その二
ユリアが案内されたのは豪奢な天幕だった。金色に輝く布に覆われた中は広々としており、まるで王宮の一室を思わせた。
ユリアの警護として付き添ったバーラントの兵士二人は天幕の外に待機しており、悲鳴が聞こえればいつでも応戦できる態勢を取っていた。
「ああ、近くで見ると一段と美しい……」
バル・ドゥーラの若き王がうっとりと呟いた。
けれどユリアは褒め自分を称える声を聞き流した。
「バル・ドゥーラの王よ。今すぐ兵を引き上げなさい。さもないと、兵力を失うことになりますよ」
「おお、麗しき人。今はそんな無粋な言葉は似つかわしくない。さ、もっとこちらへ」
促され、仕方なく近寄ったユリアの手を王が引いた。
体勢を崩し、絨毯の敷かれた地面にぶつかりそうになる寸前で、王がその華奢な体を引き寄せた。
シーファスとは違うがっしりとした体つきと体臭に、ユリアの肌が嫌悪に粟立った。
「は、離してくださいっ」
「つれない人だ。オレは助けて差し上げたというのに。ああ、だがその気高さもオレ好みだ。大人しい娘より、気骨のある娘のほうが飽きることがなくていい。麗しき人。あなたはどうやらアルトランディアの王子と親身なようだ。けれど、あんなに意気地のない優男よりも、オレのほうが数千倍もイイ男だろ? バル・ドゥーラの広大な地を一緒に治めたくないか。女ならばだれもが羨む正妃の座をくれてやっていい」
ユリアの抵抗を楽しむかのように腕の中に閉じこめたままの王は、甘く囁いた。
だが、その台詞は酷く傲慢だ。
(シーファス様ならそんなことはおっしゃらない。強引なところもあるけれど、シーファス様はとても優しいもの。私の嫌がることは決してなさらないわ)
ユリアは先ほど別れたばかりのシーファスを恋しく思った。
こんなにも近くにいるというのに、なぜか城にいたときよりも遠く感じられた。
「──陛下、これは一体……っ」
外に立つ見張り制止の声を振り切って、天幕の内へと入ってきたのは、ディオルン伯爵であった。
彼の姿を目に留めたとたん、王の顔が険しく歪んだ。
「貴様は、娘の管理すら満足にできぬのかっ」
ユリアを片手に抱いた王は、手近にあった杯を彼に投げつけた。
「失態をどう詫びる? その身をもってあがなうか」
「――……っ、も、申し訳ございません。よもやファルファーナに、そのような知恵と度胸があるとは夢にも思わず……。私の認識が甘かったようです。あの娘は、私にも眠り薬を盛り、気づいたときにはすでに城は混乱に陥り……。けれど、すでにファルファーナは捕らえ、相応に罰してございます」
杯が額に当たった衝撃で額が切れ、血を滲ませながら彼はその場に跪いた。
「いや、それだけでは手ぬるい。裏切り者など斬ってしまえっ」
「けれど、ファルファーナは公爵の元へと嫁ぐ予定でして……。なんと申し開きをしてよいのやら……」
「ふんっ、老いぼれにはほかの娘をあてがえばよい。性欲ばかり強いあの老いぼれには、その辺の農家の小娘が似合いだ。ああ、そうだ。貴様のもう一人の娘とやらをあてがえばどうだ? たまには変わり種もよかろう」
「へ、陛下がお気に召したのでは……!」
「はっ、オレにはこの美しい巫女一人で十分だ」
王はもう片方の手でユリアの白い肌を撫でた。
男らしく大きくごわついた手が、ほっそりとした首筋から頬にかけてゆっくりといやらしく蠢く。
ぴくっと体を震わせたユリアは、はねのけたくなるのをじっと堪えた。
自分に触れるのが敵国の王であるというだけで、嫌悪感が沸いてしかたなかった。人に愛されないことに慣れたユリアには、こうして熱い視線を向けてくれる人は貴重だというのに、なぜか心はちっとも動かなかった。
シーファス様は……と、そっと睫を伏せたユリアは愛しい人に触れられたときのことを思い出した。
シーファスのほっそりとした指先が肌に触れると、とたん甘い痺れが走ったものだ。どきどきして、頭が真っ白になって、けれどとても幸せな感覚が満ちた。
シーファスを思い出し、ほんのりと頬を染めたユリアを見て、自分のせいかと勘違いをした王が、うっとりと囁いた。
「あぁ、なんて滑らかな肌だ。透けるような肌の下に波打つ血流が、オレの掌を伝わってくる。その深海のような美しいきらめきを宿す瞳も、むしゃぶりつきたくなる小さな薄紅色の唇も、触れたら折れそうな華奢な肢体も……まとう、洗練された雰囲気も。すべてが極上だ。大切に育てられた深窓の姫でさえ、おまえの輝きの前では霞んでしまう。我が巫女よ、さあ頷いてくれ。オレの生涯の妻となることを。誓うのならば、一生不自由のない生活を送らせてやろう」
「お戯れはおよしください」
わずかに眉を潜めたユリアは、素っ気なく斬り捨てた。
それでも諦めず情熱的にかき口説いてくる王の対処に困っていると、ディオルン伯爵の姿が目に留まった。
(そういえば先ほど、ファルファーナ様が眠り薬を盛ったとおっしゃっていたけれど、いったいなにが起きているというの? ファルファーナ様は、自室で震えているとばかり……。ああ、けれど大変。このままではファルファーナ様の命が……)
ディオルン伯爵の様子を思い出す限り、使い道のなくなったファルファーナを王に逆らってまで生かしておくだろうか。
ユリアの物言いたげな視線に気づいたのか、王の歓心を買おうと必死になっていたディオルン伯爵がふと顔を動かした。とたん、驚いたように見開かれる両目。
「ティーン――――? いや、違う。あれはもっとたおやかな風情であった」
どこか懐かしむような光を宿すディオルン伯爵。
ユリアや家族を見つめる瞳とは違う、慈しむような眼差しに、ユリアの鼓動が大きく跳ねた。
まさかディオルン伯爵に人並みの感情があるとは思わなかったのだ。
しかも、母のことは遠の昔に記憶から忘れ去っていたと思っていた。母の亡骸を丁重に葬った彼は、二度とその名を口にすることも話題に上らせることもしなかったからだ。
(伯爵様は、母さんのこと愛していた……?)
それとも利用価値があると考えて、居場所をずっと探していたのだろうか。
無理やり体を奪われ、次期性巫女としての地位を失った母。
母を見つけたときのディオルン伯爵に、その価値などわかるはずもない。なぜなら、額の印を見てもなんの反応も示さないのだから。だとしたら、純粋に母に惹かれたのだろうか。
そうあって欲しいと思うのは、そこに愛がなかったら母があまりにかわいそうだからだ。
「ディオルン伯、頭が高いぞ。偉大なるバーラントの聖巫女殿を不躾に見つめるな。見ろ、美しき我が巫女が、困惑している。ああ、そうだ。おまえを不快にさせるこの厭わしい存在を、この世から消し去ってしまおうか」
「いえ──っ、それには及びません。それよりも、どうか体をお離しください。これでは対話もままなりません。私は、アルトランディアとバル・ドゥーラの今後についての話し合いにきたはずです。人数でこそ、バル・ドゥーラ兵には及びませんが、バーラントの兵士は強靱な肉体と戦闘術を備えております。その昔、バーラントを狙って襲撃してきたリィ・ティーフォン国の大軍をたった数名で打ち負かした、ラトゥーニァの戦いをご存じありませんか。もしこのまま無駄な血を流すのであれば、バーラントの無敵兵があなた方に牙をむくでしょう」
「ならば、バーラントを味方につければいい。我が巫女よ、なぜそんなにつれないことをその可愛い唇で言う? オレを焦らして楽しんでいるのか。くくっ、それもまた一興。これまでオレを翻弄する女などいなかった。ああ、オレはおまえに夢中なんだ。認めよう。巫女も認めたらどうだ? 自分の感情を」
ぐっと巻きつけた腕に力をこめ、腰をさらに引き寄せた王は、にやりと口の端を持ち上げた。
野性味を帯びた精悍な面差しを間近で眺めたユリアは、ふっと鼻先で笑った。
「私には、バル・ドゥーラの王のおっしゃることはわかりません。私が全身全霊をかけ、お慕い申し上げているのは、アルトランディアのシーファス王太子殿下ただお一人のみ。心も体も――魂ですら、私のすべてはあの方のもの。あなたのものになどなりません。まして好いているなど……勘違いもはなはだしい」
「くくっ、はっ! さすがオレの見込んだ巫女。はっきりと言ってくれる。だが、それがいつまで保てるか見物だな。あいにくとオレは、手に入れたいと思ったものは、力ずくで奪う。たとえ、どれほどの犠牲を強いろうと、な」
ほの暗い光りをたたえた王は、片腕を振り上げた。
入口のそばに立っていた侍従の一人が素早く反応し、外へ出て行った。
「なにを……」
「生きているから恋しく思うのだ。屍となってしまえば、記憶となって色あせていこう。そうすれば、おまえはオレのもの」
王は顔を近づけ、うっそりと呟いた。
ユリアが彼の言葉の意味を理解しようとしたそのとき、怒号が聞こえてきた。馬がいななき、剣と剣がぶつかり合う音が、固まっていたユリアの耳に届いた。
再び争いが始まったのだ――……。
外に待機していたバーラントの兵が慌てた様子で入ってくる。少し髪型が乱れているところをみると、すでに敵兵と争ったあとなのだろう。
それでも傷一つない姿でユリアの前に姿を現した二人は、けれどユリアが王の腕の中に抱き込まれているのに気づいて足を止めた。
手を出せない状況に悔しそうに顔を歪めながら、彼らはただ見張り兵に捕らえられるのを黙って受け入れるしかなかった。
彼らが天幕の外へと消えると、王はその場に跪いたまま、身じろぎもしないディオルン伯爵を見下ろした。
「ディオルン伯、貴様も加勢にいって来い」
「へ、陛下、私はあまり武芸に秀でておりません。かえって足手まといかと」
「巫女の心を捉えて離さない小憎らしい王子の首を取ったのなら、ファルファーナの罪も帳消しにしてやろうか。どうだ、そう悪い条件ではないだろ」
「あ、ありがたき幸せ! 陛下の寛大なお心に感謝します」
ディオルン伯爵の顔が輝く。
けれどユリアは知っていた。彼が喜んでいるのは、ファルファーナが助かるからではない。監督不行き届きだった自分の罪も問われることがなくなったからだ。
彼は、躊躇なく自国の王子の首を狙うだろう。
体を動かすことは苦手と謙遜していたディオルン伯爵だが、剣の腕前はそう悪くない。なにより、彼の頭脳をもってすれば、王子殺害の策を練ることは容易いことかもしれない。
ユリアがこうしてここに留まっている限り、シーファスたちも迂闊には手を出せないはずだ。
(なんてこと……! 私はシーファス様の足を引っ張るためにやって来たわけではないのに)
浅はかだったのかもしれない。
シーファスの説得に耳を貸していれば、今頃、武力で制圧していたのだろうか。
けれど、後悔してももう遅い。
抜け出せない以上、人質としての立場は変わらないのだ。
ユリアは素早く考えを巡らせた。
現状を打破できるいい作戦はないだろうか。
思い悩んでいると、ふと名案が浮かんだ。
ディオルン伯爵の気を逸らせることができれば、少しは形勢が変わるかもしれない。
意を決したユリアは、内心の動揺を押し殺しながら、表面上は意味深な笑みを浮かべてディオルン伯爵を見つめた。
「伯爵様には、ファルファーナ姫のほかに、もう一人姫君がいらっしゃいましたね。呪いを受けた娘の末路を知りたくはありませんか? 突然行方知れずとなった娘のことをあなたは気にも留めなかったようですが」
ディオルン伯爵の眼差しが、探るような目つきとなった。なぜユリアを知っていると言いたげな視線に、ユリアは笑みを深めた。
「──あなたは昔から、損得でしか人の心さえ量れない。それでも私は感謝しているのです。あなたがいなければ、きっとこうして生きていることもなかった」
「なにをおっしゃっているのか、私にはさっぱり……」
「聡い伯爵様がまだ気づきませんか? 私が何者であるのか。先ほど、あなたは私の顔を見て、だれかの姿を重ねたというのに。その先に導き出される答えを放棄してしまうなんて、伯爵様らしくない。それほど、バーラントの者が恐ろしいですか」
「おい、なにを言っている!」
王が焦ったように二人を交互に見やるが、彼女たちはまるで引き寄せられるように互いの視線を外すことはなかった。
思い切り王を無視したユリアは、続けて言った。
「望む未来を手に入れたいのならば、動かないことです」




