その二
ユリアがあの青年を救ってから二日後。
伯爵夫人に容赦なく罰せられたユリアは、すっかり傷も癒え、いつもと変わらない日常を送っていた。
夕餉の下ごしらえに取りかかる前に、ユリアにはやることがあった。伯爵夫人の湯浴みようの水を汲みに行かなければならないのだ。城には、わき出る井戸があったが、伯爵夫人はアリソン川の上流から流れる清水でないと許さなかった。
城の近くまで水を引いてあるとはいえ、風呂桶がいっぱいになるまで行き来するのは骨が折れる仕事だ。特に傷を負っているときは、あまりの過酷さに意識が飛びそうになることもあった。
忙しく、水汲み場と台所との間を往復していたユリアは、聞こえてきた軽やかな声に、ふっと足を止めた。引き寄せられるようにそちらへ足を向けると、建物の陰に覆われているこちら側とは一線を引くように、暖かい光りに満ちあふれた景色が広がった。
手入れの行き届いた、緑と花で彩られた裏庭に、睦まじい親子の姿があった。
「お母様、素敵なドレスをありがとうっ。ねぇ、どうかしら? 似合ってる?」
少し高めの声を弾ませながら、真新しいドレスを伯爵夫人に見せている少女――ファルファーナ。ユリアの異母姉である。みんなの愛を一心に注がれて育ってきたのがわかるような真っ直ぐな心根と輝くような美しい容姿を持った人だ。
年はユリアの一つ上で十七歳だが、もっと幼く感じるほど、あどけなく可憐な顔立ちをしていた。真っ白な肌に、黄金の波打つ髪、そして金がかった茶色の双眸。保護欲をそそる、繊細な容貌は、アルトランディアの真珠として謳われるほどであった。
縁談の話は数え切れないほどきているらしいが、年頃となったファルファーナを未だに伯爵は嫁に出す様子はない。
(氷のように冷たい心を持つ伯爵様もファルファーナ様の輝くばかりの魅力の前では、その冷たい心を溶かしてしまうのかしら……)
ユリアの心の中に、黒いモヤが広がっていく。
あの冷徹な伯爵が、打算なしにファルファーナを可愛がるのは想像しにくいが、兄たちよりもファルファーナに目をかけているのは領民であるならばだれもが知っていることだ。
(羨ましい……。ファルファーナ様は、なんでも持っているわ。私には決して手に入らないものばかり……)
陽の中にいる彼女。
そして、日陰で惨めな生活を送る自分。
決して、自分はあの中へと入ることはできないのだ。
暗くじめっとしたこの陰が、ユリアにはお似合いだ。
「なんとまあ……! 花園の中から妖精が現れたのかと思ったわ。少し、色が濃いのではないかと思っていたけれど、かえって肌の白さを引き立てて……ええ、とても似合っていてよ。その姿を見たら、王子殿下だって心を射抜かれてしまうに違いないわ」
伯爵夫人は、愛らしい娘の姿に、柔らかく目を細めた。
細い顎に、つんと上を向いた鼻が、貴族特有の高慢な雰囲気を醸し出していたが、ファルファーナといるときの彼女は、少しだけ優しい顔つきになるのをユリアは知っていた。
この先、ずっとユリアには向けられることのない微笑み。
伯爵夫人の関心を引くことができるのは、彼女が溺愛しているファルファーナだけだ。
(不機嫌そうに顔をしかめている姿か、鞭をふるうときのどこか熱に浮かされたような恍惚とした恐ろしい表情しか、私は知らない)
ユリアの心の中のモヤが大きく膨らむ。
母親が死んでから、ユリアに優しくしてくれる者なんかいなかった。
まして、愛情を注いでくれる者などいるはずもない。
(私は、独り……。これまでも、これからも。半分は血が繋がっているというのに、ファルファーナ様とは何もかも正反対ね)
痛む胸には、気づかないフリをした。
気づいたところで、この痛みを取り除く術はないのだ。
「お母様ったらお上手ね。でも、嬉しい」
幼い子供のように無邪気に母親に抱きついたファルファーナは、彼女の白い頬にキスをした。
「お兄様たちにも見せてこなくちゃ」
「そんなに急がなくとも、あの子たちは逃げたりしませんよ」
そわそわと落ち着きのない娘に、伯爵夫人が穏やかにたしなめていると、侍女がやって来て彼女に耳打ちをした。
急な来客を知らせに来たのだろう。ほんの少しだけ片眉を上げた伯爵夫人は、すっと優雅な所作で立ち上がった。
「わたしの愛しい天使。さあ、光り輝くようなその愛らしい姿をお兄様たちも見せておあげなさい」
「はい、お母様」
にこっと愛らしく微笑んだファルファーナは、ドレスの裾をつまんでお辞儀をすると去っていく伯爵夫人を見送った。彼女の姿が視界から消えると、ようやく頭を上げたファルファーナが、ふっと振り返った。
「――……っ!」
ハッと我に返ったユリアがとっさに建物のへ身を隠そうとしたが、すでに時は遅く。
「ユリア……?」
視界の端にユリアを捕らえたらしいファルファーナが、驚いたように目を見開いた。
中途半端な態勢で固まるユリアを大きな瞳の中に捕らえると、小さく声を上げ、嬉しそうに破顔した。
「ユリアッ!」
ファルファーナは瞳を輝かせながら駆け寄ってきた。
こっそり覗き見ていたユリアは、罰が悪そうに唇を噛みしめた。
両肩から下げた、たっぷりと水の入った桶の重みがずしりと増す。それがまたユリアに現実を思い知らせるようだった。ユリアとファルファーナの間には、永遠に埋まらない溝があるのだ。どう足掻いても、 ユリアがファルファーナと並ぶこと許されない。
いや、彼女のように陽の中で笑う権利すら与えられないのだ。
(それが、呪われた私の運命……)
ユリアの複雑な思いとは裏腹に、ファルファーナは嬉しそうにその場でくるりと一回転した。
「どう? このドレス、似合っている? お母様が新しく仕立ててくださったの。今流行の色を使っているのだけど、わたしにはちょっと大人っぽいかなって思っていたの。でも、そんなことないわね。レースがふんだんにあしらってあって、まるで波打っているみたいで素敵でしょ。お母様は妖精のようだとおっしゃってくださったけど、わたしは少し背伸びをした気分だったのよ。可憐な中にも落ち着いた上品な雰囲気が漂っていて」
「……ええ、とてもよくお似合いです」
「まあ、嬉しい! ふふ、ユリアもそんなに汚い服なんて捨ててしまいなさいよ。あなたにはもっと華やかな色がお似合いよ。たとえば、明るい空色の生地はどう? 新雪のような白い絹もいいわね。金糸銀糸で縫い取りをして、真珠をちりばめるの。ああ、なんて素敵なの。わたしもそういうのが欲しくなってきた。お母様にお願いしてみようかしら」
うっとりと目を細める彼女は、きっと真っ白な絹のドレスに身を包んだ自分の姿を思い描いているに違いない。
すでにユリアのことなど忘れている様子に、いつものことだとユリアは自身に言い聞かせた。
白い頬を薔薇色に染め、夢見心地に双眸を潤ませているファルファーナは、本当に美しい。伯爵夫人の言葉ではないが、彼女に羽が生えていても疑いはしないだろう。
妖精のように清らかで純粋な心を持つファルファーナ。
みんながみんな自分に優しくしてくれるように、他の人に対しても優しいと思っている。
何も知らない無知さが、ユリアには憎らしかった。
(私、だって……っ)
ファルファーナのような美しい服をまといたい。
けれど、使用人同然……いや、それ以下の扱いを受けるユリアに、真新しい服など与えられるはずもない。使い古された流行遅れの衣服をもう何年も大切に着ているのだ。継ぎ接ぎだらけで薄汚れているのは、外套だけではない。
ボロ布のようなものでも、ユリアには大切な衣だというのに、ファルファーナはいつも眉を潜めて非難する。
疑うことを知らない彼女は、周りの甘言に騙されて、ユリアが自分で好んで汚らしい格好をしていると思いこんでいるのだ。
「ねっ、一緒にお茶でもどう? ここは薄暗くて嫌。なんだか、晴れやかな気分が沈んでしまいそう。ほら、あちらへ行きましょ。綺麗な花に囲まれた陽だまりの中でお茶を飲むなんて、とっても素敵ね」
夢から覚めたファルファーナは、名案を思いついたとばかりに瞳をきらめかせると、ユリアを誘った。
「いえ、私はやることがありますから」
きっぱりとユリアが断ると、ファルファーナは不服そうに唇を尖らせた。
「まあ、ユリア! そんなに働かなくても、仕事は逃げないわ。本当にユリアはお仕事が好きね。そんな水桶なんて肩にかけて……まるで本物の使用人みたい。こんな姿を見て、あなたにも誉れ高い伯爵家の血が流れているとだれが気づくかしら」
呆れたように肩をすくめたファルファーナ。
(どうして……、)
ふいにユリアは泣きたくなった。
どうしてここまで言われなければならないのだろう。
使用人のようにこき使われているのは、あなたのお父様とお母様たちのご命令のせいです、と言えばいいのだろうか?
無邪気すぎるファルファーナの言葉の一言一言がユリアの心を傷つける刃になった。
裂かれた心は、見えない血を流す。
ユリアは独りで、その痛みに耐えるしかなかった。
「姫様、お兄様方にその素敵なドレス姿をお見せしなくてよろしいのですか?」
影のようにファルファーナに付き添っていた侍女が、見かねたように数歩近づくと声を掛けた。
「あら、そうね! そうだった。お茶会はまたね、ユリア。早く、お兄様たちに見せないと。出かけてしまわれたら大変だわ」
ようやく本来の目的を思い出したらしいファルファーナは、ユリアへの挨拶を手短にすませると、軽やかに歩き出した。
「――二度と、姫様に近づかないでちょうだい。穢らわしい」
ファルファーナに聞こえぬよう声を落とした侍女は、反論しないユリアをきつく睨むと、ファルファーナのあとを追いかけていった。
角を曲がった二人の姿が視界から消えると、ユリアはきゅっと唇を引き結んだ。
(私から近づいたことなどないのに……)
ファルファーナは、なにかにつけてユリアの姉らしく振る舞おうとする。末っ子であったファルファーナは、姉という立場が楽しくて仕方ないのだろう。
けれど。
いつだって綺麗な物に囲まれ、愛されて育っているファルファーナは、ただ姉という立場に酔いしれているだけで、現実を見ようとしない。
家族団らんのひとときを過ごす横で給仕をさせられるユリアの惨めな気持ちを彼女は察してくれたことがあっただろうか?
輪に招き入れるどころか、眉を潜めたのだ。
進んで使用人の仕事をこなしていると思っているファルファーナは、ユリアが貴族の娘らしからぬ振る舞いをすることを酷く嫌う。
ならばそっとしておいて欲しいと切実に願うのだが、ファルファーナは決してユリアを見放そうとしない。
(私にかまわなければいいのに)
ユリアを邪険に扱う家族の中で、唯一親しくしてくれるファルファーナの存在は、疎ましいものでしかなかった。
(いっそ、儚く消えてしまいたい……)
どこにもユリアの居場所なんてないのだ。
逃げ出したくとも、この不気味な姿では雇ってくれる人もいない。
ほかに頼るあてなどないユリアには、この領地で惨めな生活を送るしかなかった。
(母さん、どうして私を呪ったの……?)
穏やかな風が、そんなユリアの心中を嘲笑うかのように通りすぎていった。