その二
「……お兄様!」
若き王への給仕を終え、自室に戻ったファルファーナを迎えたのは、兄であるヴァンズであった。
「シッ、静かに」
とっさにファルファーナの口を塞いだヴァンズは、こくりと頷いた妹の口から手を離した。
嬉しさと困惑が混じった顔をしているファルファーナを真剣な目で見つめたヴァンズは、小声で言った。
「ファルファーナ。ああ、無事でよかった……。少し、痩せたか……。この状況を憂えているんだな」
「お兄様はどうやって……」
「秘密の抜け道を使った。闇に紛れてすでにアルトランディア国の兵士も森の中に身を潜めている。夜が明ければ、この地は戦場と化す。さあ、ファルファーナ、オレと逃げるんだ。今ならば、気づかれず脱出できる」
「けれど、お母様やお兄様方は……」
「オレがなんとかする」
ヴァンズの言葉に、ファルファーナは金がかった茶色の目を曇らせた。
「お兄様、いったい、何が起こっているの? お父様は人が変わってしまったみたいになって……」
「ファルファーナ。お前はなにも気にしなくていい」
「! お兄様、わたしを閉じこめてしまわないで」
「ファルファーナ? なにを言っているんだ」
いつもなら素直に言うことを聞くファルファーナの思いも寄らなかった返答に、ヴァンズが目を丸くした。
「ユリアのこと……わたし、ずっとあの子が辛い目にあっていたことを知らなかったの。わたしは、周りの言葉を鵜呑みにし過ぎていたわ。そのせいで、大切な妹のことを救ってあげられなかった……。ねぇ、お兄様。わたしね、もう同じ過ちを犯したくないの。流されるだけなんてまっぴら。ちゃんと知って、ちゃんと考えたいの」
「……そうか。お前もいつの間に成長したんだな。その成長をしっかり見れなくて残念だ」
ファルファーナだけに見せる柔らかな笑みを浮かべたヴァンズは、すぐにすっと長い睫毛を伏せた。 ファルファーナの真っ直ぐな視線を避けるように。
「──父上は祖国を裏切り、敵国に手を貸した。お前の突然の輿入れの話も裏で仕組まれていたんだろう」
「お父様が……」
ファルファーナは呆然とした。
それでも、嘘! と言わないのは、身近で敵国の王と父とのやりとりを見てきているせいだろう。
「大国相手に、アルトランディアの兵が勝てる見込みはない。だからこそ、先手を打って王の首を取りたいんだ。そのために、ここは血の海となる。なぁ、ファルファーナ。オレはお前をむざむざ殺させたくないんだ」
「でも、領民はどうなるの? 使用人のみんなも……」
ヴァンズは言葉を詰まらせた。
彼にとって大事なのは妹の命であり、ほかはどうでもよかったのだ。
けれどファルファーナのほうはここへ来て、領主の娘としての自覚が芽生えたようだった。
「わたし一人が助かりたくない」
「ファルファーナ、頼むからオレの言うことを聞いて、ここから逃げてくれ」
ファルファーナは、いやいやと細い首を何度も振った。
「お母様は歩くのも困難な状態なの。置いていけない」
「それは、オレが、」
「お兄様、わかって。お兄様がわたしを大切に想ってくださるように、わたしもお母様やお兄様……この地で暮らす人たちの命が大切なの。わたし、やっと気づいたのよ。今まで、糖蜜の中につかっていて、気づかないことだらけだった。でも今は、ユリアのように給仕のまねごともするようになって、周りがね、少しずつ見えるようになったの。こんなわたしでもできることがあるかもしらないと考えたら、自分だけ逃げるなんてできない。──大好きよ、お兄様。ここまで来てくれてありがとう。……お元気で」
ファルファーナは、万感の想いを込めてヴァンズの頬にキスすると、後ろを振り返ることなく自室を出て行った。
向かう先は、母の部屋であった。
「お母様……」
逃げだそうとした咎により受けた仕打ちはあまりに残酷であった。
伯爵夫人の意識は混濁したままだ。
侍医の話では、このまま目を覚まさないかもしれないと言われていた。
薄暗い母の部屋に身を滑り込ませたファルファーナは、蝋燭の灯りを頼りに寝台へと近づいた。
ぴくりとも動かない母の手を握ったファルファーナは、そっと月を見上げた。
大きな窓から見える淡く輝く月光は、ユリアを思い起こさせる。
「ここにユリアがいてくれたらどんなに心強かったかしら……」
二人の兄は戦々恐々とし、自室から出てこなくなった。
城はバル・ドゥーラ軍によって占拠され、以前の明るさは失われてしまった。
ファルファーナたちですら窮屈な生活を強いられているのだから、領民はもっと惨めな暮らしをしているのだろう。
「わたしはただ見ているだけね……」
父の言葉にただ従う憐れな人形。
敵国の公爵家へと嫁ぐことが決まっているファルファーナへの対応はよいほうであろう。
少なくとも敵国の若き王を除いて不用意に触れてくる男はいないのだから。
ファルファーナは、自分の侍女だった者を思い出して心を痛めた。彼女は、敵兵に純潔を奪われ、自ら命を絶ったのだ。
きっと彼女と同じような者はほかにも大勢いるのだろう。
奪い尽くすことに慣れているバル・ドゥーラの軍は、まるで我が物顔で領地を闊歩していた。
「ユリア……ユリア、わたしに力をちょうだい」
ファルファーナは、母の手を握る手に力をこめた。
夜明けと共に繰り広げられる戦場を思うと、震えが止まらなかった。
ヴァンズにくっついていたほうがよかったのではないかと思うのだ。
けれど、もう一人のファルファーナがそれを否定する。
ユリアのときのように見て見ぬふりをするのか、と。
ファルファーナは、気づくべきだったのだ。ユリアがボロ布をまとい、使用人のようにこき使われている姿を見て。周りの甘言に惑わされず、しっかりと現実を知らなければならなかった。
それなのに、目隠しをしてしまったのはファルファーナのほう。
薔薇色の日々を当たりの前のように享受するだけで、深く思いやることができなかったのだ。
(きっと、これは神さまがわたしに罰を与えてくださったのかもしれないわ……)
ユリアを非道に扱ってきたことに腹を立てたヴォールヴォート神が、きっと自分たちに茨の道を用意したのだろう。
使用人のまねごとをやるようになって、ファルファーナはユリアの気持ちが少しだけわかった気がした。
(あの子はきっと、今のわたしよりずっと辛かったはず)
だれからも愛されたファルファーナと違って、呪われたユリアは冷遇されてきたのだから。
それでもユリアは逃げ出さず、不満を漏らすことなく黙々と仕事をこなしていた。
現状を嘆くことなく、真正面から受け止めたユリア。
ファルファーナだったら耐えきれず、命を絶っていたかもしれない。
そのとき。
ふいに扉が開いて、伯爵夫人付きの侍女が入ってきた。笑顔のない顔は青ざめ、頬は痩けていた。
彼女はファルファーナに気づくと、一瞬、嫌悪と憎悪を宿した。
「あら、ファルファーナ様はこちらにお出ででしたか。部屋で休まれているかと」
ほんの少し棘を持った声。
いきなり隣国の兵士によって制圧されたことに加え、敵国の王とディオルン伯爵が親しげに言葉を交わす様を見て、彼女たちは領主が国を裏切ったことを知ったのだ。
ディオルン伯爵に忠実に仕えてきた彼女たちとって、それは衝撃的であった。自分たちの命も不安定な今、伯爵の家族に対する態度もしだいに冷たいものへと変化していった。
優しかった彼女たちの心変わりに、最初こそ胸を痛め、泣き明かしたファルファーナであったが、責めはしなかった。こんな状況下の中では、仕方のないこと。
ファルファーナは、母の傍からそっと離れ、扉の外にも兵士がいないことを確認すると、きっちりと閉めた。
訝しげな顔をしている侍女を手招くと、彼女の冷たい目を見返した。
「あなたは、ほかの使用人とも仲がいい?」
「それなりには……」
ファルファーナの意図が読めないのか、眉を寄せる彼女に、ファルファーナが安堵の笑みを浮かべた。
「なら、知らせて欲しいことがあるの」
「……なんでしょうか」
「先ほど、ヴァンズお兄様が部屋に見えておっしゃったのよ。夜明けとともに、この地が戦場と化す、と」
「そんな……!」
悲鳴をあげそうになった彼女の口をファルファーナがとっさに塞いだ。
「静かにして。ばれたら殺されてしまうわ。バル・ドゥーラ兵に気取られないようにしないと」
「ファルファーナ様は一体なにをなさるおつもりなんです?」
「──なにも。なにもしないわ」
ファルファーナは静かに呟いた。
ファルファーナに出来ることなんて限られていた。
「けれど、事前に知っていれば、不用意に動き回ることはしないでしょ。みんなにも知らせて。もう、時間がないわ。地下に身を隠していれば安全でしょう」
「ファルファーナ様はいかがなさるおつもりです?」
「わたしまで姿を消したら怪しまれるわ。大丈夫。わたしはお父様の娘ですもの。殺されることはないわ」
ファルファーナはにっこりと微笑んだ。
こんな状況だというのに、気丈に振る舞うファルファーナの姿に、侍女の目から険が消えた。
「──ファルファーナ様は、変わられましたね。わかりました。伝えます。どうか、ご無事で」
「ええ、あなたも」
侍女の姿が消えると、ファルファーナはその場に崩れ落ちた。
胸がドキドキしていた。
(わたしは、変わったの……?)
前までのファルファーナだったら、ただ泣くばかりであったろう。
自分のことしか見えず、不遇を嘆くばかりで……。
だが、ユリアを地下牢から救い出したときから、ちょっとずつファルファーナは変わったのかもしれない。
自分で考えて、行動することを知ったのだ。
(じゃあ、ほかにもわたしに出来ることはあるのかしら……?)
ファルファーナは、夜が更けていくのを感じながら、ずっと考え続けたのだった。




