【しつこいが閑話】龍虎の仲②
◇◇
越後、春日山城――
甲斐の武田家と同じように、緊張の面持ちの当主、上杉謙信を、重臣たちがぐるりと囲んで、世紀の瞬間を今か今かと待ち構えていた。
なお中性的で童顔の謙信は、一見するとうら若き乙女のようであるが、中身は普通のおっさんだ。
そして、その時はついにやってきた――
――プルルル!
と、彼の電話に着信がきたのだ。
「殿! 出てくだされ! 信玄公でございます!」
『毒見』、つまり着信の電話番号が誰かを確かめた側近の直江景綱が、謙信に主魔保を差し出した。
それを震える手で持ち上げた謙信は、ゴクリと唾を飲み込む。
「すー…… はー…… すー…… はー……」
電話の着信音は続いているが、何度も深呼吸を繰り返す彼は、なかなか出ようとしない。
見かねた直江景綱は、謙信を励ました。
「殿! そんなに緊張なされなくても大丈夫です! 相手は離れたところにおられるのですから!」
「……電話は魂が取られると姉上が言ってた」
「なっ……! そんなの迷信でございます!! 殿! 早く出ないと無礼でございます!」
――殿! 殿ならやれます!! 頑張ってくだされ!
――殿! われわれがついております!!
弱気の謙信を家臣たちが口々に励ます。
するとついに謙信は、カッと目を見開いて決心を固めた。
「……全ては『義』のため!!」
――ブツッ!
意を決して電話の『受話』を押した謙信。
すると……。
「あっ! 出た! もしもし?」
と、電話の向こうから声が聞こえてきた。
――忘れもせぬ。これはまぎれなき宿敵の声……。
その声を耳にした瞬間に、謙信の脳裏には、まるで走馬灯のように『川中島』での激闘が鮮やかに蘇る。
馬に乗った謙信が、本陣にどっしりと腰を下ろした信玄に対して、名刀を振りおろしたあの時のことだ。
――わしは何があっても動かんぞ! 謙信!
――ならば動かぬまま死ぬがいい! 信玄!
互いの意地と意地がぶつかり合う。
一瞬だけ時が止まったかのような不思議な感覚を、謙信は生涯忘れることはないだろう。
あの時の興奮と激昂が胸のうちで炎となって燃えたぎった瞬間――
――プチッ!
と、思わず電話を切ってしまったのだ。
「えっ……?」
直江景綱らが唖然として謙信の顔を見つめる中、「ふー、ふー」と荒い呼吸の謙信は、鬼のような形相で主魔保を睨みつけていた。
――ツーッ……。ツーッ……。ツーッ……。
電話からは虚しい機械音だけが響いてくる。
そしてしばらくした後、謙信は主魔保を床の上に置いて一礼した。
「すべては『義』のため……」
その言葉を聞いた直江景綱は、顔面蒼白のまま、彼に詰め寄った。
「なにが『義のため』ですかぁぁぁ!? 殿! 今のは立派な『一斬り』ですぞ!! 信玄公にしてみれば、これとない屈辱でございます!!」
謙信は直江景綱の方にちらりと目を向けると、ぼそりとつぶやいた。
「許せ、景綱。奴の声を聞くと、心の中の龍が暴れ出すのだ」
「意味がまったく分かりませぬ! 足利将軍家のため、これまでの禍根を捨てて、武田家と手を取り合うと決めたではありませんか!」
景綱が顔を真っ赤にしてつめよると、謙信はどこかばつが悪そうに顔をそむける。
「……俺だって分かっておる。次は上手くやってみせるもん」
と、半べそをかきながら、ぼそりと呟いた。
その様子を見て、柿崎景家と本庄繁長という、筋肉の塊のような大男たちが謙信の前に躍り出て、直江景綱から守るように両手を広げた。
「これ以上、殿をいじめるのは俺たちが許さん!」
「殿が今にも泣きだしてしまいそうではないか! このいじめっ子め!」
直江景綱は口元に引きつった笑いを浮かべるより他なかった。
――こやつら……。殿の仕草に騙されおって……! 殿を甘やかしてもいいことなどないと、なぜ気付かぬ!?
すると再び謙信の主魔保がけたたましい音を立てて鳴り響いた。
直江景綱は柿崎景家らを押しのけて『毒見』をする。
「武田信玄公にございます。殿、今度こそは上手くやってくだされ! 殿は、信玄公からの御提案に、ただ『分かった』と一言だけ言えばよいのですから」
謙信は口を真一文字に結んで、こくりとうなずく。
そして再び震える白くて細い手で、『受話』を押した。
しかし……。
――プチッ!
と、再び一言も発しないままに電話を切ってしまったのだ。
「ちょっ! ちょっとぉぉぉ!! 何をしておられるのですか!? さっきから! いじめですかぁ!? 新手のいじめですかぁ!?」
「……許せ。毘沙門天が、謙信の指を動かしちゃったの」
「意味が全然分かりませぬ! 殿も御存じでしょう!? それがしと、武田家家老、馬場信春殿がどれほどの苦労を重ねて、ここまでこぎつけたのか!」
それは直江景綱の言葉の通りだった。
武田信玄と上杉謙信。
どちらも我が強く、なかなか意見を曲げようとしない武士の象徴のような男たちだ。
しかも彼らは数十年にわたっていがみ合っている。
その両家の当主同士が『電話会談』をするに至るまで、まさに血を吐くような調整を直江景綱と彼のもとで働く文官たちが行ってきたのである。
その汗と涙の結晶を、『一斬り』という行為でぶち壊しにする謙信の行為は、直江景綱にとって到底許せるものではなかったのだった。
しかし……。
どのお家にも空気を読むのが苦手な人物というのはいるものだ。
「おいっ! 景綱!! 殿に向かって無礼ではないか!!」
「殿がついに泣きだしてしまったではないか!」
小さくなって震えている謙信を守護する二人の熊のような大男。
追い詰められて弱々しい姿を見せる当主と、それを守る守護者の姿を見れば、どちらが『悪者』かは、誰が見ても明らかだ。
たちまち直江景綱は、その場に集まっていた重臣たちの冷たい視線にさらされてしまった。
だが、彼とて上杉家に尽くしてきた忠臣だ。
ここでひくわけにはいかなかった。
「おぬしらは何も分かっていないのだ! 上杉と武田がいがみ合ったままでは、天下は織田信長の思い通りになってしまうのだぞ!」
直江景綱の熱のこもった弁舌に、謙信が柿崎景家らを押しのけて、前に出てきた。
そして直江景綱の間近までやってくると、ぐいっと顔を近付けた。
くっついてしまいそうな距離で見つめ合う二人。
直江景綱の胸がなぜか高鳴っていく。
「景綱……。すまなかった」
謙信の甘い声が、薄い唇の謙信の口から発せられると、彼の柔らかな息が景綱の頬をくすぐった。
――なんじゃ!? なぜそれがしはドキドキしてしまっているのだ……!?
直江景綱がゴクリと唾を飲み込む……。
……と、次の瞬間だった――
――プルルル!!
静寂を切り裂くようなけたたましい音が鳴り響いたのだ。
景綱は、はっとしてその音の方へ目を向ける。
それは謙信の主魔保からであり、武田信玄の電話番号が表示されていた。
「殿! 次こそは!」
「うむ! 任せておけ! 全ては『義』のためっ!」
先ほどまでとは明らかに雰囲気の違う謙信。
そして彼は迷うことなく、『受話』を押した。
――もしもぉし! 武田信玄じゃが!
信玄の不機嫌そうな声が聞こえてくる。
その直後、謙信は顔を真っ赤にして黙ってしまった。
「殿! 名乗ってくだされ!」
直江景綱は謙信の耳元でささやく。
謙信はコクリとうなずくと、一度大きく息を吸い込んだ。
そして……。
ついに彼は言葉を発したのだった――
「廁へ行ってくるっ!!」
――プチッ! ツーッ……。ツーッ……。ツーッ……。
「はっ?」
直江景綱が呆気に取られているうちに、謙信は逃げ出すように部屋を出ていってしまったのだった……。
――プルルル!!
直後に鳴り響いたのは、謙信の主魔保ではなく、直江景綱の主魔保。
そこには『馬場信春』の電話番号が表示されている。
――怒られる……。絶対に馬場殿に怒られる。くっ……。かくなる上は仕方あるまい!
彼は電話に出る前に小姓を呼びつけると、部屋の隅にあった巨大な酒樽を「ドンッ!」と小姓の前に置いた。
そして彼は早口で命じたのだった。
「これを『全部』殿へ飲ませろ!」
「ぜ、全部でございますか!? しかしこれを全部飲んだら……」
「つべこべ言うな! とにかく『全部』飲ませるのだ! 行け! 早く!」
「は、はい!」
小姓が酒樽を抱えながら廊下へと出ていったのを見て、彼は馬場信春からの電話に出た。
「もしもし。馬場殿! どうもすみませんでしたぁぁぁ!!」
そう叫んだ彼は、電話の前で何度も頭を下げたのだった――
◇◇
一方、甲斐国。
上杉謙信がたった一言を発しただけで電話を切ってから四半刻(約三十分)後――
甲冑に身を包んだ武田信玄は、神妙な面持ちで評定の間に姿を現した。
そして、彼を迎えた家臣たちもまた、戦の準備を整えてから集まっていたのだった。
「これより『軍議』を始める!」
――おおっ!
信玄の重々しい一言に家臣たちが声を揃えて返事した。
「何度も『一斬り』を繰り返した挙句、一言発したと思えば『廁へ行く』とだけで、一方的に電話を切るとは、わしの面子を切ったのも同じじゃ! 上杉謙信、断じて許さぬ!」
――おおっ!!
「御旗楯無、御照覧あれ!!」
――おおっ!!
信玄と家臣たちが一丸となって、出陣への士気を高める中、馬場信春だけは普段着のままだった。
「殿! 早まってはなりませぬ! 謙信公が極度の人見知りであることは、殿も良く御存じでしょう! 今、殿が槍の先を向けるべきは、越後ではございませぬ! 岐阜にございます!!」
そこまで馬場信春が告げたところで、信玄はさっと手を上げて、彼を制した。
「信春よ。これは理屈ではないのじゃ。わしは侮辱されたままで黙っていられるほどに甘い男ではないというのを、あやつに思い知らせねばならぬ。これもあやつの心を育てるためじゃ」
――おおっ! さすが殿じゃ! 敵をもお育てになろうという寛容な心!
――天晴れじゃ!
――それに比べて上杉謙信めぇぇ! なめくさりおってぇぇ!
――主魔保の仇は川中島で討つ!
家臣たちが口ぐちに謙信を罵倒しはじめると、もう手がつけられない。
あとは信玄の「出陣!」という号令を待つのみ、というところまで場は熱くなってしまった。
「くっ……。これまでか……」
馬場信春は悔しそうに唇を噛んだ。
そしてついに信玄が、大号令をかけるために立ち上がった。
だが、その時だった――
――ドドン! ドドン! ドドン!
という信玄の主魔保の着信音が鳴り響いたのだ。
信春は何か予感がしたのか、信玄の前に躍り出ると『毒見』を買って出た。
そしてその電話番号を見た瞬間に、顔を喜色に染めた。
「謙信公でございます! 殿! 上杉謙信公からのお電話でございます!!」
全員の目が一斉に信玄の主魔保に集まる。
みなが当主が何を謙信に話すのか、気になって仕方なかった。
すると信玄はそんな彼らの心情を察してか、主魔保を睨みつけて口を尖らせた。
「なにを今さら! 謝っても絶対に許さん! だが、ちょうどよいわ! 宣戦布告してくれよう!」
――おおおっ!
家臣たちが一斉にわきたつ中、信玄は力強く『受話』を押した。
その次の瞬間、謙信の声が聞こえてきたのだが、それは彼らの予想の斜め上をいくもだった……。
「もっしもーし!! ちはー! 謙信ちゃんだぞぉ。うふふ、突然のお電話で驚いちゃったかなぁ?」
「……はっ?」
「もう、やっだぁ! 『はっ?』っていう声まで渋いんだからぁ。さすがは甲斐の虎。気をつけないと食われちゃいそう! 誰か助けてー! なーんて、ねっ!」
「ちょっと……お主……もしや、酒に酔っているな?」
「お酒ぇ? あんなの水よ、水! それよりも、謙信ちゃんと信玄くんは、大事なお話しがあるのでしゅっ!」
『拡声』にした主魔保から聞こえてくる、上杉謙信の天真爛漫な声に、武田家の家臣たちの間から、かすかな笑い声が漏れている。
先ほどまでの一触即発の空気はどこへやら……。
むしろなごやかな雰囲気に包まれていた。
しかし、ここで謙信の言葉にのまれてしまっては信玄の沽券にかかわる。
彼は険しい顔つきのまま、謙信に宣戦布告をしようと試みた。
「もうお遊びはここまでじゃ。わしはお主に告げねばならぬことがある」
「うっそぉぉぉ!? ここで愛の告白とかぁぁ? ダメよ、ダメ、ダメ! それって禁断の恋ってやつじゃないですかぁ。うふふ、そういうのは二人だけの秘密でねっ! 今度、川中島で会った時にしましょ!」
「ち、ち、ち、違う!! なにを言い出すかと思えば!!」
――ははははっ!!
信玄が顔を真っ赤にして否定している様子に、ついに家臣たちは堪え切れずに大爆笑し始めた。
しかし完全に酒に酔っている謙信には、彼らの笑い声は届いていないようだ。
彼は甘ったるい声で続けた。
「もう、照れ屋さんなんだからぁ。いいのよ、わたしはこう見えても『義』にあついから。全部、黙っておいてあ・げ・る! うふっ。じゃあ、本題に入りましょっ!」
「ぐぬっ……。もうよい! 戦じゃ!」
「うふふ。もう、信玄くんったら、気が早すぎぃ。来年の春にしましょ。ねっ!」
「いや、今すぐにたたきのめしてくれる!」
「ダメよ、ダメ、ダメ! 焦りは禁物よん! そんなに怖がらなくても大丈夫だからぁ。だってぇ……」
そこで一度言葉を切った上杉謙信。
すると彼はそれほどまでとは正反対の、おどろおどろしい声で告げたのだった。
「……この上杉謙信が本気になるのだぞ」
――ゾクリッ!!
謙信の言葉に信玄だけでなく、武田家の全員の肝が一瞬にして凍りついた。
信玄は必死に声を出した。
「い、いや。そんなに本気を出さなくてもよいのじゃ。わしもほら、ちょっと怒っただけだし」
「それは『義』に反する。やるなら徹底的に。全てを焼きつくすまで戦ってくれよう」
「す、全てを焼きつくすじゃとぉ!? ちょっと待て! それはいかん!」
驚愕と恐怖に声が上ずっている信玄。
しかし、信春には謙信と信玄の二人の会話が噛み合っていないように思えてならない。
そこで彼は「失礼!」と、信玄に一声かけると、電話に向かって大きな声で問いかけたのだった。
「謙信公! お主が本気で戦おうとしているお相手はいずれか!?」
その問いに信玄は目を丸くした。
彼としては、謙信は当然『武田家』を相手に本気で戦うものだと考えていたからだ。
しかし、それはまったくの勘違いであった――
「もうっ! そんなの言わなくても当たり前でしょ! 信長よ! 織田信長! あんなやつ、謙信ちゃんと信玄くんでぶっ飛ばしてやるんだから!」
信玄はさらに目を大きく見開いた。
しかしそれも束の間、彼は大笑いをはじめた。
「うわっはははは!! そうじゃな! わしとお主が組めば、天下に敵なしじゃ!!」
「うふふ、じゃあ、来年の春ね! 謙信ちゃんは越中から越前を抜けて岐阜へ行くわよ! くれぐれも邪魔しないで頂戴ね! 信玄くんは、いっつも越中の一揆を扇動したり、うちの家臣にちょっかい出したりして邪魔するんだもん」
「うむ! 任せておけ! なら、わしも来年の春に動くとしよう!!」
彼はそう言ったところで、家臣たちの顔を見回した。
そして、電話の向こうの謙信ではなく、目の前の彼らに対して高らかと告げたのだった。
「来年の春! 東海道を通って西上いたす! まずは、徳川家康! あやつを屠ってくれよう!!」
と――
閑話なのにヘビーな内容になってしまった。。。
ちなみに本作の謙信はおっさんです。
もう一度、言います。
普通のおっさんです。
受けですが。
都合によりしばらくお休みします。
連載の再開は5月中旬を予定いたしておりますが、ふと気晴らしに更新するかもしれません。




