ダイン、温泉を満喫する
夕食は非常に美味だった。
ダインはテーブルマナーには自信がなかったが、給仕についた女性は、それを非難する素振りなど一度も見せなかった。
むしろ、赤身の魚のムニエルは一口サイズで作られ、骨付き肉の煮込みは丁寧に骨が外されてさえいた。
デュランの不快を取りなした男に、感謝と敬意を表しているのだろう。
当のダインは全く気づかないまま、少し緊張した面持ちで立ち向かっているが。
「さて、じゃあ、もう一度温泉に入るか」
メイン料理が終わったところで、デュランはさっさと席を立つ。
「もうか?」
先刻出てから一時間ほどしか経っていない。少しばかり驚いてダインが尋ねる。
「お世話を致しましょうか」
給仕をしてくれた召使いが静かに声を発し、ダインはそれにもまたぎょっとする。
「自分たちでできる。いい夕食だった。ありがとう」
軽く返すのに、深々と召使いは頭を下げた。
「あー……」
二度目となると、流石にダインも慣れてくる。ゆっくりと湯に身を沈めて、小さく呻き声を上げた。
デュランはざばざばと湯をかき分けて、真っ直ぐに壁へと向かっている。
まず出してきたのはワインのデキャンタとグラスだ。慣れた手つきで白ワインを注ぎ、一客をダインに渡す。
「旅の無事に」
「まだ着いたところだけどな」
苦笑して、グラスを小さく掲げた。
棚の中には冷鉱石が入っているのだろう。冷えたワインが喉を通り、また一段と身体が温まった気がする。
「これ、すぐのぼせるぞ」
「水も出しておくよ」
控えめにしておけ、と言いたかったのだが、デュランは別のグラスの準備をする。
「さて」
そして枡の木の蓋を取り、沈めてあった網を引き上げた。
「何だったんだ、それ?」
「まあちょっと待て」
ダインの問いかけに、意味ありげに笑いながらいなす。
棚の中から、蔓で編まれた籠を出す。目は粗めで、中に何か白いものが入ってるのが見えた。籠の底面は十五センチ角程度だが、深さが二十センチほどはある。それを、空いたばかりの枡へゆっくりと沈めた。再び枡に蓋をする。
次に、棚から今度は掌に乗るような大きさの碗を二つ手に取った。先に湯から上げた網の中から、そっと取り出したのは。
「……卵?」
碗の中に、かぱりと割り入れられたそれは、見慣れない姿をしていた。
白濁した白身がとろりと崩れ、オレンジ色の黄身が薄っすらと見えている。
「まだ茹で足りないんじゃないのか?」
「いいんだよ、これで。……ほら」
蜂蜜色の髪の男は、ぱらりと塩を一摘みかけ、スプーンを添えて渡してくる。
柔らかいが生ではない、不思議な固さの黄身を割り、口に含む。
「……え?」
茹で卵のようにぱさつくことなく、とろりとした食感の卵が舌に、歯に絡みつく。
その濃厚さは、飲みこむのが実に惜しい。
「美味いだろ?」
デュランは行儀悪く碗に口をつけ、つるりと一口で嚥下した。
「次な。オリーブオイルに塩と胡椒をほんの少し」
「うわそれ絶対美味い」
慌てて残り半分も食べてしまい、器を手渡した。
「温泉ぐらい、マナーとか人目とか気にしたくないからな」
鼻歌を歌いだしそうな機嫌の良さで、次の卵を割る。
「あ、ひょっとして先刻の人が言ってたの」
お世話、とは、ここの給仕のことだったのだろう。
「この程度のこともできない奴が多すぎる」
軽く憤慨したように、しかし少しばかり得意げに、デュランは返す。
どう考えても、彼はできない側の立場の人間なんだけどな、と次の卵を手渡されながらダインは思った。
「よし、そろそろかな」
デュランが、枡の中から籠を取り出す。ざばざばと籠の中から湯が溢れ落ちる。
それがおさまると、すぐに壁に作りつけの棚へと戻してしまった。
「どうかしたのか?」
「ちょっと熱いからな。しばらく冷やす」
その時はさほど気にもかけず、またワインを飲みつつ雑談を続けていた。
十数分ほどして、デュランが棚の扉を開けた。
籠の中から出てきたのは、白い蓋つきの碗だった。一つはダインに渡し、もう一つは自分の手に残す。
慎重に蓋を外すと、ふわりと甘い匂いが立ち上った。
「これは?」
「プリンってデザートだよ。卵を甘くして蒸したものだ」
スプーンを差しこむと、優しい薄黄色の表面がふるりと揺れた。
そっと口に含む。
柔らかな塊は、舌の上で溶けるように消えていく。
「うっわ……」
元々、農夫のダインは甘いものなど余り食べられない。自宅用にこっそり作った干し果物程度だった。
ここしばらくは待遇がよくなったこともあり、ジャムなどの砂糖を使った加工品も口にすることが増えたが、それでも菓子はまだ珍しいのだ。
「底まで掬ってみろよ」
楽しげに、デュランが教えてくる。
言う通りにすると、スプーンの縁に、じわりと黒い液体が染みた。それを絡めて食べると、また甘みが強い。
散々堪能して、ほう、と息をつく。
「……だけど、うちの領地に温泉はなかっただろ? 凄く美味しかったけど、参考にはならないんじゃないか?」
ふと、目的を思い出して問いかける。
彼らは、自分たちの領地を豊かにするための施策を探して旅に出たのだ。
垂れ目気味のダインは、不安そうな顔をすると、やたら頼りなさげに見えてしまう。
「大丈夫だ、抜かりない。明日はその為に動くから」
しかし胸を張って、デュランが請け合った。
「……今日は?」
「初日ぐらい、ちょっと楽しんだっていいだろ?」
全く邪気のない顔で、男はそう断言したのだった。
翌朝は少し早めに起床する。
ダインは仕事柄もっと早く起きているが、デュランは少々朝が弱い。
朝風呂に入ってやっと覚醒した彼らの前に、朝食が並べられた。
卵料理は、昨日温泉で食べたものと同じだった。だが、ハニーマスタードのソースがかけられていて、また感じが違う。
「チーズのソースとかでも美味そうだ」
「卵が合うものなら大体いけそうだよな」
柔らかな白パンで、皿に残った黄身を拭う。
広場は朝市で賑わっていた。
新鮮な野菜や魚、香辛料が山と積まれている。食品以外にも衣類や靴などの店が出ていた。
ダインはどうしても見たことのない野菜に目が行きがちだが。
「人を待たせてるからな。帰ってからか、明日の朝にまた来よう」
苦笑して、デュランが促した。
広場の端に、一台の馬車が停まっている。
荷物を運ぶ為のもので、荷台には分厚い幌が掛けられていた。
傍に、一人の少年が立っている。長めの黒髪を一つに束ね、動きやすそうなシャツとズボンを穿いていた。
近づいていく二人に気づいたのか、ぱっと顔を明るくさせた。
「デュラン様ですか?」