ツィーゲンノルト領 領主館
すっきりと晴れた日だった。
青く澄んだ空には、幾つかぽっかりと白い雲が浮かんでいる。
開け放した窓からは爽やかな風が吹きこみ、遠くで鳴く鳥の声を運んでくる。
そんな昼下がりに、デュランは大きく溜め息をついていた。
「何かご不満ですか、御前」
明らかに慇懃無礼な言葉が、傍らに立つ青年から発せられた。
「つまらないんだよ、ガラック。私の人生はこんなところで朽ち果ててしまうのかと」
大仰に手を振ると、嘆きの声を上げる。
「どうやら、ラヅッカでは随分とお楽しみになったようで何よりですね。戻ってきてから一体何日政務に就かれているとお思いですか?」
「領主になってからの私の人生は余生みたいなものだよ」
「領主の責務を果たしてから余生をお送りください」
デュランのぼやきをばっさりと切って、ガラックは手にした書類を執務机の上に置いた。
恨めしそうな目で、主は相手を見上げる。
物心つく前からデュランの側仕えであった彼は、主人よりも二歳ほど年長だ。
深緑色の頭髪は肩の下辺りまであり、首の後ろで一つに纏められている。瞳は明るい黄色で、いつもやや不機嫌そうに目を眇めている。
「ツサークへの視察は、まずまず使えそうです。領内に温泉は見つかっていませんが、山から清水が湧いている地は多い。魚の養殖場は産業としてやっていけるでしょう」
ガラックの評価に、デュランはしたり顔で鷹揚に頷く。
「ですが、ラヅッカはどうしたものでしょうか。今から劇場を建てたとしても、産業になるには数世代かかるでしょう。ましてや、学園など」
変わらぬ渋面でガラックはそう続ける。だが、デュランは余裕の態度を崩さない。
「そっちじゃない。うちの領は、この間までゲルプシュランツ国の領土だっただろう。ここと我が国との交流は少なかった。ゲルプシュランツでは民の移動は推奨されていなかったことを考えれば、猶更だ。つまり」
にやり、と金髪の領主は笑う。
「ここには、手つかずの鉱脈が眠っている」
「ラヅッカでも、新作の歌劇などはそうそう演じられてはいない。話題になっているものは大体翻案で、それも悪くはないが、観客としては物足りないのだ。新しい物語を見て、わくわくしたい。そして、ツィーゲンノルト領には、まだ誰も知らない物語の[種]が沢山あるのだよ」
整えられた指先が、ぐるりと地図の上に円を描く。
「民話や伝説、歴史に至るまで。ツィーゲンノルトに来れば、新たな歌劇を作り上げるためのインスピレーションには事欠かない。目端の利く者は、何名か、こちらに来るための口利きを頼んできた者もいた。もしも、彼らの書き上げた歌劇が人気を博した場合、わが領への観光需要が高まるだろう」
「……なるほど」
事実、あの悲恋物語の舞台になった宮殿を一目見たい、などという理由で旅に出る富裕層は少なくない。
庶民であっても、商売のついでに寄る、ということができる程度には、本土の民の腰は軽い。
「人材と、外貨がやってくる。それに、まあ将来的に街に一軒ぐらいは劇場を設けたい、とも思っている。同じ国になったのだ、お互い理解しあえるようになりたいじゃないか」
「同化政策ですね」
さらりと酷い評価を下して、しかし、側近はその案を却下しなかった。
誰の人生にも、楽しみが必要だ。……まあ、ある程度は。
すっきりと晴れた日だ。
ダインは、遠くから聞こえる叫び声に、ゆっくりと顔を上げた。
二年前の戦禍からは遠かった地でもあり、民の警戒心はさほど高くはない。
よほどの非日常でもなければ。
青く晴れ渡った空に、大きな黒いドラゴンがこちらへ向けて飛んできているのが見える、というような。
よっこいしょ、と小さく呟きながら立ち上がる。
ばさり、と翼で打ちつけられた風が、汗に濡れた紺色の髪を吹き抜けた。
「こんにちは、ハバリくん。今日は暇なの?」
ふわり、とその爪先が地面に触れる頃には、彼は小柄な少年の姿に変わっていた。
漆黒の短い髪は艶やかに日光を反射し、やや目つきの悪い瞳は同じく黒。
袖なしの上着と膝丈のズボンという露出の多い服からは、淡く黄色がかった四肢がしなやかに伸びている。
腰のベルトには、二本の刺突剣がたばさんであった。長さは三十センチほどと短く、細い三日月形の金属の鍔がついている。
「……暇じゃない。御前は今日は執務だから」
ちょっとむっとした顔で、ハバリが返す。
難しいお年頃だ。
「お前こそ暇なのか?」
「今日は雑草取りだね。大きな仕事はないよ」
ぐるり、と周囲を見回しながら答える。
ここは、領主館の保有する農園である。
領主館は、勿論食品類を商館から購入している。しかし、非常時のために、ある程度自給自足できるだけの農園や家畜を保有することは一般的な話だ。
また、このツィーゲンノルト領の領主館においては、この地で従来育てられてきた作物の他に、本国から持ち込まれたものも育てられている。この地での適性を調べるためだ。
農園に雇われているのは、この地域に住んでいた者と、本国から領主についてきた者とが半々だ。
ダインは地元民である。
小作農だった実家よりも畑の面積は広いが、その分人数もいる。もし失敗しても、一年の生活が無に帰す訳ではない。労働時間は以前よりも短く、交代で休みも取れる。空いた時間には、雇い人達も文字の読み書きや計算を教えて貰える。
そして、この男は月に数日、遠方への視察も任されているのだ。
小さな村の小作農の次男坊だった数年前に比べれば、段違いの待遇の良さだ。
たまに、こうして領主の護衛兼騎竜が散歩に来たりもするが。
当然ながら、農夫たちはダインの他には誰も彼に近づこうとはしない。
ハバリ自身は全く気にした風もない。きょろきょろと畑を見回して、雑草と作物の区別がつかないのか、首を傾げていたりする。
ダインは、まあ、流石に慣れた。ぶっきらぼうで不愛想だが、微妙に子供っぽいところのあるハバリを微笑みながら見守っている。
と、きゅぅ、と意外に可愛らしい音が鳴った。
「お腹が空いたのかい?」
「……最近、木の実が生っていない」
ふい、と視線を逸らせて、ハバリは呟いた。
そういえば、今の時期はちょうど果樹園に何もない。食い荒らすほどでなければ、ハバリはそこで果物を食べていいことになっているのだ。
「ちょっと待ってて」
ダインは畑の畔へと駆けていった。そこに置いておいた麻袋を手にして戻ってくる。
「はい。少ないけど、どうぞ」
掌に乗せて差し出したのは、干した杏だ。
不思議そうな目で、ハバリはそれを手にする。
「……小さい。固い」
「干してあるからね」
「水気がない。木の実は瑞々しいのが美味い」
「果物ね。気に入らないなら食べなくても……」
返して貰おうと差し出した手を避けて、ハバリは小さな干し杏にかじりついた。そのまま、きょとん、とした顔で止まる。
「どうかした?」
「……甘い」
「干してあるからね」
「悪くない。水気はないけど。もっとくれ」
「はいはい」
ダインは、自分で食べようとしていたものを、苦笑しながら少年の掌に乗せた。