カタツムリの抜け道
扉の内側は、石で作られた通路になっていた。天井や壁には穴が空いており、外から空気や明かりが取り込めるようになっている。四角く切り取られた穴からは空の青と、虹の一部が見えた。
どれくらいの時間が経ったかわからない。だけど、虹はまだ消えていない。
「もう耳栓はいらないよな?」
僕の冗談に、ニジコは小さな笑いで答えた。
「ずっと歩いていくだけだよ」
「ライトなら持ってたのに」
僕はポケットからペンライトを取り出した。電源をつけると、細い光が、地面を覆う薄い暗闇をを少しだけ追い払った。頼りない光だ。
光の先に、一匹のカタツムリが見えた。
螺旋を巻いた甲羅に、軟体生物の体。頭の先には二本の触手が生えている。遠目に見えるくらい大きい。どれくらいだろう。僕らの顔くらいの大きさはありそうだ。
「片手には収まらないな」
「両手でも持ちたくないよ」
ニジコの声には嫌悪の調子が交じる。雨は女の子の大敵だと思う。その理由はいろいろあるけれど、何よりも爬虫類や軟体動物たちが猛威を振るうからだ。
「私カエルなら平気なんだけど」
「耳栓のいらないやつだといいな」
カタツムリの背中はまだ遠い。けれど出口はすぐ近くだ。まっすぐ続く洞窟の向こうには明かりが見える。ほんの数百メートルだ。
「あの虹は五色に見えたな」
「嘘だ。もっと多いよ」
「七つ?」
「もっと」
「十?」
「全然足りない! ミキトくんには何色が見えるの?」
どこかで聞いた怪談を思い出した。
「赤色と、黄色と、緑と、青と、紫かな」
「赤色と黄色の間には橙色があるよ」
「黄色と緑の間には黄緑もある。七色」
「足りない。赤色と橙色の間には、まだ名前のついていない色があるんだ。黄色と橙色の間もそう。黄色と緑色の間にだって。そうやって、自分に見えた二つの色の間にもう一つ色を作って、その間にまた新しい色を見るんだ。ずっと分割していけば、無数の色が見える」
「いくつ?」
「いくつでも見えるよ」
ニジコは饒舌だった。この小冒険が楽しくなってきていたのだと思う。なんでそう思うかというと、僕がそうだったからだ。
出口を目指して歩く。ほんの数分でたどり着くはずの距離に見えた。カタツムリの背中が大きくなってくる。
「なんだか思ったより遠いね」
無限に分割する色の集まり。
「あのカタツムリ、大きくなってないか」
「それは、遠近法の効果で……」
近くに見えた出口にはたどり着けない。それどころか、僕らはまだカタツムリの背中を見ている。
「全然進んでない気がする」
足元を見る。と、靴くらいの大きさのある石に躓きそうになった。手のひらくらいの大きな石だ。
僕はそいつを手にとって、カタツムリの背中に向けて投げてやった。
「危ないよ」
宙を舞った石は、カタツムリめがけて宙を飛ぶ。けれど、その背には届かず、地面を転がった。硬い音とニジコの声が通路に反響する。
一つ、二つと続けて投げる。どれだけ力を込めても、石はカタツムリに届かない。
「道が広くなってない?」
単調でまっすぐな道を歩いていたはずだったのに。左右の幅がやけに広く感じる。壁を構成する石は、僕らの腰くらいの高さがある。
ニジコには先に行ってもらう。僕は壁を調べてみたけれど、なんの変哲もないただの石だ。入り口近くで見たものより、何倍も大きくなって見える。
わっ、と、小さな叫び声。ニジコのものだ。道の先を振り向いて、僕は奇妙なものを見た。
「ミキトくん?」
ニジコが僕を見上げていた。おかしい。僕らの身長は同じくらいだったはずなのに。先を行くニジコの頭は、僕の胸くらいの高さにある。
高さだけじゃない。横幅も。まるでレンズを通して姿を見ているみたいだ、
「石が大きくなってるわけじゃない」
ニジコのもとへ駆け寄ると、石は大きく、道は広く、天井は高くなる。目の前には、いつもと同じ目線の高さにニジコがいた。
僕らの前のカタツムリは、もう背中に乗れるくらいの大きさになっていた。
「私たちだ。私たちのほうが、小さくなってるんだよ」
カタツムリは、遠目には動いているのがわからないくらいの速度で進んでいたけれど、ここまで近づくとわかる。軟体状の体がうごめき、殻を左右に揺らしながら、確かに前進している。
「あんまり近くに行きたくないんだけどなあ」
カタツムリの姿が大きくなる。触れようにも、殻のてっぺんには手が届きそうにない。周りの景色もそうだ。足元にあった石がぐんぐん大きくなり、あちこちに小さな山が出現しているようにさえ見える。
「カタツムリが洞窟を抜けるのを待つしかないかもな」
「それじゃあ一生かかっても出られないよ」
カタツムリの姿は、近づくと大きくなり、離れると小さくなる。実際に大小しているのは僕らの方なのだけれど。
「道の端を歩けばいいかも」
壁際に沿って歩いたらどうだろう。カタツムリから離れれば、僕らの歩幅も大きくなるはずだ。
壁を向いて歩くと、カタツムリは小さくなっていく。いけそうだ。十分な距離を取ればいい。歩幅が大きくなったところで、カタツムリを追い越そう。
僕らは壁に手をついた。できるだけ歩幅を大きくして、走る。視界の端にはカタツムリが見える。僕よりもまだ背が高い。
けれど、僕らの速度はまだ足りない。カタツムリは僕らとずっと並走している。
「私たち、カタツムリと同じスピードで出口に向かってるんだよ」
駄目だ。カタツムリを追い越せない。
と、壁が急に途切れた。石の間に隙間が開いていた。まるで巨大な洞窟のように見える。どこかと通じているのか、奥からは風を切って空気の流れる音がする、
「この奥に入れば、もっとカタツムリと距離を取れるかもしれない」
ニジコは息を飲んだ。
「もし、この中に入ったまま、もとの大きさに戻ったら、どうなるの?」
そうなったらもう出られない。狭い洞窟の(今の僕らには巨大な穴に見える)中で、死ぬまで身動きが取れなくなったままだ。
ポケットに手を突っ込むと、ペンライトを持ってきたのを思い出した。
「この時のために持ってきたんだ」
「嘘、偶然って言ってたのに」
「僕が先に行って見てくるよ」
「でも……」
「このままじゃ先に進めないだろ」
ニジコは不満げな顔をしてみせたけれど、僕を止めなかった。
ペンライトをオンにする。頼りない明かりでも、何もないよりずっといい。
組まれた石の隙間は意外と広い。もしかしたら、カタツムリに先を行かれてしまったときのために作られた隙間なのかもしれない。
「私も行くよ」
ニジコの声がした。入り口の明かりで影になって見えたけれど、その顔に笑みが浮かんでいることはなんとなくわかった。
「出られなくなったらどうするんだよ」
「そのときはこの洞窟の一部として息絶えるよ」
怖いことを言う。
でも、一人より二人のほうが心強いのは本当だ。
洞窟の中は、ごつごつした岩だらけで歩きにくい、鋭く尖った岩が地面から突き出ていたり、四方八方から突き出してきたり、ニジコの服装だと凄く歩きにくそうだ。
「全然平気だよ」
と答えるニジコが嘘なのか、僕にはわからない。
やがて道が折れ、出口に続く方向へ向かう。
「なんだか狭くなってきてない?」
「カタツムリを追い越したのかもな」
カタツムリに近づいた僕らは小さくなる。遠ざかると大きくなる。
だけど洞窟は、両手を伸ばしても届かないくらい高い。広さも同様だ。もう一度道は左に折れ、遠くには出口の光が見えた。
「急ごう。カタツムリが僕らに追いつく前に」
僕らは走った。体はぐんぐん小さくなる。走っても走ってもまだ遠い。けれど、今度は確実に近づいている。
「転校してくるんだろ?」
僕は、なぜか全然関係のないことを話し始めていた。
「そうだけど」
「僕の友達を紹介するよ。ニジコが悪いやつに絡まれないように言っておいてやる」
「紹介してよ。その友達」
「ニジコが羨ましいよ。学校から離れたいと思えるなんて」
沈黙が落ちた。隣を走っているニジコが、急に暗闇をまとったみたいな気がした。
「それどういう意味?」
アイスピックで胸を突かれたみたいな、冷たい衝撃を感じた。
「その、僕も、あんまり仲良くならなければ、良かったのかな、なんて」
自分の口から出た言葉は間違っていると気がついていたのに、僕は止められなかった。
洞窟からようやく抜けた。カタツムリの姿は、すでに僕らの後ろにあった。
「ようやく。追い越した。これで外に出られるぞ」
自分の言葉が、自分でもびっくりするくらい白々しく聞こえた。
「楽しかったからそんなことが言えるんだよ。そうじゃなかった人のことなんか、全然考えたこともないんだね」
「ニジコ、そうじゃないんだよ」
僕の言い訳を、ニジコは聞いてくれなかった。
洞窟を抜けると、大きな湖が目に飛び込んできた。足元には草原が広がり、湖のそばには小さな小屋と桟橋、桟橋の先には数隻の船が止まっていた。
ほっとするような景色なのに、僕は全然安心できなかった。