虹のたもと
湖のほとりは林になっていて、時々人が通るのか道がある。木立の間を縫うじぐざぐに沿って歩いて行くうちに、湖も家も見えなくなった。
「もうすぐだ」
僕らは揃って空を見上げた。木々の向こうの虹は消えていない。
「帰りは、電車にしようよ」
林を抜けると、山の麓を単線の電車が走っている。僕らの町から続くローカル線だ。後ろを振り向くと、これまで歩いてきた道は、木々に閉ざされてしまったみたいに、入り口がわからなくなっていた。
ニジコが時刻表を読めなかった駅と続いている場所だ、と感じた。なぜか、遠い旅から帰ってきたような、懐かしい感じがした。
「時刻表を読まなくてもいい駅だといいな」
背中を軽く叩かれた。
「戻ったら、紹介してよ。ミキトくんの友達」
「もちろんだよ。あいつも喜ぶ」
ニジコは、ミキトが好きだと言っていた芸能人にそっくりだった。
「どんな人なの?」
「面白いやつだよ」
「それじゃあわかんないよ」
「ゲームが強い。僕はずっと勝てなかった」
「ゲームなんてやらないから私」
どういう紹介がいいだろう、と考えて、思いついた。
「友達思いなやつだよ」
「それは最高だね」
道は少しずつ傾斜をつけ、僕らは小高い山を登り始めていた。山の中腹あたりには、赤い屋根が見える。展望台か休憩所か、小さな建物だ。
森のなかに入ってしまうと、また虹は見えなくなった。降り注いでいた日差しが遮られる。空を覆う木々のせいかと思ったけれど、それだけではない。振り向くと、後方からは巨大な雨雲が迫ってきていた。
「急ごう、虹が消える」
太陽は僕らの頭上より、西寄りに傾いている。黒い雲は、ゆっくりと太陽を飲み込んでいく。僕らはどちらからともなく走り出した。
緩やかな傾斜を走っても、全然足が疲れない感じがした。ニジコもそうだ。僕らは、たどり着くまでのダッシュとか、森の匂いとか、流れていく景色なんかを、そのままに受け止めて楽しんでいた。
頬に雨粒を感じた。
「嘘でしょ?」
ニジコの呟きに応答するみたいに、細い雨の線が視界を満たす。ニジコの額に当たった雨粒が、鼻の筋を取って顎まで流れ落ちるのが見えた。
ニジコの顔を使う雨粒が、何かをこらえているような表情のせいで、ニジコの顔を使う雨粒は涙みたいに見えた。
「ごめん、もう見れない。間に合わなかった」
「いいんだ。行こう。最後まで」
空が曇ったら虹は消えてしまう。それくらいのことはわかっていた。けれど、僕腹もう目的地を決めていた。山の中腹になった赤い屋根の建物。その下で、僕らは旅を終えるつもりだった。
「また雨が止めば、虹なんていつでも見られるよ」
僕らは雨宿りの屋根を求めて走った。もう目的が違ってきている。肌を打つ雨が痛い。うねる登山道を登りきると、地面が平な場所に出た。
雨に煙る景色の向こうに、赤い屋根の小屋が見えた。ここがゴールだ。
僕らは屋根の下に駆け込んだ。
「またびちゃびちゃになっちゃったよ……」
ニジコはもううんざりだというようにため息を着いた。風は冷たい。ずっとここにいたら風を引いてしまうかもしれない。
「ミキト? やっと見つけた」
聞き慣れた声にはっとした。支柱の裏に持たれて、誰かが立っていた。
「タクト? なんでここが?」
「皆探してたんだ。全然、お前が帰ってこないからって。一体、丸一日何やってたんだ。それに」
タクトはニジコに目をやった。それから、僕の肩を乱暴に掴んで屋根の端に引き寄せた。
僕らは、揃ってニジコに背を向けた。ニジコはきょとんとした表情で立ち尽くしている。
「誰だ? あのめちゃくちゃ可愛い子」
「ニジコって言うらしいんだ」
タクトは興奮している。もう僕のことはどうでも良くなったらしい。
「俺との約束を破ってお泊りデートとはいい度胸だな」
潜めたタクトの声には怒りが隠れていた。違う、と言っても今は聞いてくれなさそうだ。
「これから、こっちの学校に転校してくるんだよ。な、ニジコ」
僕はタクトの手を振り払った。早くニジコとタクトを絡ませるに限る。
「その人は?」
「タクトだよ。学校の友だち」
ニジコは口に手を当てた。
「あ、本当に、友達思いなんだ」
「俺をおいて何の話をしてるんだ?」
「ミキトくんが言ってたんだよ。タクトは友達思いなやつだって」
「誰が? 俺がか?」
「違う、そんなことは言ってない。ニジコ、適当なこと言うなよ」
僕はニジコを止めたい気分だった。何も、本人の前で言うことじゃない。
タクトは、ここぞとばかりにニジコに手を差し出した。おずおずと上げられたニジコの手をひょいと捕まえる。
「ニジコちゃんよろしく。こいつとのデートは大変だっただろ」
「大変だったよお、本当に」
「僕だって大変だったさ。お互い様じゃないか」
お互いの主張に収集がつかなくなりそうだ。なんだか、学校帰りの口喧嘩に似ていた。
流れるような話を、僕はつい断ち切ってしまった。
「僕さ」
「転校するんだろ?」
タクトはさも当然、という風だ。
「はあ? なんで知ってるんだよ」
「もう聞いちゃったよ。お前を探してる間に。転校するのが嫌で、家出したんだろ」
ニジコが僕の方を見る。
「そうなの?」
「違う。そんな理由でじゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「虹のたもとに何があるのか、最後に見ておきたかったんだ。タクトは、なんでここに」
「虹のたもとに何があるか見てみたいって、お前が言ってたのを思い出したんだ。駅の近くで、お前を見かけたって話もあったからな。ちょうど、虹の端がここに見えたんだ。もしかしたら、と思って。それに、俺も興味があったからな」
「何もなかったけどね」
「そんなことないだろ」
とタクトが言った。
「この小屋があったってことか?」
「お前とニジコちゃんがいただろ」
冗談かと思ったけれど、タクトは本気だった。僕は、何だかこの友人には勝てないと感じた。
「僕も、虹のたもとにタクトがいるなんて、全然考えてなかったよ」
雨は弱まり、空を覆った雲が流れていく。再び太陽が顔を出す。雨に濡れた木々が、足元の水たまりが、光を浴びて再び輝き出す。
「晴れたねえ」
ニジコは、我慢できないという風に影から飛び出した。僕らも続く。崖のそばの手すりに持たれながら、僕らは町の景色を見下ろした。
アジサイの群れは見えず、カエルの鳴き声は聞こえず、洞窟を要する山らしいものも見えず、巨大な湖も、僕らの前にはなかった。
麓にある駅舎から電車が出発し、田園地帯を抜けて遠くの町へと走っていく。列車の走る先を追って視線を上げる。すると、ちょうど僕らの学校のあたりだろうか。
新しい虹が町の上空にかかっていた。
「今度は追いつけるかな?」
僕が言うと、ニジコは強く主張してくる。
「今度は電車を使おう。そっちのほうが絶対早いよ」
「お前ら、ここまで歩いてきたのか」
タクトの表情は、驚きを通り越して不審にさえ思っているようだ。だけど、説明している時間はない。僕は手すりから手を離した。
「家出はしないけどさ、転校は嫌だなって思ってるよ」
「俺だってそうさ」
タクトはそう行って顔をそらした。雨上がりの景色を、名残惜しそうに眺める
ニジコは僕を挟んで真ん中に立っていた。雨上がりの太陽に負けないような、明るい笑みを浮かべて、僕らを交互に見た。
「やっぱり、友達思いだ。私、転校するのが楽しみになってきたよ」