その二
「──来たか」
ユリアに気づいたディオルン伯爵が、書類に署名していた手を止めて顔を上げた。
その顔にいつもの冷たさはなく、どことなく穏やかな眼差しをしていた。
彼は、一瞬気を逸らした隙をつかれ、バル・ドゥーラの王に剣を奪われたのだ。そして、仕返しとばかりに腹を刺され、死の淵をさまよっていたところをユリアの癒しの力に救われたのだった。
「忙しいようだな。まだおまえの力が必要な人間が多くいると聞く」
「はい」
「私を謀っておきながら、堂々としている。後ろ盾を得て、隠すことは止めたか。まったく、女にしとくには惜しい度胸よ。……まあ、よい。過ぎたことだ。おまえの力は強大過ぎて、私の手には負えんからな。下手に刺激して、バーラントを敵に回すのは得策ではない」
ディオルン伯爵は嘆息すると、引き出しを開けて箱を取り出した。黄金でできたそれには、宝石がちりばめられていた。
彼は、それをユリアに渡した。
「昔、私がおまえの母に贈った物だ」
中を開けたユリアは目を見張った。
そこには、耳飾り、指輪、首飾りが収まっていた。大粒のサファイアの周囲を小さなダイアが縁取り、繊細な作りながら優雅さを感じさせる品物であった。どれも美しく、深みのあるサファイアの輝きが、陽に当たるといっそう煌めいた。
「ティーンと同じ瞳を持つおまえなら、きっと似合うだろう」
「なぜ……。大切な物なのでは?」
一目でディオルン伯爵がどんなに大切にしまっておいたのかすぐにわかった。母は城を出るとき、この品も置いていったのだろう。それをずっと彼は手元に置いていたのだ。いつか戻ってくる母のために。
「──私の父と母は、政略結婚だった。そこに愛はなく、互いに愛人を複数持ちながら、体裁のためだけに家族を演じていた。私はそんな冷めた二人の間に生まれ、愛されることを知らずに育った。母は私の世話を乳母に任せきりで夜な夜な社交界へ繰り出し、父は愛人の家に入り浸った」
「……」
「孤独な私をだれが癒してくれる? 父が病に倒れ、家督を私が継いだときも母の姿はそばになかった。親戚連中から勧められるまま、今の妻を娶り……私の心は決して満たされることはなかった。アレも打算的な女だ。愛ではなく、権力と自由になる金を求めた。──そんな生活に嫌気が差してきたとき、ティーンに出会ったのだ」
ディオルン伯爵の目が真っ直ぐユリアに注がれた。
「ティーンが何者であったか知っていたとしても、あのとき私はティーンをさらっただろう。たとえバーラントと敵対しようと、後悔はしていなかったはず。それほどまでに私は──……、ああ、そうだな。愛していたのかもしれない」
ディオルン伯爵が寂しげに呟いた。
「もっと早くに気づいていれば、違う未来があったと思うか?」
「……わかりません。私には、母が不幸であったのか、それとも幸せであったのか。それは母だけが知っていることです」
「そうか……」
ディオルン伯爵はゆっくりと目を瞑った。
「おまえは後悔をするな。おまえは私によく似ている。失ってからでは遅いぞ」
いつになく弱々しい声音であった。
シーファスのことを指しているのだろう。
ユリアの考えなど知るはずもないというのに、ディオルン伯爵は見透かしたように言った。
「──母の形見はありがたく頂戴いたします。けれど、私の行動にディオルン伯爵が今更口を出すのですか?」
それは暗にこれまで父親としての責任を果たしてこなかったディオルン伯爵を責めているようでもあった。
「私には母が一人。父はおりません。これまで私の面倒をみてくださった伯爵様には感謝しております。けれど……っ、あなたを父とは思えない。私はあなたに似ていません。あなたほど非情になれなかった……。私の歓心を買いたいのであれば、もう少し演技の勉強をすべきです。私は上面の言葉に騙されません」
「ふんっ、知恵が回るようになったか」
目を開いたディオルン伯爵の目に冷たい光が宿る。どことなく愉快そうに細めると、にやりと口元を歪めた。
「私を使ってシーファス様を操ろうと思っているのならば、すぐにその考えを改めることです。あなたが裏切ったことは事実。それなりの処分は覚悟なさってください」
「おまえもまだ考えが浅い」
くくっと喉の奥で嗤ったディオルン伯爵は、悠然と背もたれにもたれた。
「王子が罪人の娘におまえを仕立て上げるはずもなかろう。罪人の娘が王子の妃となっては、醜聞もいいところ。ここは、王子の手腕の見せ所だろうな」
「あなたという人は……っ」
ユリアは呆れかえった。
転んでもただでは起きないようだ。
どこからどこまで彼の思惑通りに事が進んだのだろう。
ユリアには考えもつかなかった。
それでも不思議と怒りはわいてこなかった。
(さっきのがすべて偽りの言葉とは思えなかったかしら……)
きっとそう思えるのが、この宝石を目にしたからだ。
もしユリアの額に印がなければ、母はこの城に留まっていただろうか。
今とはまったく違う姿を脳裏に描いたユリアは、頬を緩ませた。
きっとファルファーナたちとの関係も違ったものになっていたはず。
(母さん……私、母さんに大切にされてきたのね。伯爵様に利用されないよう私に呪いをかけて……。ようやくわかったの。私のために豊かな生活を投げ出して……。ありがとう、母さん)
ユリアは、心の中で亡き母に深い感謝を捧げたのだった。
ディオルン伯爵の執務室をあとにしたユリアの足は、自然と初めてシーファスたちに会った場所へ向かっていた。
(あの頃の私は、人の視線が怖くて……)
けれど今、ユリアはフードを目深に被って顔を隠さなくてよかった。
好奇と畏怖の視線を投げつけてくる領民の中には、本当にあのユリアかと疑っている者も多くいた。
兵士たちで溢れる通りは、まだ騒がしく、壊れた家の修理が慌ただしく進んでいた。
それを横目に、ユリアは慣れた足取りで林道へと入っていった。
「……ぁ」
しばらくすると、見覚えのある景色が広がった。色づいた葉の隙間から木漏れ日が降り注ぐ中、すっと足を進めたユリアは、一本の木に触れた。
似たような木々が乱立していたが、不思議とユリアにはここが彼らのいた場所だとわかった。
裾が汚れるのも厭わず、そっと膝をつき、幹に寄りかかったユリアは静かに目を閉じた。
(私はシーファス様のおかげで、愛される喜びも愛する喜びも知ったわ。これから先、この身を天神に捧げようと、私が愛した最初で最後の人はシーファス様だけ……)
ユリアは決して後悔などしていなかった。
シーファスを救うために、彼と永遠の別れが訪れようと。
けれど、と思う。
シーファスは知らないのだ。
ユリアがそういう盟約を交わしたことを。
それだけが心残りだった。
きっと彼は怒るかもしれない。
それを思うとユリアの胸は張り裂けそうだった。
「……ふ……ぅっ」
仮面をつけているときは一度も流れなかった涙が、今は簡単に頬を滑り落ちた。
会いたい。シーファス様に会いたい!
だが、顔を見たら二度と次期聖巫女としての役目を果たせなくなるだろう。
(ただの娘だったらどんなによかったか……)
次期聖巫女としての宿命を背負っていなければ今頃、シーファスの腕の中で幸せを感じられていたかもしれない。
だれもが羨む地位など、ユリアは欲しくなかった。
今、彼女が心の底から欲しているのはシーファスだけだ。
と、そのとき。
空から雫が落ちてきた。はらはらと滴るのは、冷たい雨だ。
先ほどまで青空が広がっていたというのに、今は曇天だった。まるでユリアの心情を表すかのように、しとしとと雨が降り注ぐ。
もはや己の頬を伝うのが、雨の雫なのか涙なのか区別もつかなくなった。
「──あ~あ、こりゃ駄目っスね」
突然、ため息混じりの声が聞こえた。
雨音にかき消されることのない、緩い喋り方はユートンだ。ユリアのあとをつけていたのだろう。
彼は、自分の外套をユリアに被せると、ぽんぽんとなだめるように叩いた。
「ま、よく保ったほうっスよ」
「ユートン……?」
「ほらほら、泣きやんで! じゃないと雨脚がもっと酷くなるっスよ~」
「え……っ」
「この雨は、天命の君が引き起こしているっス。天命の君の精神が安定すれば、そのうちにおさまるはず。ま、なにを憂えていたなんか、わかりきったことっスけどね~。あんな優男のどこがいいんだか。バーラントなら、あなたのために命を賭して戦う者はいくらだっているってぇのに。それなのにあなたはたった一人の男を選ぶんスね。あのとき、聖巫女に誓ったはずなのに、天命の君はまだ決められずにいる。困ったっスね~。心が定まらなければ、力が暴走してしまうっスよ」
ユートンはよく回る口をせわしなく動かした。
ユリアを責めているようでもあり、どこか諦めた色も覗かせていた。
「私は……」
「まあ、天命の君の心には最初から一人しかいないようだったし~、こうなることは聖巫女も予測済みっスよ」
「! それはどういう……」
「つまり~、天神だけを愛することのできない聖巫女は、バーラントを危険にさらすってこと~。天命の君があの優男のことを想って心を揺らす度、天変地異が起こったんじゃ、ボクたちはとても平穏に暮らすことなんてできないっスよ」
微かに笑みを含んだような物言いに、ユリアはすんっと鼻を啜って、涙を拭った。
「でも、私がいなければバーラントは滅びてしまうのでは……」
「──ボクは、二つの命を受けたっスよ。総指揮官として、天命の君をお守りすることと、もう一つは天命の君が心変わりしたときに聖巫女の御言葉を伝えることっス」
「聖巫女様の……?」
「聖巫女はお優しい方だから、無理強いはしないっスよ~。聖巫女としてバーラントを統べるのを望まないのであれば、その意志を受け入れるそうです」
「そんな……っ。それでは私はご恩を返すことができません! 私の身勝手な考えのために、あなた方を巻き込んでしまったというのに……っ」
「天命の君。バーラントが中立国でなくなった以上、聖巫女は新しい風を吹き込もうとしてるっスよ。ティーン殿が、バーラントから追放されなければならなくなって一番悲しんだのは聖巫女っス。なぁ~に、聖巫女はあと三十年生きるって豪語してたっス。バーラントに天神の加護があることは変わらないし、新しい風が吹き込めば後継者が誕生すると聖巫女はお考えっス。だからあなたはただ好きな道を進めばいいと、聖巫女はボクに仰った」
また潤みそうになった双眸を、歯を食いしばって耐えた。
これまで泣けなかった分、涙腺が壊れてしまったのかもしれない。
「ボクたちバーラントの民は、聖巫女の意志を尊重するっスよ」
「──……っ」
「たとえ天命の君が、アルトランディアの王子と共に歩むことを決めても、バーラントの民は決してあなたの存在を忘れないっス。その額に刻印がある限り、あなたは天神の加護を受けた最も尊ぶべき存在なのだから。……ああ、雨が止んだっスね」
「ごめんなさい……ごめんなさい! 私はバーラントを守らずに、自分だけ幸せになろうとしている」
ユートンの言葉通り、ユリアの鬱屈が消え去ると先ほどまでの雨はまるで通り雨だったかのように陽が雲の切れ間から覗いた。
「それでいいっス。聖巫女は、あなたの幸せをだれよりも願っているから」
ユートンはそう言って笑った。




