タクト
時期は七月。長く続いた梅雨が明けた、土曜日の午前中は、タクトの家で新しいゲームをやるつもりだった。両親がなかなか買ってくれないから、僕は次善の策として友達の家でゲームを楽しむことに決めていた。だから休日や放課後が凄く楽しみで、勉強は嫌いだった。
両親から、転校の事実を告げられたのはその日の朝だった。今日はどのキャラクターを使おうかと思案していたところに、暗い一撃を見舞われた。せめて帰って来てからにしてくれれば良かったのに、そういう気遣いは僕の両親にはなかったみたいだ、
それでも僕は、衝撃によろめきながらもタクトとの約束を果たそうと椅子から立ち上がった。
玄関の扉を開けると、昨日までの曇り空が嘘みたいな明るい景色が目の前に広がった。足元の芝生には小さな水滴な無数にくっつき、明るい緑が立ち上がって世界を祝福しているみたいだった。
コンクリート塀は白く輝き、頭上に浮かぶ空はどこまでも広がっている。レンガ風の色合いの住宅や、木でできた建物、古くなった商店、いつもはただの景色として見逃してしまういろいろなものが、急に生命を持ち始めたように思えた。
転校なんて平気だ、と思って、つい走り出していた。気分が良かった。湿気を含んだ熱い夏の風が、頬を流れて後方に抜けていく、近所のおばさんが声をかけてきたのに適当な返事をする。スニーカーは軽やかに路面を叩き、僕の傍らを銀色の自転車の集団が走り抜けた。
タクトの家までは十分くらい。小学校までの道のりの、ちょうど中間地点にある。学校まで近くてズルいなといつも思っていた。いつも、集団登校の輪を外れてタクトと合流し、上級生を困らせた。学校ではテレビの話をしたり、内緒で持ち込んだカードゲームをしたりする。
新しい環境はいつも不安だった。けれど今では、自分を喜んで迎え入れてくれる、心強い友達がその先にはいた。
タクトだけじゃない。昨日、初めて話をしたあいつも、新しく教育実習で入ってきた先生も、いつも集団で向かってくる女子には困っているけれど、そんなことは大したことじゃない。
足元の水たまりに、陽光が光る。大きく一歩を踏み出して、飛び越えた。
地面を離れて、体が中に浮かぶ。不思議な感覚だった。緩やかに飛び上がって、緩やかな軌道を背中に残して、地面を掴む。
と、左足を思い切りひねった。コンクリートの凹凸に足を引っ掛けて、僕は思い切り地面を転がった。
じんとした痛みが左足首を捉える。僕は地面に横になったまま立ち上がれなかった。声をかけてくれる人は誰もいない。
水たまりの端を、のんびりした様子でカタツムリが歩いていくのが目に入った。じっと眺めていても、動いているのかいないのか、わからないような鈍足。これじゃあ、タクトの家まで一生かかってもたどり着けない。
足首の痛みが和らぐのを待つ。一度、二度と大きく息を吐く。体を起こして、水たまりの端に座った。小さなカタツムリを見下ろす自分が、巨人になったみたいだ。
痛みはすぐになくなった。でも、呼吸は苦しいままだった。鼻の奥に、針で支えたみたいな小さな痛みが走る。
ぼろぼろと何かが崩れていく感じがした。立ち上がって、タクトの家にいかないと。それなのに、体に力が入らない。
目の奥が熱くて、潤んできた瞳を拭おうとしたけど遅かった。僕が止めるのよりも先に、涙は目の端からこぼれ落ちる。後を追って、止める間もなく流れていく。
平気な訳がない。悲しくないなんて大嘘だ。感情は、現実に追いつくのに少しだけ時間がかかる。油断をしていると、強い衝動に全てを持ち去られてしまう。
タクトと、友達と、先生と、ずっと住んできたこの町が、目の前から消えていく。自分の作り上げてきた世界が崩れていくような感覚は、きっと絶望と呼んで差し支えないものだっただろう。
遠くから、車のエンジン音が聞こえた。現金なもので、身の危険と感じると反射的に体が動く。狭い道だ。コンクリート塀に背中をくっつけて車をやり過ごす。
排ガスの匂いは、別の涙を誘発しそうだ。顔を拭い、新鮮な空気をすおうと顔を上げた。
息が止まった。家の屋根と木々の間、遠く続く空の向こうに、美しい虹色の円弧が見えたからだ。
赤、橙、黃、青、紫。
「嘘だ、水色もあるよ」
「緑色も!」
虹は五色だったっけ? それとも、七色だったっけ? いままで交わした言葉の数々が、色形を変えてぐるぐる回る。
「虹のたもとには、宝物があるんだ」
そう言ったのは、確かタクトだった。
この街を離れたら、もう二度と宝物は手に入らない。そんな気がした。
僕は初めて、タクトとの約束を破ることした。いや、約束をしたことさえ頭になかった。
僕の足は、まるで誰かに操られているみたいだった。