ニジコ
踏切に捕まったところで、進路を左に変えた。学校にも、僕を待つタクトにも背を向けた。
耳障りな警笛が追いかけてくる。と、轟音を上げて、巨大な車体が近づいてくる。空気を切り裂き、あっというまに遠ざかり、遥か遠くで点になって消えた。
空に浮かぶ円弧は、まだはっきりと形を留めて空に浮かんでいる。早くしないと、消えてしまう。慌てて走り出そうとしたところで、誰かから呼び止められた。
「ちょっといいかなあー?」
その声は頭上から降ってきた。急いでいたから、僕はちょっと不満げな顔をしていたのかもしれない。
「この駅ってなんで電車止まらないの?」
「時刻表を見ればわかるじゃないか」
彼女は首をかしげた。
「わかんない。歩こう」
彼女は、破れた柵をくぐってホームから飛び降りた。ふわりと風に舞う白い姿は、カーテンを被ったお化けの偽物に似ていた。裾の部分が柵のトゲトゲに引っかかって、服が破れないか僕はひやひやしていた。
年齢は、僕と同じくらいにも、年上のようにも、年下のようにも見えた。無賃乗車しようとするところとか、にも関わらず時刻表を知らないところとかを見ると、もしかして日本人じゃないのかもしれない。
「どこか行くところだったの?」
初対面の僕にも物怖じしないところが、ますます外国の人っぽい、
どう答えようか迷った。虹の端っこを見に行くなんて、初対面の相手に言えない。
「友達の家に遊びに行くところだったんだよ」
夏の風がふわりと僕らを包む。まっすぐ続く道路の真ん中、遠くにかかった鮮やかな虹を、彼女は振り仰いだ。
「わかった。私もだよ」
彼女は言った。
「なかなか親が買ってくれないゲームがあってさ。友達の家じゃないとできないんだ」
「なんの話?」
僕らは顔を見合わせた。
「友達の家に行く話をしてる」
「虹を見に行くんでしょう?」
「ちが……」
「めちゃくちゃ見てたよ、虹」
言葉に詰まる。
「隠すことないじゃない。私も、行こうとしてたんだから。さあ」
彼女は大きく一歩を踏み出した。僕を振り向いて手を振る。着いてこいという感じだ。油断をしていると主導権を握られてしまいそうだ。
「名前教えてくれよ」
彼女は、ああ、とためらうような間を置いた。
「ニジコ。そっちは?」
ふっと目をそらす動作が凄く嘘っぽい。でも、言いたくないなら別に聞かない。
「ミキト」
「ミキトくんは虹のたもとに何があるか知ってる?」
「宝物があるとか、階段があるとか、何もないとか」
「知らないってことね」
ふふん、と鼻でも鳴らされてしまいそうだ。
「知ってるっていうのか」
「どうかな」
僕はからかわれているのかもしれない。
初めて出会った相手だけれど、気まずい感じはしなかった。自称ニジコは、線路の眺めたり、虹を眺めたり、石を蹴って運んだりと、歩いているだけなのにやけに忙しい。
道の端には家が並び、空き地があり、しばらく歩くと紫陽花の群れが現れる。げこ、と、カエルの鳴き声が聞こえた。
「このあたりに住んでるの?」
ニジコの顔には馴染みがなかった。目立つ見た目だ。だから、町で見かけたことがあればきっと気がついたと思う。
「そうだねえ」
「あの駅の近く?」
「そんなところ」
答えは曖昧だし、それで時刻表を知らないなんて変だ。
「初めて見る人だなって思って」
「ひどいな。私は気づいてたよ。楽しそうにしてる子がいるなあ、って、いつも一緒にいるよね。仲がいいのはいいことだよ」
言葉が妙に大人びて聞こえる。
「そうとも限らないよ」
ニジコはきょとんとした表情を僕に向けた。
「仲が悪いほうがいいってこと?」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあどういう意味?」
「ずっと仲良くいられるわけじゃないし」
言いたいことはあるはずだけど、うまく言葉にできない気がした。
ニジコは、そうかも、と呟いて黙った。言い返されると思っていたから意外だった。
「あ、アジサイ」
ニジコは僕の話を聞いていなかった。大きく一歩を踏み出すと、道路の端っこに寄っていく。
大きな葉っぱが道の端間からアジサイの花が顔を出す。表面に纏う水滴は、時間tとともに消えてしまう美しい宝石みたいに見えた。
つ、と葉っぱの先端から水滴が滑り落ち、葉っぱが小さく跳ね上がる。近くの葉っぱで休んでいたアマガエルが、慌てて飛び上がって崩落から逃れる。
「耳栓は持ってきた?」
「何をしにいくつもりなんだ?」
「虹の端っこを見に行くんでしょう?」
ニジコは鞄から透明のケースを取り出した。中にはゴム製の耳栓が二つ入っている。
「片方貸そうか?」
「二つで一セットだろ。使わないよ」
「あったほうがいいと思うけどなあ。買いに行く? ホームセンターあるし」
「なくてもいいよ。それより、急がないと消えちゃうだろ」
急いでいくつもりだったのに、二人になると速度が落ちる。日差しや空気の条件が変わると、たどり着く前に虹が消えてしまうんじゃないか。
「消えないよ」
心からそう信じている。確信に満ちた声だった、
「やっぱり見に行ったことあるだろ」
「そうかもねえ」
へらへらと笑みを浮かべる。憎らしいけどどこか愛嬌のある笑い方だ。
線路はトンネルの中に続く。頭上には国道が走っていて、急な坂を車が駆け下りるたび、振動と風の音が伝わってきた。
日差しを遮られたトンネルの中は、ひやりとして冷たい。道は大きく折れ曲がって、出口の見えないのが不安だ。
「こんなところにトンネルなんてあったっけ?」
なんの気なしに尋ねた。しばらく待っても、ニジコは返事をしなかった。見ると、耳栓をしていた。聞こえていないわけだ。僕に気がつくと、片方を外した。
「まだ早かった」
がたん、と後方から電車の音が迫ってくる。線路と歩道は別に別れているから、壁の向こうから振動が伝わってくる程度で、そんなにうるさくない。
「いらないだろ」
「もう抜けるよ」
トンネルは大きく曲がり、出口からの光が差し込んでくる。くぐもったような、何かをこすったような、しわがれた音がかすかに聞こえてきた、
「カエルが鳴いてるんだ」
「来た」
ニジコは耳栓をつけた上、耳を両手で隠した。
トンネルを抜けると、鮮やかな緑の色彩が僕を圧倒した。