ダイン、痴話喧嘩を止める
ダインは酷く困惑していた。
「今回一緒に来るのは、俺じゃない方がよかったんじゃないのか?」
そう告げられたデュランは、呆れ顔で連れを見返す。
「ここまで来ておいて今更何を」
「だって、どうせならクラウ女史とか、そうでなくてもガラックさんなら慣れてるだろ」
「そりゃ、あいつらは何度か観たことあるだろうけど」
「だろ?」
返答に、縋るような声を上げる。
だが、デュランは続いて大きく笑みを浮かべた。
「だからこそ、初めてのお前に観せたいんだよ」
そう言われると、もう二の句が告げられなくて、ダインは長く溜め息をついて誂えたばかりの正装の膝を折った。
「そう気負うなよ。お前は観る方であって、演じる方じゃないんだから」
「当たり前だ」
夜毎に恋の花が咲き、心を痛め、笑い、泣き、憤り、そしてその全てが虚構。
歌劇の街、ラヅッカに、二人はやってきていた。
夕暮れの街路には、人が多い。
夜になってから始まる演目に向かう人々が溢れているのだ。
彼らは生地や仕立ての質は様々ではあるものの、殆どが正装といえる格好だ。それが慣例らしい。観光でやって来た者たちの為に、貸し衣装屋も繁盛しているようだ。
つまり、着こなしがぎこちない者もそこそこいて、ダインが悪目立ちするということもない。
今夜への期待に、人々の顔は一様に明るい。
それにつられたか、ダインも心なしかそわそわしてきていた。
プレッシャーには弱いが、元々好奇心は旺盛な男なのだ。
物珍しげに周囲を見回して歩く。その隣を、楽しげにデュランも進んでいった。
雑踏は色々な声を混ぜて流れていく。
「離してよ!」
その中を、ふいに一際高い声が、響いた。
ざわ、と、周囲の人々が視線を向ける。
「愛しているんだ、ヘンリエッタ!」
「昨日、同じ事を他の女に言っていたのに? もう沢山よ、離してったら!」
声を上げているのは、一組の男女だ。
女性は明るい金髪を結い上げ、華やかな薔薇色のドレスを纏っている。首元にレモンイエローのスカーフを巻いていた。眉を寄せ、手首を掴む相手を睨みつけている。
男の方と言えば、鮮やかな青の上下を着て、濃いブラウンの髪をしていた。こちらに背を向けているので、顔は伺えない。
その肩に、ぽん、と手が乗せられた。
振り向いた男は、まだ若い。ひどく整った顔立ちが、軽い驚きを浮かべて見返してきていた。アスコットタイは、女性と同じレモンイエローだ。
その女性の瞳に、驚愕と僅かな怯えを見て取って、ダインはやや曖昧な笑みを浮かべた。
「ほら、そんなに強く女の人の手を掴んじゃ駄目だろ」
柔らかく制止したのをどう取ったのか、彼はゆっくりと笑みを浮かべ、空いている方の手でダインの手首を握りこんだ。
そして、その腕を高々と上げて、叫んだのだ。
「はてさて、ヒルデブラントの恋の遍歴の行方は如何に!? 昼夜二公演、〈黄金の猪〉劇場で上演中!」
「……え?」
男の向こう側を見れば、同様に腕を持ち上げられている女性が、満面の笑みでもう一方の手を振っている。
周囲の人垣からは、いっせいに拍手と歓声と野次、口笛が飛んできた。
呆然としたまま視線を巡らせると、蜂蜜色の髪の連れは、その中に完全に馴染んでいる。
「ええー……」
力なく呟いて、ダインは眉尻を下げた。
「申し訳ない!」
とりあえず道の端に寄ると、ダインは勢いよく頭を下げた。
「え、いえ、あの顔を上げてください」
男の慌てた声が降ってくる。
ゆっくりと視線を上げて、相手の表情を伺う。困ったような男女の顔からは、怒りや苛立ちといったものは感じられない。
「だけど、ええと、先刻のは本当の喧嘩じゃなかったんでしょう?」
ダインは実際は察しが悪い方ではない。
予想した通り、派手な上着の男は頷く。
「はい。ラヅッカでは、街頭で公演の宣伝をすることが認められています」
「この、黄色のスカーフやタイをつけているのが、宣伝の役者のしるしになっているんです」
指先を柔らかくスカーフに当てて、説明される。
確かに、衣装に似合わない目立つ色ではあった。
「申し訳ない……。それを台無しにしてしまって」
肩を落として、もう一度頭を下げる。
「やめてくださいって。我々、役者の間では、貴方のように通行人に割りこんで貰えたら一人前、と言われているんですよ」
「え?」
「演技ではなくて、本当のことだと思われた、という意味で。公演の成功を約束された、とも言われます。幸運の象徴ですね」
ふわりと微笑む女性は、最初に視線を合わせた時の怯えなど微塵も見せない。
「まあ、縁起物みたいなもんさ」
ゆっくりと近づいてきたデュランが口を挟んできた。
じろり、と彼を睨めつける。
「あんた、このこと知ってたんだろ」
「ああ」
「何で止めてくれなかったんだよ!」
言っても無駄だと思いつつ、非難する。
「そりゃ、ダイン。お前の初めての経験を無下に潰すなんてできないだろ」
心底から、邪気のないような顔で断言されて、ダインは今までで一番深く俯いた。
「何かの縁だ。明日の昼なら空いているから、観せてもらいに行くよ」
「ありがとうございます!」
背後で、彼を放ったまま何やら盛り上がっていたが。
劇場内部は、非常に煌びやかだった。
今までの道程でかなり機嫌を悪くしていたダインではあるが、流石にここに至っては目を瞠って周囲を見回している。
舞台の幅は、十メートルほど。ずっしりとした緞帳が垂れ下がり、奥行きまでは判らない。
その舞台の正面に、椅子が並べられていた。幅は七メートルほど、間に通路が幾つか作られている。列は五列ほどだった。
そして、天井が高い。三階分の吹き抜けになっている。
何故階数が判るかと言えば、二階、三階と壁に個室が設えてあるからだ。
「ちょっと意外だな」
呟きに、前を歩くデュランが軽く視線を寄越してきた。
「あんたなら、あっちを選びそうだったからさ」
ひょい、と顔を上げて、個室を見上げた。そこに陣取っているのは、遠目に見ても着飾った紳士淑女たちだ。
吹き抜けの天井から下げられたシャンデリアに照らされて、上品に笑いさざめいている。
おそらく席の値段も、この舞台前とは全く違うのだろう。
だが、デュランは僅かに嫌そうに視線を逸らせた。
「あんなところに座ったら、お忍びでも何でもなくなるだろう」
「いや、そもそもあんたがここにいるなんて誰も思わないだろ……」
地味にお忍びであることにこだわる男だった。
彼はさっさと椅子に座ると、促すように隣の席の座面を軽く叩いた。
そして、入場する時に売店で買った紙袋を開く。何かを摘みだして口に放りこんだ。次いで、こちらに袋を向けてくる。
「何だい、それ」
覗いてみると、茶色い直方体がごろごろと入っていた。一つを取り出してみる。
「木の実飴だよ。砂糖を煮溶かして、木の実を混ぜてるんだ。音を立てないから、観劇中でも食べられる」
へぇ、と呟いて、口に入れた。ねっとりとした飴の甘さと、木の実の香ばしさがあふれてくる。
しばらく雑談をしていると、ゆっくりとシャンデリアが暗くなってきた。
ざわざわとした周囲の声が静まり、皆が期待を高まらせ、舞台を見つめている。
知らず、ダインの口角も僅かに上がっていた。
すっかりと暗くなった夜道を歩く。
そこここにある酒場はまだ営業中で、松明に照らされた人々の姿は未だ多い。
この街は、深夜になるまでは眠らないのだ。
やけに静かに、ダインは歩いていた。雰囲気を察してか、デュランも口数が少ない。
一際騒がしい若者たちの横を通り過ぎる。彼らは、今夜観てきたのだろう演劇の内容について、喧嘩腰に近い勢いで論議していた。
「……すごいなぁ」
ぽつりと、ダインがこぼした。
「ん?」
軽く、デュランが返す。
「芝居っていうのはさ、作り事のお話だっていうじゃないか」
「そうだな」
「なのに、こんなに人を動かす力があるんだな。沢山の劇場があって、沢山の話が演じられて、それをもっと沢山の人たちが観に来て。それだけじゃなくて、あんなに熱く話しあえるだけ、心が動くんだ。……俺だって」
夜空を見上げ、男は長く息をはいた。
今夜二人が観てきたのは、この国の古典的な演目だ。それだけに出来は安定していて、判りやすい。
それでも、初めて観劇するダインには、衝撃が強かったのだろう。
「……一杯飲んでいこうか?」
とん、と広い背中に触れて、デュランは手近な酒場へと足を向けた。