デュラン、学園へ行く
昼食後は、ユリアーナを劇場まで送ってから宿に帰る。
ダインが彼女に貸し出されている間も、デュランは視察に行っている。戻った時には、宿の居室で羊皮紙に何かを書きつけていた。
「ただいま」
「お帰り。楽しんできたか?」
にやりと笑って揶揄する男に、肩を竦める。
「そっちは?」
「うん。また一軒の劇場を見てきた。午後からは演劇学園の見学をしようと思ってる。時間はあるか?」
「ユリアーナさんが夜の公演を終わらせるまでは」
頷くが、本来、視察が彼らの仕事だ。自分を貸し出すことを決めたのは当のデュランだとはいえ、少々申し訳なさが残る。
「お前は本当に人がいいな」
その気配を察したか、僅かに呆れたように、しかし嬉しげにデュランは苦笑した。
学園内は、ざわめきで満ちていた。
机につき、歳嵩の男の話に聞き入る部屋。
見たことのないほど大きな鏡の前で優雅に踊る男女。
様々な楽器を共に奏でる人々。
材木を組み立て、壁を立ち上げる若者たち。
だが、静寂に支配された場所も存在する。
その中の一つ──演劇図書館。
「うわぁ……」
気圧されたように、ダインは呻く。
領主館と遜色ないほどの大きさの建物。
正面入口をくぐると吹き抜けになったロビーがあり、それを囲む三方の壁は、一面に本棚となっていた。
ぎっしりと詰められた書籍に目眩がする。
「この本全部に文字が詰まってるんだよな……」
まだ読み書きを習い始めて間もない男が、驚嘆した口調で呟いた。
デュランと、案内役の初老の男が小さく笑む。
「こちらに所蔵されているのは、演劇論や脚本などが主ですが、そればかりではございません。音楽に関するもの、楽譜、または舞台を作り上げた際の図面などもございます」
大掛かりなものなら、家を一軒建てることもあるという。
尤も、公演が終われば壊してしまうため、石造りではなく、木造の壁に薄い石材を貼るなどしている。当然内装もないので、そういう意味では簡単なものだ。
「そういえば、面白いものがありましたな」
その部屋はあまり人が入らないのか、やや埃っぽかった。
立ち並ぶ棚は、本棚よりも一段の高さが大きい。
その棚に整然と並んでいるのは、木箱だった。
そのうちの一つを、案内人が取り出そうとする。
「俺が」
彼の枯れ木のような身体にその木箱は不安で、ダインが申し出る。
箱の大きさは、長辺が身幅よりやや大きい程度。短辺はその半分といったところだ。
机の上に箱を乗せると、案内人はその蓋を開けた。中には、布に包まれた何かが入っている。
それを取り出して、布を開く。
「絵……?」
箱の内寸とほぼ同一の大きさの板に、絵が描いてあった。随分と古いものなのか、色褪せ、ところどころ剥がれ落ちてしまっている。
「これは、もう随分と昔、物語が吟遊詩人だけのものだった時代の終わりにあったものです。板に物語の場面を描き、それを聴衆に見せながら物語を語るのです」
こんなふうに、と、男は一枚の板を視察官たちへ向けて、とん、と立てた。
「吟遊詩人のように旋律に乗せて歌う必要はなく、後の俳優のように全身で演じることもない。板の裏に書かれた文字を、少々感情を籠めて読み上げればいい。かなりの勢いで広まった、と言われています。朗読劇の一種ですな」
「なるほど、判りやすいな」
板に描かれた絵は、色数が少なく、形も簡略化されている。
子供や学のない者たちには理解しやすかっただろう。
「『板芝居』、という名前で呼ばれています。一つ、見てみますか?」
「是非」
デュランは想像通りに食いついた。
夜の公演が終わる頃、ダインは幾度目か、〈黄金の猪〉劇場の控室の前に立っていた。
「今夜はフーベルトは来なかったよ」
こそりと、通りすがりの青年が教えてくれる。
諦めてくれたのだろうか。半分ほどは役得だとは言え、効果が出ているなら勿論いいことだ。
今夜、ダインが夕食に予約していた店は、ランクとしては中の上というところだった。庶民が少し奮発して入れる程度の。
ダインは勿論、ユリアーナも庶民の出身である。いい選択であると言えた。
暗い中、松明が燻る街路を、小声で話しながら二人で歩く。
と、突然、ぬっと行く手を塞がれた。
びくり、と二人が警戒する。
「あー、すまん。この先で馬車が横転してな。後片づけに少しかかるから、悪いが他の道を通ってくれんか」
しかし、相手の男は申し訳なさそうな声でそう告げてきた。
「そうか、判った。ええと……」
頷いたものの、ダインにはそう簡単に代わりの道など思いつかない。
「あっちに出ましょう」
ユリアーナが、小さく男の袖を引いた。
そして二人は、暗い路地に足を踏み入れる。
そこは、二人並んで歩くのがやっと、という幅だった。裏路地らしく、左右の建物には時々裏口があり、その横には小さなカンテラが下がっている。その弱々しい光で、彼らは何とか足を進めていた。
しかし、路面の全てが見える訳ではない。
「きゃ……」
何かを踏んだのか、ユリアーナがよろめいた。
「っ、と」
反射的に、その肩を支える。
「すみません」
「いや、気をつけて。暗いからな」
近づいたせいか、彼女の身体からふわり、と香水が立ち昇る。裏路地は少しばかり空気が悪かったせいもあり、その香りが強く心に残った。
「見せつけてくれるじゃねぇか」
ふいに、暗がりの中からがらからとした声が響いた。
路地の進行方向、数メートル先に、ぼんやりと人影が伺える。正確な人数は判らないが、路地を塞ぐには充分だった。
慌てず、ユリアーナの前に立つ。
「そっちのお嬢ちゃん、ちょっとつき合ってくれねぇかなぁ」
おざなりにそう告げると、一番前にいる男が手を伸ばしてきた。
ぱし、と、それを払いのける。
「お?」
僅かに意外そうな声が上がった。
これでもダインは肉体労働者だ。単純な力比べなら、そこそこ自信がある。
武器の扱いなどはからっきしだが。
「おいおい、兄ちゃん……」
「茶番はよせ」
静かにそう告げる。
これが、フーベルトの差し金であることは予想がついた。
「ユリアーナさん、戻って」
「は、はい!」
小声での指示に、ぱっ、とユリアーナが身を翻す。
「待て!」
男たちは、ダインを押しやってその後を追おうとする。が、婚約者は両手を広げ、それを押し留めた。
路地を抜けさえすれば、人通りはまだある。
そう目論んで、小走りに進んでいたのだけど。
二人が入ってきた方向から、一人の影がこちらへ向かってきていた。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
落ち着いた声は、聞き覚えがある。そう、先刻「馬車が横転した」と告げた男の。
ユリアーナは、足を止めた。ゆっくりと近づく男から、じり、と後ずさりする。
「さあ、こっちへ。安全な場所へお送りしますよ」
「来ないで。叫ぶわよ」
女優である彼女の声量は大したものだ。石壁に囲まれた路地では、更に反響するだろう。
しかし、新手の男は、あっさりと肩を竦めてみせた。
そしてゆっくりと、追い詰めるように手を伸ばす。
そのまま、引くも進むもできないユリアーナの肩を、掴んだ。
背後から。
「ダインさん……!」
男たちを足止めしていたダインが、踵を返し、ユリアーナの元まで走ってきていたのだ。
その細い身体を抱き竦め、ダインは無防備な背中を晒す。
彼を追って来たのか、路地に置いてあった木箱や桶に突っこみ、散らばらせる音が響いた。
ユリアーナを捕まえようとしていた男が、腕を上げる。
手に、角材を握って。
振り上げた際の空気の音に、何か得物を持っていることだけは判って、ダインは身体に力を籠めた。
ばき、と角材が割れる音がする。
……しかし、衝撃などは襲ってこず、数秒待ってからダインは顔を上げる。
右手で角材をへし折り、左手を襲撃者の腹に埋めた少年が、静かな目でこちらを見下ろしていた。
短い黒髪に、黒い瞳。
感情のないその顔に、ダインがほっと身体の力を抜く。
「……ハバリくん。ありがとう」
「御前の命だ。一旦、宿に戻れ」
ぶっきらぼうに告げると、少年は男の身体を無造作に溝の上に放り出した。
振り返ると、道を塞いでいた男たちは、こちらも残らず路地に倒れ伏していた。