その三
「──ほぅ。ようやく、アルトランディアの王が動き出したか」
ゆっくりと金杯を傾け、葡萄酒をあおったバル・ドゥーラの若き王は、口元を乱暴に拭った。
空になった金杯を床に打ち付けると、そばで給仕をしていたファルファーナの細い肩がびくりと震えた。
かわいそうなくらい青ざめ、か弱い小鳥のように震えるファルファーナを、舐めるように眺めた若き王は、そばにいたディオルン伯爵に声を掛けた。
「なぁ、ダガス」
「はっ」
「あの老いぼれに、この美しい姫はもったいないと思わないか? 見ろ、抜けるような白い肌に、黄金に波打つ豊かな髪……。さすがに我が国にも轟く、噂に違わぬ美しい姫だ」
「ぁ……」
乱暴に細い腰を太い腕に巻きつけられたファルファーナは、恐ろしさのあまりに息を詰めた。
獲物を狙う肉食獣のように爛々と光る双眸は、真綿にくるむように大切に育てられたファルファーナにとって、恐怖の対象でしかなかった。
「一夜のお戯れでしたら、おやめ下さい」
顔色一つ変えず、ディオルン伯爵が冷静に返した。
その目に映るのは、ファルファーナを案じる父としての情ではなく、打算的な色があった。あわよくば、ファルファーナを王の妃にする気だろう。
それに気づいてか、鼻白んだような顔で、ファルファーナを離した若き王は、出て行けと命じた。
大きな目に涙をたたえたファルファーナは、弾かれたように部屋を出て行った。
「顔はオレ好みだが、まったく面白味のない女だ。逆らわず、震えるしか能のない温室育ちの花など、簡単に手折れて興ざめだ。貴様のように腹に一物を持っていれば、まだ興をそそるものを」
金杯を拾ったディオルン伯爵は、薄く微笑んだ。
「あえて、私との繋がりを流しましたな? 予定では、わが領地は荒らされることはなかったはずですが」
国境線となる荒れ野で、両国の戦いの火ぶたが切って落とされるはずであった。
ディオルン伯爵は、味方のふりをしながら戦いに参加し、内情を間諜に伝えるのが役目だったはず。
そして、アルトランディアの兵士が弱ってきたところで、一気に背後から攻め入る予定であったのだ。
それがすでにアルトランディアの王の耳に、ディオルン伯爵の裏切りが知られているのだから痛い。すでに各地の領主が率いた兵士の大群が、ディオルン伯爵領の周辺を陣取っていた。陣頭指揮をとるシーファスが到着すれば、いつでも奇襲を仕掛けられるようしているのだ。
ただごとでない雰囲気に、領民も動揺していた。普段通り生活しようとも、敵国であるはずのバル・ドゥーラの兵士が我が物顔で行き来しているのだから、とても平静は保てないだろう。
しかもバル・ドゥーラの若き王は、逃げ出そうとする領民は容赦なく切って捨てた。それはディオルン伯爵の身内とて例外ではない。すでに、伯爵夫人がその刃を受けて重体であった。
伯爵の二人の息子とファルファーナは、すっかり萎縮し、若き王がこの地に足を踏み入れてから心穏やかならぬ日々を過ごしていた。
「野宿は堪える。どうせなら、あたたかい寝床と刺激的な女が欲しいと思わないか?」
精悍な面差しの王は、にやりと笑った。前王である父とは違い、長身にがっしりとした体格の彼は、兄弟の中でも素晴らしく容姿に恵まれていた。
しかし、血走った蒼い目にときおり宿るほの暗い光りと、攻撃的な性格が災いして、深窓の令嬢はあまり近寄らなかった。それでも国王という立場は娘にとっても父親にとっても魅力的なのか、縁談の話は幾度となく持ち上がるというのに、すぐに立ち消えてしまう。
彼自身が結婚をまだ望んでいないせいだろう。
「何をお考えです」
「弱い動物をいたぶっても面白くないということだ。オレはなぁ、ダガス。退屈で死にそうなんだ。王となれば少しは楽しくなるかと思ったが、周りはオレを畏れるばかりでつまらん。──貴様は、オレを畏れぬ。だからあの老いぼれの策に乗ってやった。だが、思い誤るなよ。だれが主人か、その頭にしっかりとたたき込んでおけ」
老いぼれというのは、ファルファーナの結婚相手であるベルナンティス公爵のことだ。
ディオルン伯爵よりも年が上で、今年で七十に届くというが、なかなか老獪な人物で、知略にも長けている。そのため、前王のみならず、目の前の若き王の信頼を勝ち得、宮廷でその権力を思いのままふるっているという。
しかし、ディオルン伯爵が時の権力者ベルナンティス公爵に近づいたのも、若き王へ近づくための踏み台にすぎない。公爵が、年の割に好色であったおかげで、こうして対面が叶ったといって過言ではない。
手塩にかけて育てたファルファーナが、こう役立つとは思わなかった。
「我が永遠の忠誠は、バル・ドゥーラの雄々しき王へ」
ディオルン伯爵は、すっと片膝をつくとその場に叩頭したのだった。
目を細め眺めた若き王は、ふっと口元を愉快そうに歪めた。
「そういえば、貴様にはもう一人娘がいるというのは本当か?」
「──娘、にございますか?」
「宮廷に潜ませた我が駒によると、あのいけ好かない王子がうら若き娘を連れ帰ったというじゃないか。探らせてみれば、父親は貴様だ。一体、どういうことだ? どちらにも恩を売って、自分は逃げ切ろうという魂胆か?」
「いえ、滅相もない……」
それまで冷静だったディオルン伯爵の顔にはじめて狼狽が浮かんだ。それは彼も知らない事実であった。
娘と浮かぶのは、あの変な面をつけた子であった。
彼女は確かにディオルン伯爵の手を離れ、行方不明となった。
けれどそれがいきなり王子と知り合いだったと聞かされても、そうとは信じがたい。
だが、と彼は思い返す。
ファルファーナは、ユリアを連れて行った二人組の特徴をなんと説明していた?
領民の証言からも、二人の青年の身なりがよく、顔立ちも際だっていたことはわかっていた。
ディオルン伯爵は王子の顔を拝顔したことはないが、噂では黄金の髪に、紫の双眸を持った美しい容姿だという。なにより、彼の側には赤髪の青年が影のように付き添い……。
ディオルン伯爵は思わず舌打ちしそうになった。
なぜ早く気づかなかったのだろう。
いや、まさか王子がこんな辺地に供をたった一人しかつけずに訪れるとはだれも予想しないはず。
ディオルン伯爵は素早く考えを巡らせた。
「アレとはもはやなんの関わりもなく。アレの母親も身勝手な者でした。せっかく私が目をかけてやったというのに、産んだとたん赤子ともども姿をくらまし……。見つけたときには、すでに儚く亡くなっておりましたがな。まったく、親子して恩知らずな奴らです。私のおかげで豊かな生活を送らせてやったというのに、私に何も告げずに逃げ出すとは。いやはや、お恥ずかしい話。陛下に聞かされるまで、私は娘の行方を存じ上げなかったのです。なにしろ、娘とは名ばかりで、公にはファルファーナしか認めていないものですから。私の手を勝手に離れた者に興味はなかったのです」
珍しく饒舌に語るディオルン伯爵を興味深そうに見下ろしていた若き王は、ふいににやりと笑った。
「仮面を被った娘、か。それは利用価値もないなぁ」
ディオルン伯爵の心を見透かしたように言う若き王。
「だが、オレはおおいに興味がある。アルトランディアを手に入れたら、その娘を妾にしてやらんこともない」
「! それはありがたき幸せ。きっとアレも喜ぶことでしょう」
思いも寄らない返答に、ディオルン伯爵の顔が輝いた。
これで彼はバル・ドゥーラでの確固たる地位を手に入れたも同然だ。
たとえユリアが王子を好いていようと、しょせん王子は死ぬ運命。
ならば、役に立ってもらわねば困る。
ディオルン伯爵の胸がいっそう高鳴った。もはや、領地を乗っ取られたことへの不満はなくなっていた。
もうすぐ自分はだれもが羨む地位を手にするのだ。
そのためには、アルトランディアを制圧しなければならなかった。




