夜の逢瀬
私は毎夜、この峠にあるベンチに座っている。
何をするでもなく、ただぼんやりと。
あんまりぼんやりしているせいか、時々記憶があやふやになるときもある。
そんな私の隣に、今日も一人の男が腰を下ろしてきた。
「やっぱり今日もおった。なあ、そんなにここが好きなん?」
私の顔を覗き込むように身を寄せてくる男。この男とは、出会ってかれこれ二か月になる。
黒髪で、左目に泣き黒子を持つ男。垂れている目元とは反対に、口角はいつも、猫の様に上がっているチャラい容貌。関西弁が、それに拍車をかけている。
「貴方も毎日来ますよね。貴方こそ好きなんですか?」
顔を向ける事無く、横目で男を見ながら私は問う。
男は私から視線を外すと、頭の後ろで手を組み、「う~ん」と背もたれに寄り掛かった。
「好きっていうか……君に会いに来てる?」
「……はあ?」
チャラい発言に、眉間に皺を寄せて思わず男を見てしまう。それに気付いたのか、男は私に顔を向け、ニカッと笑った。目が細められ、上がっている口角が更に上がる。
頼りない光源の下、何故かその笑顔ははっきりと見えた。
「……っ」
思わず顔を逸らしてしまう。それをどう解釈したのか、男は「あれ?」と悪戯っぽい声を出し、顔を覗き込んできた。
「何? ときめいてもうた? なあ、もしかして俺の事、好きになってもうた?」
「誰が貴方なんかの事」
ぎゅっと眉を寄せそう告げるも、男はニヤニヤと笑うだけ。
「でも、ちょっとは気になってるやろ? やって……」
男は口をつぐんだ。
私は「何?」というような視線を向ける。
二か月、毎夜言葉を交わしているが、たまにこうして話を止めることがあった。そして決してその続きは言ってくれない。
だから私は話を変えた。
「近頃は怪我、少なくなりましたね」
そう。初めて会った時、男は片手に包帯を巻き、眼帯をしていたのだ。他の日には松葉杖をついてたり、ある日には頭に包帯を巻いていたり。それがここ最近無い。無傷の男を見る方が多くなった。
「おん。やから、それだけ君が心を許してくれてるって事やろ?
……一体何を言っているのか。
私は眉間に指をやる。本当にこの男はチャラい。チャラいくせに、こうして毎夜ここに来る。晴れの日も雨の日も。私の隣に腰を下ろす。そして言葉を交わすだけ。
日中なら分かるのだが、いつも夜。この男の真意が分からない。
「心を許すというか、呆れています。一体何の為にここに来るのか」
「じゃあ君は、どうしてここにおるん」
「それは……」
どうしてだろう。どうしてこの男を鬱陶しいと思いながら、私はここにいるのか。
男はじっと私を見つめてくる。が、私が答えを出せないでいるのを見ると、柔らかく目を細めた。
「まだ分からんのならええよ。ゆっくりでええ」
……ずるい。同じ笑顔でも、こういう風に使い分けできるなんて。
「あ、そろそろ時間や。ほな、また明日」
男の視線が、私から西の空へ移動する。それを追いかけるように、私も目を西へ向け……そこで記憶は途切れた。
そして気付けば満天の星空。
いつもの様にベンチに座り、私は空を見上げる。
さて、今日は男と何を話そうか。と言っても、向こうが話題を振ってくるのだけど。
星の話はどうだろう。星座の話? 惑星の話でもしようか。
不本意ながら、少しだけウキウキしてしまう。
が、男は来ない。いつもなら隣にいるはずなのに。
「また明日」って言ったのに何故? また別の女の所に行ってるの?
いや違う。彼はアイツとは別人だ。
アイツ。私が付き合っていた男。付き合っている? 今も続いているから、私はこうして苦しんでいる?
ああ、星空が黒く塗り潰されていく。
浮気し続けるアイツも、来ない男も憎い。憎くて憎くて、だから私は……
「大丈夫か?」
私ははっと我に返り、声の方に顔を向けた。
そこにはいつもの男がいた。のだが、頬にガーゼを貼っている。
「仕事で遅くなってしもた。俺に会えんくて怒ってたん?」
「べ、別に怒ってなどないわ……あれ? 雨?」
いつの間にか、しとしとと雨が降っていた。
ついさっきまで星空が見えてたのに……
しかし地面はしとどに濡れ、ついさっき降り出したとは思えない。
「おん。雨やなぁ」
よく見ると、男は傘を差していた。そしてそのまま、いつものごとく私の隣に座ると、二人の間に傘を差し掛けてくる。
「相合傘。なんちゃって」
「あの……お尻、濡れますよ?」
ベンチの上に屋根は無い。当然ベンチは濡れてしまっている。
「ん。でも君を濡らさへん様にする方が大事やねん」
ドキッと一つ、胸が跳ねた。
「わ、私は別に濡れて……」
濡れていない。ずっとここに座っているのに。
「どうして……」
両手を、顔の前に掲げる。
そして気付いた。
目を見開く私に、男は優しく言葉を掛けてくる。
「明日、また会おうな。明日は晴れてくれるとええけど」
ベンチを軋ませ、男は立ち上がった。去り際、私に目を向ける。その目は、どこか寂しそうであった。
「寂しそう」。そう見えたのは、私の願望か、私自身の気持ちなのか。
私は思い出していた。どうしてここにいるのか。どうしてあの男が毎日来るようになったのか。
今夜は新月。星しか瞬いていない。
「お待たせ」
男の声に目を向ける。
「ぶふっ」
姿を一目見た瞬間、私は吹き出してしまった。
だって、黒いスーツをきっちり着込んで、胸ポケットからは白いハンカチーフが覗いている。
まるで、特別な日の装い。
「何笑ろてんねん。腹立つなあ」
そう口にしつつも、男の顔には微笑。それにつられて、私も笑ってしまう。
「で、どうや? 思い出したか?」
私の隣に腰を下ろし、さりげなく口にする。
「ええ、全部。でも心は穏やかだわ」
それはきっと……
私は男に顔を向ける。同じようにこちらを見た男と目が合う。
しばしの沈黙。
「何か、いつの間にか君に会うのが楽しなって、仕事忘れとったわ」
「あれだけ怪我をさせられても?」
「おん。やって君、ころころ表情変わっておもろかったし」
「変わり者ね」
「やからこんな仕事してるんです」
二人して、「ふふっ」と笑う。
「私も、貴方が来るのが待ち遠しかったわ」
私は男から顔を逸らし、星空を見上げた。
「もっと早う出会えてたら良かったな」
「こうならないと出会えなかったわ」
見上げる私と、俯く男。
「……星が綺麗ですね」
様々な想いを込めて、私はそう呟いた。
「知ってるよ。やからそこは、『月が綺麗ですね』って言うてくれんと」
顔を上げ、私を見詰める男の眉は、情けなく下がっている。それでも口元に笑みを浮かべているので、泣き笑いのような、何とも滑稽な表情であった。
そして、男の手が私に伸びる。
「俺も、いつの間にか好きになってたで」
指が、私の頬の輪郭をなぞり、そのまま膝に置いてある手に重ねられ……る事はなく、体を通り抜けベンチに触れる。
「……次は、ちゃんと手を繋いで一緒に見上げよな」
「その時に、『月が綺麗ですね』って告げるわ」
私の頬を、一筋の涙が流れる。それと同時に、小さな光の粒が体に集まってくる。いや、私の体が小さな光となっていっているのだ。
「あかんな~。笑顔で送り出したろと思てたのに」
額に手を当て、語尾を震わせる男。
そんな男に、私は微笑みながら顔を近付けた。
触れられない口付け。それでも心は届いていると信じて。
ああ、光が強くなって、まるで私じゃなくて貴方が光っているみたい。とっても綺麗ね……
「○○峠に出る、手首を切って自殺した女性の幽霊ですが、無事に除霊できたようで」
「ええ。もうあそこを男一人で通っても、襲われる心配無いですわ」
「ありがとうございます。では、これはお礼の……」
「いらへん」
目の前に積まれた札束を、男は無造作に手で払う。
「こんなもんもろても、何も嬉しないわ」
そう言って、除霊師の男は窓の外に目をやった。
空には、一番星が瞬いていた。