第一章 呪われた娘 その一
隣国――バル・ドゥーラとの国境添いで栄えるディオルン伯爵領は、今日も朝から賑わっていた。検問を通った隣国からの商人も多く出入りすることもあり、市場は珍しい物を欲する人で埋め尽くされていた。
そんな中、慣れた様子で歩く少女の姿があった。目立たない薄汚れた外套を頭から目深に被り、視線から逃れるように俯きながら歩を進めた。市場を過ぎれば、大広場へと繋がり、そのずっと先の丘の上には立派な城がそびえ立っていた。
領主が住まうドゥルバーニ城である。石造りの城は、半分を森に覆い隠されていることもあり、離れたところから眺めても重厚な歴史を感じさせた。もう何十代にもわたり、ローディアン一族がディオルン地方を治めてきたこともあり、血筋を辿れば名門中の名門であったが、地方のため田舎貴族の感が否めなかった。
大広場の中央にある噴水の前で立ち止まった少女――ユリアは、両手に持った荷を大事そうに抱え直した。城へと続く真っ直ぐ伸びた馬車道から顔を逸らし、路地裏へと足を向ける。高い家の壁に阻まれ、陽の当たらないじめっとした狭い道を抜けると、獣道が見えてきた。
ユリアは思わず肩の力を抜いた。
早く帰らないと叱責されるのはわかっていたが、つかの間の休息を少しでも長く味わっていたかったのだ。
迂回した獣道は、舗装された道と違い、大小の石がごろごろしていて、とても歩きやすいとはいいがたい。
それでも人気のない静かな空間は、心地よかった。
きらきらと差し込むおだやかな光。
色づいた緑と、すっと頬を撫でていく風が、秘めていた鬱屈を解きほぐしていくかのようだった。
いつものように自然に魅入りながら城までの道を歩いていたユリアは、微かに聞こえた人の声に足を止めた。この時間帯にだれかいるのは珍しい。ユリアは物珍しさに耳を澄ました。
焦ったような、それでいて悲しげな声……。
ぎゅっと胸が痛くなるような悲痛な叫びが、ユリアの耳を打った。
普段ならもめ事も避けるところだったが、ただごとではない様子に、鬱蒼と生い茂る森へ足を踏み入れた。
「──……ッ、死ぬな! なんで俺を庇ったりなんか……ッ。馬鹿野郎!」
先ほどよりはっきりと聞こえた声に、ユリアの足が自然と速くなる。
視界が開けると、そこには二人の青年がいた。一人はぐったりと木の幹に体を預け、もう一人は懸命に彼に話しかけているようだった。
二人とも若者には似つかわしくない地味な色の外套を羽織り、人目を避けるかのように森に潜んでいた。
「どうしました?」
ユリアが駆け寄ると、話しかけていた青年の双眸が鋭く光り、腰に差した剣を抜こうとした。しかし、相手がまだ若い娘だと知ると、安堵したように肩を落とした。
「領民か?」
その問いかけに、ユリアは答えを惑うかのように逡巡を見せた後、こくりと頷いた。
燃えるような赤毛が珍しい青年は、酷く取り乱した様子で懇願した。その顔色は悪く、今にも倒れそうな風体であったが、油断なく見開かれた双眸は、ユリアに注がれていた。
「急いで医師を呼んできて欲しい。連れが深手を負って、動けないんだ」
ユリアが視線を動かすと、左腹を血で染めた青年の姿があった。血の気を失った顔を苦痛に歪め、息をするのも辛そうだ。赤黒く変色したのをみれば、ずいぶんと時間が経っていることがうかがい知れる。どうしてこんな状態を長く放置していたのかと、ユリアは訝しく思った。
赤毛の青年とは全く違う、太陽神のような目映い黄金の髪を持つ青年は、目をきつく瞑っていた。ほっそりとした繊細な輪郭。鼻筋は通り、髪と同じ色の長い睫毛が陰影をつけ、小さく震えていた。薄い唇は苦しげに歪んでいたが、彼がこれまでみたどんな人より美しい容姿の持ち主であることは一目で見て取れた。
思わず息を呑んだユリアは、金髪の青年が流した血の量があまりに多いことに不安を覚えた。止血しようとハンカチできつく縛っているようだが、あふれ出る血を止めることはできていないようだ。
伯爵領にいる医師は、伯爵家お抱えの侍医だけあって腕のよさは折り紙つきだ。けれど、たとえ有能だろうと、死に行く魂を現世に留めるほどの腕前はない。
王家お抱えの医師たちであったなら、先進の技術と秘薬を用いてなんとかなったかもしれないが。
「頼むっ、早く医師を!」
「今からではとうてい間に合いません。私がお医者様を連れて戻る頃には、この方の命はもう……」
そう告げるには、勇気がいった。
素人目にも彼の命が消えかかっていることはすぐにわかった。
(母さんと同じ……)
ユリアの脳裏に、母の死に様がふっと浮かんだ。冷たく動かなくなった体。彼もそうなるのだろうか。
「そんな! なんでこんなことに……っ。あのとき、俺が……っ、畜生!」
絶望に打ちひしがれ、俺のせいだとうわごとのように繰り返す赤毛の青年の姿に、ユリアの心が揺れた。
(私はあのとき、『死』というものがわからなかった。けれど今はだれよりも理解しているわ。大切な人が死ぬのはとっても辛い……)
母が神の元へ旅立ったのだということは、あとから知った。もう二度と母に触れてもらえないのだと、声をかけてもらえないのだと気づいたときの胸の痛みは今も思い出せる。
なぜだろう。
赤毛の青年と幼い頃の自分の姿が重なる。
死なせたくないのだと全身で訴えかける様子が、ユリアの琴線に触れた。
(見捨てるか、助けるか。私に突きつけられた二つの選択肢。どちらを選んでもきっと後悔するのね)
助ける道を選ぶのは、ユリアにとって危険な行為だった。
けれどこのまま見捨てても寝覚めが悪いだろう。
ならば、とユリアは思った。
(どちらを選んでも後悔するのなら、私は伯爵様のように他人を蹴り落とす道は選ばない)
非情に切り捨てる真似など、ユリアには到底できなかった。
なにより、憐れな青年たちを放っておけなかったというのも大きい。
「少し、離れていただいてもよろしいですか?」
荷を脇に置いたユリアは、警戒されないようゆっくりと近づいた。
ぴくりと反応した赤毛の青年が、一気に臨戦体勢となる。
「それ以上、近づくな!」
まるで傷ついた子猫を守る母猫のように、毛を逆立て威嚇しているような姿に、ユリアは極めて感情を押し殺した声音で言った。
「応急処置です。彼をこのまま放っておけば、状態はもっと悪くなるだけですよ」
「……医学の心得があるのか?」
硬い声でそう問いかける赤毛の青年に、ユリアはゆっくりと首を振った。
「今はただ、私を信じて下さいとお願いするほかありません。彼を救いたいと心の底から願うのなら、私に託してはくれませんでしょうか?」
「──少しでも怪しい動きをしたのなら、俺は容赦なく貴様を斬る。それでもいいか?」
「ええ、どうぞご自由に」
それで死ぬのなら、それでもいいとユリアは思った。
どうせ惜しくはない命だ。このまま辛く生きるより、いっそ死んだほうが楽なのではないかと。
ユリアは、ぴりぴりとした空気をまとう赤毛の青年の隣にすっと両膝をつくと、血に染まった腹に掌をかざした。服の破れ具合といい、血が円状広がっているのを見ると、矢を受けた傷だろうか。刺さった矢は抜いてあるようだが。
(命を司る女神ヴィーラよ。どうかこの者を癒す力を私にお与え下さい)
気を静めながらユリアがそう祈ると、掌が熱を持ったように温かくなった。
それと呼応してか、木にもたれかかっている金髪の青年の顔が一瞬歪んだ。
「止めろっ! 娘、離れろっ」
剣先をユリアに突きつける赤毛の青年。
けれどユリアは、今にも刺し殺しそうなほど気色ばむ彼を無視し、目の前のことだけに集中した。体中の血が、掌に集まっていくような不思議な感覚がユリアを襲った。
それはよく知っている感覚であった。
ユリアが見守る中、腹の出血がゆっくりと止まった。傷口が塞がったのだろう。
金髪の青年の表情が徐々に和らぎ、顔に血の気が戻った。白皙の美貌に、ほんの少し朱が差す。荒かった呼吸は穏やかになり、その顔にはもう苦痛の色は見えない。
ほっと安堵の息を吐いたユリアの視線が歪んだ。すっと指先から冷たくなっていく感覚とともに意識が遠のく。この力を使ったあとはいつもそうだった。まるで力を使うユリアのことを戒めるかのように、精気が抜き取られていくのだ。
後ろへ倒れそうになったユリアの体を、とっさに剣を納めた赤毛の青年が片腕で支えた。その顔はユリアに対する不審に満ちていたが、金髪の青年の顔色がよくなったことに驚いているようでもあった。
「一体、何をした?」
「傷を塞いだだけです。ただ、それだけのこと。連れの方は、お医者様に診ていただいたほうがいいでしょう。私には、失った血をすべて戻すだけの力はありませんから」
「まさか、──魔術か?」
口にするのも忌まわしいと言いたげな赤毛の青年から、眩暈の止まったユリアがすっと体を離す。
「忌まわしきこの身に、常人とは異なった力が宿っていることに相違はございません。けれど旅のお方、今目にした奇跡はどうか胸の内に留め、他の方のお耳には入れないようお願いいたします」
「なぜだ?」
「これ以上の悪評が広まれば、教会から異端者とそしられ魔女裁判にかけられることは目に見えています。今はまだ、伯爵様の加護を受けていますが、伯爵様でさえ庇えなくなったら、私は花びらのように儚く散るしかありません。もしあなたに温情があるのならば、私のことはどうかご内密に」
顔を俯け、フードを目深に被ったユリアの姿はきっと赤毛の青年の目にも怪しく映っているだろう。
ユリアにとって、これは賭けであった。
彼が敬虔なヴォールヴォート教の信者であるのならば、すぐに教会へと突き出されるだろう。伯爵領の司祭ならば、伯爵の息の根が掛かっているから司教の耳に入ることはないが、外へと広まればユリアは確実に狙われる。
(いいえ、それよりももっと恐ろしいのは……)
死が怖いのではない。
ユリアがもっとも恐ろしいと感じるのは──……。
ユリアの意識がほかに逸れそうになったそのとき、赤毛の青年が口を開いた。
「すまない。君を貶めるつもりはなかった。ただ、不可思議な現象を目にしたのは初めてで……。いや、けれど。君は、俺の命よりも大切な人を助けてくれた。たとえ君が悪魔に魂を売った者であろうと、俺は恩に報いなければならない。──約束しよう。俺だけの胸に秘めておくと。感謝する」
深く頭を下げた赤毛の青年から伝わってくるのは、ありがとうという感謝の念だけだった。
彼にとって金髪の青年は、それほどまでに失いたくない存在だったのだろう。
(よかった……。彼は、私と違う)
大切な人が亡くなる悲しみを彼が知らなくてよかったとユリアは思った。
そしてなによりも、彼女自身が金髪の青年を救えたことに安堵していた。
あんなにも美しい人が死んでしまうのは、惜しいと、そんな邪な感情を抱いてしまったのだ。
ユリアは一度だけ金髪の青年をフードの下から覗き見ると、口元に笑みを浮かべた。ちょうど金髪の青年の横に赤毛の青年が膝をつき、声を掛けているところであった。そのまま彼らをその場に残し、放っておいた荷を抱えると来た道を戻った。
いつもよりずっと遅くなってしまったせいもあり、ユリアは急いで城へ戻った。
「ただ今戻りました」
裏口から入り込むと、台所をうろうろと動き回っていた大女がハッとしたように足を止めた。
彼女にぺこりと一礼してから平台に荷を置いた刹那、大股でやって来た大女が怒鳴った。
「どこほっつき歩いてたんだい! たかが買い出しに何分かかってるんだよ!! 奥様はたいそうお怒りだよっ。なんてことしてくれたんだい。全く、あんたは役に立たないねっ」
彼女は容赦なくユリアの頭を叩いた。
力を使ったせいでまだふらついていたユリアの体は木の葉のように吹き飛び、背中から壁にぶつかった。一瞬、息が止まった。
「――ッ」
「もたもたしてないで、さっさと支度しな。奥様の朝食を作るのはあんたの仕事なんだよっ」
「は…、い、申し訳…ござい、ません」
コホッと咳き込みながら謝ったユリアは、痛みを押して立ち上がった。外套を羽織ったまま伯爵夫人用の朝食を作り始めた。
それを見届けてから大女も自分の仕事に取りかかる。
「――ユリア、奥様がお待ちよ。早く、と急かしておられるわ」
台所に奥様付きの侍女が現れると、苛立たしげに告げた。
伯爵夫人は気性が激しく、思い通りに事が運ばないと周囲に当たる。いつもより時間がかかっているせいで、侍女にも被害が及んでいるのだろう。
そしてそれは、ユリアにも。自業自得とはいえ、これから待ち受けていることを想像したユリアは、きゅっと唇を噛みしめた。
鞭打ちだけですめばよいのだが……。
普通の人よりも傷の治りが早いユリアであったが、痛みは何度味わっても慣れないものだ。
乾燥したブジャの葉を軽くあぶり、ポットの中に入れると、素早く熱い湯を注いだ。すると、ジュワッという焦げる音とともに、香ばしいいい匂いが漂ってくる。これが伯爵夫人の最も好んでいるブジャ茶だ。
それに買ってきたばかりの白パンと手製のジャム、炒った卵料理を付ければ朝食の完成である。
銀のトレイに載せ、侍女に渡すと、彼女は礼も言わずに去っていった。
「なにぼさっとしてるんだい。さっさと昼食の下ごしらえに取りかかりな!」
鋭い叱責に、休む間もなくユリアは動き出した。
買ってきた新鮮な野菜を吟味しながら、まずは冷水で泥を落としていく。指先が凍えるような冷たさに思わず手を強ばらせながら、ユリアは先ほど会った人たちのことを思い出していた。
あれは、剣を受けた傷だ。とても穏やかな話ではない。
なにか伯爵領内でもめ事でも起きたのだろうか。よそ者と領民との間の諍いはそう珍しくもないが、血なまぐさい話ともなれば別だ。剣を持っている相手となれば限られてくる。真っ先に浮かぶのは犯罪者だろうか。警団から逃げている最中に斬りつけられたのかもしれない。
そんな風に予想していたユリアは、苦く口元を歪めた。
もう、彼らのことは関係ないことだ。二度と会うこともないだろう。
ユリアにとって大切なのは、自分のしでかしたことが伯爵の耳に入らないこと。
もし――ばれたら。
想像するだけで、肝が冷えるようだった。
伯爵にはもう忌むべき力は失ったのだと伝えてある。それが嘘だとばれたらただではすまないだろう。
この世でユリアがなによりも、だれよりも恐れるのは、父である伯爵だけだった。