その三
「……」
それは賭であった。
王がいるこの場で、自分の名を口にするわけにはいかなかった。けれど、ディオルン伯爵にはしっかりと意図が通じていると確信していた。
わずかに寄せられた眉。
考えにふけっているのは、果たしてどちらについたら利を得るのか勘定しているからだろう。
「我が巫女は、ディオルン伯と知り合いか? なぜ今まで黙っていた。それならば、ディオルン伯の待遇をよくしてやったというのに」
ディオルン伯爵から視線を動かさないユリアに、焦れたように王が詰問した。
「バル・ドゥーラの王、あなたは神も畏れぬ不届き者ですね。公然と私との約束を破った」
冷えた眼差しで彼を見つめ、薄く笑みを引いた。
「あなたはわかっていない。なぜ、聖巫女がバーラントを統治できていると思います? それもすべて聖巫女に宿る天神の御力があってこそ。天神の声を聴き、人とは異なった不思議な力を操る聖巫女は、無敵です」
「くくっ、面白い。ならば、その力とやらを見せてはくれまいか? こんなにもか弱く、華奢な肢体で、なにができる? オレの腕の中から抜け出せもしないではないか。今まで、どの国も聖巫女の力を畏れ、戦々恐々としていたが、それもすべて虚像に過ぎん。誇張されて広まったのだろう。オレも危うく騙されるところであった」
完全にユリアの力を舐めきっている様子であった。
無理もない。
バーラントの聖巫女が近隣諸国にその力を見せつけたのは遙か過去のことだ。伝説となって語られるだけで、実際にその力を目にした者はもはや生き残っていない。
この若き王も最初こそ畏敬の念を抱いていたようだったが、ユリアがなにもしないのを知ると軽んじるようになった。
ユリアは、怒りがふつふつと底から沸いてくるのを感じた。
(天神を愚弄し、大切なシーファス様を手にかけようとするなんて……っ)
許せるはずもなかった。
平和的に話し合いで解決しようと思っていたが、すべては無駄骨であった。
「ひとつ、訂正させてください。私は、聖巫女ではなく、次期聖巫女。この身に宿る天神の力もつい先頃解放されたばかり。なので、力の使い方もよくわかりません。けれど、あなたに対する抑えきれない激情が、解き放たれる瞬間を待って体中を駆け巡る――聞こえませんか?
私の心に反応して、空が怒りに打ち震えているのを」
ユリアがそう言った刹那、雷鳴が轟いた。
偶然だろ、と頬を引きつらせる王であったが、それでも動揺は収まらないらしい。晴天だったというのに、いつから雷雲が現れたのか。
ゴロゴロと不気味な声を発する空が、光った。
天幕に、その影がはっきりと映し出された。その直後、爆音とともに地が揺れた。雷が近くに落ちたのだろう。
生ぬるい風が、天幕の中に吹き込んでくる。
「私は確かに無力です。けれど、今は天神の加護があります。私の愛する人を奪うというのならば、私は戦いましょう。この力を使って」
神気がふわりと立ち上る。
黄金の光をまとっているかのようなユリアの姿に、ごくり、と唾を呑み込んだ王は、ようやく神の力が宿っていることを悟ったらしい。
「ば、化け物め――――……っ」
先ほどまでユリアを愛おしげに見つめていた眼差しに、恐怖があふれる。
彼はとっさにユリアを突き飛ばすと、彼女の細い体が簡単に絨毯の敷かれた地面へと倒れ込む。
その隙を突いて、腰に差してあった剣を抜き、王が勢いよく振り下ろした。
剣先がユリアの首をとらえようとしたそのとき、キン――ッと金属がぶつかり合う音が鳴った。
「おのれ、ディオルンッ。謀ったか!」
ディオルン伯爵は、渾身の力で剣を振り払うと、王の剣がはじき飛ばされた。
「形勢逆転ですな。陛下、主を容易くすり替える人間ほどあてにならない者はおりませんぞ」
「く……っ」
勝ち目はないと観念したのか、顔を歪ませた王が地面にがっくりと両膝をついた。
「陛下、ご無事ですか!」
兵士たちが中へ入ってきたが、一目見て状況を把握するととっさに剣を抜こうとした。
が、それよりも早くディオルン伯爵が、剣先を王の喉元へと近づけた。
「それ以上近づけば、命はないぞ。剣を捨て、下がれ」
ディオルン伯爵が命じると、事を荒立ててはいけないと悟ったのか、彼らは思いのほか素直に従った。
「伯爵様、どうなさるおつもりです?」
ゆっくりと立ち上がったユリアが、ディオルン伯爵の行動に目を細めた。
「首を差し出せば、争いは終わる。私は英雄となろう」
「私はそこまで望みません。二度とこの地を踏まないと約束してくださるのなら、傷つけることなくバル・ドゥーラへ帰したいと思います。たとえ、この王の身勝手さにより、多くの民の命が失われた事実があろうと。もはや、神の国へと旅立った魂を現へと引き戻す術はありません。本当ならば、王を八つ裂きにしても愛しい人を亡くした者の怒りと悲しみは収まらないでしょうけれど、王の命であがなえるほど、民の命は軽くはありません」
「ふんっ、言うようになったな」
「──あなたの娘ですから」
ユリアは王に届かぬよう声を落とすと、そう呟いた。
苦く笑ったディオルン伯爵の顔からは、いつもの冷徹さは消え失せていた。
「おまえはちっともティーンに似ていない。容姿こそ似通っていても、全くの別人だ」
「……私はずっと伯爵様が恐ろしかった。けれど、私もあなたも同じ人間。血は通っている。不思議ですね。今の伯爵様は、とても人間味にあふれている」
「なにを馬鹿なことを。私は決して感情的に動くことはない──ただ一度を除いて」
ふっとディオルン伯爵の視線が遠くなった。そのときのことを思い出しているのか、微笑が浮かぶ。
「私とは身分が違うとわかっていても、ティーンを手に入れたかった。どのような手段を講じても、な。ふっ、あまり自分の生まれ育った故郷のことは話さなかったが――そうか、バーラントの者だったか」
なぜか、思いにふけるディオルン伯爵の邪魔をしてはいけない気がして、ユリアはそっと天幕から離れた。
バル・ドゥーラの王が捕まっていることなど知らない両国の兵は、激しい攻防を繰り広げていた。
そんな中、ユリアに気づいたバル・ドゥーラの兵が血相を変えて駆け寄ってきた。
「だれか、聖巫女殿が逃げたぞっ。捕まえろ!」
その声を聞きつけて集まってくる敵兵が、周囲を取り囲む。
「静まりなさい。あなた方の王は、私たちの手の内です。もし、よからぬことを考えているのならば、王の命はないと思いなさい」
「な……っ」
「直ちに争いを止め、降伏してください。大人しく自国へと戻るのならば、王はお返しいたします」
凛と言い放つユリアに、厳めしい顔をした年長の男が唸った。
「陛下はご無事か?」
「あなた方がなにもしなければ」
「否、と答えれば?」
「これ以上無駄な血を流させたくありません。天神がお与え下さったこの力で、無理やり終結させましょう」
ユリアの言葉に呼応するかのように渦巻く空が不気味に光った。
今にも落ちてきそうな音を奏でる雷雲に、ついさっきの落雷を思い出してか年長の男の顔が引きつった。
「──わかった。そなたの要求を呑もう」
「ダガラス将軍、それは陛下のご命令に反します!」
側にいた男が愕然とした顔で年長の男にすがった。
「陛下の御身の安全が第一だ」
年長の男は重々しく言うと、
「全軍に伝えよ。戦いを止め、撤退を──……っ」
そのとき、年長の男の胸を矢が貫いた。
心臓に突き刺さった矢を受け、なぜと驚愕に目を開いた彼の体がゆっくりと傾ぐ。
「オレの命に逆らう者はみんな死ぬがいい!」
弓を下ろし、にたり、と嗤ったのはディオルン伯爵に捕まっているはずの王であった。
王の血に濡れた格好を見て、ユリアの顔が強ばる。
あのディオルン伯爵がそう簡単にやられるはずないとわかっていても、心は不安にざわめいた。
「アルトランディアなんぞ根絶やしにしてくれるっ」
「いいえ、私がさせません」
「裏切り者のディオルンがどうなってもいいと?」
ユリアはぐっと押し黙った。
すっかり立場が逆転してしまった。
ユリアの心に反応して、雷鳴がしだいに小さくなっていく。
ディオルン伯爵を楯に取られれば、ユリアは身動きができなかった。たとえ父と呼ぶには情の薄い関係であったが、守りたい家族であるには変わりないのだ。
王は、指先一つ動かせないユリアに向かって、矢を放った。
「……ぁ――――くッ」
至近距離から放たれたそれを避けることもできなかった。
右肩に深々と突き刺さった矢。
ユリアが悲鳴をあげた。
「少し、甘くし過ぎたか。意志の強い美しい女が好きだが、オレの邪魔をする者はだれであろうと容赦しない。黙って、アルトランディアが滅びるのを見ているんだな」
ユリアの額に脂汗が滲む。
幸い骨は逸れたようだが、貫通した矢による痛みは尋常でなかった。しかし、毒矢ではないだけまだましだろう。
(シーファス様……っ)
ユリアの脳裏に、優しげに微笑むシーファスの姿が浮かんだ。
――決して死なせない。
死なせたくない。
そう誓った。
ユリアは歯をきつく食いしばると、オーラントにしたように自ら矢を思い切って引き抜いた。
「く……ぅっ」
想像を絶する痛みに、意識が一瞬遠のきそうになる。
よもやユリアがそんな行動をとるとは思わなかったのか、周囲の兵士たちは絶句していた。
(これくらい……奥様から受けた仕打ちに比べれば平気よ)
矢傷を負った左腕をだらりと垂らすと、大量の血が指先から地面に滴り落ちた。すぐに血だまりができあがる。
自分で治癒する時間すら惜しんだユリアは、激痛を押し殺し、顔を上げ真っ直ぐ王を射抜いた。
「私は、シーファス様が守りたいと願うアルトランディアを荒らさせたりしないっ」
そう叫んだ刹那、突風が吹いた。
渦を巻いた風は、竜巻となってバル・ドゥーラ軍に襲いかかった。
悲鳴をあげ逃げまどう兵士たち。
王ですら立っていられず、膝を折って風から身を守った。その周りを複数の兵士が囲むように円陣を組んだ。
その中で唯一平然と立っているのはユリアだ。
強風は、バル・ドゥーラ軍だけを狙っていた。
「──ユリア! ああ、よかった。無事だったんだね」
混乱に乗じて、アルトランディアの兵士たちも攻撃に転じたようだった。その先頭を走るのは、白馬にまたがったシーファスであった。バーラント兵に援護されながら、崩れた陣形の合間を縫って駆けてくる。
敵兵を剣でなぎ倒しながら、彼が一心に見つめる先にはユリアしかいなかった。
胸がきゅっと高鳴った。
たった数時間離れていただけだったというのに、永い間別れていたように思える。
金の髪をなびかせながら向かってくるシーファスは、まるで絵から抜け出したような清廉とした美しさに包まれていた。
「シーファス、様……っ」
思わず手を伸ばしたユリアの体をシーファスがやすやすとさらった。手綱を巧みに操りながら片腕で抱き上げたシーファスは、懐へとユリアを抱きかかえた。
「……ッ」
声にならない激痛が駆け抜けた。
息を詰め、痛みをやり過ごすと、シーファスが流れ落ちる血に気づいたようだった。
「だれが……っ!?」
「あとで治します。案ずることはございません」
だが、シーファスの双眸は怒りに燃えたままであった。
「僕は決してユリアを傷つけた者を許しはしない……っ! 死ぬよりも恐ろしい苦痛をこの手で……っ」
「お止めください。私はそれを望んでいません」
ユリアが小さく首を振ると、シーファスの目が悲しげに曇った。
「君がなんだか遠くに行ってしまったように感じるよ。酷い仕打ちを受けたとしても結局は許してしまう優しさは美徳だけど……時には許してはいけないこともある。でも、冷徹に物事を考えてしまうのは、僕の心が澱んでいるかもしれない。君は真っ直ぐで、眩しすぎる。まるで聖女のような澄んだ輝きに満ちていて、こうして僕なんかが触れていいのかと戦きたくなる」
「シーファス様……?」
「君は手の届かない存在になってしまった。仮面をつけたままの君だったら独り占めできたのにね……」
切なくそう零すシーファスに、ユリアがなにか言おうとしたそのとき、歓声が上がった。
ユリアがそちらを見ると、ユートンが王を捕らえた姿があった。
二度も捕らえられ、彼の顔は屈辱に真っ赤になっていた。
「休戦協定を破り、不意打ちに攻撃を仕掛けてきたバル・ドゥーラの暴挙は瞬く間に周辺諸国に知れ渡ることでしょう」
ユリアを抱く手に力をこめながら、シーファスが淡々と言った。
「王としての資質が問われることは間違いないですね。あなたが行った振る舞いは、礼儀を失している。休戦を申し込んできたあなたが裏切るとは……なんと愚かな。あなたみたいな卑怯な王が治めているなんて、バル・ドゥーラの民はこの上なく不幸だ」
「はっ、化け物の手を借りなければ貴様らなどとっくに屍と化していただろ! なにが神の力だ。おぞましい悪魔の力めっ」
憎々しい視線が、ユリアへと注がれた。
「……っ」
仮面をつけていた頃に投げつけられていた視線と同じだった。
小さく体を震わせるユリアを安心させるようにしっかりと抱き寄せたシーファスは、王を冷たく見下ろした。
「やはり、化け物などこの手で早々に殺しておけばよかった。美しさに惑わされ、……あぁ、だが手に吸い付くような肌はオレ好み。そんな危険な力がなければ、オレの妻としてやったものを。だが、気味の悪い化け物など弱国の王子である貴様に似合いだ。いつか化け物の力で滅ぼされるといい!」
愉しげに嗤った王。捕獲されてもまだ減らず口は叩けるようであった。
シーファスの眼差しが、すっと厳しくなる。愛する人を愚弄され、黙ってなどいられない。
「――ユリアに傷をつけたのは、あなたか」
「くくっ、オレは諦めない! バル・ドゥーラの力は強大だ。化け物の加護があろうと、オレは絶対にアルトランディアの地を手に入れてやる。そのときの貴様らの顔が見物だな!」
狂ったように嗤う王は、少し正気を失っているのかもしれない。
バル・ドゥーラの兵たちも、王の異常さに気づいたようだった。
「もう二度とアルトランディアに足を踏み入れることができるとは思うな。それに、化け物……? ユリアが? ははっ、なんの戯れ言だい。アルトランディアに幸運をもたらせ、救ってくれたユリアが化け物など……。こんなにも純粋で、真っさらな魂を持った人をそんな不快な名で呼ぶことは許さない。ユリアはこの世でもっとも聖なる存在――人間界に舞い降りた美しい女神だ。たかが人間の分際で、畏れ多い女神を虐げ、あまつさえ罵り、嘲った罪は重い。たとえこの優しい女神が許しても、僕は決してあなたを許さない」
「虫も殺したことがないような顔で、なにができ──……」
「あなたの命を奪うことはそれこそ息を吸うよりも容易いこと。だから、いっそ死んだほうがましだと思えるくらいの苦痛をあなたに。己が、どんな重罪を犯したのか、しっかり自覚するまで、その苦しみが止むことはないでしょう」
「シーファス様……」
ユリアが不安そうにシーファスを見上げた。
ゆらゆら揺れるその瞳を見返し、安心させるように髪の毛に口づけを落としたシーファスは、にこりと微笑んだ。
そして、もう一度、王たちのほうへ視線を向けると、目を眇めた。
「だが、残念なことに、僕には愛おしい女神を安全なところへ導かなければならない任がある。そこで、僕よりもずっと適任なユートンに任せようと思うけど、どうかな」
「はいはぁい~! 警護およびに総指揮官のユートンさんが、頼まれなくっても喜んで協力しちゃうっス! いやぁ~。空気読んでくれる王子様って素敵っス。反対に、バル・ドゥーラの王は、驚くほど馬鹿っスねぇ。バーラントの兵がいる前で、平然と次期聖巫女に対して暴言を吐くんだから。次期姫巫女に傷を負わせたことも、バーラントでは四肢を引き裂く刑に処されるっスよ。この機会に、たっぷりと中立国として沈黙を守ってきたバーラントの真の恐ろしさを身をもって知るといいっスよ。――二度と、変な気を起こさないように」
ユートンは、にやりと笑った。




