電話を短い言葉ですまそうとするのは逃げである
◇◇
徳川家康の主魔保特訓、二日目――
指南役の石川数正は、家康に向かって一つ進言した。
「殿! まずは『普通』に会話できるようになることから始めましょう!」
数正の言葉に家康は、むっとして言い返した。
「ちょっと待て、数正! 今のは聞き捨てならんぞ! それではまるでわしが『人とろくに会話ができない残念な男』みたいではないか!」
すると数正は、すっと主魔保を家康の前に差し出した。
びくりと肩を震わせてそれを睨みつける家康。
数正はそんな家康を見て、諭すように言ったのだった。
「殿。では試しにやってみましょう。殿が『普通』の会話を、コレでできるか」
「な、なんじゃと!? なんでわしがコレで会話をしなくてはならんのだ!」
あきらかに嫌な顔をする家康。
しかし数正は殺気すらただようような強い眼光で告げたのだった。
「無論、特訓だからです」
と――
………
……
特訓、その一。
相手は酒井忠次。
言うまでもなく家康の側近であり、普段からよく会話をしている仲だ。
つまり通常であれば『普通』に会話のできる相手なのである。
しかし……。
「……」
「……」
「……」
「……殿?」
「……であるか」
「何か話しかけてくだされ」
「……であるか」
「……」
「……」
「……殿! では、それがしから話しかけてもよろしいでしょうか!?」
「……であるか」
「今日は天気がいいですなぁ! 鷹狩りなどしたら気持ちが良さそうですな!?」
「……であるか」
「そう言えば先日、岐阜で頂戴したお料理は美味しかったですなぁ! また食べたいとは思いませぬか!?」
「……であるか」
ここで数正が脇から大声をあげた。
「はいっ! おやめくだされ! 特訓そこまでー!」
ブツリと電話を切った瞬間に、家康は「ぶはぁ!」と大きく息を吐き出した。
そして堰を切ったかのように話し出したのである。
「いやぁ、なかなか良い会話であった! がはははっ! ほれ見ろ! ちゃんと会話ができたではないか!」
「はああああ!? 殿は本気でそれをおっしゃっておられるのですか!? 酒井殿が何を言っても『であるか』しか口にしていなかったではありませんか!」
数正が顔を真っ赤にして身を乗り出すと、家康はぷくりと頬を膨らませた。
「だって信長殿も、『であるか』って言ってたもん!」
「あれは織田様だからお似合いなのです! あの精悍で覇気のある顔からは似合わぬ短い一言に、人々は畏怖の念を抱かれるのですから!」
「やいっ、数正! それではまるで、わしが精悍でもなく覇気もない顔だから短い一言が似合わぬ、みたいではないか!」
「そうは言っておりませぬ! しかし、普段から『であるか』など、ただの一度も使ったことがないではありませんか! 殿は逃げておられるだけです! 簡単な一言で会話をすまそうと、逃げておられるのです!」
「ば、ばかものぉぉぉ!! 敵に対して一度も背を向けたことのないわしに、『逃げている』とは、なんたる無礼か! ならば証明してみせようではないか! わしは絶対に逃げんということを!!」
――ピッポッパ!
勢いとは恐ろしいものだ。
ましてや頑固一徹の三河武士の家康。
彼は売り言葉に買い言葉と言わんばかりに、体が勝手にとある相手に電話をかけてしまったのである。
電話番号が天下一分かりやすい相手に――
「……もしもし、貴様は家康か?」
「……であるか」
「……なんのつもりだ?」
「……で、であるか」
「貴様……この信長に悪ふざけをしようとは、よほどのアホウか、それとも……」
「……で、で、で、である……」「とのぉぉぉぉ!! もうよい! 分かりました! この数正の負けでございますぅぅ!」
「織田殿! 申し訳ございませぬ! 今殿は重い病におかされておりますゆえ、お許しくだされ! では!」
――ブツッ!!
数正の叫び声がよいんとなって部屋の中の静寂に残る中、家康は恐怖のあまりに震えながら涙を流し続けていた。
そしてそれは、三河武士のくそ頑固な気質が、恐怖を凌駕した何よりの証だった。
「であるかぁぁぁぁぁ! うわあああああ! 怖かったであるかぁぁぁぁ!!」
こうして家康は何かを成し遂げた代わりに、大きな何かを失った。
そして固く決意したのである。
――もう『であるか』はやめて、ちゃんと主魔保の特訓をしよう。
と――
……であるか。




