申し込む。
「………………は?」
脈絡のなさに、気の抜けた声を上げてしまったのも、無理はないと思う。
「何の話ですか?」
しかし、こちらの飲みこみの悪さを咎める風もなく、役者の青年が口を開く。
「フーベルトに諦めて貰うためです。前々から考えていたんですよ。『親の決めた婚約者』がいれば、つきまといも止むのではないかと」
「私の実家は領外なので、街の代官が手を出すには遠すぎます」
ふむ、とデュランが腕を組む。
親の決めた婚約者というものは、法と習慣において、中々に拘束力が強い。婚約者同士が双方同意して、役所に訴え出てやっと婚約破棄が認められるほどだ。
まあ大抵の場合、そこまで強硬な手段に訴えなくては説得できない親はそういない。
婚約者のいる女性にしつこく声をかけるというのは、確かに外聞が悪い。よほど本気でなければ諦めるだろう。
「だけど、どうして俺が? そちらの人でもいいんじゃ」
「アルバンは無理ですね。恋人がいますから」
しかし、あっさりと拒否された。
「それに、同じ劇団の中だと、『別れる』タイミングが難しいじゃないですか。聞きつけたらまた狙ってくるかもしれない」
「お二人は旅行者ですよね? 短期間でラヅッカを離れる相手なら、後々うやむやにもできるかと……」
流石に申し訳なさそうに、濁す。
「だけど、年齢が違いすぎますよ。俺は三十を過ぎてますし、ユリアーナさんは」
「二十歳を超えていますから、地元じゃ嫁き遅れですね」
さらりと告げられる。
都市部ではこれぐらいの年齢の女性が独身というのも珍しくはなくなってきている。だが、地方ではまだまだ十代での結婚が主流だ。
「そんなことはないですよ」
「それに、十歳くらいの年の差なんて、逆に現実的じゃないですか。いつまでも結婚しない娘に業を煮やした親が、しっかりした年上の婚約者を充てがった。どうです?」
自信満々にアルバンが問いかける。ユリアーナは、おずおずとやや上目遣いで二人の様子を伺った。
今までずっと無言だったデュランが、口を開く。
「どうしてダインを選んだのですか?」
それは、自分が選ばれなくて悔しいといった雰囲気ではなく、単に好奇心からのものだったが。
役者たちは、一度顔を見合わせてからまた向き直った。
「だって、デュラン様はその、ご身分が……」
「そんな簡単に、偽の婚約者なんかになれるお方じゃないでしょう?」
当たり前のようにそう告げられて、デュランは憮然とし、ダインは吹き出しかけるのを堪えていた。
「いいでしょう、こいつを存分に使ってください」
しかしその直後に、半ば腹いせのように親友に売られたのだが。
「見たかい、どら息子のあの顔!」
劇団長が、大声で笑いながらダインの背中を叩く。
「今まで散々迷惑かけられたからな。いい気味だ」
他の男が、同調するように声を上げた。
よほど腹に据えかねていたらしい。上がる声は、代官の息子への怒りに満ちていた。
「でも、あの人も本当に演劇が好きなんですね」
ダインが取りなすように口を挟む。
先程顔を合わせた時に、何とか『婚約者』という言葉の意味を飲みこんだフーベルトが問いただしたのは、まず演劇についてだった。
その辺は一応認めてもいるのか、気炎が少し下がる。
「横暴なとこと、女漁りさえなきゃ、まあ、いい客になれるとは思うよ」
渋々、といった風に、劇団長が頷いた。
「さあさあ、誰に聞かれるか判らないのだから、そんなお話はおしまい! ダインさん、こちら食べられますか?」
仕切り直すように、ユリアーナが声を上げた。
見知らぬ料理に、首を傾げる。
「それは?」
小型の鉄鍋に、縦に長い穀物らしきものと、一口大の魚の切り身が焼かれて乗っていた。魚は白身で、皮が薄く赤みがかっている。
隣には、魚ではなく短い円筒形の何かが混ざっている鍋があった。円筒形のものは、長さは一センチ程度、直径はばらばらで二センチから一センチ。断面は白いが、円周部分は深みのある赤だ。
「この辺りの伝統料理です。米という穀物に、鯛と蛸を炊きこんでいるんですよ。ラヅッカには海は面してないですけど、ちょっと離れた港町から毎日獲れたての魚介類が運ばれてくるんです」
「蛸?」
初めて聞く名前に、首を傾げた。
周りの劇団員たちが、顔を見合わせる。
「海に棲む生き物ですよ。凄く美味しいから、どうぞどうぞ」
小皿に二種類の料理を取り分けられる。スプーンで、まずは白身魚の方を掬った。
舌の上で、ほろりと白身魚が崩れた。微かに海の匂いがする。ぱらりとした米に、魚の旨味が沁みこんでいた。
「美味いな」
蛸は奇妙な食べ物だった。くにくにとした弾力のある身は、しかし噛み切るのは容易だ。意外とあっさりとした後味だった。
その後もどんどん料理と酒を勧められ、ダインが宿に戻ってきたのは夜半を過ぎようという頃だった。
劇団の裏方仕事をしている、見るからに屈強な男が三人も送ってきてくれたのだ。
彼らは泊まっている部屋の前まで来て、中にデュランがいるのまで確認してから帰っていった。
「お大尽扱いだな」
「嫌味か」
上着を脱ぎ、シャツのボタンを二つほど外して、大きく息をつく。
今日のシャツの襟は糊が効いていて、少し苦しい。
「だが、妥当だ。……つけられていたようだぞ」
薄く笑みを浮かべるデュランを、眉を寄せてダインは見返した。
「楽しんでいるんだろう?」
「何を言うんだ。民の安寧のために、やるべきことをするだけだよ」
「楽しんでいるんだな?」
決めつけて、ダインはソファに乱暴に腰を下ろした。