ダイン、婚約破棄をする
フーベルトは上機嫌だった。
今夜には、ずっと手に入れたかった女優が自分のものになるのだ。
彼女を傍に置き、共に朝を迎えることができる。
そして、今後の彼女の演技に対する称賛は、それを見出した自分へも降り注ぐだろう。
華々しい未来を思い、ほくそ笑んでいるところで。
扉が、叩かれた。
この屋敷は、成人する頃に彼に与えられたものだ。それ以来、家族と共に住んだことはない。
まあ、両親はさほど離れていない区画にある別の屋敷に住んでいるのだが。
来客を告げられ、速やかに向かった応接室のソファには、壮年の男が一人と、何となく見覚えのあるような男がもう一人座っている。
「いかがなさいました、父上。こんな時間に」
父親とその連れは、立ち上がることなく部屋に入ってきたフーベルトを見つめていた。
訝しげに、客に視線を向ける。
そこそこの装いの男だ。しかし裕福な商人と言っていい程度であり、貴族の血を引く彼ら親子に対して、その態度は不遜過ぎるのではないか。
不快さに眉を寄せたところで。
「こちらこそ訊きたい。お前、何をした」
硬い声と表情で、そう父親は問うた。
心当たりがなくて、僅かに首を傾げる。
苦々しい顔の父親とは反対に、薄く笑みを浮かべた客がゆったりと口を開く。
「今夜、貴方の命令で私の連れが襲われたのですがね?」
むっとして、その男の姿を眺める。
明るい蜂蜜色の髪と、黄緑色の瞳。まあまあ上等な服に、装飾品は飾り気のない指輪のみ。
その悪戯っぽい表情に、ようやく記憶が蘇る。
「お前、〈黄金の猪〉で会った……」
劇場の楽屋前で顔を合わせた男。
そう、ユリアーナの婚約者だという男と一緒にいた男だ。
「おれの命令だなどと、一体何の話だ?」
彼が何を言いたいのかは判っているが、しらばっくれる。
内心では、へまをした部下たちへと罵声を浴びせていたが。
ふむ、と、男は小さく呟いた。
「今夜、私の連れが婚約者と食事をしに出かけたのだが、その途上でならず者に襲われてしまってな。運よく救けが入ったのでほぼ無傷で済んだ。その犯人たちを尋問したところ、貴公に雇われたと証言したのだ」
「そのような者たちの言うことなど、信用できるとでも?」
実際、身分の低い者はそれだけ言動に信頼性を欠くものだ。
貴族の血筋であり、代官の息子の自分が否定すれば、それが通る。
しかし、来客は更に言葉を続けた。
「貴公は彼の婚約者であるユリアーナ嬢に交際の申込みをしていたのだろう? 劇団員や劇場の職員、観客などからも証言は取れている。婚約者が現れて荒れていたともな」
「交際? そのような下世話な意図などではない。ユリアーナは、私の元にいることで最も輝けるのだ!」
「莫迦者が!」
男の不快な言葉に、反論する。が、即座に父親が怒鳴りつけてきた。
そんなことはほんの子供の頃以来で、驚きに挙動が止まる。
「申し訳ございませぬ、デュラン様」
しかも、父親は傍に座る男に、座したままとはいえ頭を下げたのだ。
「父上!」
父親の醜態に、抗議の声を上げる。
しかし、彼は強い怒りを宿した瞳で息子を睨みつけた。
「分を弁えろ、フーベルト。このお方をどなただと思っている」
「……誰だ?」
思えば、自己紹介を交わしたことがない。相手がフーベルトを知っているのは、まあ、この街ならば誰に訊いても答えられるからだろうが。
「私はデュラン。ツィーゲンノルト領から正式に派遣された、視察官だ。私の連れも同様の地位にある」
領主からの視察官となると、確かに地位は高い。代官の立場では強くは出られないだろう。
しかし、それは領地自体の権力にも左右される。
「ツィーゲンノルト領? 確か二年前の戦役で割譲された、新興の領ではないか。そんな辺境の視察官程度が、よくもまあ大きな顔をしているものだな」
「フーベルト!」
再度、父親が叱りつける。まあまあ、と、視察官はそれを宥めていた。
不愉快極まりない状況だが、フーベルトは莫迦ではない。父がここまでの態度を取るには、何か理由があるのだ。
ツィーゲンノルト領。
二年前の戦役。
確か、当時の国王が直々に陣頭指揮を取っていた。
ほんの五年ほどの在位期間しかなかった、先王。
彼は戦役が終わった後、確か……。
僅かに、青年の瞳が開かれる。
「デュラン……、デュランダル……?」
デュランはからかうような視線を向け、父親は苦々しい顔で睨みつけてくる。
まさか、それが本当ならば、まさか。
知らず、フーベルトが一歩後ずさる。
傍らのティーテーブルに足が当たり、かたん、と揺れた。
その小さな衝撃で、我に返る。
「……いや、あの方がこんな所におられる訳がない。高貴なる名を騙るとは、不埒な輩め!」
ティーテーブルの上に載っていたベルを掴む。普段、メイドを呼ぶ際には可憐な音を立てるそれは、今、勢いよく振られ、きんきんと耳障りな音を立てた。
使用人用の隠し扉から、のっそりと数人の男が姿を見せる。
「どうしやした、若様?」
応接室の状況を見て、不思議そうに一人の男が声をかける。
きちんとした貴族の使用人であれば、主人の命令があるまでは無言を貫く。
しかし、フーベルトはそれを咎めもせずにデュランを指さした。この辺りが、彼の限界なのだ。
「この男を叩き出せ。いや、身分を偽り、父上を謀ったのだ、捕縛して刑に処すべきだな」
「やめよ、フーベルト!」
父親が立ち上がり怒鳴りつけるが、青年はやんわりとした表情を向けた。
「ご心配なく、父上。このような詐欺師、私が処分してみせましょう」
「私は事実しか口にしていないのだがな」
意図の読めない笑みを浮かべて、デュランと名乗った男は呟く。
戸惑いつつも、用心棒たちは来客へと近づいた。父親は反射的にデュランを庇う位置に動くが、彼らは背後からも向かってくる。
一切抵抗する素振りもないデュランを見ていた用心棒たちは、緊迫感に欠けていた。
あと一歩で、男の身体に手が触れる、というところで。
鈍い音を立てて、背後の用心棒は床に沈んだ。
「な……」
何が起こったのか、彼らは理解できていなかった。
応接室は、光鉱石の照明で照らされてはいたが、それはソファの周囲のみ。その光の及ばぬところは、ぼんやりとした薄闇に満ちている。
そんな中で、デュランは身じろぎ一つしていない。
背後の暗がりで、何かが動いた。
次の瞬間には、右手にいた男が崩れ落ちる。
「なに……!?」
驚愕の叫びは、しかし長くは続かない。短い悲鳴だけを残して、次々に倒れていく。
「な……何が起きた!?」
状況を把握できない恐怖に、フーベルトは身動きもできない。ただ、忙しく眼球を動かして、周囲の様子を探ろうとしている。
「無礼者が」
やがて、ひっそりと、今まで聞いたことのない声が発せられた。
ゆらり、とデュランの背後の薄闇が揺れる。
そこにいたのは、背の低い、まだ少年と言っていい年頃の子供だった。
黒い髪に、黒い瞳。肌は、やや黄色がかって見える。
その、不機嫌に吊り上がった瞳が、ひたり、とフーベルトを見据えていた。
「本来であれば、御前の目に留まることすら許されぬ身でありながら、この暴言、狼藉……。この刀の露と散れ」
少年の腕の長さほどの刺突剣を、身体の前に構える。
「ひ……っ」
引き攣れた悲鳴を上げかけるフーベルトの前で、ゆったりとソファに腰かけたままのデュランがひらりと片手を振った。
「ハバリ」
その一言で、滑らかに少年は構えを解く。
そして、デュランは他の相手を呼んだ。
「代官殿」
「は」
彼を庇うために立っていた男は、即座に振り返り、その場に跪いた。
「ご子息をどうなさるおつもりか?」
「……目に余る不敬、どうぞ如何様にも沙汰をくださりますよう」
「父上!?」
愕然とした顔で、フーベルトが叫ぶ。
息子に背を向け、デュランの前で顔を伏せる男の表情は誰にも読めない。
「私は、今は一介の視察官だ。私に対する態度を考慮する必要など全くない。……彼の行動によって被った被害に、相応の対処を願うのみだ」
「……ご厚情、感謝致します……」
苦い声が、ただ、その場に響いた。
翌朝早く、ダインたちは街の門近くにいた。
傍らにはユリアーナと、彼女を迎えに来た劇団長が立っている。
昨夜、路地で襲われたダインとユリアーナは、そのまま彼の泊まっている宿に向かい、一晩を過ごしていた。
ここは高級宿であり、警備は万全だったからだ。
無論、部屋は別に用意されていた。色々と用意周到である。
「この度は、本当にお世話になりました」
深々と、劇団長と女優が頭を下げる。
「フーベルトは、親戚のいる他の街に行くことになるようです。貴族の、ではなく、少しばかり裕福な家のようですね」
デュランがしれっとした顔で説明した。
「やり方はともかく、あんなにも演劇を愛していた人が、ここを離れるんですか……」
酷く迷惑をかけられてはいたが、同じく演劇を愛する者として、哀れであるのだろう。二人は複雑な表情を浮かべている。
「後日、代官殿が被害に遭われた方に謝罪と見舞金を出されるとのことですよ」
正直、平民に対するものとしては、破格の対応だ。劇団長は驚きのあまり、もごもごと何かを呟いている。
「デュラン様、それに何よりダイン様。本当にありがとうございました。これで、演劇に集中することができます」
晴れやかな顔で、ユリアーナが言う。
「また来ますよ。何年か後かもしれないけれど」
にこやかに、デュランが返す。
「ありがとうございます。……でも、その頃には私はここにいるかどうか」
「え?」
困ったように告げる女優に、ダインが首を傾げる。
「いえ、私ももういい年齢ですし。数年中にはできれば身を固めたいな、と……。その後も演じ続けられるかは、ちょっと判りませんが」
やや恥ずかしそうに、そう告げる。
「あの」
ダインは知っていた。
彼の領主が、ラヅッカを視察したあと、どうするつもりなのかを。
可能であるならば、彼は、ラヅッカを模倣する筈だ。
「ユリアーナさんが、よければ」
つまり、この先、ツィーゲンノルト領には劇場ができる可能性が高い。
そして、劇場には劇団が、俳優が必要であるのだ。
ダインの背後で、街壁に設けられた門が音を立てて開く。
がらがらと、馬車が走る音が聞こえる。
彼らの出立も、すぐだ。
「俺と、一緒に……」
金髪の女優の瞳が、見開かれた。
彼女は軽やかにこちらへ向かい、そして。
「カール……!」
ダインの傍を走り抜けた。
ぎこちなく、振り返る。
「ユリアーナ!」
派手な馬車からひらりと飛び降りた若い男が、ユリアーナと抱き合っていた。
「……彼は?」
不思議そうに、デュランが劇団長に尋ねる。
「ええと、その、旅芸人の一座にいる、カールです。ユリアーナとは、その、何といいますか」
額に汗を滲ませた団長が、しどろもどろに説明する。
「おかえりなさい、カール! 予定よりも早かったのね」
「君に早く逢いたかったからね。いい報せだ、君の故郷に劇場を建てる計画が本決まりになったよ」
「まあ!」
「一、二年はかかるだろうが、そうしたら一緒に帰れる。うちの一座が、劇場付きの劇団になれるんだ!」
「カール!」
「ユリアーナ!」
感極まったように固く抱き合う若い二人を、少々所在なげに一行は眺めていた。
「お前、何をふらふらしているんだ?」
ダインとデュランの後ろについて街道を行くハバリが、不思議そうに声をかける。
返事をする気力もなく、ダインは長く溜め息をついた。
「まあ、しばらくそっとしておいてやれ」
哀れむような視線で友を見ると、デュランはそう忠告した。
「御前のご命令ならば」
少しばかり不満そうではあるが、基本的にどうでもよかったのだろう、少年は短く返した。
やがて、彼らは街の近くの開けた土地へと辿りつく。
朝一番ということもあって、そこには他に人の姿はなかった。
「宜しいですか?」
「ああ」
ハバリの問いかけに、あっさりと頷く。
数メートル離れると、ハバリは軽く肩を回した。
その身体が、ぞわり、と、膨らむ。
腕が、足が、背中が漆黒の、腹は黄色がかった白の鱗に覆われ、指先には鉤爪が生え、顔立ちは人とは似ても似つかぬものに変わる。
その背丈は二階建ての建物ほどにもなり、背からは大きな翼が広がっていく。
この広場は、騎竜の発着場だ。ある程度大きな都市には整備されているものだった。
ハバリは、そっと身を伏せた。背に、主とその連れが乗れるように。
「さて、我が家に帰るぞ、ダイン。落っこちるなよ」
「ああ……」
相変わらず魂が抜けたような表情で、農夫は友の後に続いた。