アジサイの森
トンネルの向こうには更にトンネルが続いていた。頭上に空は見えるけれど、立ち並ぶ緑が光を遮る。いつの間にかコンクリートから土に変わった足元に、木々の影が斑模様を作っていた。
木々の隙間から差し込んだ一筋の光が、アジサイの葉を照らし、エメラルドみたいな輝きを放つ。一箇所だけじゃない。道の両脇はアジサイで覆われている。青、紫、緑、輝く植物の群れは、雨上がりの宝石箱を空からひっくり返したみたいだ。
思わず上げた僕の声を、ニジコはもう聞いていない。彼女の耳は、耳栓がぴっちりと覆っている。
ニジコがこっちを見る。耳が聞こえなくなると、人間はなぜか口もぴっちり閉じてしまうけど、どうしてなんだろう。
思い切り息を吸って、お腹の底に力を込める。
「何を怖がってるんだ」
聞こえていないのだと思う。読口しやすいようにゆっくり喋ってみるけど、彼女は首を傾げるばかりだった。
変なやつだ。無賃乗車しようとするし、そのくせ時刻表は読めないし、あげく話さえしなくなった。
二人よりも一人のほうが早くたどり着く。空は木に覆われているけれど、虹の頂点わずかに顔を出しているのが見える。まだ間に合うかもしれない。いっそ、この子をおいて先に行ってしまおうか。
アジサイの葉が揺れた。陽光を反射して、何かが光る。大判の葉っぱは、重しを載せられたみたいに首元から曲がっている。そのまま方っておいたら折れてしまいそうだ。
葉の真ん中に、一匹のカエルが乗っていた。そのカエルが手足を動かし、場所を変えるたび、苦しげな悲鳴を上げるみたいに葉っぱが揺れた。
カエルの緑が、陽光にきらめいた。カエルはそっぽを向いている。驚かさないようにそっと手を伸ばすと、眠そうな目が僕を捉えた。
僕は葉っぱと勘違いされたのかもしれない。カエルは軽い跳躍で僕の手のひらに飛び乗った。
小さな体に質量が凝縮されたみたいな重み。体の表面は、削り出した石みたいにざらざらしていて、動くたびに手のひらの表面がわずかに削られていくような感じがする。
「何してるの、早く行こうよ」
ニジコは片方の耳栓を外していた。そっちは妙な話ばかりしていたくせに、僕の方でそういうことは許されないらしい。
振り向いた拍子に、カエルは逃げてしまった。アジサイの群れに紛れ込み、緑と影の中に溶け込んで見えなくなった。
草むらの奥から、鳴き声が聞こえた。深い闇の奥から響き、空気を震わせる音圧の波。
「早く!」
ニジコはなぜか慌てていた。納得できないけれど、僕は小走りに彼女を追いかけた。
あたりに反響するカエルの鳴き声が、僕らの後を追ってくる。あちこちに波源ができ、音の波が重なり、あたりの空間を埋め尽くす。
ニジコは、右耳に耳栓を押し込んで駆け出した。話しかけても無駄だとわかっていた。けれど、つい呼び止めてしまう。
「急にどうしたんだよ」
そのとき、背後に何かを感じた。遠くから迫ってくる大きなもの。空気の壁で思い切り背中を思い切り押されたような感覚。
カエルの声だ、と思った。次の瞬間、空気の塊を押し込まれたみたいに、耳の奥に激痛が走った。痛みに上げた自分の声が聞こえない。手の隙間から音が入り込んで耳を圧する。
両耳を塞いだまま走る。両手を耳にピッタリ当てたままは凄く走りにくい。僕はただ必死でいたけれど、誰かが見ていれば凄く面白い光景だったろう。
頭上から、左右から、後方から、僕らを取り巻く音は密度を増しているように思えた。空気が震え、地面が揺れ、体全体が細かく揺さぶられている。
ようやくニジコの隣に追いついた。顔を合わせる。僕は口だけ動かして言った。
「知ってたら先に教えてくれよ」
ニジコはきょとんとした表情を浮かべ、何を勘違いしたのか面白そうに笑った。通じていないみたいだ。
緑のトンネルの先が見えてきた。大きな岩を組み上げたような高い壁だ。
「行き止まりじゃないか」
ニジコは首を横に振った。先を指で示す。口の形から何を言おうとしているか読み取ろうとしたけれど、僕もうまくできなかった。
けれど、ニジコの言うところはすぐにわかった。壁には、鉄製の扉が着いていたからだ。
僕らは口で喋っても伝わらないことを、ここまで来てようやく理解していた。ニジコは僕の方を向き、それから扉を手で示した。ここから中に入れる、と。そういうことらしい。
扉は金属製で、長い年月雨風に晒されていたためかサビが浮き出ている。ニジコは、汚れた取手をためらいなく掴んだ。
一度引いてみる。開かない。押してみても、開かない。強く引き、体重をかける。それでも扉は開かない。
しばらくの格闘の末、ニジコは口を一文字に結んでこっちを向いた。言葉にせずとも絶望が伝わってくる。
開けろということか。僕が目で示すと、彼女が頷く。ようやく、言葉抜きで意思疎通ができそうになっていた。
カエルの大音響は続いている。
「手は貸せない」
そう言う代わりに首を振る。彼女は非難がましい目を僕に向けてきた。
「だから言ったのに」
と言ったところか。そんなことを言われても困る。
僕らは無言のにらみ合いを続けた。折れたのは僕だ。試しに、右手をちょっとだけ耳から離してみる。
本の僅かな隙間から、大量の情報が暴力のように頭の中に流れ込んでくる。意識が飛んでしまいそうだ。
目の前の扉に手を出せない。ニジコでは力が足りない。僕でも足りるか? 腕っ節には自信がないけれど。
引き返そうか。そう思ったところで、冷たい感触が手の甲に触れた。と思うと、ニジコは、手の間に指を押し込んできた。耳たぶに人差し指で触れ、そのまま耳を塞ぐ。こらえきれなくなって僕は後ろを振り向いた。
彼女は頷いた。これで行ける、と、そう言いたいらしい。信用しろ。耳栓を貸してともなんだか言いにくい。
このまま止まっているわけにも行かない。いいだろう。任せてやってみようか。僕は頷いた。錆びた鉄の扉を前に立つ。妙な感覚だった。他人の手に耳を塞がれる。ニジコの指は僕の耳たぶをぎゅっと押し込んでいる。手をそっとどけてみる。より強く耳が圧迫される。痛いくらいだ。
思い切って手を離した。カエルの鳴き声は遮断され、遠くから聞こえてくるみたいだ。足を開いて体制を整える。取手を思い切り握る。ざらついたサビが手のひらに食い込んできた。
「行くぞ」
と言ったところで、聞こえる訳がない。けれど、後ろでニジコの頷いたのがわかった。
力を込めて扉を引く。この扉は手前に開くのだっけ? 動かない扉と力の均衡を保っていると、つい余計なことを考える。僕が思い切り扉を引いて、後ろに立つニジコが側頭部を両手で抑えている。なんて妙な光景だろう。
扉がきしむ音も聞こえない。人の手ひとつをへだてて、カエルたちは鳴き続ける。少しだけ、感触があった。地面が削れ、扉が動く感覚。どうやら僕は、ひとまずニジコ以上のパワーを持っているみたいだ。
扉は途中で再び止まった。引けば開くことがわかっただけでも前進だ。奇妙な体勢のせいで後ろも振り向けない。それでも、僕は思い切って体を斜めに倒した。取手に思い切り体重を預ける。手のひらの皮膚が思い切り引っ張られて痛い。扉は、ゆっくりと開き始めた。
やった、と思った。
と、突然、取手が軽くなった。勢いよく扉が回る。
勢いが余って、僕は体のバランスを崩した。あ、と思った。ニジコの両手が、僕の耳から外れるのがわかった。
カエルの鳴き声は、タイミングを見計らったみたいに僕の中に流れ込んできた。頭の中が、脈絡のない音と振動で埋め尽くされた。
耳を塞ごうと両手を上げて、力が抜けた。身を守る術もなく、僕の意識は暗転した。
また明日、と言って別れれば、また明日も会えると思っていた。壁にぶつけたボールが帰ってくるのと同じような感覚でいて、ふっと的を外してしまう。ずっと繰り返し続くと思っていた毎日に終わりが来ること。その事実を目の前にすることは、とても切ない。
頬に冷たい感触がする。目を開けると、ニジコの顔が目の前にあった。ニジコはあっと口を開けた後、くしゃりと泣きそうな表情をした。
「ごめん、私、ごめん」
近くにいるはずなのに、声が遠い。カエルの鳴き声がまだ耳の中に残っているみたいだ。
大丈夫だって、という自分の声も、どこか他人のもののように聞こえた。
「耳栓を持ってくれば良かったよ」
「だから言ったのに」
きっ、と強い目で僕を見る。ここは譲ってくれないらしい。
落ち着いてあたりを見回す。傍らには、固く閉ざされた鉄の扉がある。
「倒れてたのを、なんとか中に運んだんだ。ずっと来てないうちに、扉が錆びちゃってたみたい」
「来たことがあるんだ?」
僕らは石の壁にもたれて座っていた。彼女は、きっとこういう質問には答えてくれないんだろう。
「うちの近所でも、僕は全然気が付かなかったな、ニジコがいた事」
「最近、引っ越してきたばっかりだから」
彼女の声は沈んでいた。
「前の学校でいじめられて、引っ越してきて、でも学校に行けなかった。なかなか決断できなかったから、虹を見に行くことにした。もし、虹のたもとまでたどり着けたら、もう一度学校に行こうと決めて」
彼女には彼女の思いがあって、虹の端を目指している。
「ミキトくんは?」
「転校するんだ」
あっさり口にできた言葉は、今朝の絶望を呼び起こさなかった。
「いつか、見に行ってみたいと思ってたんだ。虹の端に何があるのか。今行かないと、もう見られないと思ったんだよ」
「転校しても虹は見られるよ」
「他の場所じゃ駄目なんだ」
一度言葉にすると、言いたいことがどんどん出て来る。
「いつも話してたんだ。雨が振った日の下校のとき、虹を見ながら、あの端には何があるんだろうって。そのときにみた虹の端をじゃないと、あいつらに自慢できないんだ」
「馬鹿みたい」
「なんだよ」
「でも私はそういうのいいと思う」
くるりと反転した手のひらは思いのほか優しい。
「でも、ニジコはもう知ってるんだろ?」
「私にはわからないよ」
「宝物があるとか、たどり着くと消えてしまうとか」
「ミキトくんにしかわからないんだよ、きっと」
「それは楽しみだな」
僕らは揃って立ち上がった。ニジコは服の砂を何度も叩いていた。
「怖くないの? 転校すること?」
「考えたこともなかった。ニジコは、寂しくないのか、もとの場所を離れて」
「私は、ずっと離れたいと思っていたから、そうは思わないよ。だけど、また離れたいような場所だったら嫌だなって、怖いと思うよ」
今の環境を離れることへの寂しさを、ニジコは感じない。僕は、新しい環境に足を踏み入れることへの怖さを感じない。
「だとしたら」
「うん?」
ニジコは首を傾げた。
「二人揃ったら最強だな」
「なにそれ」
と笑う。
「僕らはいい友達になれるよ」
友達、とニジコは初めての食べ物を味わうみたいに繰り返した。
「そうだといいな」
暗い石の回廊に、僕らの声はよく響いた。