信長からの電話
――プルルルル!!
三度目の音が鳴り響いた直後、体を震わせて動けなくなってしまった徳川家康に代わって、酒井忠次が『受話』と『拡声』を押した。
すると家康の『主魔保』からドスのきいた低い声が聞こえてきた。
「戦だ。貴様もこい。以上」
――ブツッ。……ツーッ、ツーッ、ツーッ……。
たったそれだけで一方的に電話は切られた。
しかし体の芯から凍えてしまいそうな信長の声を聞いた人々は、みな言葉を失ってしまった。
そのため、先程まで本多忠勝と榊原康政の友情で沸騰するように熱くなっていた部屋の中は、まるで葬式の後のようにシーンと静まり返っている。
そんな中、呆然と目を見開いた家康は、ぼそりとつぶやいた。
「わしはいったい、どこに行けばよいのだ? 相手はいったい誰なのだ……?」
家康は隣の忠次の顔を見たが、忠次はブルブルと首を横に振る。
そして忠次に続けとばかりに、重臣たちはみな首を横に振っていた。
「まずいぞ……。ちょっとでも出遅れれば、信長殿の勘気に触れる。そうなれば『滅せよ』の一言で当家は潰されてしまうかもしれん……」
と、家康が沈んだ声を発した瞬間だった。
――プルルルル!!
と、再び家康の電話が鳴り響いたのである。
――また信長公か……!?
誰もが先ほどの電話の内容を思い起こして顔を青くした。
中でもビクリッと肩を震わせた家康は、耳を塞いで電話から顔をそらしている。
忠次も今度は画面を見ないようにして『受話』と『拡声』を押したのだった。
「徳川殿でらっしゃいますか!? 織田家の佐久間信盛と申す!」
その快活な声に、ほっとした一同は電話の向こうの佐久間信盛の声に耳を傾けた。
「いやあ、殿がまた無理難題を押し付けてしまったようでかたじけない! 失礼を承知で、殿から徳川殿の電話番号を教えてもらって、こうしてかけたのだ!」
「佐久間殿。それがしは酒井忠次と申す。申し訳ないが、信長公の御指示について、詳しくお聞かせ願えんだろうか?」
「おお! まさにそのことで電話したまでにございます!」
そう切り出した佐久間信盛は早口で用件を伝えてきた。
近江の浅井氏を攻めるらしいので、一軍を率いて岐阜城へ来て欲しいというのだ。
もちろん「嫌じゃ」と言えるはずもなく、「分かった。すぐに向かうと信長殿に伝えてくれ」と家康が答えると、電話口の信盛は上機嫌に締めくくった。
「では、岐阜近くになりましたら、それがしにお電話くだされ」
「うむ。数正から電話させよう」
あくまで家康からは電話をしたくないようだ。
数正は眉をひそめたが「かしこまりました」と答えて、小さく頭を下げたのだった。
こうして佐久間信盛のおかげで織田信長からの用件が正しく伝わると、みなほっと一安心してへたり込む。
そんな中、再び上座で立ち上がった家康は、右の拳を固めて高らかと告げた。
「みなのもの! のんびりしている場合ではないぞ! 信長殿に三河武士の強さを披露する時だ! 気張って支度をいたせ!!」
――オオッ!!
家康の力強い号令にみな一斉に気合いが入る。
――さすがは殿じゃ! 締める時はびしっと締められる!
と、重臣たちは口にこそ出さなかったが、家康の姿を見て目を輝かせていたのだった。
だが、そこに再び電話の呼び出し音がこだました。
――プルルルル!!
戦を控えて興奮のさなかにあった家康は、くわっと目を見開くと『主魔保』に向かって叫んだ。
「今のわしは槍が飛んでこようとも怖くなどない! 忠次!! 出よ!!」
「はっ!!」
家康の気迫に押されるように、忠次は電話を『拡声』にして出た。
すると……。
「あのー……。もしもし、家康さまぁ? おこちゃです。今夜のアレについて御相談が……」
と、若い女性のか細い声が聞こえてきたのだ。
――シーン……。
先ほどまでの興奮はどこへやら……。
全員がポカンと口を開けて、家康を見つめている。
一方の家康は、顔をりんごのように真っ赤に染めたまま固まっていた。
「殿……おこちゃ殿より『今夜のアレ』について御相談だそうです」
忠次は低い声で告げると、『拡声』を閉じて、そっと電話を家康の耳元に差し出した。
家康は無言で電話を受け取るなり、「早く出て行け!」と口の動きだけで部屋にいる者たちに促す。
すると本多忠勝が、はっと何かに勘付いたように目を丸くした。
そして険しい表情に一変させると、浜松中に聞こえるほどの大声で叫んだのだった。
「殿がおこちゃ殿と『今夜のアレ』について御相談されるそうだ! みな空気を読んで、早く部屋を出よ!!」
と――
◇◇
数日後、岐阜城――
「おお! 徳川殿! よくぞいらした!」
徳川家康をはじめとする徳川家の面々は、佐久間信盛に明るく出迎えてもらうと、彼の先導によって織田信長の居城である岐阜城へ入った。
「殿は今、『主魔保部屋』に入っておられる! 案内をいたしますゆえ、ついてきてくだされ」
「すまほべや? なんだ、それは?」
家康は佐久間信盛に対して問いかけると、彼は表情を引き締めて答えた。
「戦場でございます」
『戦場』という単語に家康だけではなく彼の家臣たちが一斉に顔色を青くする。
その様子を見た佐久間信盛は、手をひらひらさせながら笑った。
「あはは! そう怖がらなくてもけっこうですぞ! 実際に鉄砲や弓が飛んでくるわけではございませんゆえ!」
「はぁ……? では、いったいなぜ『戦場』などと……? もしやお戯れであろうか?」
家康が眉をひそめて問いかけると、佐久間信盛は厳しい表情になった。
「徳川殿……。決して殿の前で『お戯れ』などと申してはなりませぬぞ。その場で斬り殺されてしまうかもしれませんからな」
「なんと……」
家康が再び顔をこわばらせたところで、どうやら目的の部屋の前までやってきたようだ。
佐久間信盛が足を止めると、部屋の中に向けて声を上げた。
「徳川家康殿、御到着でございます!」
すると低い声で返事がかえってくる。
それは確かに織田信長の声であった。
「中へ入れよ」
「はっ!」
佐久間信盛は短く返事をすると、さっと部屋の襖を開けた。
そして家康の目に部屋の様子がはっきりと映った瞬間、彼は驚愕のあまり腰を抜かしてしまったのだった。
「な、な、な、なんじゃこりゃぁぁぁぁ!?」
と――