デュラン、視察を開始する
がたがたと、荷馬車は道を行く。
昨日街に入ったのとは逆方向の門から出て、街道をしばらく進んだ。やがて、横道へと入っていく。
道も石畳から踏み締められた土に変わった。時折轍を乗り越えて、がたん、と揺れる。
街道の両脇は森の木々も伐採されているが、この道はそうでもない。時折枝が幌を掠めて音を立てていく。
「見えてきましたよ」
三人並んだ御者台の真ん中から、少年が指を差す。
木立のアーチの向こう側に、木製の柵と門が覗いていた。
門には、看板がかかっている。
『ブラオフロッセ養鱒場』
「っあー……疲れた……」
御者台から降りて、デュランが呻きながら腰を伸ばす。
荷車の振動が、常時下半身に響いていたのだ。枠に横板を固定しただけの御者台に乗って移動など、彼は初めてだろう。
「すみません、やっぱり馬車で来て頂いた方がよかったのでは」
少年が気遣うように声をかけてくる。
「街の外までなかなか馬車は出てくれないからね。気にしなくていいよ」
ダインが代わりに答える。連れは恨みがましそうにそれを見ていたが、しかし最初に荷馬車に乗りたい、と言ったのは当人だ。
ダインの方は乗り慣れている。今更、どうということもない。
「いらっしゃいませ」
背後から声をかけられる。
そこには、四十代と思われる男が一人、立っていた。
「湧水の水温は十度ほどです。それをこちらの導水路で引いてきて、温泉と混ぜ合わせ、水槽に入れる時には二十度ほどになるように調整します」
「なるほど。温度が低すぎると育たないのか?」
「死んでしまうか、育っても小さくなってしまいます。あちらが浄水設備で……」
この養鱒場の主人で、案内してくれた少年の父親だと名乗った男が、説明しながら歩いていく。傍らについていくデュランは、興味深げに色々と質問していた。
しかし少しばかり飽きてしまったダインは、周囲を見回してみる。
森の中を切り拓いて作られた土地には、五メートル四方ほどの水槽が幾つも作られていた。
灰色の水槽は石を積み、モルタルで隙間を埋めて作られている。縁の高さは大人の腰ほどだ。
石段を見つけて上がってみた。
外から見たよりも、水深は深い。地面を掘ってもいるのだろう。
澄んだ水の中には、体長三十センチほどの魚がうようよと泳いでいた。一度にこれほどの数の魚を見たことがなくて、ちょっと怯む。
「どうですか、ダイン様?」
横から声をかけられた。
「ライ」
ここまで迎えにきてくれた少年だ。危なげなく、水槽の縁を歩いてくる。小柄で華奢な印象通り、身軽なのだろう。
「沢山いるもんだね。それに大きい。俺が住んでたのは山の麓の土地だったけど、近くの川には小さな魚しかいなかったよ」
珍しげに覗きこむ男を、微笑ましそうにライは見た。
「ここにいるのは鱒です。もうすぐ出荷できるぐらいですね」
「鱒かぁ。昨日、宿で食べたのも鱒だって言ってたから、ここのかな」
「多分そうですね。魚屋とか宿屋とかに納品してますから。どんな料理でした?」
「なんか、小麦粉をつけて焼いた感じの」
ダインはあまり気取った料理は作らない。大雑把な説明に、笑いながらライは頷いた。
「じゃあ、お昼は違う料理にしましょう。あっちに、他の魚もいますよ」
ぐるりと施設を一周してきたデュランと養鱒場主は、大騒ぎしている旅の連れと子供に目を丸くした。
「何やってんだ?」
「あ、おかえりデュラン。凄いぞ、入れ食い」
釣り竿を手に、笑顔のままダインは返す。
「ああ、南方鯛の水槽ですね。本当はこの辺りの魚ではないのですが、うちは水温を高くできるので育てているのですよ」
父親が説明する。
どれ、と覗いてみた。鱒よりも薄いので、上から見ると細身に見える。
ダインが釣り針を水槽に投げる。ぽちゃん、と落ちた一瞬の後に、その周囲の水面にばしゃばしゃと幾つもの水飛沫が上がった。
「おおー……」
目を見張るデュランの前に、すぐさまびちびちと跳ねる魚が吊り下げられる。
「視察官様もやってみますか?」
「いいのか?」
ライの言葉に、目を輝かせる。ダインが笑いながら釣り竿を手渡した。
「面白かったな」
「南方鯛だから、ここまで釣りやすいらしいんだってさ」
鱒ではあれほど食いつきがよくないようだ。
十数人程度が入れる食堂に、男たちはいた。釣った魚をここで調理し、食べることができるという。
「人は結構来るのか?」
「休日などに、子供連れや男性たちが釣りに来ますよ」
今日は二人の貸し切り状態だが。気を効かせてくれた可能性もある。
「特産品として街に卸して、娯楽として釣り場を提供する、か……。考えられているな」
腕組みをしたデュランに、男は嬉しそうに笑んで礼を述べる。
「お待たせしました!」
厨房から、ライが大皿を手にやってくる。
「まずはこちら! 鱒のカルパッチョです!」
どん、とテーブルの上に置かれた白い皿の上には、薄くそぎ切りにした鱒の艷やかな切身が並べられている。薄切りにした玉葱がその下に敷かれてあり、香草が散らされ、オリーブオイルがかけられていた。
「な……生……?」
その鮮やかな赤身に、思わずダインの腰が引ける。
「はい!」
自信満々なライの笑顔が眩しい。
「酢を使ってたりは」
「しません!」
「おぅ……」
断れる空気じゃない。
冷や汗が滲むダインに、笑みを含んだ声がかけられた。
「魚は生で食べると腹を壊す。下手をすると死ぬ。……そう思われてないですか?」
訳知り顔で告げる男に、黙って頷く。
「ですが、我がブラオフロッセ養鱒場では、徹底して水を浄化管理しており、そのような危険は全くございません。尤も、鮮度のこともございますから、ここでしかお召し上がり頂けない、幻のメニューなのですが」
自信満々にそう言い切られる。
しかし、子供の頃から言い聞かせられていた禁忌を犯すだけの説得力はない。
どう断ろうか、と、口を引き結んだ時に。
「ふーん」
ひょいぱく、と、横あいからフォークが鱒の切身を一枚掬い取り、無造作に口に入れた。
「ッ、デュラン!?」
全く何のためらいもなく、連れは生魚を咀嚼している。
「おお、美味いな!」
「流石視察官様、お判りいただけますか!」
率直な感想に、無邪気に養鱒場主も喜んでいる。
「無茶するなよ、あんた!」
顔色を失って、ダインが肩を掴む。呆れ顔で見返してくるのに、慣れてはきたが。
「無茶じゃない。領主直々の視察官である俺たちに何かあったらどうなるか、彼らはよく知ってるさ」
行儀悪く、フォークの先で親子を示す。
「も、勿論ですとも。さ、お連れ様もどうぞ」
後ろ暗いところがなくても目の前で言われては動転するのか、うろたえた風に勧めてきた。
もう抵抗する気も失せて、ダインもカルパッチョを口にする。
瞬間、目を見開いた。
よく冷えた鱒のねっとりとした旨味が舌にまとわりつき、玉葱の僅かな辛味が刺激となる。
「うま……」
思わず呟くと、皆が笑顔を向けてきた。
二人で皿を空にする頃に、一度厨房に引っこんだライが再びやってくる。
「さあ、南方鯛の姿揚げですよ!」
ダインが釣った南方鯛が乗った大皿が、どん、と置かれる。鰭の先端などが、かりかりに揚がっているのが見て取れた。周囲に散らされた、一口大に切られた色とりどりの野菜も揚げてあるのだろう、一段と鮮やかだ。すこしつんとした香りのするソースがかけられている。
「おお、こりゃまた美味そうだ」
「沢山食べてくださいね! パンも焼きたてですから!」
満面の笑みで、ライは二人に取り分け始めた。
注釈:「南方鯛」は造語です。