ダイン、はじめてツサークに行く
「はー。やっとついた……」
はるか道の先に見える囲壁に、ようやくあと十数分歩けば辿り着けると思える距離まで来ると、デュランは年甲斐もなくげんなりした声を上げた。
「だから、門前まで乗りつければよかったのに」
隣を進むダインが、呆れた顔で告げる。
デュランが目に見えて背を丸め、疲れた素振りを見せているのに、彼にはそんな様子は微塵もない。
森の出口近くからここまで、二人とも同じ距離を歩いてきているのだが。
「そんなことしたら、目立って仕方ないだろ」
眉を寄せて言い返す道連れに、小首を傾げた。
「あれ、珍しいのか? こっちだと普通なのかと思ってた」
「流石にそれはないよ……」
二人はのんびりと会話を続けながら、道を進む。
その道の先に続く、エアシュタオ国の街、ツサークを目指して。
「はい、次ー」
あまりやる気のない声で、門の衛士が顔を上げる。
目の前に立つ、二人の男を胡散臭そうに見つめた。
「名前と、何をしに来たのか言って貰えるか?」
「私はデュラン。こっちがダイン。目的は観光だ」
「観光?」
衛士の眉間のしわが深くなる。
デュランと名乗ったのは、三十を幾らか過ぎただろう男。明るい蜂蜜色の髪に、黄緑色の瞳が自信あり気にきらめいている。体格はやや細身だが、虚弱な印象はない。
ダインと紹介されたのも、同年代の男だ。暗い紺色の髪に、赤茶色の瞳。体格はがっしりしているが、やや垂れ目がちなせいか、隣の男に比べて少々気弱そうに見えた。衛士の視線に、困ったように柔らかく笑う。
「おかしいのか? ここは観光の街だろう?」
デュランが、不審そうな声音で尋ねる。
確かに、この街の主な産業は観光だ。事実、彼らの前に通っていった老夫婦も、嬉しそうに観光と申請していった。
しかし、いい歳をした男二人だけで来るものでもない。
改めて『観光客』を見定める。
ダインは平民のよく着る簡素な服装だ。上着の片襟に施された小さな刺繍は、見覚えのない意匠だが。少し泥汚れのついたブーツは使いこまれている。
デュランの方も、平民の服に見える。生地も、さほど高いものではなさそうだ。だが、明らかに新しい。そして、仕立てがいい。
平民は、大抵家庭で服を縫い上げるものだ。しかし彼の服は、おそらく仕立て屋が作っていた。
(貴族の傍系か裕福な商人が、使用人を連れてお忍びでやってきたのか?)
ひょっとすると、他の使用人たちは遅れて来るのかもしれない。ならば、二人だけで歩いて来たというのも判る。
「いや、おかしくはない。デュランとダインだな。ようこそ、温泉の街ツサークへ。楽しんでいってくれ」
人を見る目がなければ、門衛など務まらない。来訪者名簿に名前を走り書きして、衛士は二人を囲壁の中へと送りこんだ。
「ほらな! 心配なかっただろ?」
ものすごく得意げに、デュランが胸を張る。
「あー……うん」
しかし、ダインは曖昧に視線を逸らせた。
不審そうに見返してくるのをごまかすように、大きな声を上げる。
「ほら、案内してくれるんだろう?」
ぐるり、と門の奥に広がる広場を見回す。
そこには大勢の人々が賑やかに行き交っている。
「そうだな。ではまず、宿まで行こう!」
意気揚々と、デュランは歩き始めた。
「あれはなんだ?」
広場の端に四阿のようなものを認めてダインが呟く。
幅は三メートル程度のようだが、奥行きが長い。十数メートルはある。その中では、外に背を向けて大勢の男たちが地面に座りこんでいた。
「ああ、あれか。行こう」
楽しげに、デュランは進路を変える。
「ちょっと説明してくれればそれでいいのに」
「わざわざ私達が、何をしにきたと思ってるんだよ。見て、経験して帰るためだ。そうだろ?」
後ろから呼び止めるダインに肩越しに笑いかけると、さっさと男は四阿へと近づいていく。
次第に、もわり、と空気に湿り気が混じってきた。
四阿の中には、石造りの水路のようなものが設えられていた。幅はひと一人の身幅よりも少し広い程度。その両側に、ずらりと人々が座り、湯気を上げる水路に足を浸していた。
「これは、足湯だ」
「足湯?」
得意げなデュランの言葉を繰り返す。
「ああやって足を湯につけて、疲労を取るんだ。街に着くまでに歩き通しで疲れるだろう?」
「あー、うん、普通はな」
何故か僅かに遠い目をして、ダインは同意する。
空いている隙間に近づく。靴紐を緩めて足を抜き、靴下も脱いだ。ズボンの裾を捲り上げる。
そして、そろり、と爪先を水面に触れさせた。さほど熱い訳ではなく、ダインは安心して脚を漬ける。
足湯の深さは脛の半ばまで。縁に腰かけて、ふぅ、と息をつく。
「靴磨きはどうだい、旦那方?」
背後から声をかけられて、振り向く。
そこには、十歳になるかどうか、といった年齢の少年がいた。頬に靴墨らしき汚れがついている。
「ああ、頼むよ」
デュランが軽く返す。あいよ、と答えて、少年は靴を手に取った。
「いい靴だね。手入れがちゃんとされてる。あまり汚れてないけど、馬車で来たのかい?」
靴の中に片手を入れ、ざっと視線を流してそう尋ねてくる。
「まあな」
「他の街の磨き方と違うんだな。そっちの方が楽そうだ」
ダインの言葉に、少年は頷く。
「あちこちから靴を見られるからね。汚れとか傷がよく判る。ずっと俯いてることもないし、お客さんを立たしておかなくてもいい。ここだけの話、上からじっと見下ろされてるの、落ち着かないんだ」
気安げに、僅かに声を潜めて返してきた。
「他所でもやってたのか?」
「足湯での仕事が取れればいいんだけど、人数が決まってるんだ。街路で客を待つことも結構ある」
他所、とは、他の街という意味だったのだが、流石に違ったらしい。
すぐに一足を磨き上げ、デュランから二人分の代金を渡されると、続いてダインのブーツにとりかかる。
「お客さんのは結構履きこんでるね。傷もついてるし、泥汚れもある。この辺の土じゃないみたいだな」
「忙しくて手入れできなくてね。俺は農夫だから、それは畑の土かな」
「農夫!」
言い訳に驚いたような声が上がる。周りの男たちも視線を向けてきて、ダインはびくりと肩を震わせた。
「それじゃ、慰労の旅行で来たのかい? いい雇い主なんだね」
「この際だ、温泉でゆっくり疲れを取るといいよ」
しかし笑みを浮かべて、皆は口々にそう言ってきた。
靴を磨き終えた少年は、また遊びに来てくれ、と言い残して立ち上がる。
ぽかんとした顔で、農夫はそれを見送った。
「……心配ないって、言っただろ?」
デュランが、穏やかに告げた。
その後、ぶらぶらと街を歩いているうちに、すっかり時間が経ってしまっていた。
夕闇の落ちる中、肩を並べて歩く。
「宿を楽しみにしておけよ。部屋に温泉が湧いてるんだ」
「へえ」
旅慣れていないダインには、その凄さが今一つ判っていないようだったが。