デュラン、楽屋に挨拶へいく
〈黄金の猪〉劇場は、前夜に訪れた劇場よりも小規模だった。
ニ、三階にあった個室は設けられておらず、舞台前の席数もやや少ない。
舞台正面の壁は上半分が窓になっており、午後の日差しが入りこんでいた。
「多分、昼公演の照明の代わりだな」
窓を塞ぎ、昼夜通して照明を点けていれば、光鉱石の値段が馬鹿にならない。
舞台では照明も大切だと言うが、こういった小さな劇場では予算的にやむなし、ということもあるらしい。
やがて、舞台の袖に男が現れ、口上を述べる。
劇が、始まった。
舞台に幕が降り、観客がざわざわと帰り始める。
デュランとダインは劇場の奥へと足を運ぶことにした。
ホールの隅にある目立たない扉を開く。
その先には短い廊下とまた幾つかの扉があり。
「だから、ユリアーナに会わせろと言っているだろう!」
一帯に、怒声が響いていた。
そこにいたのは、見るからに金のかかった正装を着こんだ、若い男だった。片手に、大きな薔薇の花束を握っている。
こんな小さな劇場には、明らかに場違いだ。
きらびやかな金髪の下で、形の整えられた眉を吊り上げている。白い肌は、激しい怒りに紅潮していた。
「ですからフーベルト様、ユリアーナは誰ともお会いできないと……」
「おれを誰だと思ってる!」
職員らしき男が一人で応対していたが、明らかに腰が引けている。
「お取りこみ中すまんが」
鷹揚に、デュランが声をかけた。
揉めていた二人の視線が横手へ向かう。
「何だ、お前らは」
機嫌悪そうに問いかけられる。
「いや、ヒルデブラント役の役者さんにご挨拶を、と思ってね」
やんわりと、職員でもない男に返した。
「あ、彼ならそちらのドアです」
あっさりと、職員も答えてきた。
眉間に皺を寄せて、派手な金髪の男は睨みつけてきたが、やがて大きく鼻を鳴らした。
「ふん。男役者なんぞに会う奴の気が知れんな」
「昨日、宣伝に行きあったんだ。顔見知りを褒め称えるのは当たり前だろう?」
デュランの言葉に、更に視線が険悪になる。
「それから、もう少しお静かに頼むよ。歓迎される客は怒鳴り散らさないもんだ」
扉に手をかけながら、蜂蜜色の髪の男が追い打ちをかける。
大きく舌打ちして、招かれざる客は踵を返した。
「また夜公演に来るからな! その時は会えるようにしておけ!」
狭い通路を通り過ぎざま、男がダインを押し退けるようにぶつかってくる。尤も、体格がよく、体幹もしっかりしているダインがよろめくことなどなかったのだが。
ぶつぶつと悪態をつく後ろ姿がロビーへ続く扉の向こうへ消えるのを確認してから、デュランは目の前の扉を叩いた。
「ようこそ。観てくださって嬉しいです」
前日に顔を合わせた青年は、にこやかではあるが、やや疲れたように見えた。
「観させて頂きました。面白かったですよ。まさか、あの『アスコットタイの騎士』を喜劇にしてしまうとは」
「ありがとう。うちの脚本家の渾身の一作ですよ」
嬉しそうに役者は笑う。
自己紹介の後、簡素な椅子を勧められて、数分ほど先程まで観ていた演劇について会話をする。
演劇論など全く判らないダインは、周囲をゆっくり眺めていた。
控室には雑多に物が置いてあった。衣装や化粧道具、花、そしてダインなどには想像もできない何かが。
隣の部屋との境の壁には、一面にカーテンが掛かっている。ちらりと開いている中には、けばけばしい色の服が見えた。
「ところで、困ったファンがついているようですね」
デュランが、さらりと立ち入ったことに話題を変える。
僅かに男優は眉を下げた。
礼儀的に言えば、出会ったばかりの相手に訊くことではない。だが、色々な揉め事の事例やその対処方法は、この先彼らの領地でも役立つかもしれないのだ。
ダインもその辺りは判っているので、黙って会話を聞いている。
「困った、と言いますか……。ファンになってくださるのは嬉しいものです。それに、ちょっと強引な方の対処は我々も心得ています。ラヅッカは、歌劇の街です。この手のことは慣れっこですし、度が過ぎれば衛士が動くこともありますよ」
「ほぅ」
公的機関も動く、と聞いて、デュランは興味を引かれたように目を見開いた。
「ですが、今回ばかりは相手が悪くて」
青年は溜息をついて愚痴を零した。
聞けば、先ほど廊下で騒いでいた男は、この街の代官の息子だという。
「しかも、その代官は領主の従兄弟だかまた従兄弟だとからしくて」
「微妙な親戚関係だな」
権力を笠に着るには、少しばかり遠い気もする。
「それでも、この街ではやりたい放題です。物凄い悪事を働く訳ではないのですが」
「何をしてくるのですか?」
歯切れが悪い男の言葉に、ダインが促した。
「パトロンになりたがるのです」
パトロン。
芸術家の後ろ盾となり、金銭的、人脈的な便宜を図る者である。
説明を受けて、ダインが首を傾げる。
「いいことなのではないですか?」
彼らの懐事情などは知らないが、支援はあればあるだけ有り難いだろう。
決して裕福ではない小作農家に生まれた彼はそう思うのだが。
「いいことばかりではないのです。彼は、女優のみのパトロンになりたがる。なのに、劇団の運営に口を挟んでくるのです。配役は、役者のイメージ通りである時や、反対にそれをがらりと裏切ってくる時もある。ですが、それらを無視して、ただ主役にするように、と強要してきます。
それに、女優を引き抜いて、他の大きな劇団へ移らせたこともあります。しかし、彼の人を見る目は、悪いとは言いませんが、どちらかと言えば好みの女性を贔屓するようで、必ずしも実力がある者ばかりではない。公演が失敗することもありました。
そして、飽きっぽい。女優を手に入れてしばらくすると放り出し、新しい相手を探す。女優本人も周りも、酷い迷惑ですよ」
ほとほと困ったように、役者は首を振る。
「それは大変だ」
同情して、農夫は励ますように男の肩を叩いた。
ふ、と、相手は来客をまじまじと見る。
「……お二人は、この街の人ではないですよね」
住人なら、代官の息子であるフーベルトのことも、昨夜すっかり騙された宣伝方法のことも知っている筈である。
頷く二人の前で、失礼、と立ち上がった。
そして足をカーテンで覆われた壁へと向ける。カーテンを引きあけた向こう側は、ちらりと見えていたように衣服が十数枚は吊られていた。
それだけの量の服を一度に見たことがなくて、目を惹きつけられる。
青年は、その間に手を延ばし、奥の壁を軽く叩いたようだった。
数秒後、木が軋む音がしたかと思うと、その奥から人が進み出てくる。
薔薇色のドレスを着た女性は、頭の上からヴェールを被っていた。
「ごきげんよう、ユリアーナ。今日の舞台は素晴らしかったですよ」
滑らかに立ち上がり、デュランが一礼する。
ヴェールを脱いだ女性は、愛らしく微笑んだ。
「別に、正体を隠そうとか思った訳ではないんです。ただ、衣装の間を通ってくると、服に白粉がついてしまうものだから」
ヴェールの理由を話して、彼女はころころと笑う。
ちょっと穿ちすぎたか、と、デュランも笑みを返しながら思った。
控え室には、万が一の場合に備えて、隠し扉などが作られているらしい。
一体どんな場合なのか、ダインには想像もつかないが。
「それで、ユリアーナ。この間話していたこと、この人たちに協力して貰えたら、と思って」
ヒルデブラント役の青年が話を切り出す。
きょとんとして、デュランとダインは顔を見合わせた。
「ええと……。我々は、あと二日程度しかここに滞在しないんだが」
「充分です。というか、短いほどいい。あのフーベルトを諦めさせるために、力を貸してはくれませんか」
熱っぽく、青年が身を乗り出す。
「俺たちになにができるとも思えないんですが」
慎重に、ダインが返した。
まっすぐにそれを見返して、ユリアーナが紅を引いた唇を開く。
「ダインさん。私と、婚約してくださいませんか」
「………………は?」