ダイン、迷子になる
「はー……」
夕方、再び街まで送ってもらい、街路に二人だけになる。
荷馬車に乗ったせいで再び固まった身体をほぐしていたデュランが、にやりと笑んだ。
「楽しかったか?」
「……うん。そうだな」
領主が変わる前は、ダインたち領民は移動を制限されていた。商人などは許可制で国内を移動できたものの、農夫や猟師、職人などは隣の村に行くのが精々だったものだ。
勝手な移住を防ぐためだったようだが、庶民の旅行など以ての外で、見知らぬ人間がいれば監視、通報、取り調べなどが普通だったのだ。
だが、今は違う。
「楽しかったよ」
ダインは屈託なく笑って、言った。
今は夕方で、市場で野菜や肉、魚といった生鮮食品を売っていた店は閉まっている。だが、加工品などの店はあるし、二人は土産を物色しがてらその辺を見物しよう、と決めた。
木の実を蜂蜜に漬けた壜などを感心してみていると。
「……デュラン?」
彼らはうっかりはぐれてしまっていたのだ。
さて、困った。
この時間でも人混みはかなりのもので、ここで待っていても会えるとは思えない。
そもそも、どの時点まで彼と一緒にいたのかも定かではない。
二人とも大人なのだし、それぞれ宿に帰っていればいいのだろうが。
「どこだっけ……」
昨日街に入った門と、今日戻ってきた門は別だったため、宿に続く道が判らないのだ。
そして、ダイン個人は金銭の手持ちもない。
何も買わないのに、店の主人に道だけ聞くのもはばかられる。
おろおろと人に流されていた彼は、やがて見覚えのある四阿と、そこに入る見知った人影を目にした。
「あ。ライ」
彼は魚を宿に納品していると言っていた。宿泊している宿の名前は覚えているし、訊けば場所を教えてくれるだろう。
小走りで、四阿に近づく。
思えば、不審な点はあった。
昨日入ったものとは違い、少々こじんまりとした四阿の四方に、ぐるりと板が張ってあることとか。
だが、壁の上部、屋根の近くの辺りには板がなく、中から蒸気が漏れている。
間違いなく足湯のある四阿だと思い、出入り口らしき壁の切れ目に身をくぐらせた。
薄暗い四阿の中には、確かに足湯が設えられていた。
そして、幾人もの女性がスカートを捲り上げ、素足を湯につけている。
一瞬の後、広場に高い悲鳴が響き渡った。
「きゃー! きゃー! きゃー! いやー!」
「え? あ、や、すみませんすみません! すみ」
最も入口近くにいた女性が、悲鳴を上げながらばしばしとダインの肩や背を叩いてくる。
一瞬何か起きたのか呆然としていた彼も、慌てて身体を翻そうとする。だが、数人の女性が加勢にやってきて、むしろその場から動けなくなってしまった。
きゃーきゃーという悲鳴は、次々に四阿の奥へと伝播する。
両手で頭を庇い、下手に逃げ出すこともできずにいるダインの耳に、微かに声が聞こえてきた。
「待って、ちょっと待っておちついて!」
女性たちの背後から腕が伸び、一人ずつ引き剥がしていく。
人垣の間から顔を覗かせて、その子供は目を瞠った。
「ダイン様……!?」
「よかった、ライ」
零れた言葉と共に力が抜けたか、ダインは石の床の上にへたりこんだ。
「ええと……つまり、道がわからなくなって、私を見かけたから追いかけてきた、と」
「はい」
数分後、四阿の外で、数人の女性たちとライに囲まれた格好で、ダインは石畳の上に座らされていた。
不審そうな視線が周囲から向けられるが、広いスカートの影になって、逆にその姿は隠されている。
「ここは、女性専用の足湯なんです。男性は入ってきてはいけないんですよ」
諭すようにライに告げられて、薄々察してはいたものの、ダインは更に青くなった。
「本当に申し訳ない! 全く知らなくて……」
怒り狂った女性達を落ち着かせようと、ダインの身元はライによって明かされている。他領主から直々の命令を受けた視察官の一人だと。
彼らの権限は、最低でも地方官吏相当となる。庶民の女性たちでは、事を荒立てても利はない。
他領の人間ならば、足湯の男女分けを知らないということも嘘ではないだろう。
実際、それは真実ではあるが、しかし彼女たちの慎みを侵害したことには変わりない。
状況を察したダインがひたすら謝罪に徹していたこともあって、渋々ながら今回は水に流そう、という空気になっていた。
「……それにしても、ライはどうしてここに?」
「え?」
何とか立ち上がるのを許されてから、疑問に思っていたことを尋ねる。
きょとんと返してきたライの周囲で、呆れ顔の女性が口を開いた。
「ほら、だからいつも言ってるでしょ、ライラ! 仕事で動きやすいからって、いつまでも男の子みたいな格好しているんじゃないって」
「…………え?」
ぽかんとした顔で、ダインは困ったように笑うライを見下ろしていた。
この一部始終を宿で合流したデュランに話すと、彼は無遠慮にも腹を抱えて笑い転げたのだった。
翌朝、にこやかな男と渋面の男が、囲壁の門を出る。
「そろそろ機嫌を直せよ」
「ああ、いや別に……」
流石に少しばかりばつが悪そうに、ダインは呟いた。
「帰ったら、しばらく仕事漬けになっちまうからな」
それまでは楽しんでいたい、とデュランは続ける。
確かに、好きに動けるのはあと数日だ。
気分を切り替えたダインに、連れの男は視線を向けてくる。
「そういえば、また森まで行くのか?」
「待ち合わせをあそこに決めたのはあんただろう。身を隠す場所も他にないし」
「そうなんだがなぁ……」
森の中までかかる時間と、土産の分だけ増えた荷物の重さを考えて、今度はデュランが顔を曇らせた。
ツサークを出て行った二人連れが、途中で横道に逸れて森の中に入りこみ、そして数十分後にその森の奥から一頭のドラゴンが飛び立ったこと、その全てを関連づけた人間は、一人としていなかった。