電話なんて用件が伝わればいい! ……という訳にもいかない場合もある!
◇◇
家康の主魔保特訓は、早くも休憩時間を迎えた――
「はぁぁ~。もう疲れたのう」
家康は廁で用を足しながら、大きなため息をついていた。
そしてすっきりしたところで、自然と頭も冴えてきたのである。
――そもそも主魔保など、『道具』の一つにすぎんではないか! 何で『人』のわしが『道具』に踊らせなければならんのだ!
ふとそんな考えがよぎると、ふつふつと怒りの感情が湧いてきた。
だがその一方で……。
――考えてみれば、槍も鉄砲も『道具』じゃ。これからの世の中、『道具』を上手く扱えん『人』は生き残ってはいけぬのかもしれん。すなわち『人』と『道具』の立場は逆転したのだ。
という、ひどく哲学じみた理屈も浮かんでいる。
そうして家康は自分の気持ちの整理がつかぬまま、廁を出て「特訓部屋」へと戻っていくことにしたのだった。
……と、その時だった。
「夕餉、いらん! 以上!」
――ガチャッ!
と、誰かが電話をかけている声が聞こえてきたのだ。
家康はそっとその様子を覗いてみると、そこには口をへの字に曲げた、いかにも頑固一徹といった風貌の男が立っていた。
彼は本多重次、通称「作左衛門」という名の、家康の家臣であった。
「作左衛門ではないか!」
「これはっ! 殿! お見苦しいところを!!」
「いや、いいのじゃ。それよりも、さきほどのは何じゃ?」
「むむっ!? 先ほど、と申されますと、こちらですかな?」
と、重次は主魔保をぬっと差し出してきた。
家康は苦虫をつぶしたような顔でそれを見ながら、何度もうなずいている。
すると重次はゲラゲラと大笑いを始めたのだった。
「がはははっ! 信玄公も恐れる殿様とは思えぬほどの、おびえよう! まるで赤ん坊のようですな! がはははっ!」
「やいっ! 作左衛門! わしが赤ん坊のごときとは何事じゃ!」
「がはははっ! 殿はとんだ臆病者じゃ! がはははっ!」
なおも大笑いを続ける重次に対し、ぷくっと頬を膨らませた家康は「こやつに話しかけたわしが馬鹿であった!」と言い捨てて、その場を立ち去ろうとした。
……と、そこに重次のだみ声が響いてきた。
「お伝えしたいことだけを伝えるように心がければ、何も怖がることはございますまい!」
家康が目を丸くして振り返ると、それを見計らったように重次の主魔保が鳴り響いてきた。
自分の電話が鳴ったわけもないのに、なぜかビクリと肩を震わせた家康。
その一方で、重次は目をつむったまま電話に出た。
――もしもし作左衛門さまぁ。今宵は『お酒』と『わたし』、どちらを召し上がりますかぁ?
どうやらそれは作左衛門の若い妻のようだ。
他人の家康でも思わず顔が赤くなってしまいそうな問いにも、険しい表情のままの重次。
すると次の瞬間には、彼はかっと目を見開き、天まで届くような大声で答えたのだった。
「『わたし』だ! 以上!」
――ブツッ!
それはまさに瞬殺。
さながら剣豪が一刀のもとで敵を切り裂くような、すさまじい気迫に、家康は「おおっ!」と感嘆の声をあげた。
重次は主魔保からゆっくりと家康の方へ視線を移すと、低い声で問いかけたのだった。
「……お分かりであろうか?」
と――
………
……
特訓部屋に家康が戻ってきた。
彼を一目見た瞬間に、酒井忠次と石川数正は、はっと目を開いた。
ゆらりと体を揺らしながら現れた家康は、さながら無我の境地に達した剣豪のようであったからだ。
――ひと皮むけられたのか……?
――悟りを開かれたのか……?
と、二人はにわかに困惑しながらも、悠然とした態度で席についた家康を見つめていた。
そして彼は腰を下ろすなり、ゆったりとした口調で告げたのだった。
「世の中、余計なもので溢れ過ぎているのう……」
目を細めて遠くを見つめている家康に対して、忠次は恐る恐る問いかけた。
「その心は?」
「物も、銭も……そして言葉も。本来、人が人らしく生きるには、必要最低限だけあればよい、ということじゃ」
ますます訳が分からなくなった忠次と数正は、互いに目を見合わせながら首をかしげていた。
……と、次の瞬間だった。
――プルルルルッ!
と家康の主魔保がけたたましい着信音で鳴り響いたのである。
いつもの家康なら主魔保を放り出して、壁際までずり下がっていただろう。
しかし……。
この時の彼は違った。
「ふっ……。きたか……」
と、口元にかすかな笑みを浮かべると、静かに目をつむった。
そして、何のためらいもなく『受話』を押したのだった。
――もしもし!? 殿でございますか!? 今日はいつもよりも四半刻(約一五分)も電話が遅いから、わらわからかけてしまいました! いったいなぜ電話をかけてこられなかったのですか?
それは築山御前だった。
どうやら『日課』である家康の電話が、いつも通りの時刻になかったので、わざわざ彼女の方からかけてきたようだ。
電話越しに聞こえてくる声が、少しだけ上ずっていることからして、不愉快さが伝わってくる。
だがそんな状況にも関わらず、家康は弁解もせずに、ただ黙ったまま目をつむり続けているではないか。
「と、殿! ここは何かお答えせねば!」
心配した忠次が家康の耳元でささやいたが、家康はまるで巨大な岩石のようにぴくりとも動かない。
すると電話の向こうの築山御前が続けた。
――……モシモシ? ちゃんと聞いてル? 答えニよってハ……。ユ、ル、シ、マ、セ、ヌ。
まるで妖怪が憑依したかのような紫色した口調に、忠次と数正は恐怖して震えた。
……が、しかし!
家康は泰然としたまま目をつむっている。
凍りついた沈黙が部屋の中を流れた……。
その次の瞬間だった。
――カッ!
と目を大きく見開いた家康は、獅子をも倒すほどの大声を上げたのだ。
「なんでもないっ! 以上!」
――ブツッ!
あまりのことに圧倒されて、声も出ない忠次と数正。
一方の家康は、何かをやり遂げた後のように、爽やかな笑みを浮かべて言った。
「これぞ主魔保の極意。『必要なことだけを伝える』じゃ。どうじゃ? かっこよかったじゃろ?」
とても満足そうな「ドヤ顔」で、親指を立てている家康。
先ほどとは違った空気の沈黙が、部屋中に流れた。
……だが、それも束の間。
――カッ!!
と、大きく目を見開いたのは忠次だった。
彼は城中に聞こえるような大声で、部屋の外で待機している小姓に早口で告げた。
「戦だぁぁぁ!! 戦の支度をいたせぇぇぇ!!」
「はっ!」
その声に弾けるように、今度は数正が声を張り上げる。
「門を固く閉めよ! 何人たりとも、中に入れてはならん! よいなっ!?」
「はっ!」
そして彼らは部屋の脇に飾ってあった甲冑を、家康に着せ始めた。
「なんじゃ? なんなのじゃ?」
突然のことに、訳が分からず戸惑う家康に対して、忠次と数正の二人は黙々と戦支度を続けている。
そして家康がすっかり出陣前のかっこうとなったところで、数正の口から驚愕の事実が告げられたのだった。
「殿。よぉく、耳をかっぽじって聞いてくだされ」
「だから、なんなのじゃ? 急に」
「もう間もなく『敵』が攻め入ってきます。それは殿の主魔保での受け答えのせいでございます」
「はぁ? いったいどういうことじゃ? それに誰が攻めてくるのじゃ!?」
「……いいですか。『なるべく長く会話せねば、あらぬ疑いをかけて激怒する人もいる』ということを、いい加減覚えてくだされ」
「げっ……! ま、まさか……」
家康の顔がさっと青ざめる。しかし直後には、口元に引きつった笑みを浮かべて、手をひらひらさせた。
「あはは……。脅しがすぎるぞ。『敵』は岡崎、ここは浜松。馬を飛ばしても一日以上はかかるわい!」
だが忠次は、真剣な顔で家康に言い放った。
「お相手は……あの御方なのですぞ!」
その言葉が終わるや否や、外から騒がしい声が聞こえてきた。
「われこそは本多平八郎忠勝なりぃ!! いざ、尋常に……。ぐわあぁぁぁっ!」
「俺は榊原……ぎゃああああっ!」
そして外が彼らのうめき声で埋め尽くされると、廊下から『ナニか』の足音が近づいてきた。
――ヒタッ……。ヒタッ……。ヒタッ……。
「ぎえええええっ!」
家康は顔を真っ青にして、ぴょんと飛び跳ねると急いで廊下とは逆の隣の部屋へつながる襖を開けた。
――スパンッ!
乾いた襖の開く音が部屋にこだます。
……が、次の瞬間……。
襖の向こう側に立っていた『ナニか』に、場が凍りついたのだった。
「トノォ? イッタイ、ドコヘイクオツモリカ?」
時に不必要と思われるものこそ、必要な時もある……。
……お分かりだろうか?
いや、メンドくさい時って多いんですよね、ほんとに。
……お分りだろうか?




